星埜堂
七月の風は、雨の湿り気と、どこか焦らすような夏の熱を半分ずつ連れて街を吹き抜けていく。
月夜猫で詩音から手渡された、彼が選んでくれたとっておきの一冊を原稿鞄に大切に仕舞い込んだゆらは、詩音が手書きで教えてくれた小さな地図を頼りに、賑やかな商店街の路地を進んでいた。
今日の目的地は、いつもの胡蝶雲憩ではない。胡蝶雲憩の光あふれる晴れの日に出会った、もう一人の魅力的な常連客の店だった。
――星埜堂。
着物姿でアッサムの紅茶を愛おしそうに啜りながら、
「和菓子、特に練り切りは食べる芸術、一瞬の幻を口にする贅沢なんですよ」
と真顔で熱弁していた星埜雅の姿が、小説家であるゆらの記憶から離れるはずがなかった。
「近くに来たら、ぜひ遊びに寄ってくださいね」
そう言って笑っていた彼女の和菓子屋がどんな場所なのか、気にならないわけがなかったのだ。
やがて、商店街の喧騒から少し外れた一角に、歴史を感じさせる古い暖簾が見えてきた。真っ白な木綿地に、深く鮮やかな藍色の文字で、『星埜堂』と潔く染め抜かれている。
ゆらは少しだけ緊張しながら、木製の引き戸を横に引いた。ガラガラと小気味よい音が響き、ちりん、と涼やかな真鍮の鈴が上部で鳴った。
「いらっしゃいませー」
奥の作業場へと繋がる帳場から、弾んだ聞き慣れた声が届く。顔を上げると、そこに佇んでいたのはやはり雅だった。
「あっ――!」
ゆらの姿を捉えた瞬間、雅の涼やかな顔立ちが一気に明るくなった。
「莉瀬さん!」
「こんにちは、星埜さん」
「本当に、本当に来てくださったんですね! ああ、嬉しい!」
彼女はまるで遠足を楽しみにしていた子供のように、両手を合わせて文字通り飛び跳ねんばかりに喜んでみせた。ゆらはその裏表のない純粋な歓迎に、思わず相好を崩した。
「ふふ、来ちゃいました。お邪魔します」
「大歓迎です! さあ、どうぞ中へ」
今日の雅は、初夏のひんやりとした水辺を思わせる、淡い藤色の紗の着物を身に纏っていた。
衿元や帯の結び目は、あの胡蝶雲憩で自ら調整していた通り、息苦しさを感じさせない絶妙なゆるさで着こなされている。
その肩肘張らない、けれどどこか凛とした佇まいがいかにも彼女らしくて美しい。一歩足を踏み入れた店内は、古い欅の柱や棚の温もりに満ちていた。
正面に据えられた大きな硝子ケースの中には、色とりどりの季節の和菓子が、まるで宝石のように大切に並べられている。
透明な葛の中に朝露の輝きを閉じ込めたような水まんじゅう。細やかな針仕事のように繊細な、紫や桃色のグラデーションが美しい紫陽花の練り切り。そして、琥珀寒天の透明な海の中を、真っ赤な金魚が今にも泳ぎ出しそうな錦玉羹。
「……すごい。本当に、食べる芸術品ですね」
お世辞ではなく、ゆらの唇から感嘆の声が零れ落ちた。雅は少し耳を赤くして、照れくさそうに笑った。
「ありがとうございます。そう言っていただめると、早起きして餡を練った甲斐があります」
「でも、これだけ綺麗だと……なんだか食べるのがもったいなくなってしまいますね。ずっと眺めていたいくらい」
「あはは、職人としては、そう言っていただけるのは最高の褒め言葉なんですけれど、同時に一番複雑な気持ちになるんですよ」
「どうしてですか?」
「だって、私たちは食べてほしくてこの命を吹き込んでいるんですもの」
なるほど、とゆらは胸の中で深く深く納得した。あまりに美しいから、形あるものとして永遠に残しておきたくなる。
けれど、和菓子というものは、誰かの口に含まれ、その甘みと香りが消え去る瞬間にこそ、その天命を全うして完成するのだ。
それは、どこか自分の紡ぐ小説とも似ているかもしれない、とゆらは思った。パソコンの画面に閉じ込められている間は、ただの記号の羅列に過ぎない。
誰かの目に触れ、その心の中で登場人物たちが涙を流し、息を引き取る瞬間に初めて、物語は本当の意味を持つのだから。
「何か、今日の星埜さんの一押しのおすすめはありますか?」
その質問を、今か今かと待っていたのだろう。雅の切れ上がった美しい瞳が、獲物を見つけたようにきらりと妖しく光った。
「あります!」
彼女は身を乗り出して、勢いよく答えた。
「全部です!」
「ふふ、それは優柔不断な私には一番困る選択肢ですね」
「ですよねぇ、自分で言っておいてなんですけれど」
二人は顔を見合わせて可笑しそうに笑った。やがて、雅は硝子ケースの中から、ひときわ小ぶりで繊細な細工が施された一つの練り切りを、竹べらを使って慎重に取り出した。
それは、五月の風に揺れる鈴蘭を模したものだった。雪のように白い小さな花弁が身を寄せ合い、その下から淡い若草色の葉が優しく包み込んでいる。
「莉瀬さん、今日のおすすめはこれです」
雅は、その鈴蘭を愛おしそうに見つめながら言った。
「なんだか、莉瀬さんっぽいなと思って、今朝一番に作ったんですよ」
ゆらは驚いて、パチパチと目を丸くした。
「え、私が、鈴蘭ですか?」
「はい」
「どうして……?」
「うーん、どうしてかしら」
雅は首を少し傾げ、藤色の袖を揺らしながら少しだけ考え込んだ。
「上手く言えないんですけれど、なんとなく、です。華やかに自己主張する薔薇や向日葵ではないけれど、静かで、冷たい雨の中でも、自分の根っこを信じてちゃんと凛と咲いている……そういう、秘めた強さのようなものを、莉瀬さんから感じるからかもしれません」
静かだけど、ちゃんと咲いている感じ。それは、今まで誰からも言われたことのない、けれど作家としての、そして過去に傷を負った一人の人間としてのゆらの本質を、優しく言い当てられたような不思議な表現だった。
嫌な気持ちなど毛頭なかった。むしろ、自分の心の奥底を認めてもらえたような気がして、ゆらの頬はほんのりと朱に染まった。
「――じゃあ、その鈴蘭を一つ、ください」「ありがとうございます! 莉瀬さんなら、そう言ってくださると思っていました!」
雅は嬉しそうに声を弾ませ、慣れた手つきで和菓子を小さな経木の箱へと収め、美しい千代紙で包み始めた。
その作業を待つ間、ゆらはふと、店の隅の帳場に置かれた小さな木製の棚へと目を留めた。
そこには、予想通り和菓子の歴史書や、茶道の作法本、着物のコーディネート本が並んでいる。
けれどその専門書の並びの中に一冊だけ、明らかに毛色の違う、少し背表紙の擦り切れた近代文学の小説が混じっていた。
「星埜さん、和菓子や着物のほかにも、ああいいう文学書も読まれるんですね」
ゆらが尋ねると、雅は包み紐を結びながら振り返り、
「ああ、それですか」
と言って、悪戯っぽく微笑んだ。
「それは完全に、あの胡蝶雲憩のキリコさんの影響なんですよ」
「キリコさんの?」
「はい。私、数年前にあの店を初めて訪れた時に、キリコさんからお近づきの印にって、有無を言わさず文庫本を三冊も押し付けられたんです」
「押し付けられた、ですか?」
「そう。これは君のこれからの人生に、必ず寄り道として必要な物語だよ、おすすめだよって、あの調子で」
完全に、あの老店主のやり口だった。目に浮かぶようなその光景に、ゆらは思わず声を立てて吹き出してしまった。
「でも、結局全部読まれて、ここに置いてあるんですね」
「ええ。読まないと次に珈琲を淹れてもらえないような気がして、悔しいけれど読んじゃったんです。そしたら……」
「面白かったですか?」
「もう、めちゃくちゃに悔しいくらい面白かったんです。私の負けだわ、って思いました」
雅は降参するように大袈裟に肩をすくめてみせる。その仕草が、どこまでも楽しそうで、キリコさんへの深い信頼に満ちていた。
店の外では、またしとしとと静かな雨が降り始めていた。暖簾を揺らす風が、雨の匂いを運んでくる。
店内には、雅がかけたのだろう、宮城道雄の春の海をどこかモダンにアレンジしたような、お琴とフルートの清らかな和洋折衷の調べが、低く流れていた。
フルートの透明な息遣いが、お琴の爪弾く硬質な音の粒子と優しく絡み合い、静かな和菓子屋の空間に、新しくもどこか懐かしい物語の気配を紡ぎ出している。
その音楽に耳を傾けながら、ゆらはふと思った。あの胡蝶雲憩という喫茶店に集まる人々は、本当に不思議だ。
小説家、古本屋の店主、そして和菓子職人。
それぞれ全く違うレールの上を歩み、全く違う形の美しいものを愛して生きている。それなのに、どうしてだろう。
彼らは目に見えない糸で、どこか深い根っこの部分で、確かに繋がっている。本。音楽。珈琲。紅茶。そして、一瞬の幻のような和菓子。愛している道具の形はそれぞれ違う。
けれど、それらを通して、世界の美しさや人間の孤独をそっと愛そうとする、その魂の温度は、驚くほど似通っている。
「はい、お待たせいたしました。莉瀬さんの鈴蘭です」
雅から手渡された小さな箱は、ほんのりと作り手の温もりが残っているような気がした。
「ありがとうございます。大切に、お茶と一緒にいただきますね」
「ええ、ぜひ! 感想、また胡蝶雲憩で教えてくださいね」
再び小さな鈴の音を鳴らして外へ出ると、七月の細かな雨が、ゆらの広げた白い日傘をトントンと優しく叩き始めた。鞄の中には、詩音が選んでくれた新しい物語。
手元には、雅が自分のために作ってくれた小さな鈴蘭の芸術。雨の日も、晴れの日も、私の世界はあのセピア色の扉を開いたあの日から、少しずつ、けれど確実に、色鮮やかな誰かの「物語」で満たされようとしている。
ゆらは雨に煙る街並みを愛おしく見つめながら、次の胡蝶雲憩の約束の時間を、心から楽しみに待つお守りのように、その二つの贈り物を強く胸に抱きしめるのだった。




