胡蝶雲憩
雨の日は、言葉がよく集まる。そう気づいたのは、自らの内にある言葉をすくい上げ、小説という形に紡ぎ始めてからのことだった。
窓硝子を不規則に叩く、粒立った雨音。傘の骨を伝い、重力に逆らえず滑り落ちていく透明な雫。それらがアスファルトに触れた瞬間に立ち上る、どこか青臭く、湿った土の匂い。雨は世界から余計な雑音を押し流し、色彩を一段なだらかに沈めてしまう。
世界がそのぶんだけ静寂を深めるからこそ、普段は喧騒の底に埋もれて聞こえない言葉たちが、微かな呼吸を伴って胸の奥からぷつぷつと浮かび上がってくるのだ。
莉瀬ゆらは、まだ見ぬ物語の断片が詰まった重い原稿鞄を、まるで壊れやすい硝子細工でも守るように胸元へ強く抱え、水たまりの広がる細い路地を歩いていた。
六月の、鬱ぎ込んだ午後。見上げる空は一面、水気をたっぷりと含んだ重層的な灰色の雲に覆われ、街全体が淡いモノトーンの霧に包まれている。けれど、ゆらの目的地は決まっていた。迷路のように折れ曲がった路地の最奥、まるで時間の流れから取り残されたかのようにひっそりと佇む一軒の喫茶店――『胡蝶雲憩』。
雨に濡れて深い飴色に変色した小さな木製の看板が、軒下で静かに雨露を滴らせている。真鍮の古びたドアノブを回して扉を押し開けると、からん、と乾いた真鍮の鈴が、湿った空気を震わせるように涼やかな音を鳴らした。
「いらっしゃい」
雨音のカーテンを透かして、深く落ち着いた声がゆらを迎える。セピア色のランプが灯るカウンターの奥に佇んでいるのは、店主のキリコさんだった。
雪が薄く積もったような白髪混じりの髪を綺麗に後ろへ流し、丸眼鏡の奥にある細められた瞳は、いつも穏やかな光を湛えている。
ゆらは彼の正確な年齢を知らない。けれど、その背中に漂う確かな時間の厚みから、六十代か、あるいは七十代の坂を上ったくらいだろうと、いつも勝手に推測していた。
「こんにちは」
「今日はずいぶん、難しい顔をしていますね」
「……締切が、すぐそこまで迫っているので」
「おや、それはお気の毒に。言葉の神様も、雨宿りを決め込んでいる最中ですかね」
キリコさんは悪戯っぽく微笑みながら、手元で琥珀色の珈琲豆を挽き始める。
ガリガリと、規則正しく硬質な音が店内に響き渡る。その摩擦の音さえも、雨の日の特別なBGMのようだった。
この『胡蝶雲憩』は、少し変わった店だ。壁一面を埋め尽くす重厚な本棚には、背表紙の擦り切れた古い文学書や、異国の言葉で刷られた挿絵入りの詩集が、背比べをするようにぎっしりと並んでいる。
客たちは皆、珈琲の湯気の向こうで、静かに文字の海へ身を沈めるのだ。そして店の最奥、薄暗い影の中に、艶の褪せた黒いアップライトピアノが沈黙を守っている。
そのすぐ隣の壁には、ベルベットの裏地が見え隠れする古いバイオリンケース。どちらもキリコさんの大切な私物だと聞いている。
スピーカーからは、エリック・サティの『ジムノペディ』が、一音一音、零れ落ちる水滴のように静かに流れていた。
装飾を削ぎ落としたピアノの旋律は、まるでこの雨の日のために作られたかのように、店内の静謐な空気と同化している。
しかし、その音楽の出処であるはずの二つの楽器だけは、まるで深い眠りについたまま、呼吸を止めているように見えた。
ゆらはいつものように、窓際の席へ腰を下ろした。そこは、あのアップライトピアノが死角になって見えない位置だった。
それは彼女が無意識のうちに選び取る、ささやかな逃避の場所。見たくないわけでは、決してない。
けれど、あの黒い木肌と白い鍵盤の羅列を視界に入れてしまうと、胸の奥底に沈殿していた記憶の澱が、一気に巻き上がってしまうのだ。指先に残る、象牙の冷たい感触。
心臓の鼓動が耳を圧する、コンクールの張り詰めた舞台。降り注ぐ、他人事のような乾いた拍手。――そして、あの時、自分のすぐ足元で激しく泣いていた少女の顔。自分が「一位」という栄誉を手に入れたその瞬間、すぐ隣で悔しさを堪えきれず、大粒の涙を流して肩を震わせていた同年代の少女。
あの涙は、ゆらの心に消えない痣を残した。誰かの絶望の上にしか成り立たない栄光なら、そんなものは欲しくなかった。
あの日を境に、ゆらはピアノを弾かなくなった。鍵盤に触れようとすると、あの少女の涙の温度が指先を火傷させるような気がしたから。音楽が嫌いになったわけではない。むしろ、今でも狂おしいほどに愛している。だからこそ、中途半端な気持ちで汚したくなくて、ゆらは自ら音楽から距離を置いた。音楽の代わりに、誰も傷つけずに済む言葉の世界へと逃げ込んだのだ。
「考えごとですか」
静かに運ばれてきたカップから、深く香ばしい湯気が立ち上る。キリコさんがトレイを脇に抱え、静かに尋ねてきた。
「少しだけ……本当に、少しだけです」
「ふふ、少しだけの顔じゃありませんでしたよ。まるで、解けない数式を前にした学者のようだ」
ゆらは己の図星を突かれ、力なく苦笑した。その時だった。再び、店の重い扉が開く。からん、と、先ほどよりも少し勢いよく鈴が鳴った。開いた隙間から、一陣の湿った風と共に、濃密な雨の匂いが容赦なく店内に流れ込んでくる。
「こんにちは」
低く、けれどどこか透明感のある、聞き慣れない声だった。ゆらは何気なく、珈琲の湯気の向こうへ顔を上げた。そこに立っていたのは、背の高い青年だった。
二十代前半くらいだろうか。彼は黒い長傘を丁寧にたたみ、水滴が床に落ちないよう気を配りながら、肩に止まった細かな雨粒を長い指先で静かに払っている。そして、その左手には――使い込まれ、角の擦り切れたひとつのバイオリンケースが握られていた。
「おや、詩音くん」
キリコさんが眼鏡の奥の目を、嬉しそうに細める。
「久しぶりですね。風の噂も届かないほど静かだったけれど」
「三ヶ月ぶりくらいでしょうか。少し、ご無沙汰してしまいました」
「街の古本屋さんは忙しいのかい?」
「それなりに。古い紙の匂いに埋もれていると、時間の感覚が狂ってしまって」
青年――薪原詩音は、春の木漏れ日のような穏やかな微笑みを浮かべた。どこか、周囲の時間をスローモーションに変えてしまうような、不思議な静けさを纏った人だった。
声を張り上げなくても、その存在自体が、店内のセピア色の空気にすうっと溶け込んでいく。彼はキリコさんに会釈をしながら店の奥へと進み、そして、ふと足を止めた。
彼の視線が、あの薄暗い影に眠るアップライトピアノへと向けられる。ほんの一瞬。瞬きを一つするほどの、短い時間。けれど、その横顔を見た瞬間、ゆらの胸に奇妙な衝動が走り抜けた。それは、激しい憧憬と、それに勝るほどの深い喪失が混ざり合ったような目だった。かつて狂おしいほどに好きだったものを見つめる目。
そして同時に、もう二度と手に入らない、失くしてしまったものを見つめる目。それは他でもない、ゆら自身が鏡の中で何度も見てきた、あの「諦めた者」の目と同じだった。
詩音はそれ以上何も語らず、ピアノから視線を外すと、促されるように奥の席へとついた。店外では、雨が音の壁を作って世界を隔絶し続けている。
店内のスピーカーからは、いつの間にか曲が変わり、ドビュッシーの『雨の庭』が流れ始めていた。激しく変転するピアノの16分音符が、まるで窓外を激しく叩く無数の雨粒を、五線譜の上に一粒残らず再現していくかのように瑞々しく響く。
それは静かでありながら、どこか情熱的な、何かが始まるプレリュードのようでもあった。
その日、窓硝子を濡らす雨を見つめながら、ゆらはまだ知らなかった。この憂鬱な六月の雨の日が、古本屋の青年との出会いが、自分の胸の奥で完全に止まっていた時間を、静かに、けれど不可逆的に動かし始めることになるのを。
流れ出したドビュッシーの旋律は、まるで二人の閉ざされた過去を呼び覚ますように、雨の店内にいつまでも響き渡っていた。




