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雨音と古書の薫り

その青年――薪原詩音が店に姿を現してから、およそ三十分ほどの時間が静かに堆積していた。


窓の外では、相変わらず世界の輪郭をあいまいにぼかすように、細かな雨がひたひたと降り続いている。『胡蝶雲憩』の店内には、まるで琥珀の中に閉じ込められたかのような、濃密で穏やかな時間が流れていた。


キリコさんはカウンターの奥で、セピア色に焼けた古い文庫本に視線を落とし、微動だにせず頁を繰っている。薄暗い店内に残された客は、窓際のゆらと、少し離れた席に座る詩音の二人だけだった。


静寂を編み上げるように、いくつかの音が微かな階調を持って響き合う。カサリ、と乾いた紙が擦れる音。トツ、と磁器の珈琲カップが肉厚な受け皿に触れ、小さく余韻を残す音。


そしてスピーカーの奥から、そっと空間を揺らすように流れるショパンの『ノクターン』。その優美でどこか物憂げなピアノの旋律は、窓を叩く雨の心臓の鼓動と重なり合い、奇妙な調和の結界をこの空間に生み出していた。


ゆらはノートパソコンの画面に、原稿用紙のデジタルデータを映し出していた。けれど、明滅するカーソルの先には、一文字の新しい言葉も増えてはいない。


白く四角い光の海が、ただ虚しく彼女の瞳を反射しているだけだった。集中できないのには、明確な理由があった。どうしても、気になってしまう存在がいたのだ。

 

窓際から二つ離れた席。そこに腰を下ろした詩音は、古びた文庫本を熱心に読み耽っている。時折、思考をなぞるようにページをめくる、その彼の指先が妙に美しく、ゆらの視線を捉えて離さなかった。


肉付きが薄く、すらりと長く伸びた、しなやかな指。かつて鍵盤の上で、自らの指を極限まで酷使してきた昔のゆらなら、一目でその正体を見抜いただろう。


それは、過酷な鍛錬に耐え、ひとつの楽器と骨肉を共にしてきた人間にしか宿らない、独特の気品を持った音楽家の手だ。いや。過去形にする必要はなかった。


ピアノから離れて数年が経つ今でも、ゆらの目はその本質を正確に看破している。ただ、音楽の記憶に触れるのが怖くて、認めようとしていないだけだった。


「――書けませんか」


耳元に、低く穏やかなさざ波のような声が届いた。はっと我に返り、ゆらは顔を上げる。いつの間にか、キリコさんがトレイを手に、テーブルの傍らに立っていた。


「……そんなに、わかりやすい顔をしていましたか?」

「ええ。締切という目に見えない魔物に追いかけられている作家さんは、皆さん一様に、迷宮の入り口に立ったような顔をなさいます」

「夢も希望もない例えですね」

「現実的、と言っていただけると助かります」


キリコさんは目尻に深い皺を刻んで、静かに微笑んだ。その時だった。キリコさんの言葉の余韻を遮るように、少し離れた場所から別の声が滑り込んできた。


「小説家、なんですか?」


ゆらは驚きに小さく肩を震わせ、声のする方へと振り向いた。いつの間にか本から目を離した詩音が、こちらの様子を伺うように見つめていた。その整った眉を少し下げ、他人の秘密を盗み聞きしてしまったかのような、申し訳なさそうな色を浮かべている。


「あ……すみません、狭い店内なもので、どうしても耳に入ってしまって」

「いえ、大丈夫です。大した話はしていませんから」

「驚かせてしまいましたね。ごめんなさい」


詩音は椅子に座ったまま、丁寧に首を傾げて軽く頭を下げた。育ちの良さを滲ませる、どこか浮世離れした礼儀正しさに、ゆらの警戒心はすうっと解けていく。


「小説家、なんて名乗れるほど大層なものじゃありません。まだ、ほんの駆け出しですので」

「それでも、ゼロから物語を生み出せるなんて、僕から見れば十分にすごいです」

「そういうものでしょうか。自分ではいつも、言葉の迷子になっている気分ですけれど」

「僕はどちらかといえば、誰かが生み出した本を、次の誰かへと手渡す側の人間ですから」


本、という共通のキーワードが、二人の間に架け橋をかけた。


「手渡す側……ということは、本屋さんなのですか?」

「ええ。駅前から少し外れた、うらぶれた路地裏で小さな古本屋を営んでいます」

「だから、キリコさんとあんなにお親しかったのですね」

「はい。キリコさんには、お店の貴重な蔵書を色々と分けていただいているんです」


詩音は懐かしむように頷くと、椅子から背筋を伸ばし、改めて正面からゆらを見据えた。


「薪原詩音です」

「あ……莉瀬、ゆらです」


梅雨の気配が満ちる喫茶店の片隅で、二人は

初めて名前を交わした。音にすれば、ほんの数音の短い文字列。たったそれだけのことなのに、店内の空気が、まるで張り詰めていた梅雨の湿気から、清涼な秋の風へと一瞬で塗り替えられたかのような錯覚を覚えた。


キリコさんは何も言わず、ただ黙って新しい珈琲を淹れ始めている。まるで、この二人の邂逅が最初から台本に書かれていたかのように、すべてを受け入れた眼差しで、ドリップの細い湯気を見つめていた。


豆が膨らみ、濃い琥珀色は雨音と混ざりながらポットに雫を落とす。波紋が広がり縁にぶつかり、やがて止まった。


「莉瀬さんは、普段はどんな小説を執筆されているんですか?」

「……恋愛もの、が多いでしょうか。人の心の、少し不器用な部分を描くのが好きで」

「なるほど。雨の日に読むのにぴったりな、繊細な物語なのでしょうね」

「そんな、上等なものじゃありません。……薪原さんは、その、ご自身のことで何か語れ

るようなことは?」


ゆらは、彼が店に入ってきたときからずっと抱いていた疑問を、探るように投げかけた。詩音は、少しだけ意表を突かれたように瞬きをし、それから自分の綺麗な指先を視線でなぞった。


「僕ですか」


詩音は、記憶の引き出しから古い遺物を取り出すかのように、少しの間を置いてから静かに微笑んだ。


「昔は――バイオリンを、弾いていました」


その言葉が鼓膜に触れた瞬間、ゆらの思考の針がピタリと止まった。やっぱり。予感は確信に変わった。あの細くしなやかな指先は、弦を抑え、弓を操るためのものだったのだ。けれど、それを声に出して指摘するような真似はしなかった。


「今は……もう、お弾きにならないのですか?」

「ええ。ほとんど、触ることもなくなってしまいました」


詩音の返事は、それまでの穏やかな声調とは異なり、どこか乾いていて、短かった。それ以上は踏み込んでくれるなと、透明な壁を立てられたかのような、触れてはならない寂寞の空気がそこにはあった。


だから、ゆらもそれ以上の追及を放棄した。自分だって、同じなのだ。なぜあれほど焦がれたピアノの鍵盤を叩かなくなったのか。なぜ今でも、クラシック音楽を聴くだけで胸が締め付けられるほど避けているのか。


理由を言葉にしてしまえば、自分が壊れてしまう。知られたくない、あるいは自分でも直視したくない傷は、誰の胸の奥底にもあるものだ。


二人の間に、しっとりとした沈黙が降りてくる。けれど、その沈黙は不思議と肌に刺さるような居心地の悪さはなかった。窓の外で鳴り響く雨音が、二人の沈黙の隙間を優しく、過不足なく埋めてくれていたからだ。


やがて、詩音は開いていた文庫本を閉じ、静かに立ち上がった。椅子の引く音が床に小さく響く。彼は壁際に立てかけてあった、あの古びたバイオリンケースを愛おしそうに手に取った。


「今日は、弾いていかないのかい?」


カウンターの奥から、キリコさんが本から目を上げて尋ねる。店の奥にある楽器たちは、彼らが弾くのをずっと待っているようだった。


「ええ。今日は少し、そういう気分ではないので」

「そうか。また気が向いたときにでも」


キリコさんはそれ以上、引き留めるような言葉は口にせず、ただ詩音の選択を尊重するように頷いた。詩音はカウンターで手際よく会計を済ませる。


そして、店の重い扉へ手をかける直前、ふと何かに思い至ったように、窓際に座るゆらの方を振り返った。


「莉瀬さん」

「はい?」

「今度お会いしたときに、おすすめの本を教えてくれませんか」


あまりにも突然の提案だった。ゆらは不意を突かれ、少し戸惑いながら自分の胸元に手を当てる。


「え……私、ですか? 古本屋さんである薪原さんの方が、ずっと本に詳しいのでは……」

「本を愛している小説家が選ぶ本なら、きっと僕の知らない素敵な世界が広がっていると思うので」


詩音はそう言って、悪戯っぽく、けれどどこか救われたような柔らかな笑顔を浮かべた。その笑顔は、雨雲の切れ間から差し込む一筋の光のように、ゆらの頑なな心を照らした。


「……わかりました。とっておきの一冊を、考えておきます。でも、薪原さんも教えてくださいね」

「わかりました。ありがとうございます。楽しみにしていますね」


からん、と真鍮のベルが再び涼やかに鳴り響く。扉が開いた瞬間、外の冷たい空気と雨の匂いが吹き込み、そして次の瞬間には、青年は傘を広げて灰色の雨幕の向こうへと消えていった。



しばらくの間、ゆらは彼が去っていった扉の硝子を、ただ呆然と見つめていた。胸の奥が、小さな波が立つようにざわついている。彼女は自分の気持ちを落ち着かせるように、

テーブルの珈琲に口をつけた。気づけば、琥珀色の液体は少しぬるくなっていた。けれど、その苦味はどこか心地よかった。


「どうです?」


カウンターから、キリコさんの茶目っ気のある声が響く。


「何がですか」

「雨の日というのも、それほど悪くないでしょう?」


すべてを見透かしたような、意味深な物言いだった。ゆらはそれには直接答えず、ただ小さく息を吐いて窓の外に目をやった。灰色の雲に閉ざされた空。


絶え間なく硝子を濡らす、無数の雨粒。濡れて黒光りするアスファルトの街並み。世界は相変わらず憂鬱な色彩に満ちている。


けれど。なぜだか不思議と、ノートパソコンの液晶画面に向き合う自分の指先が、先ほどよりも少しだけ軽くなっているのを感じていた。


止まっていた物語の歯車が、あの青年の残していった余韻によって、静かに回り始めようとしていた。

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