刻の雨宿り
その栞の裏側に綴られていた流麗な言葉は、一週間という時間が経過してもなお、ゆらの脳裏から離れようとはしなかった。
――音楽は、忘れるためではなく、思い出すためにある。
締め切りに追われながら必死に液晶画面と対峙している時も。蛍光灯の白い光に照らされた深夜のコンビニへ、重い足を向ける道すがらでも。部屋の明かりを消し、静まり返ったベッドの中で、眠りの淵に沈んでいこうとするその刹那でも。
ふとした一瞬の空白に、まるで水底から浮かび上がる気泡のように、あの青い押し花の栞と、そこに込められた静かな祈りのような一文が胸を去来するのだった。
だからなのかもしれない。その日も、心に溜まった言葉の澱を洗い流すように、気づけば彼女の足は胡蝶雲憩へと向いていた。午後四時。六月の空はどんよりと重い鉛色に曇り、水分を限界まで含んだ空気は、今にも街へ雨の雫を零し落としそうに張り詰めている。
街全体が、泣き出すのを堪えているかのような、息苦しいほどの静けさに満ちていた。真鍮のノブを押し開けると、いつもと変わらない、からん、という乾いた鈴の音が湿った大気を震わせた。
「いらっしゃい」
カウンターの奥から、キリコさんが老眼鏡の縁越しに顔を上げる。店内に漂うのは、じっくりと深煎りされた珈琲豆の、どこかビターチョコレートを思わせる濃厚で芳醇な香りだった。
「こんにちは、キリコさん」
「おや、莉瀬さん。例の原稿は、少しは前に進みましたか?」
「……それ以上は、どうか聞かないでください」
「なるほど。つまり、一歩も進んでいないということですね」
ゆらはがっくりと肩を落とした。あまりにも見事な図星に、返す言葉もなかった。いつものように、ピアノが視界に入らない窓際の席へ向かおうとした、その時。薄暗い店の奥、文学書の棚が並ぶ影から、耳に心地よい聞き慣れた声が届いた。
「こんにちは、莉瀬さん」
今日は客としてではなく、キリコさんの棚の整理を手伝っているらしい。白いシャツの袖を腕まくりし、木製の脚立の上に立って、革装丁の重厚な古書を一段高い棚へと丁寧に並べているところだった。
「ふふ、また来ちゃいました」
ゆらが照れ隠しのように微笑むと、詩音は脚立からひらりと身軽に降り立ち、
「実は、僕もなんです」
と言って、目元を優しく和らげた。二人して、小さく声を合わせて笑う。それはまるで、何年もこの店に通い詰めている常連同士が交わす、親密な答え合わせのようだった。
気づけば、互いの心の壁を意識することなく、ごく自然に言葉を交わせるようになっている。ほんの数週間前までは、お互いの名前すら知らず、雨を避けて同じ空間にいただけの赤の他人だったというのに。
人との距離が縮まる速度というのは、時として理屈を超えていて、本当に不思議なものだとゆらは思う。ゆらは窓際の席に腰を下ろし、慣れた手つきでノートパソコンを開いた。
待機状態から復帰した液晶画面に、遅々として進まない原稿のテキストが表示される。それから、きっかり十分が経過した。
明滅するカーソルは、相変わらず同じ場所で寂しそうに点滅を繰り返している。一文字たりとも、物語は進んでいなかった。
「……かなりの難航中、ですか?」
不意に、正面から静かな声が降ってきた。顔を上げると、いつの間にか棚の整理を終えた詩音が、注文した深煎りの珈琲が注がれた白磁のカップを手に、向かいの席へと腰を下ろしているところだった。
「そんなに、わかりやすいですか、私」
「ええ、かなり。眉間にすっかり深い皺が寄って、パソコンの画面を睨みつけていらっしゃったので」
「うう……小説家失格ですね、恥ずかしい」「いえ、むしろ苦悩している姿こそ、真摯に物語と向き合っている小説家らしい気がしますよ」
詩音は雨を融かしたような水色と気高い紫色、透き通るような翠色が混ざり合ったカップをそっとテーブルに置き、そこから立ち上る。どこか燻煙を思わせるスモーキーな湯気越しに、穏やかに言った。
「莉瀬さんは、今はどういうお話を紡いでいるんですか?」
「……恋愛小説、です。でも、どうしても主人公が思うように動いてくれなくて」
「主人公が、ですか?」
「はい」
ゆらは困ったように苦笑し、自分の髪を少し指先で弄んだ。
「好きな人がすぐ目の前にいるのに、自分の過去の傷や臆病さのせいで、その気持ちをどうしても認めたがらないんです。本当に、頑固な主人公で」
「なるほど。……それはもしかして、作者である莉瀬さんに似てしまったんじゃないですか?」
思わず、ゆらは「えっ」と声を上げて吹き出してしまった。
「それ、この前担当の編集さんにも全く同じことを言われました」
「あはは、やっぱり。生みの親の性質というのは、どうしても文字の端々に滲み出てしまうものなんですね」
詩音も声を立てて笑った。彼の笑い方は、店内の静謐なクラシック音楽――今はバッハの『チェロ組曲』の、深く包み込むような低音が流れていた――の旋律を邪魔しない、ひどく静かで柔らかなものだった。
その時だった。ぽつり、と。硝子窓の外側で、大きな水滴が重々しい音を立てて弾けた。それを合図にしたかのように、次の瞬間には、天の底が抜けたかのような激しい雨脚が街を襲った。
夏の訪れを予感させる、激しい夕立だった。バチバチと、トタンの屋根や窓硝子を激しく叩く、濁流のような雨音が店内に鳴り響く。
それは先ほどまでの静かな雨とは違い、世界のすべてを激しく洗い流そうとするかのような、圧倒的なドラムの連打のようだった。
「――降りましたね」
「ええ、降りましたね」
二人はそれきり言葉を止め、示し合わせたように窓の外の景色へと視線を向けた。
激しい雨幕の向こう側では、色とりどりの傘が慌ただしく開き、商店街を歩いていた人々が肩をすくめて近くの書店の軒下やアーケードへと駆け込んでいく。
激しい雨脚がアスファルトに叩きつけられるたび、白い雨煙が立ち上り、見慣れた街の輪郭を白く濁らせていく。灰色の景色、濁ったガラス窓。世界が少しずつ、遠い場所へと遠ざかっていく。
まるでこの胡蝶雲憩の空間だけが世界から切り離され、時の流れを止めた孤島のように雨の中にぽつんと浮き上がっているみたいだった。その濁流のような雨音が支配する静けさの中で、不意に、詩音が声を落とした。
「莉瀬さん」
「はい?」
「この前の、栞なんですけれど」
詩音の口から出たその単語に、ゆらの胸の奥で心臓が小さな音を立てて跳ねた。一週間、彼女の思考を縛り付け、離れなかったあの細い万年筆の筆跡。
「あの言葉……一体、誰の言葉なんですか」
ゆらの問いかけに、詩音はすぐには答えず、カップに残った珈琲の黒い水面を見つめて少しだけ考え込んでいた。やがて、長い睫毛をゆっくりと持ち上げて答える。
「僕の、バイオリンの先生です」
先生。その一言が耳に届いた瞬間、ゆらは何となくその背景を察した。それは彼にバイオリンの手ほどきをし、あのしなやかで美しい指先を育て上げた人。彼にとって、かつて人生のすべてを共有した、かけがえのない大切な人なのだろう。
「厳しい人だったんですか」
「いえ」
詩音は静かに首を振った。
「すごく、優しい人でした。音楽を愛することの純粋さを、そのまま絵に描いたような」
そう言った彼の表情が、ゆらの胸に強く印象的に刻み込まれた。愛おしい過去を慈しむような。
けれど、もう二度と触れられない冷たさに、少しだけ寂しそうに肩をすくめるような。それはまるで、過ぎ去って二度と戻らない美しい季節の残像を、遠くから見つめているような目だった。
「今は……その方は、どちらに?」
聞いてから、ゆらはすぐに後悔した。さすがにそれは、初対面からまだ数週間の他人が踏み込みすぎていい領域ではなかったかもしれない。唇を噛み、言葉を引っ込めようとした。だが、詩音は気を悪くした様子もなく、ただ穏やかに目を細めた。
「亡くなりました」
静かな声だった。窓外を激しく叩く夕立の重低音に、境界線もなくそのまま溶けていってしまいそうなほど、淡く、確かな響き。
「あ……」
「三年前の、ちょうど今頃のような雨の季節です」
それだけを短く告げて、詩音は冷めかけた珈琲を最後の一滴までゆっくりと飲み干した。ゆらはかけるべき言葉を見つけられず、ただ膝の上で自分の指先をきつく握りしめることしかできなかった。二人の間に、しっとりとした重い沈黙が落ちてくる。
けれど、その沈黙は決して気まずいものではなかった。深い悲しみというものは、時として安易な慰めの言葉を拒絶する。
無理にその空白を音で埋める必要はないのだということを、かつて誰かの涙の前で立ち尽くしたゆらも、大切な人を失った詩音も、お互いに痛いほどよく知っていた。
やがて、二人の気配を察したかのように、キリコさんがトレイに二つの新しい白磁のカップを載せて歩いてきた。
すずらんの青磁色と金色の縁のカップと三日月に猫が座ったカップ。
テーブルに置かれたカップからは、先ほどよりも少し甘く、どこかナッツのような香ばしさを秘めた湯気が立ち上っている。
「おかわりですよ」
「あの、キリコさん、私たちは頼んでいませんけれど……」
ゆらが困惑して顔を上げると、キリコさんは悪戯っぽく微笑んだ。
「今日は店主からのサービスです。雨の日は、誰しも少しだけ自分を甘やかしたくなるものでしょう?」
老店主はそれだけ言い残すと、足音も立てずにカウンターの奥へと去っていく。その背中を見送りながら、詩音がふっと小さく声を立てて笑った。
「ふふ、キリコさんらしいですね」
「本当に。いつも美味しい珈琲と一緒に、余計なお節介まで淹れてくださるんだから」
ゆらもつられて笑う。固まっていた二人の空気が、温かい湯気によって少しずつ解きほぐされていく。その時だった。
それまで店内に流れていた重厚なバッハの曲が静かに終わりを迎えた。一瞬の、空白の静寂。そして、スピーカーから新しく、ぽつり、ぽつりと語りかけるような柔らかなピアノの旋律が流れ始め、店内の空気を震わせた。
シューマンの『トロイメライ』。
優しく、どこかノスタルジックなその美しさに、ゆらは自然と拒絶することなく耳を傾けていた。昔の自分なら、クラシックの音が聴こえてきただけで、耳を塞いでこの空間から逃げ出していたかもしれない。
鍵盤の記憶が、少女の涙の温度が、自分を責め立てるような気がして怖かったから。
けれど、今は少しだけ違っていた。音楽を聴くことが、以前ほど胸を抉るような苦痛ではなくなっている。その、自分の心に訪れた小さな変化の理由に気づきそうになって、ゆらは慌てて思考を止めた。
まだ、その感情に名前をつけたくはなかった。名前をつけてしまえば、この心地よい曖昧な距離感が、形を変えて壊れてしまうような気がしたからだ。
窓の外では、世界を遮断するようにまだ激しい雨が降り続いている。けれど、不思議とそのドラムのような雨音は、今のゆらの耳には、まるで二人を包み込む毛布のように、どこか優しく、温かく響いていた。




