いと貴し、夏椿
その日、いつもは静かな胡蝶雲憩の入り口に、一輪の可憐な花がそっと活けられていた。
純白の、どこか儚げな五枚の花弁。その中心で、夏の光を吸い込むように繊細に密集している金色の蕊。
朝に咲き、その日の夕方には静かにポトリと首を落とす、一日限りの命を生きる花。夏椿だった。
「――綺麗ですね」
ゆらがその水差しの前で足を止め、吸い込まれるように呟くと、カウンターの奥で古いガラス瓶を拭いていたキリコさんが、穏やかな目を花へと向けた。
「夏椿、別名を沙羅の木と言います。これがあるだけで、涼を誘うでしょう」
「ええ、知っています」
「おや、さすがは言葉を扱う小説家さんだ」「ふふ、その褒め方はちょっと微妙ですけれど」
キリコさんが「やれやれ」というように小さく笑う。
窓の外を見やれば、七月の強烈な陽射しがアスファルトや石畳を真っ白に照らしつけ、逃げ水のような陽炎が遠くでゆらゆらと揺れていた。
かつてなら、あの容赦のない夏の光が鬱陶しくて仕方がなかったはずなのに、こうして冷房の心地よく効いたセピア色の店内に籠もり、外の眩しさを他人事のように眺める晴れの日の時間も、案外悪くないなとゆらは思う。
スピーカーからは、ドビュッシーの『レヴリ』が流れていた。水面に広がる波紋のように、どこまでも柔らかで、曖昧な輪郭を持ったピアノの美しい音色。
かつての自分なら、クラシックの、それもピアノの音が耳に届いた瞬間に、胸を掻きむしられるような痛みに襲われ、耳を塞いでこの空間から逃げ出していただろう。
けれど、今は違う。いつの間にか、ただの美しい「音楽」として、ごく自然にその旋律を鼓膜へと受け入れられるようになっている。
その、自分の心に訪れた奇跡のような変化に、ゆらは最近になってようやく気づき始めていた。
からん。真鍮のノブが回り、扉が開く。もう、その気配だけで、振り向く前に誰がお店に入ってきたのかが完全に分かった。
「こんにちは、莉瀬さん」
「こんにちは、薪原さん」
ごく自然に、息をするように返事をする。もう驚くことも、過度に身構えることもない。胡蝶雲憩のこの空間で、彼とこうして偶然に、あるいは必然のように顔を合わせることが、自分の中で完全な「当たり前」になり始めていた。
それはどこか不思議で、けれど、たまらなく嬉しいことだった。詩音はいつものように、ゆらの向かいの席へと腰を下ろした。薄紫色の紫苑の刺繍が施された、彼のための椅子。
雨色の淡いブルーのカップ。そして、三日月にちょこんと座る黒猫のソーサー。キリコさんは何も尋ねず、ただいつもの深煎り珈琲をそこへ滑らせる。
相変わらず、完璧で美しい連携だった。
「そういえば」
詩音は温かいカップを持ち上げ、細い指先を添えながら、何気ないトーンで言った。
「莉瀬さん、先日『星埜堂』へ行かれたんですね」
ゆらは一瞬、目を丸くした。
「えっ……どうしてそれを知っているんですか?」
「一昨日、雅さんが僕のお店にふらりと古本を買いに来てくださって。その時に、嬉しそうに教えてくれたんです」
その瞬間、ゆらの脳裏に、あの底抜けに明るい着物姿の女性の顔が浮かび、何やら嫌な予感が背中を走った。
「……あの、雅さん、なんて言っていました?」
「莉瀬さんが本当に来てくれたんだ、って。すごく喜んでいましたよ」
そこまではいい。そこまでは、ただの微笑ましい世間話だ。
「あと――」
詩音が丸眼鏡の奥の目を悪戯っぽく細めて、くすりと笑う。
「『今度はぜひ、詩音さんも一緒に連れてきてくださいね。莉瀬さんっぽい和菓子だけじゃなくて、詩音さんっぽい練り切りも用意して待っていますから!』って、そう言われました」
ゆらは思わず、うう、と声を漏らして右手で自分の額をパチンと押さえた。やっぱり言っていた。あの、お節介でチャーミングな和菓子職人は、確実に二人の関係を面白がっている。
「あの人は、本当に……」
「本当に、楽しそうでしたね」
「楽しそうでしたね」
最後の一言が、詩音の言葉と完全に重なった。二人は同時に顔を見合わせ、その奇妙なシンクロに耐えきれず、ふっと同時に笑い出してしまった。
店内に流れるドビュッシーのピアノの旋律を邪魔しない、ひどく静かな、けれど心を通わせ合う二人の笑い声。
雅という女性には、本人すら無自覚のまま、周囲にいる人々の心を一瞬で和ませ、笑顔にしてしまう不思議な才能があるのかもしれないと、ゆらは思う。
「じゃあ、近いうちに行きますか」
詩音が珈琲をごくりと飲み干し、あまりにも自然にそう提案した。ゆらはパチパチと目を瞬かせる。
「え? 星埜堂へ、ですか?」
「はい」
「……薪原さん、もしかして和菓子がお好きなんですか?」
「ええ、大好きです」
「なんだか、少し意外です。もっとこう、苦い珈琲と本だけで生きていそうなイメージだったので」
「あはは、よく言われます」
詩音は少し困ったように、けれどどこか少年のような照れくさそうな笑みを浮かべた。
「これでも昔から、ちょっとびっくりされるくらい甘いものが好きなんです。バイオリンの練習の合間にも、よく先生が買ってきてくれたお団子を食べていましたから」
その情報は、ゆらにとって初めて聴く彼の過去の、愛おしい断片だった。彼が自分の知らないところで、どんな風に笑い、どんな風に生きていたのか。
こうして彼の口から、今まで知らなかった新しい一面を教えてもらうたびに、ゆらの中で「薪原詩音」という一人の青年の存在が、少しずつ、より立体的で色鮮やかな物語として形作られていくような気がして、胸の奥がじんわりと熱くなる。
「じゃあ――」
ゆらは、自分のカップの中の琥珀色の液体へと視線を落とし、照れ隠しに小さく呟いた。
「今度、一緒に行きましょう」
「はい、今度」
詩音も深く、満足そうに頷いた。それは、いつ、何時にという明確な数字のない、約束というほど大袈裟なものではない、ただの口約束に過ぎない。
けれど、夏の眩しい光が差し込む胡蝶雲憩の片隅で、二人の間に交わされたその言葉は、まるで夏椿の白い花弁のように、静かで、確かな温もりを持って、確かにその場所に咲き誇っていた。
「いらっしゃいませ」
真鍮のベルが一段と賑やかな音を立てた瞬間、聞き慣れたその声が店内のセピア色の空間へと響き渡った。
ゆらと詩音は、示し合わせたように同時に扉の方へと振り返った。そこには。
「やっぱり、お二人ともここにいました!」
満面の笑みを浮かべた星埜雅が、勝利を確信したような目をきらきらと輝かせて立っていた。
今日の彼女は、夏の涼やかな風を視覚化したような、瓢箪の薄青の着物。片手には、何やら少し大きめのクラフト紙の紙袋を大切そうに抱えている。衿元を少し後ろへ引いた、相変わらずのゆるい着付け。
そして、周囲の空気を一瞬で自分色に変えてしまう、相変わらずの凄まじい勢い。
「……星埜さん」
詩音が呆気にとられたように、ぽつりとその名前を呟いた。
「こんにちは、お二人さん!」
雅は元気よく片手を振って、二人の座る窓際の席へと迷いのない足取りで近づいてくる。
「今日はね、キリコさんに新商品の試作品を食べてほしくて持ってきたんですけれど……まさか、莉瀬さんと詩音さんまで揃っているなんて、私、本当に運が良いわ!」
彼女は紙袋をテーブルの端へと置くと、ゆらと詩音の顔を交互にじっと見つめた。その表情はどこまでもにこにことしていて、まるで美味しい獲物を見つけた子供のようだった。
ゆらの胸の中に、先ほどよりも一段と強い嫌な予感がじわじわと広がっていく。
「それにしても、お二人とも本当に仲良しさんですねえ。いつもこうして、同じ席で頭を突き合わせていらっしゃるの?」
その言葉に、ゆらと詩音は弾かれたように、ほぼ同時に口を開いた。
「違います」「いえ、違います」
声のトーンまで完全に、一分の狂いもなく同時だった。言葉が店内の空気に溶けた直後、一拍遅れて、奇妙なほどに濃密な静寂が三人の間に訪れる。雅は驚いたようにパチパチと目を丸くした。それから。
「あはははは!」
お腹を抱えるようにして、声を上げて愉快そうに笑い始めた。
「もう、何が違うんですか! 息、ぴったりじゃないですか!」
ゆらはカッと顔が熱くなるのを感じ、誤魔化すように慌てて窓の外へと顔を逸らした。隣の詩音も、丸眼鏡の奥の目を泳がせながら、「コホン」とわざとらしい咳払いをして、手
元の冷めかけた珈琲をじっと見つめている。
カウンターの奥に目をやれば、キリコさんは先ほどから広げている古い本を読んでいるふりをしていた。
けれど、その肩が微かに小刻みに震えている。たぶん、必死で笑いを堪えているのだろう。
窓の外では、強い夏の陽射しを浴びた夏椿が、南風に吹かれてさらさらと揺れていた。その瞬間、純白の瑞々しい花弁が一枚、枝を離れて、ふわりと石畳の上へと静かに落ちた。
朝に咲き、夕方にはそのままの姿で潔く散っていく花。あまりにも儚く、刹那的な命。けれど、その短い限られた時間だからこそ、夏椿は世界の誰よりも精一杯、真っ白な美しさを咲かせようとするのだ。
ゆらは落ちた花弁を見つめながら、何となく思った。人間と人間との出会いも、もしかしたらこの花とよく似ているのかもしれない、と。
この穏やかな時間が、いつまで続くのかは誰にも分からない。いつか、それぞれが違う物語のレールへと戻り、離ればなれになってしまう日だって来るかもしれない。
だからこそ、この「今」という一瞬が、たまらなく愛おしく、大切になるのだ。胡蝶雲憩には、今日もスピーカーの奥から、ドビュッシーの優しいピアノの旋律が低い水流のように流れている。
焙煎されたばかりの、芳醇な珈琲の香りが満ちている。そして、目の前には、自分を笑顔にしてくれる大切な人たちの笑い声が響いている。
ゆらは、自分の手のひらが先ほどよりもずっと温かくなっていることに気づいた。
そして、不器用で孤独だったはずの自分が、こんな温かな時間を、少しずつ、けれどどうしようもないほど好きになっていることに、静かに気づかされるのだった。




