燦夏、空を仰いで
夏の強い陽射しは、本棚の片隅に眠る古い本の背表紙を、ほんの少しだけ優しく色褪せさせる。
その日、ゆらは再び古本屋『月夜猫』を訪れていた。商店街のにぎやかな喧騒から一本外れた、静かな住宅街の通り。白いレースの日傘をゆっくりと畳み、年季の入った木製の扉を押し開ける。
ちりん、と涼やかな小さなベルが、静寂を弾くように鳴り響いた。
「こんにちは、薪原さん」
「――あ、莉瀬さん。こんにちは」
店内の奥、窓辺から差し込む逆光のグラデーションの中に佇む彼の姿は、いつもの胡蝶雲憩で珈琲を飲んでいる時とはどこか違って見えた。
ここは、間違いなく詩音の場所だ。あの喫茶店では自分と同じ「一人の客」だった人が、この空間では本たちの居場所を守る「店主」になる。それはなんだか不思議で、ほんの少しだけ誇らしいような、おかしな感覚だった。
「外は、ずいぶんと暑かったでしょう」
「ええ、ちょっとだけ。アスファルトの熱気がすごくて」
「ちょうど良かったです、冷たいお茶がありますよ」
「ふふ、古本屋なのに、お茶が出てくるんですか?」
「古本屋なので、ですよ。のんびり本を選んでほしいですから」
詩音は眼鏡の奥の目を細めて笑った。その理屈の正しさはよく分からなかったけれど、どこまでも『月夜猫』らしい、心地よいお節介のような気がした。
店内は、耳が痛くなるほどに静かだった。天井近くに取り付けられた古い扇風機が、首を振りながらカタカタとゆっくり回っている。
外の蝉時雨を遠くに聞きながら、時折、パサリと紙の擦れる音だけが店内に優しく落ちる。外は猛暑だというのに、ここには冷房とは違う、本と木が作り出す独特の涼しさが満ちていた。
「今日はお客さん、ずいぶんと少ないんですね」
「平日の昼下がりですからね。いつもこんな感じです」
詩音は入荷したばかりの古書を棚へと戻しながら、淡々と答える。
「正直に言うと、かなり暇です」
「店主さんが、それをご本人に言っちゃっていいんですか?」
「莉瀬さん相手なら、たぶん大丈夫です」
どちらからともなく、ふふ、と小さな笑い声が重なった。しばらく並んだ背表紙を眺めていると、詩音が店の奥から木製の脚立を引いて持ってきた。
「莉瀬さん、もしよければ、ちょっとだけ手伝ってもらってもいいですか?」
「え、私ですか? もちろん構いませんけれど」
「すみません。あの一番上の棚に、新しく入った大型の画集を並べようと思っているんです」
見上げると、それは天井に届きそうなほど高い場所にある棚だった。
「……ずいぶん高いですね。危なくないですか?」
「大丈夫です、これくらいは慣れていますから」
そう言って詩音はひょいと脚立へ上っていった。
けれど、一番上の段に足をかけたところで、彼は「うーん」と眉を下げて動きを止めてしまった。
「届かない、ですね……」
「え、届かないんですか?」
「あと、ほんの数センチ、なんですけれど」
詩音が脚立の上で、白いリネンシャツの背中を精一杯伸ばして背伸びをする。長い指先を伸ばしても、あと一歩のところで本が棚に届かない。ゆらはその少し不器用な姿に、思わずぷっと吹き出してしまった。
「ふふ、意外です」
「……何がですか。僕は大真面目なんですけれど」
「だって薪原さんって、もっと何でもスマートにできそうなイメージだったので」
「そんな超人じゃありませんよ。ただの古本屋です」
詩音は脚立の上から振り返り、少しだけ悔しそうに、けれど困ったように苦笑した。その少し年相応に見える表情が面白くて、ゆらの心は可笑しそうに弾む。
「貸してください、その本」
ゆらが下から手を伸ばす。
「え?」
「私が下から持ち上げます。それなら届くでしょう?」
「いえ、重いですよ。莉瀬さんには危ないです」
「大丈夫です、これくらい」
そう言って、詩音の手からずっしりと重い洋画集を受け取る。腕に伝わる重みに少しだけよろめきながら、ゆらは自ら脚立へ足をかけた。一段。二段。三段。ゆっくりと上っていく。
「……うわ、本当に高い……」
「だから言ったのに。無理しないでください」
下から詩音の心配そうな声が聞こえる。けれど、ここまで来てしまった以上、引くに引けない作家としての頑固さが頭をもたげた。
ゆらはぐっと腕を伸ばし、棚の空いたスペースへ画集の背表紙を差し込もうとした。その瞬間だった。重さにバランスを崩し、脚立の足が床の上でガタッと鈍い音を立てた。
ぐらり、と視界が大きく歪む。
「あ――」
体が後ろに傾く恐怖に、ゆらは思わず画集を棚に押し込み目の前の木製のフレームをきつく掴んだ。
「莉瀬さん!」
下から鋭い声が響いた。次の瞬間、ゆらの体に強い衝撃は訪れなかった。気づけば、詩音が下から両腕を伸ばし、脚立の支柱ごと、ゆらの体の両脇を包み込むようにして全体をがっしりと支えていたのだ。
かなり、近い。触れ合ってはいないはずなのに、彼の着ているリネンシャツから漂う、ほのかな石鹸の香りと、焦げ茶色の髪の温度が肌に伝わってくるほどに、近すぎる距離だった。ゆらは息を呑んだまま、完全に固まった。
下から彼女を見上げる詩音もまた、丸眼鏡の奥の瞳を大きく見開いたまま、彫刻のように動きを止めている。
店内のスピーカーからは、いつの間にかフォーレの『ドリー』の優しいピアノ曲が流れ始めていた。カタカタと回る扇風機の音。
お互いの短い、けれど速い呼吸の音。ほんの数秒。いや、ほんの一瞬の出来事だったのかもしれない。けれど、夏の光が満ちる古本屋の片隅で、二人の時間は、まるで永遠に続くかのように妙に、ひどく長く感じられてい
た。
「……大丈夫、ですか」
硬直した時間の底から、先に沈黙を破ったのは詩音だった。彼の声はいつもより少しだけ低く、脚立を支え持つ腕の筋肉が、リネンシャツの薄い生地の向こうで固く強張っているのが分かった。
「だ、大丈夫、です……。ありがとうございます」
「なら……本当によかった」
詩音は憑き物が落ちたように、ほっとした柔らかな笑みを浮かべて両腕を引いた。
ゆらは弾かれたように、慌てて、けれど足元を確かめながら慎重に脚立を下りた。
床に足がついた瞬間、胸の奥で心臓が耳障りなほどの早鐘を打っているのに気づく。別に、劇的な何かが起こったわけではない。本当に、ほんの不慮のアクシデントに過ぎない。
それなのに、どうしてこんなにも息が苦しいのか、自分でも説明がつかなかった。
「あの……その、余計なお手伝いをしてしまって、すみません」
「莉瀬さんが謝らなくていいですよ。無理をさせてしまったのは僕の方なんですから」
詩音はそう言って、天井近くの棚を見上げた。
「でも、ありがとうございます。おかげさまで、綺麗に収まりました」
彼の視線の先には、先ほどゆらが押し込んだ分厚い画集が、一寸の狂いもなく美しく本棚の列に収まっている。
少しだけれど、胸の奥に確かな達成感がじんわりと広がっていくのを感じた。
その時だった。店の奥の小窓から、ふっと初夏の乾いた南風が吹き込んできた。窓辺の薄い白いレースカーテンがふわりと大きく揺れ、遮られていた強烈な陽射しが、一筋の鋭い矢のように店内の薄暗がりへと真っ直ぐに差し込む。
まばゆい光の帯の中で、古い本が静かに呼吸をするように、小さな目に見えない埃の粒子たちが、いくつもいくつも浮かび上がりながら、きらきらと光を受けて乱反射していた。
それはまるで、セピア色の空間に降り注ぐ、音のない金色の雨のようだった。
「――綺麗ですね」
ゆらが魅せられたように呟くと、詩音もまた愛おしそうに振り返った。
「ええ、そうですね」
静かな、凪いだ声だった。二人はそれからしばらくの間、言葉を交わすことも忘れ、ただ黙ってその光と影が織りなす美しい景色をじっと見つめていた。
古本の放つ少し甘い紙の匂い。窓辺を黄金色に染め上げる、真夏の光。開け放たれた小窓の向こうから、遠く低く響いてくる蝉の鳴き声。
そして、自分のすぐ隣で、同じように静かな呼吸を繰り返している、誰かの存在。小説のプロットになるような、劇的で特別な出来事は何一つとして起きてはいない。
けれど、かつて心を閉ざしていた自分が、いまこの瞬間を、これ以上なく大切で愛おしいと、心の底から思えている。そんな、奇跡のような日が自分の人生に再び訪れるなんて、あの日音楽を失った時の自分には、到底信じられないことだった。
「そういえば」
陽だまりを見つめたまま、詩音が思い出したようにぽつりと言った。
「莉瀬さん……今度、昔の音楽の先生に、会いに行かれるんですか?」
ゆらは、不意を突かれて少しだけ驚きに目を見開いた。いつだったか、自分が胡蝶雲憩でほんの少しだけ口にし、彼に送ったメッセージの些細な内容のことを、彼は今でもずっと、心の片隅で大切に覚えていてくれたらしい。
「……まだ、本当に行くかどうかは、決めていないんです」
「そうですか」
「少し……いえ、本当はかなり、怖くて」
誰にも言えなかった本音を、この人に対してだけは、不思議なほど実直に吐露することができた。詩音は何も言わずに、ただ深く、静かに頷いた。
「行くべきだ」と否定もしない。「早く前を向こう」と急かすこともしない。
彼はただ、ゆらの抱える恐怖の重さを一緒に背負うようにして、考える目で窓の外の青空を見つめた。
「でも」
詩音は丸眼鏡の縁をそっと指先でなぞり、言葉を紡ぐ。
「もしも莉瀬さんの胸の奥に、ほんの少しでも『会いたい』と願う気持ちがあるのなら……その想いだけは、どうか嘘にせず、大事にしてあげた方がいいと僕は思います」
静かで、どこか祈るような響きを持った声だった。けれど、その言葉の持つ確かな温度が、不思議なほど強く、ゆらの胸の最深部へと深く、深く刻み込まれていく。
ゆらは、すぐに返事をすることができなかった。いや、言葉が喉に仕えて、できなかったのだ。ただ、彼の見つめる窓の向こう側の景色へと、同じように視線を投げかける。
どこまでも高く広がる、突き抜けるような青い空。そのキャンバスに描かれた、真っ白な入道雲。
あまりにも眩しく、残酷なほどに美しい夏。
そして――ゆらは、自分の心のいちばん深い場所で、ある一つの、恐ろしくも決定的な気づきに胸を衝かれていた。
もしかしたら。いま、この夏の光の中で、自分が一番『会いたい』と、その声を聴きたいと願っている人は。もう……あの過去の場所に置き去りにしてきた人では、ないのかもしれない、と。
店内の古いスピーカーからは、フォーレの『ドリー』の愛らしい終曲が、二人の静かな心の揺らぎを祝福するように、どこまでも優しく、切なく流れ続けていた。




