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鈴蘭の枝折

胡蝶雲憩の窓辺には、季節が移ろうごとに小さく繊細な変化が訪れる。夏が本格的な熱を帯び始めてから、キリコさんは店のあちこちへ涼やかな硝子細工を置くようになった。


窓際で微かに揺れるのは、透明な雨粒の形をしたガラス。重厚な木の本棚の片隅には、今にも羽ばたきそうな蝶のオブジェ。


そして、白いレースカーテンの裾には、多面体にカットされた小さなプリズム。


午後になると、それらが容赦のない真夏の太陽の光を真っ正面から受け止め、セピア色の店内へ淡く美しい虹の破片をいくつも散らすのだった。


ゆらはその、光と硝子が織りなす万華鏡のような景色がたまらなく好きだった。決して派手ではない。


けれど、せわしない日常の足を止め、目を凝らした人だけが見つけられる秘められた美しさがある。それはまるで、この胡蝶雲憩という店そのものの佇まいみたいだった。


その日も店内には、穏やかな波のように柔らかなクラシックが流れていた。深く焙煎された珈琲の芳醇な香り。古い紙がまとう独特の、少し甘い匂い。


時が止まったかのような、静かな午後。ゆらはいつもの窓際の席で、ノートパソコンや原稿用紙の代わりに、木目の机の上へ色とりどりの色鉛筆やハサミ、文房具の数々を丁寧に並べていた。


「おや、莉瀬さん。今日は何か珍しいことをされていますね」


カウンターの向こう側から、キリコさんが老眼鏡の縁を押し上げながら声をかけてくる。


「それは……工作ですか?」

「工作って言われると、なんだか急に小学生の夏休みみたいですね」

「おや、違うのですか」

「違います」


ゆらは思わず声を立てて笑った。机の上に広げられているのは、目の粗い厚手の台紙。


そして、あらかじめ自宅で丁寧に本に挟んで水分を抜いておいた、小さな鈴蘭の押し花。それらを透明な保護フィルムと重ね合わせ、指先で慎重に位置を調整していく。


ピンセットを使ってピンと張ったフィルムの空気を抜き、端を綺麗に裁断する。


やがて、手のひらの上で一枚の可憐な栞が出来上がった。透明な世界の中に、純白の鈴蘭が、まるで五月の爽やかな風に今も静かに揺れているかのように、瑞々しい姿のまま閉じ込められている。


「ほう、綺麗ですね」


キリコさんがいつの間にか近くまで歩み寄り、トレイを胸に抱えたまま、出来上がった栞を覗き込んだ。


「ありがとうございます。なんとか形になりました」

「それは……どなたか大切な方に手渡すのですか?」


ゆらのピンセットを持つ指先が、ぴたりと止まる。

「……たぶん」


老店主はそれ以上、何も詮索しなかった。ただ、すべてを察したように優しく微笑むだけだった。ゆらは、彼のそういう踏み込みすぎない優しさが、本当に好きだと思う。


からん。その時、静寂を弾くように真鍮の扉のベルが鳴った。


「こんにちは、莉瀬さん」


彼の声が鼓膜に届いた瞬間、ゆらは無意識のうちに、今しがた完成したばかりの栞を自分の手の下へと隠しかけてしまった。


自分でもなぜそんな子供のような過剰防衛をしてしまったのか分からない。別に、誰に見られて困るような秘密の代物でもないというのに。


「あ、こんにちは、薪原さん」

「何か、楽しそうなものを作っていらっしゃったんですか?」


やはり、早速見つかってしまった。詩音はいつもの席へと向かう途中で足を止め、丸眼鏡の奥の瞳を輝かせながら、ゆらの机の上を興味深そうに覗き込んでくる。


「……栞、です。ちょっと、手慰みに」

「へえ、手作りですか。すごいな」


彼の声には、お世辞ではない純粋な驚きと興味が満ちていた。ゆらは、ほんの数秒だけ迷った。自分の手のひらの下にある、完成したばかりの栞をじっと見つめる。


鈴蘭。白い小さな花。この胡蝶雲憩の椅子の背もたれ。


そして、星埜雅が「あなたに似ている」と言ってくれた、自分自身の象徴。自分がどうしてこのモチーフを選び、この場所で、指先を震わせながらこれを作っていたのか。


その本当の理由を、ゆらは胸の奥底で、とっくに理解していた。


「――あの、薪原さん」

「はい?」


詩音が不思議そうに顔を上げる。ゆらは意を決して、隠していた手を離し、出来上がったばかりの鈴蘭の栞を、彼の目の前へと真っ直ぐに差し出した。


「これ……もしよければ、使ってください」


一瞬。本当に一瞬だけ、詩音は息を呑んだように丸眼鏡の奥の瞳を大きく見開いた。


「え、これを……僕に、ですか?」

「……そんなに驚かなくても。あの、嫌なら無理にとは言いませんけれど」

「嫌じゃないです! 全然、嫌なんかじゃありません」


被せるような、強い即答だった。その少し必死な彼の答えに、ゆらの胸の奥が、まるで真夏の陽射しを浴びたようにじわじわと熱くなっていく。


詩音は差し出された栞を、まるでガラス細工の壊れ物を扱うかのように、細くしなやかな指先で慎重に、本当に大切そうに受け取った。


「……すごく、綺麗ですね。押し花の白が、まるで生きているみたいだ」


そう言って、彼は胸の奥から溢れ出るような、穏やかで優しい微笑みをゆらへと向けた。


ゆらは耐えきれずに、ほんの少しだけ視線を窓の外の青空へと逸らした。耳の端が、カッと熱くなっているのが自分でもよく分かる。


ただ本をめくるのが好きな友人に、お礼の品を手渡しただけ。


それだけなのに、どうしてこんなにも胸が苦しくて、照れくさいのか。こんな、胸の奥が甘酸っぱく跳ねるような気持ちを味わうのは、本当に久しぶりのことだった。


いや、もしかしたら、これまでの人生で初めての経験かもしれない。


「鈴蘭、なんですね」


詩音が、透明なフィルムに閉じ込められた白い花弁を愛おしそうに見つめながら呟く。


「はい」

「すごく、莉瀬さんらしい花だと思います」


『莉瀬さんらしい』。最近、この店にいると、彼からも、雅さんからも、キリコさんからも、そんな風に「自分らしさ」を全肯定してもらえる機会が本当に増えた。


昔の自分は、音楽という唯一のアイデンティティを失ってから、世界のどこにも居場所がなく、何者にもなれない、透明な存在のまま消えていくのだと思い込んでいたのに。


今は、このセピア色の空間の中にいる時だけは、少しだけ違う自分になれている気がした。


そしてまたとりとめもなく、風鈴の音が鳴るままに話しだす。


先日お互いに交換した本の、まだまとまらない感想。星埜雅が今朝持ってきてくれたという、夏の新作和菓子のアイデア。


最近、ふとした瞬間に心に留まった古い小説の台詞。交わされる言葉の中に、劇的なドラマや、世界を揺るがすような特別な出来事は何一つとして含まれていない。


けれど――ゆらは冷めかけた珈琲を口に含みながら、胸の奥で静かに噛み締めていた。この、何でもない、特別じゃない時間が、今の自分にとっては、世界の何よりもかけがえのない、愛おしい救いになっているのだということを。


スピーカーからは、いつの間にかドビュッシーの『ベルガマスク組曲』から、最も静謐な『月の光』が流れ始めていた。風に揺れるレースカーテンと、床に散らばる淡い虹の粒。


その優しい光の渦の中で、ゆらは、自分の紡ぐ物語の主人公が、ようやくほんの少しだけ、前を向いて歩き出せるかもしれないという、確かな予感に胸を満たされているのだった。


帰り際。詩音は自分の『月夜猫』から持ってきた古い古書を鞄へしまおうとして、「あ」と短く声を上げた。


彼はハッとしたように、先ほどゆらから受け取ったばかりの鈴蘭の栞を、ジャケットの胸ポケットからそっと取り出す。そして、何のためらいも、惜しむような素振りも見せることなく、いま読み進めているその本のページへと、ごく自然にすっと挟み込んだ。


「……もう、本当に今から使うんですか?」


ゆらは思いがけない彼の行動に、驚いて思わず声を漏らした。


「ええ、使いますよ」


詩音は丸眼鏡の奥の目を丸くして、不思議そうな顔をする。


「だって、栞ですから」


当然のように。まるで最初からそれ以外の選択肢などこの世界に存在しないのだと、そう信じて疑わない子供のような純粋さだった。


ゆらは彼のその迷いのなさに、少しだけ目を見開いた。もし自分だったら、誰かからこんな手作りの繊細な押し花をもらったら、汚れないように、傷つかないように、机の引き出しの奥深くへ大切にしまい込んで飾っていたかもしれない。


でも、詩音の愛し方は違っていた。道具として、本来の「栞」の役割を与えてあげること。


自分がこれからめくっていく、無数の物語の行間を一緒に旅させて、本と一緒に同じ時間を過ごさせること。


それはきっと、この栞を作ったゆらの指先への、彼なりの最大級の誠実さと、絶対的な信頼の形なのだ。


「莉瀬さん、本当にありがとうございます」


詩音は本をパタンと閉じ、表紙を愛おしそうに撫でながら微笑んだ。


「これから、ずっと大事に使わせていただきますね」


その少しはにかんだ声を聞きながら、ゆらは胸の奥が高鳴るのを静かに感じていた。会いたいと思える人がいる。


自分の拙い言葉を、聞いてほしいと願う人がいる。そして、その人が、自分の手のひらから渡した小さな贈り物を、当たり前のように日常の一部として受け入れて、使ってくれる。


人間という生き物は、そんな世界の片隅で起きるささやかな出来事だけで、案外、どうしようもないほどに嬉しく、満たされた気持ちになれるらしい。


窓の外では、青空を切り裂くように激しい夏の風が吹き抜けていた。


窓辺のレースカーテンの裾で、プリズムの多面体が太陽の光を浴びて、パッと色鮮やかな虹の粒子を店内の飴色の壁へと散らす。その眩い光のグラデーションは、風が止むと共に、ほんの数秒で儚く消え去ってしまったけれど。


ゆらの胸の最深部に灯ったその温かな虹の余韻は、外のどんな夏の輝きよりも、ずっと、ずっと長い時間、消えることなく残り続けていた。


スピーカーからは、ドビュッシーの『月の光』が、二人の静かな別れの時間を惜しむように、優しく、どこまでも美しく響き渡っていた。

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