アルペジオの栞
その日も、空は容赦なく雨を降らせていた。
六月の雨は、気まぐれに街の表情を塗り替えていく。朝方は絵の具を溶かしたような鮮やかな青空が広がっていたというのに、昼過ぎには不穏な灰色の雲が太陽を覆い隠し、夕方を迎える頃には、街全体が冷たい薄水色の膜に包み込まれてしまっていた。
ゆらはビニール傘の骨を叩く規則的な水音を聴きながら、濡れたアスファルトに映る街灯の光を踏みしめ、いつもの路地を歩いていた。
頭の中を占めるのは、冷徹な数字の羅列だ。締切まで、あと五日。書き上げた原稿は、全体のようやく半分。そして、スマートフォンの画面に並ぶ編集者からの催促メールは、すでに三通を数えている。現実という名の重力から、今すぐ目を逸らしたくなるには十分すぎるほどの条件が揃っていた。
だからこそ、彼女の足は自然とあの場所へ向いていたのだ。
「私の逃避先としては、ずいぶん上品すぎる場所ね」
自嘲気味に呟きながら、真鍮の古びたノブを回す。からん、と、湿った空気を優しく弾くように真鍮の鈴が鳴った。
「いらっしゃい」
変わらないキリコさんの穏やかな声が、珈琲のこうばしい香りと共にゆらを包み込む。
「こんにちは、キリコさん」
「おや、今日はずいぶんと派手に逃げてきましたね」
「……どうして、触れてほしくないことばかり一目でわかるんですか」
「長年、ここで色々な人間を見てきましたからね。今の莉瀬さんは、とても分かりやすい『作家さんの顔』をしていますよ」
「どんな顔ですか、それ」
「一言で言えば――現実の文字盤を見たくない、という顔です」
ゆらは深くため息をついた。ぐうの音も出ないほどに的確で、否定する言葉が見つからなかった。濡れた傘を立てかけ、いつものピアノが見えない窓際の席へ向かおうとした、その時だった。
ゆらは不意にその場に足を止める。先客が、いた。壁一面に広がる重厚な本棚の前に立ち、一冊の古い本を熱心に読み耽っている背中。白いリネンのシャツの袖を無造作に肘の辺りまで捲り上げ、微かな紙の擦れる音を立ててページをめくっている。
薪原詩音だった。彼は相変わらず、周囲の空気をなだらかに沈めるような静けさを纏っていた。セピア色のランプの光を浴びて読書に没頭する彼の姿は、まるで一枚の完成された絵画のように店内の風景に溶け込んでいる。
本人にそう伝えたら、きっとひどく困ったような顔をして、綺麗な指先で髪を掻くのだろうけれど。
「あ――」
視線に気づいたのか、詩音がふと顔を上げた。丸眼鏡の奥の瞳が、ゆらを捉えて和らぐ。
「こんにちは、莉瀬さん」
「こんにちは、薪原さん」
互いに小さく会釈を交わす。まだ、お互いの踏み込んだ過去さえ知らない二人だ。「友人」と呼ぶにはいくらか気恥ずかしく、けれど決して「他人」ではない。その雨の日の水膜で隔てられたかのような、曖昧で静かな距離感が、今のゆらにとってはひどく居心地がよかった。
「莉瀬さん。先日の『おすすめの本』、ちゃんと考えてきましたよ」
詩音が少し嬉しそうに言った。ゆらは思わず、ふっと張り詰めていた口元を綻ばせる。まさか、前回の別れ際に交わした小さな約束を、これほど真っ直ぐに覚えていてくれたなんて思わなかったからだ。
「本当に、考えてくださっていたんですね」「約束、しましたから」
詩音はそう言って、悪戯っぽく微笑みながら手元から一冊の文庫本を差し出した。それは、彼のお店から持ってきたものだろうか。何度も何度も人の手で読まれてきた形跡があり、角が丸く擦り切れた柔らかな背表紙が、持ち主の深い愛情を物語っているようだった。
「これ、僕が昔からすごく好きなんです」
ゆらは差し出された本のタイトルを指先でなぞった。文学史の中で、名前だけは聞いたことがあった。けれど、これまで一度も頁をめくったことのない作品だ。
「……面白いですか?」
「面白い、というのとは少し違うかもしれません」
詩音は視線を少し斜め上に向け、適切な言葉を探すように数秒、思考を巡らせた。
「なんて言えばいいのかな。……読んだあと、無性に『誰かに会いたくをなる』、そんな本なんです」
その静かな言い回しが、ゆらの胸の奥の琴線に、妙に深く印象的に残った。物語の面白さを語る人は五万といる。けれど、「誰かに会いたくなる本」という風に、物語の余韻を誰かへの情愛として紹介する人を、ゆらは初めて見た。
「こんな大切な本、私に貸してもらってもいいんですか?」
「もちろんです。莉瀬さんに読んでもらえたら、この本もきっと喜びます」
「ありがとうございます。……じゃあ、今度は私も、薪原さんのために何かとっておきの一冊を持ってきますね」
「本当ですか? それは――すごく、楽しみです」
詩音は声を立てずに笑った。雨雲の隙間から、ほんのひとさじだけ零れ落ちた陽だまりのような、穏やかで柔らかな笑顔だった。
けれど。その温かな瞬間を切り裂くように、店内に静かに流れていたBGMの曲調が、ふっと変わった。スピーカーの奥から、あまりにも透明で、あまりにも瑞々しい、一連のピアノの旋律が溢れ出してくる。その音が空気を震わせた瞬間、ゆらの全身の血液が凍りついたように、身体がわずかに強張った。知っている。嫌というほど、知っている曲だった。
かつて、それこそ人生のすべてを捧げていた頃、何度も何度も鍵盤の上で指を走らせた曲。何百回、何千回と鍵盤の感触を確かめ、夢の中にまでその音符が追いかけてくるほどに練習を重ねた、あの旋律。
音楽から離れた今でさえ、耳がその音を拾った瞬間に、両手の指先が勝手に次の和音の動きを思い出してピクリと動いてしまうほど、肉体に深く刻み込まれた記憶。――クロード・ドビュッシーの『アラベスク 第1番』。
きらめく水面が風に揺れるような、滑らかなアルペジオ。それはあまりにも美しく、そして今のゆらの胸を、容赦なく抉るように響き渡り始めた。
ゆらは思わず視線を落とし、睫毛の影に自らの瞳を隠した。ドビュッシーの紡ぐ、水面が波打つようなアルペジオが、耳から脳へ、そして胸の奥へと容赦なく染み渡っていく。
「――好きな曲ですか?」
詩音の声は、あまりにも不意打ちだった。硝子細工の静寂をそっと切り取るような、穏やかな問いかけ。
「……どうして、そう思うんですか」
「ほんの少し、莉瀬さんの表情が変わったので。とても、懐かしいものに触れたような顔をなさっていたから」
鋭い人だな、とゆらは胸の内で小さく息を呑んだ。長年ここで人間を観察してきたキリコさんほどではないにせよ、この青年もまた、他人の心の機微を実によく見ている。
「昔、少しだけ……弾いていたんです」
それだけを、絞り出すように答えた。コンクールの張り詰めた空気も、あの日流れた少女の涙も、すべてはこの胸の檻の中に閉じ込めたまま。詳しくは言わないし、今のゆらには到底言えそうになかった。
詩音もそれ以上、彼女の領域へ土足で踏み込むような追及はしなかった。ただ、それを受け入れるように小さく頷くと、スピーカーから流れる透明な旋律へと静かに耳を傾ける。
雨の光に照らされた彼の横顔を盗み見るうちに、ゆらはふと、ある確信に似た予感を覚えていた。
(この人も、私と同じなのかもしれない――)
音楽に触れたいと願いながらも、どうしても触れることができない。今でも狂おしいほど好きなのに、好きだからこそ、近づくと胸が苦しくなる。いっそ綺麗さっぱり忘れてしまいたいのに、どうしても忘れられない。そんな、言葉にできないほど重い「何か」を、彼もあの擦り切れたバイオリンケースの中に閉じ込めているのではないだろうか。
「薪原さんは――」
気づけば、抑えきれなくなった言葉がゆらの唇を割って進み出ていた。
「バイオリン、今でも、時々は弾くんですか」
その問いに、詩音の綺麗な指先がぴたりと動きを止めた。ほんの一瞬。瞬きほどの短い刹那。けれど、確かに彼の背中が小さく強張るのを、ゆらは見逃さなかった。
「……たまに、夜中に静かに鳴らすくらいです」
返ってきたちっぽけな言葉は、ひどく短かった。
「でも、もう人前では、絶対に弾きません」
そう微笑んだ彼の声は、あまりにも静かで、どこか決定的な諦めを孕んでいた。まるで、窓硝子を優しく叩き続ける、終わりのない雨音のように。その言葉の先にある、彼が演奏を捨てた本当の理由を、ゆらは聞かなかった。
いや、聞けなかったのだ。彼の傷口を暴くということは、巡り巡って、自分自身の塞がった傷口を自らの手で掻きむしる行為と同じだと、本能的に理解していたから。痛みを共有した二人は、それから自然と音楽の話題を遠ざけ、再び本の話へと戻っていった。お互いが惹かれる作家の癖。今でも心に刺さって抜けない、とっておきの一文。擦り切れるほど何度も読み返した、救いの物語。言葉と言葉をパズルのように組み合わせているうちに、気づけば一時間以上の豊かな時間が、雨の店内に吸い込まれて消えていた。
パソコンの液晶画面の中、原稿は一文字だって進んではいない。けれど、不思議と先ほどまでゆらを苛んでいた焦燥感は、霧が晴れるように消え失せていた。
「それじゃあ、今日はこれで」
「ええ、また。本の感想、楽しみにしています」
帰り際、ゆらは手渡された大切な文庫本を、汚さないようにそっと原稿鞄の奥へとしまい込もうとした。その時、密度の高いページの間から、はらりと何かが滑り落ちた。
「あ――」
床に落ちる前に、ゆらはそれを手元ですくい上げる。それは、時を経て少しセピア色に変色した、厚手の古い紙の栞だった。透明なフィルムの向こうに、かつて手摘みされたのだろう押し花が丁寧に挟まれている。それは、ひどく可憐な、青い小さな花だった。
「すみません、挟まったままでしたね」
詩音が慌てたように長い手を伸ばす。だが、彼の手が届くよりも一瞬早く、ゆらの視線は栞の裏側に走った、細い万年筆の筆跡を捉えてしまっていた。そこには、流れるような美しい文字で、こう記されていたのだ。――
『音楽は、忘れるためではなく、思い出すためにある。』
誰の言葉なのだろう。詩音自身が紡いだものか、あるいは彼の大切な誰かが遺した言葉なのか。ゆらが弾かれたように顔を上げると、詩音は伸ばしかけた手を所在なげに引っ込め、どこかバツの悪そうな、困ったような顔でかすかに笑った。
「……ずいぶん昔の、古い記憶の残り香なんです。気にしないでください」
青年はそれだけを言い添えると、小さく手を振った。からん、と真鍮のベルが鳴り、ゆらは店を後にする。外へ出ると、六月の気まぐれな雨はまだ、街を水色に染めながら降り続いていた。
けれど、駅へと向かう路地を歩くゆらの胸の奥には、冷たい雨音とは明らかに違う、どこか熱を持った温かな響きが静かに残り続けていた。
『音楽は、忘れるためではなく、思い出すためにある。』
雨粒が傘を叩くリズムが、まるでドビュッシーのアラベスクのようにその言葉を何度も頭の中で反復させる。その切ない一文は、家路につく彼女の心から、どうしても消えてはくれなかった。




