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恋の名前

その日、莉瀬ゆらは店にやって来なかった。


朝からしとしとと降り続く初夏の雨は、止む気配も見せないまま、胡蝶雲憩の古い窓ガラスを無数の透明な雫となって静かに伝い落ちている。


詩音はいつもの席――薄紫色の紫苑の刺繍が施されたアンティークの椅子に、所在なげに腰掛けていた。


目の前には、キリコさんが淹れてくれた、主を失って静かに湯気を立てる深煎りの珈琲。


そして、木目のテーブルの上には、一冊の古い古書がぽつんと広げられていた。その行間に、一枚の繊細な栞が、居心地良さそうに挟まっている。


透明なフィルムの中に閉じ込められた、純白の鈴蘭の押し花。


先日、この店でゆらが少し耳の端を赤くしながら、「使ってください」と手渡してくれた、彼女の手作りの贈り物だった。


詩音は本を読むわけでもなく、ただ指先でその栞の滑らかな角を、愛おしそうに何度も何度もなぞっていた。


「――あら。その、ずいぶんと嬉しそうな顔をして見つめている栞」


不意に、静寂を弾くように頭上から涼やかな声が降ってきた。


驚いて振り返ると、そこにはいつの間にか店に入ってきていた常連客のの星埜雅が立っていた。


今日の彼女は、夏の終わりの寂しげな雨の日に華を添えるような、淡い灰桜色の美しい木綿の着物姿。


帯には、季節の終わりを惜しむように小さな紫陽花の細やかな刺繍が施されており、相変わらず肩の力が絶妙に抜けた、彼女らしい粋な佇まいだった。


「……それはもしかして、莉瀬さんからいただいたものなんですか?」

「えっ? ……どうして、それを」

「ふふ、どうしてって、あなたのその締まりのないお顔に、ぜんぶ『莉瀬さんから貰いました』って書いてありますよ」


雅はキリコさんにいつものアッサムの紅茶を注文しながら、悪戯っぽくクスリと笑った。


「そんなに……そんなに分かりやすいですか、僕」

「ええ、一目瞭然です」


少しの迷いもない即答だった。詩音は完全に形勢不利を悟り、丸眼鏡の位置を直しながら困ったように苦笑した。


雅は薄布の袖を揺らしながら、ゆらの指定席である向かいの窓際の席へと腰掛けた。しばらくの間、トタン屋根を叩く静かな雨音だけが、二人の間に心地よく流れ続ける。


やがて。雅は運ばれてきた紅茶のカップを両手で包み込みながら、ぽつりと、あまりにも自然に問いかけた。


「――薪原さん、莉瀬さんのこと、好きなんですか?」


詩音はあまりに突飛な角度から飛んできた刃に、持っていたカップの手を震わせ、危うく珈琲を不様に吹きそうになった。


「はい……? 一体、急に何を仰るんですか、星埜さん」

「何って、そのままの意味ですよ。莉瀬さんのこと、好きなんでしょう?」


雅は、明日の天気の話でもするかのように、至極淡々と、気負いのないトーンで言う。


「ち、違いますよ。そんな変な誤解をしないでください」

「へえ、違いますか」

「違います。本当に」

「へえ、そうですか」


言葉とは裏腹に、彼女の涼やかな瞳は、一ミリだって詩音の反論を信じていなかった。詩音はこれ以上の追及を免れるように、慌てて視線を窓の外の歪んだ灰色の景色へと逸らす。


硝子窓の外では、まだ雨が静かに降り続いている。


「……僕たちはただ、本の話や好みの作家の傾向が、少しだけ合う、ただの読書仲間というだけです」

「そうですか」

「そうです」

「――じゃあ、仮に私がその鈴蘭の栞をあなたに差し上げたとして、あなたは今みたいに、世界の宝物でも見つめるような、そんな甘苦しいお顔になりますか?」


詩音は、完全に言葉を詰まらせて黙り込んだ。雅はアッサムの紅茶を上品にひと口だけ、ゆっくりと喉に流し込む。


「……ならないでしょうね、絶対に。私じゃ、駄目なんです」


完璧な論理による王手だった。詩音には、もう何一つとして反論できる言葉が残されていなかった。


雅はさらに楽しそうに、彼の退路を完璧に塞ぐようにして言葉を続ける。


「それに、莉瀬さんがこの店にやってくる水曜日や雨の日、薪原さんはカウンターの上の古い柱時計を見る回数が、いつもの倍以上に増えていますよ」

「見ていません」

「いいえ、見ています」

「見ていませんよ、そんなこと」

「見ています。私、この席からずっと数えていましたから」


またしても即答だった。詩音は完全に降参し、がっくりと肩を落とした。誤魔化すように珈琲を口に含む。苦い。今日キリコさんが淹れてくれたブレンドは、なぜだかやけに、胸の奥が痛むほどに苦く感じられた。


「別に……」


詩音はカップの縁を見つめたまま、ぽつりと小さく呟いた。


「ただ、ほんの少しだけ、気になっている……というだけです」

「おや、彼女の何が、そんなに気になりますか?」

「小説を書く人って、なんだか独特で、変わっているなとか。……その、観察対象として」

「へえ」

「あと――」


言葉が、不意に止まってしまう。雅は、逃げ道をすべて塞ぐチェスのプレイヤーのような目で、楽しそうに次の言葉を待っている。


「……いつもはあんなに物静かで、他人に気を遣っている人が、僕の貸した本の話をする時だけ、本当に……本当に嬉しそうに、目をきらきらと輝かせて物語を語ってくれる、あの、子供みたいな顔とか……」

「へえ」

「……」

「へえ、なるほどねえ」


もう、勘弁してほしい。詩音は片手で自分の額を深く押さえ、耳の端まで真っ赤になっているのを隠すようにして俯いた。


雅はそれを見て、心底満足そうにクスクスと肩を揺らして楽しんでいた。


カウンターの奥で、それまで静かに流れていたレコードの盤面が、心地よい機械音を立てて次の曲へと切り替わった。


スピーカーの奥から流れ始めたのは、ショパンの『ノクターン第20番 嬰ハ短調』。


遺作として遺された、あまりにも静かで、あまりにも物憂げな、ピアノの美しい独奏曲。雨の日の胡蝶雲憩のセピア色の空気に、これ以上ないほどにしっとりと溶け合う、切ない旋律だった。


詩音は、ショパンのピアノを耳にしながら、テーブルの上の鈴蘭の栞を再び見つめる。


白い、小さな、静かな花。ゆらが、自分の本棚の中から、自分の時間の中から、他ならぬ「僕のために」と、指先を震わせながら作って、手渡してくれた、世界に一つだけの結晶。


ただ、それだけのこと。文字にしてしまえば、それだけのことなのに。


どうしてだろう、彼の胸の奥のいちばん柔らかい場所が、まるで真夏の太陽の光を浴びたように、じんわりと、熱く温かくなっていく。


「――……ああ」


その時、詩音は、自分の胸の中で音を立てて崩れ落ちた、決定的な感情の正体を、不意に完璧に理解してしまった。


ショパンのピアノの旋律が、彼の心の奥底に眠っていた本当の名前を、優しく呼び覚ましたかのように。


向かいに座る雅が、すべてを察して、本当に優しく微笑んだ。


「ふふ。ようやく、ご自分の心に気づきました?」


詩音は、もう何も答えなかった。いや、答える必要なんて、どこにもなかった。答えなくても、自分の魂が、その理由を何よりも明確に叫んでいたからだ。


毎日、月夜猫の天井まで届く棚の間で、古い古書を整理している時。薄暗い古書市場の片隅で、世界の誰よりも面白い、素敵な本を見つけ出した時。


そして、この胡蝶雲憩の真鍮の扉がからんと鳴り響き、湿った風が店内に滑り込んできた、そのすべての瞬間。


自分が、いつも一番最初にその頭の中に思い浮かべていたのは、一体、誰の姿だっただろう。


この新しく見つけた面白い物語を、真っ先に「誰に話したい」と、その声で聴かせたいと願っていただろう。


その人が、自分の前でふっと柔らかく笑ってくれた時、どうしようもないほどの幸福感で胸を満たされていたのは、誰の笑顔のせいだっただろう。その問いに対する答えは、最初から、この世界に一人しかいなかったのだ。


淡い茶色のボブカットと色素の薄い目。少し高めの背丈に長くて綺麗な指。


その彗星を束にして作った花火のような声でさえもう自分は惚れ込んでいるのだと。


雅は、空になった紅茶のカップをそっとソーサーへと戻した。


「――立派な、恋ですね」


詩音は、ふっと小さく声を立てて笑った。自分の築いていた頑なな防壁が、彼女のその綺麗な一言によって、完全に崩れ去ってしまったことを認めるように。


これ以上ないほど潔く、降参するように、観念するように。窓の外では、季節を次の季節へと押し流す雨が、今も静かに街を濡らし続けている 。


胡蝶雲憩の飴色の本棚。店内に低く満ちる、香ばしい珈琲の香り。そして、自分の手のひらの上にある、愛おしい鈴蘭の栞。


――そして。まだ、自分のこの狂おしいほどの想いを、何も知らない。


けれど……もう、どうしようもないほどに、世界の誰よりも好きになってしまった、あのひと。


詩音は、愛おしそうに目を細めると、手元に広げていた古い古書のページの行間へと、その白い鈴蘭の栞を、そっと、優しく挟み直した。


それはまるで、世界の何よりも壊れやすくて、何よりも大切な自分の恋の名前を、誰にも見つからないように、静かに本の中に仕舞い込むかのような、ひどく慎重で、誠実な所作だった

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