音の宛先
その手紙は、真夏の凝縮された熱気と、どこか懐かしい木々の匂いを連れて届いた。
昼下がり。原稿は相変わらず一文字も進まず、冷めきった麦茶の混ざり合わない琥珀色の水面をただぼんやりと眺めながら、窓の外のうだるような街並みを眺めていた時だった。
コトリ、と玄関の郵便受けに何かが落ちる、乾いた音が室内に響いた。何気なく、ただ重い腰を上げて取りに行く。
束になった薄っぺらな広告チラシと、何枚かの無機質な請求書。その地味な紙の重なりに混じるようにして、一通の小ぶりな封筒が紛れ込んでいた。
上質な、少し厚みのある白い封筒。そこに万年筆の深いブルーブラックのインクで書かれた、一寸の乱れもない凛とした整った文字。
宛名の下にある差出人の名前を視界に捉えた瞬間、ゆらの呼吸は、まるでそこだけ時間が氷結したかのようにぴたりと止まった。――藤音律子。
藤音先生だった。まだ物心もつかない幼い頃から、あの冷たい鍵盤の前で、ずっとゆらに音楽の手ほどきをしてくれていた先生。
まだ小さな足が、ピアノのペダルにどうしても届かなかった頃。初めての発表会の直前、舞台裏で緊張のあまり大泣きしたゆらの手を、痛いほど強く握りしめてくれた時。
そして、あの過酷なコンクールへと初めて出場し、順位という名の嵐に巻き込まれていった時。
私の不器用な少女時代の、その音楽のすべてを知っている人。ゆらはしばらくの間、薄暗い玄関のたたきに素足のまま立ち尽くしていた。ただの木パルプの紙切れ一枚、ほんの数グラムの手紙であるはずなのに、手のひらに載せられたその白い封筒は、まるで鉄の塊であるかのように妙に、ずっしりと重たく感じられるのだった。
這うようにして、自室の仕事部屋へ戻る。ノートパソコンの横、いつもの机の上へとそっと置く。けれど、どうしても封を切る指が動かない。
十分。二十分。三十分。
時間が、蝉の鳴き声と共にただ無為に流れていく。結局、意を決してペーパーナイフを差し込み、封を切ったのは、西日が部屋の床を赤く染め始める夕方のことだった。
窓の外では、何千、何万という蝉たちが、命を振り絞るようにして大音量のコーラスを響かせている。それはまるで、終わりの見えない夏の独唱のようだった。
中から現れた便箋は、潔く一枚だけだった。いかにも先生らしいな、とゆらは胸の奥で小さく呟く。昔から、言葉を飾ることを嫌い、音楽と同じように無駄な音を一切使わない、実直な人だったから。
『お久しぶりです。突然の連絡をありがとう。
あなたがどこかで元気に生きているなら、それだけで、私は本当に嬉しいです。
私は相変わらず、自宅の小さなレッスン室で、近所の子どもたちにピアノを教えています。
最近ね、まだ入ったばかりの小学三年生の生徒が、どうしてもショパンのワルツに挑戦すると言い出しました。
手のひらも小さくて、まだ音に届かないのに、必死に鍵盤にかじりついているのを見ていると、どうしても昔の、頑固だった「誰かさん」の姿を思い出してしまいます。
無理をしていませんか。夜は、ちゃんと眠れていますか。
ご飯は、三食しっかり食べていますか。
もしよければ、この夏の間にでも、いつか久しぶりに会いましょう。
そして。もしも、君の心がそれを許してくれるなら。君の演奏を、もう一度だけ、私に聴かせてほしいです。 藤音律子』
そこまで読んだところで、ゆらは耐えきれずに便箋を強く折り畳んだ。
もう、文字の続きを追うことができなくなっていた。視界が急激に滲み、胸の奥が、まるで硬い手で直接掴まれたかのように苦しく、痛む。
先生は、あの日のゆらの逃亡を、何一つとして責めてはいなかった。あのコンクールの楽屋で、ゆらがどんな無様な涙を流し、どんな風に音楽を捨てて逃げ出したのか、その醜い本質すら何一つ知らない。
それなのに。最後の一文――『君の演奏をもう一度聴きたい』という言葉だけで、あの日からずっと重い錆びた鎖で閉ざし続けていた心の扉を、正面から優しく叩かれたような気がしたのだ。
あまりにも優しく、濁りのない、純粋な祈りのような言葉だった。だからこそ、今のゆらにとっては、何よりも鋭く、痛かった。
それは、かつて浴びせられたような「勝ち続けなさい」という周囲の過度な期待ではない。「早くピアノの前に戻りなさい」という理不尽な命令でもない。
ただ一人の恩師として、かつて愛した愛弟子の音楽のその後を、ひっそりと願ってくれているだけ。悪意がないからこそ、逃げ場がなかった。
言い訳をして突っぱねることもできない、純度の高い優しさに、ゆらはただ立ち尽くすことしかできない。
ゆらは震える指先で便箋を細かく畳み、いつもの胡蝶雲憩へ持っていく原稿鞄の、一番奥のポケットへとそっと仕舞い込んだ。なぜだろう。
読むのはあんなに苦しくて痛いのに、どうしても、自分のすぐ近くの場所に置いておきたかった。
この手紙を鞄に潜ませていれば、あのセピア色の扉を開いた先で、あの穏やかな青年や、お節介な和菓子職人が、自分の凍りついた時間を少しだけ溶かしてくれるのではないかと、無意識にそんな微かな救いを求めていたのかもしれない。
翌日、ゆらは逃げ込むようにして、いつもの胡蝶雲憩の扉を押し開けていた。
窓から射し込む真夏の強烈な陽射しが、飴色の本棚に並ぶ古い背表紙を真っ白に照らし出している。
背もたれに鈴蘭の刺繍が施されたアンティークの椅子。手元には、青磁色の縁を持つ、すずらんの絵柄のカップ。
いつもの席で、いつもの景色に囲まれているはずなのに、今日に限っては一向に心が落ち着かなかった。原稿鞄の奥底に潜ませた、あの一通の白い手紙の重みが、気になって気になって仕方がなかった。
「おや。莉瀬さん、今日は何か深い考え事ですか」
微かな磁器の擦れる音と共に、淹れたての深煎り珈琲を置きながら、キリコさんが声をかけた。
「……キリコさんには、そんなに分かりますか、私の状態が」
「分かりますとも、長年ここで看板を出していますからね」
老人は穏やかに目を細めて笑う。
「人間という生き物はね、何か大きな考え事をしている時、無意識に窓の外を見る回数が増えるものなんですよ」
「へえ、本当ですか?」
「今、適当に考えました」
ゆらは思わず、「もう……」と声を漏らして吹き出してしまった。
こういう風に、老練なユーモアで張り詰めた空気をふっと緩めてくれるところが、この人のずるくて、優しいところだった。
おかげで、胸に閦えていた冷たい塊が、少しだけ軽くなったような気がした。その時だった。からん、と真鍮のベルが鳴り、熱を帯びた南風が店内に滑り込んできた。
「こんにちは、莉瀬さん」
「こんにちは、薪原さん」
いつもの声、いつもの飾らない笑顔。ただそれだけのことなのに、彼の姿を視界に収めた瞬間、ゆらの心臓の不規則なビートが、すうっと静かに凪いでいくのが分かった。
それほどまでに、彼の存在は今のゆらにとって、なくてはならない確かな安らぎになっていた。詩音はいつもの、背もたれに紫苑の刺繍がある椅子へと腰掛けた。
やがて、キリコさんの手によって、三日月に座る黒猫のソーサーに載った珈琲が運ばれてくる。
「――何か、ありましたか?」
詩音がカップに細い指先を添えながら、ふいに尋ねてきた。ゆらは不意を突かれてパチパチと目を瞬いた。
「え、そんなに顔に出ていましたか……?」
「少しだけ。いつもより、眉間に深い迷いの皺が寄っていたので」
詩音は丸眼鏡の奥の目を少しだけ困ったように和らげて笑う。
「あ、もし僕の思い過ごしで、立ち入ったことを聞いてしまったなら、ごめんなさい」
その、相手の心の領域を絶対に土足で踏み荒らさない言い方が、いかにも詩音らしかった。勝手に事情を決めつけない。無理に答えを急がせない。
ただ、君が話したくなるまでここで待っているよという、その絶対的な静けさがあるからこそ、ゆらは不思議と、今まで誰にも明かせなかった秘密のすべてを、この人になら差し出してもいいと思えるのだった。
「……手紙が、来たんです」
「手紙、ですか」
「はい。昔の、私の先生から」
詩音はそれ以上口を挟まず、ただゆらの言葉の続きを待つように、静かに珈琲の湯気の向こうから耳を傾けている。ゆらは、自分の指先をきつく握りしめながら言葉を続けた。
「――ピアノの、先生なんです」
初めてだった。自分の口から、あの日失った「ピアノ」という言葉を、詩音に対して明確に口にしたのは。
「そこに、『久しぶりに会いたい』って書いてあって。……それから」
鞄の奥で小さく畳まれている、あの白い便箋の文字を思い出す。
「……『君の演奏を、もう一度だけ聴きたい』って、そう、願われてしまいました」
店内に、しっとりとした深い静寂が落ちてくる。スピーカーからは、偶然にもサティの『ジムノペディ 第1番』が、極めて小さな音量で流れ始めていた。
装飾を削ぎ落とした、あまりにも静かで物憂げなピアノの旋律が、二人の間の空間を優しく満たしていく。
遠くの軒先で、星埜雅が持ってきた硝子の風鈴が、チリン、と儚げに鳴った。それは、あまりにも切ない、真夏の音だった。
「……それは、莉瀬さんにとって、嬉しかったですか?」
詩音が、静かに尋ねる。ゆらは、その問いかけに完全に答えを詰まらせてしまった。嬉しかった。
もちろん、忘れられていなかったことは、心の底から嬉しかった。
けれど。それ以上に、圧倒的に怖かった。あの日、無様に音楽から逃げ出してしまった自分を思い知らされるのが、申し訳なかった。
今すぐにでも、その現実から耳を塞いで逃げ出したくなるほどに。愛おしさと恐怖、後悔と切なさが、心の中で泥のように混ざり合いすぎていて、自分でも自分の感情の正体が、もう何一つとして分からなくなっていた。
詩音はすぐに言葉を返さず、少しだけ考えるようにして、歪んだ窓の向こうの青空を見つめていた。
そして、かつて自分も同じように大切な「先生」を失ったあの日の記憶をなぞるように、静かに、本当に穏やかな声で言った。
「でも、この広い世界の中で……そうやって、心の底から『会いたい』と、自分の音楽を待ってくれている人がいるということは」
彼は丸眼鏡の奥の目を細めた。
「本当に、すごく幸せなことだと、僕は思いますよ」
ゆらは、何も言えなかった。窓の外には、残酷なほどに澄み切った青空が広がっている。何万という蝉たちが、命を振り振り絞って鳴いている。
世界には、間違いなく眩しい夏が来ている。けれど――ゆらの心の中では、あの日、コンクールの楽屋で立ち尽くし、すべてを投げ出して逃げ出したあの日から、一歩も止まったまま、今も冷たい激しい雨がしとしとと降り続いているようだった。
先生に会いに行く勇気なんて、今の自分にはどこを探してもない。もう一度あの白い鍵盤の前に座り、ピアノを弾く勇気なんて、なおさらない。
それでも。あの手紙を、どうしてもゴミ箱に捨てることだけはできなかった。先生が残してくれた『会いたい』という言葉も、私の音楽を『もう一度聴きたい』という濁りのない願いも。
数時間後、帰り道。西日に赤く染まり始めた駅への並木道を一人で歩きながら、ゆらは原稿鞄の上から、奥のポケットに収まった手紙の感触を、そっと指先で確かめた。
その時、ふと、一枚の木の葉が落ちるように、奇妙な疑問が脳裏をよぎった。人間は、ただ「会いたい」という純粋な衝動があるから、その足で会いに行くのだろうか。
それとも。本当は会いたくてたまらないのに、それと同じくらい「怖い」と怯えているからこそ、その恐怖を乗り越えるために、傷つく覚悟をして会いに行かなければならないのだろうか。
サティの単調なピアノの旋律が、今も耳の奥で静かにリフレインしている。その問いに対する正しい答えは、今のゆらには、まだどうしても分からなかった。




