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君とみる蒼の風音

七月に入ったばかりの朝だった。梅雨はまだ明けていないはずなのに、見上げる空は驚くほどに青かった。深く澄み渡るその蒼穹は、まるで一足早く訪れた夏の主権を宣言しているかのように瑞々しい。


胡蝶雲憩の年経た木の軒先に、見慣れない新しい風鈴がひとつ、静かに吊るされていた。職人の手吹きによるものだろうか、歪みを残した小ぶりの硝子。


そこには鮮やかな翠色と涼やかな水色が波打つように淡く混ざり合い、初夏の鮮烈な光を受けるたびに、まるで凍らせた雨粒のようにきらきらと眩い反射を周囲の壁へと投げかけている。


からん。


通り抜けた朝のそよ風に揺られ、繊細な硝子の舌が触れ合う。それは氷がグラスの中で転がるような、ひどく涼やかな音色だった。


「新しい風鈴ですか?」


ゆらが不思議そうに尋ねると、カウンターの奥でネルドリップを湛えていたキリコさんは、穏やかに白髪の頭を縦に振った。


「ええ。先日、星埜さんが『お中元代わりに)と持ってきてくれましてね」

「雅さんが?」

「ええ。この店の夏の佇まいに、きっと似合うと思ったそうです」


たしかに、見事なほどに調和していた。胡蝶雲憩のセピア色の店内には、いつも重厚なクラシック音楽が低い水流のように流れている。


けれど、その人工的な旋律の隙間へ滑り込むように響く風鈴の音もまた、自然が即興で生み出す一遍の美しい音楽のようだった。


どんな偉大な作曲家にも五線譜の上には書き留められない音。気まぐれな風だけが、その一瞬にだけ奏でることを許された儚い響き。ゆらはいつものお気に入りの窓際の席へ、ゆっくりと腰を下ろした。


背もたれに可憐な鈴蘭の刺繍が施されたアンティークの椅子。テーブルの上には、彼女の到着を待っていたかのように、青磁色の縁取りを持つ、すずらんの絵柄のカップが置かれている。


じっくりと深煎りされた、ビターな香りの珈琲からは、白い湯気が真っ直ぐに、静かに天井を目指して立ち上っていた。


からん。また、不意の風に風鈴が鳴った。


そして、その涼烈な余韻を追いかけるように、間髪入れず、からん、と入り口の真鍮のベルが対位法のように重なって鳴り響いた。もはや、わざわざ扉の方へと振り向かなくても分かった。


「こんにちは、莉瀬さん」


耳にすっかり馴染んだ、あの少し低くて透明な声。


「こんにちは、薪原さん」


向けた顔の唇から、驚くほど自然に柔らかな笑顔がこぼれ落ちる。最近、彼と顔を合わせるだけで、胸の奥の澱が溶けていくようなこの感覚が、自分の中で「当たり前」になりつつある。


その変化が、臆病なゆらにとっては、愛おしくも少しだけ怖いくらいだった。


詩音はいつもの、ゆらの向かいの席へとごく自然に腰を下ろした。彼の背中を支えるのは、薄紫色の紫苑の刺繍が施された椅子。


そしてテーブルの彼の手元には、三日月にちょこんと座る黒猫のシルエットが描かれた、彼の愛店『月夜猫』を連想させる不思議なソーサーが待っている。何も言葉を交わさなくても、キリコさんが音もなく、琥珀色の珈琲をそこへ滑らせた。


いつもと変わらない、この店における日常のひとコマ。けれど、窓から斜めに差し込む初夏の光のせいだろうか。


その光景が、これまでのどの雨の日よりも、ほんの少しだけ眩しく、世界の結晶のように美しくゆらの目に映った。


「風鈴、とても綺麗ですね」


詩音は丸眼鏡の奥の瞳を細め、軒先で揺れる硝子の色彩を見上げた。


「さっき、お店に入る前にしばらく、下から見惚れてしまっていました」

「私も、すごく好きです」

「風鈴が、ですか?」

「はい」


彼はまた、窓の外の陽だまりへと視線を向けた。夏の、まだ尖る前の柔らかで力強い陽射しが、硝子窓に反射して彼の白いシャツの肩口を淡く照らしている。


「これを聞いていると、今年もちゃんと、僕たちの街に夏が来たんだなって……なんだか少しだけ、胸が弾む感じがするんです」


ゆらはカップの温もりを手のひらで確かめながら、少しの間、自分の胸の内を推し量るように考えていた。


「……私は、どちらかと言えば、あの激しい雨音の方が好きかもしれません」

「雨音、ですか」

「ええ。世界中のすべての雑音をかき消して、この店の中に閉じ込めてくれるような気がして。すごく、心が落ち着くので」


言葉にしながら、自分でも深く納得していた。自分が梅雨の鬱陶しい雨の日にばかり、導かれるようにこの胡蝶雲憩へと足を向けるようになったのも、きっとその胸の内の切実な理由のせいだったのだ。


「なるほど。……確かに、すごく莉瀬さんらしい理由ですね」

「どういう意味ですか、それ」

「ふふ、そのままの意味ですよ。莉瀬さんはきっと、世界が静かに息を潜めているような、優しくて静かな音が好きそうだなと思ったので」


ゆらは少しだけ照れくさそうに笑った。


「じゃあ、薪原さんは? 風鈴の音のほかに、どんな音が好きですか」

「僕ですか?」


詩音はもう一度、軒先で淡い翠色をきらめかせている風鈴を見上げ、少しの間、記憶の引き出しを探るように目を伏せた。


そして、ふっと悪戯っぽく微笑んで、こう言った。


「風鈴の音も、バイオリンの音も好きですけれど。……僕が一番落ち着くのは、深夜のしじまの中で、誰かが静かに本のページをめくる音かもしれません」


パサリ、という、あの紙と指先が擦れる微かな摩擦の音。ああ、やっぱり。ゆらは胸の奥でストンと腑に落ちるものを感じ、声を立てて笑った。


本当に、どこまでも本を愛し、物語に寄り添って生きている、この人らしい答えだった。ゆらが笑うと、詩音もまた、眼鏡の奥の目元を優しく崩して、少年のように無邪気に笑い返した。


その時だった。二人の笑い声を祝福するように、窓外からひときわ大きな南風が吹き抜けた。


からん。からん。風鈴が一段と高く、涼やかな連打を響かせる。窓辺の白いレースカーテンが、まるで波打つドレスの裾のように美しくふわりと宙に揺れた。クラシックの重厚な旋律と、硝子の奏でる涼烈な音色。


その二つの音が溶け合うセピア色の空間の中で、ゆらは、まるでこの『胡蝶雲憩』という店全体が、新しい季節の訪れを喜ぶように、優しく、深く、夏の呼吸をしているみたいだと感じていた。


「そういえば」


と、詩音が思い出したように口を開いた。


「今日の帰りは、歩きですか?」

「いえ、今日は駅まで出て電車です」

「じゃあ、駅まで同じ方向ですね」


何気なく、ただ事実を口にしただけの、飾り気のない言葉だった。けれど、その一言が耳に届いた瞬間、ゆらの胸の奥で心臓が小さな音を立てて跳ねた。


視界が一瞬だけ、夏の光に溶けていくように白く爆ぜる。


「……そうですね、同じですね」


自分でも不思議なくらい、いつもと変わらない平静を装った声が出た。詩音はそんな彼女の小さな動揺にはまったく気づいていないらしい。


眼鏡の位置を人差し指で少しだけ直し、何事もなかったかのように手元の珈琲を優しく口に含んでいる。


ただ、カウンターの奥にいるキリコさんだけが、なぜか読んでいる本の陰で、すべてを見透かしたように目元を細めて悪戯っぽく微笑んでいた。


それから数時間後。二人は本当に胡蝶雲憩の扉を後にし、初夏の青空の下、駅に向かって並んで歩いていた。


お互いの肩が触れ合いそうな、触れ合わないような、絶妙な距離感。道すがら、何かドラマチックで特別な話をしたわけではない。


先日、星埜雅の店でゆらが選んだ、あの美しい鈴蘭の練り切りの話。

あるいは、最近お互いのアンテナに引っかかった古い小説の話。


歩幅を合わせながら交わすのは、そんなたわいもない本と日常のことばかり。


それでも、ただそれだけの時間が、驚くほど純粋に楽しかった。賑やかな商店街のアーケードへと差し掛かる。アーケードの隙間を吹き抜ける生温かい風が、二人の髪を優しく揺らした。


どこかの洋品店の軒先から、ふっと微かな、けれど確かな硝子の音が聞こえてくる。

からん。それは、間違いなく夏の訪れを告げる音だった。


ゆらはふと、自分の少し隣を歩く詩音の横顔へと視線を向けた。詩音の薄い唇が、何かを楽しそうに紡いでいる。


けれど、ゆらは自分がいつの間にか彼の声の響きそのものに聴き入ってしまい、途中から話の内容がまったく頭に入っていなかったことに気づいて慌てた。


「……すみません」

「え?」


詩音が不思議そうに、歩きながら丸眼鏡の奥の瞳をこちらへ向けた。


「……ごめんなさい、ちょっと、別のことを考えていて……聞いていませんでした」


いつもなら聞き役に徹するはずのゆらの失態に、詩音は一瞬だけ意外そうに目を見張った。


けれど、すぐにその理由を詮索することなく、ふっと相好を崩して笑った。


「あはは、莉瀬さんにしては珍しいですね。お疲れですか?」

「いえ、そういうわけでは……本当にごめんなさい」

「大丈夫です。大した話じゃないですから」


彼は少しも気を悪くした様子もなくそう言って、もう一度最初から、今度は少しだけ声を落として丁寧に話し始めてくれる。


本当に、どこまでも優しく、他人の歩調に寄り添うことのできる人なのだと思う。何度目か、もう自分でも数え切れないくらい、ゆらは胸の奥でその事実を深く噛み締めていた。


やがて、目的地の駅のロータリーが見えてくる。家路を急ぐ通勤客や学生たちの、慌ただしい人の流れが二人の周囲で急速に増えていく。


もうすぐ、この心地よい並木道が終わる。別れの時間がやってくる。


――それが、ほんの少しだけ、惜しいな。


そんなことを思った瞬間、ゆらは自分自身の心の変化に、激しい驚きを覚えて立ち止まりそうになった。かつての自分なら、誰かと過ごす時間よりも、一人で部屋に閉じこもって孤独を貪る時間の方がずっと好きだったはずなのに。


あの日、音楽を奪われてからずっと、他人に心を開くことなど忘れていたのに。誰かと別れることを、こんな風に「寂しい」と、子供のように思ってしまう日が自分の人生に再び訪れるなんて、想像すらしていなかった。


「じゃあ、僕はこっちの路線なので」


駅の改札の手前で、詩音が足を止めて振り返った。


「また、次の雨の日にでも、胡蝶雲憩で」

「はい」


ゆらは小さく、けれどしっかりと頷いた。


「ええ、また」


たったそれだけの、口約束。次に会う具体的な日時も決めない。お互いの連絡先すら、まだ交換していない。


けれど、どうしてだろう。ゆらの胸の奥には、不思議なほどに一片の疑いもなかった。また、あのセピア色の扉を開けば、彼に会えるということを。


改札の波へと消えていく、詩音の少し猫背で白いシャツの背中をじっと見送りながら、ゆらは人混みの中でふと思った。


人生において「また会いたい」と思える大切な人というのは、案外、こんな風に作られていくものなのかもしれない、と。


劇的なドラマのように、ある日突然、雷に打たれたように生まれるのではなく。少しずつ、本当に少しずつ。あの軒先で、風に揺れて気まぐれに鳴っていた風鈴の音みたいに。


意識して留めようとしなくても、気づけば心の最も深い場所に、消えない余韻としていつまでも残っている。そういうものなのかもしれなかった。


ゆらは、鞄の中の詩音から借りた本をもう一度胸に引き寄せると、初夏の確かな温もりを帯びた人の波の中へと、一歩を踏み出した。

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