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追憶

夏は、歩みを緩めることなく少しずつ、けれど確実に深まっていた。


街を包む蝉の声は日に日にその音量を増して狂おしく響き渡り、空を焦がす夕暮れの色も、どこか濃く切ないグラデーションを帯びていく。


その日、ゆらはいつもの胡蝶雲憩ではなく、詩音の古本屋、月夜猫へと向かう静かな路地の中で、不意に足を止めた。


時が止まったような古い煉瓦塀の脇。雑草に紛れるようにしてひっそりと佇む、名前も知らない小さな空き地。


そこに、涼やかな紫色の花が、寄り添うように群れて咲いていたのだ。細く繊細な花弁。夕暮れの光に溶けてしまいそうな柔らかな紫。


生ぬるい夏の風が吹き抜けるたび、細い茎がサラサラと音を立てて儚げに揺れている。それはどこか、世界の片隅で息を潜めているような、不思議な佇まいを持つ花だった。


「――紫苑」


背後から、滑り込むようにして静かな声がした。驚いて振り返ると、そこにはいつの間にか、薄手のサマーニットを纏った詩音が立っていた。


「あ……驚いた。急に声をかけるから、心臓が止まるかと思いました」

「ふふ、すみません。驚かせるつもりはなかったんですけれど」


全然悪いと思っていないような、少年のような顔で悪戯っぽく笑う。その無防備な笑顔につられて、ゆらの口元からも自然と笑みがこぼれた。


「この前好きだと言っていましたよね。植物にも詳しいんですね、薪原さんは」

「いえ、そんなに詳しくはないですよ。ただ、昔……母がこの花をとても好きだったので、よく覚えているんです」


その言葉に、ゆらは胸の奥で少しだけ引っかかるものを感じた。


出会ってからそれなりの時間が経つというのに、詩音は母親の話をほとんどしたことがない。というより、自分の家族や生い立ちについての話を、彼は意識的に避けるようにして生きてきたように思えたからだ。


だからこそ、その何気ない一言は新鮮で、少しだけ意外だった。二人は並んで立ち尽くし、ただ静かに目の前の花を見つめた。


傾きかけた真夏の夕陽が、薄い紫色の花弁を淡く透かし、まるで花そのものが内側から発光しているかのように幻想的な美しさを放っている。


「莉瀬さん、この花の花言葉……知っていますか?」


詩音が、風に揺れる花を見つめたまま尋ねる。


「いいえ、知らないです」


「――『追憶』、です」


ゆらはもう一度、その慎重に咲く紫の花を見つめた。追憶。過ぎ去った日々を、美しく思い出すこと。どうしても忘れられない、大切な記憶の残像。


「……なんだか、すごく、薪原さんらしい花ですね」


ぽろりと、胸の奥に浮かんだ感想がそのまま口から零れ落ちていた。詩音は驚いたようにパチパチと目を瞬かせ、丸眼鏡の位置を少しだけ直した。


「そうですか? 僕らしい、ですか」

「はい。なんとなく、ですけれど」

「……そんな風に言われたのは、生まれて初めてかもしれません」


詩音は少し困ったように、けれどどこか嬉しそうに目を細めて笑う。二人は再び、夕暮れが迫る『月夜猫』へ向かう静かな道を歩き出した。頭上からは、相変わらず激しい蝉時雨が降ってきている。


夏の終わりを告げるには、まだ季節は早すぎるはずだった。


けれど、長く伸びる二人の影と、朱を帯びた夕暮れの光だけは、ほんの少しずつ、秋の足音へと近づいているようだった。


「そういえば」


ゆらは並んで歩きながら、胸の奥にくすぶっていた問いをふと思い出して口にした。


「薪原さんの……そのバイオリンの先生って、本当はどんな方だったんですか?」


詩音が、ふっと歩みを止めた。丸眼鏡の奥の瞳が、驚きに微かに揺れる。


「先生、ですか?」

「はい。以前、少しだけお話ししてくださった、亡くなられたという恩師の方です」


あの日、雨の喫茶店でほんの少しだけ聞いた、彼に音楽を教えてくれた大切な人の話。あの時は踏み込みすぎるのが怖くて、それ以上は聞かなかった。


けれど、今日この紫苑の咲く夕暮れの中では、どうしても彼の過去の輪郭に、もう少しだけ触れてみたいと思ってしまったのだ。


詩音はしばらくの間、何も言わずに思索にふけるように視線を落とした。


その沈黙は、ゆらにとって、彼が答えるべきかどうかを迷っている時間のように見えて少しだけ緊張した。


「……とても、厳しい人でした」


やがて、詩音はゆっくりと再び歩き出しながら、声を落として言った。


「でも。世界の誰よりも、優しい人でしたよ」

「なんだか、私の藤音先生と、少し似ていますね」


ゆらが言うと、詩音はふっと懐かしそうに笑った。


「ええ。莉瀬さんのお話を聴いていると、本当に、僕の先生とよく似ているなと思います」


少しだけ、二人の足音が重なる。そして、彼は自らの細くしなやかな指先をじっと見つめながら、言葉を繋いだ。


「僕が……あんなに息苦しい世界の中で、それでもバイオリンを嫌いにならずに続けられたのは、完全に先生がいてくれたおかげだったんです」


その言葉の輪郭には、単なる思い出話とは違う、血の通った重みがあった。だからこそ、ゆらは相槌を打つことも忘れ、ただ彼の静かな声に全神経を傾けて、黙って聞き入った。


「実は、僕の父は……音楽に対して、ひどく冷徹で、厳しい人だったんです」


風が強く吹き抜け、遠くの空き地で紫苑の花たちが一斉にざわざわと揺れた。


「厳しい、というのは……コンクールの結果、ですか?」

「ええ。プロセスなんてどうでもいい、結果しか見ない人でした」


詩音の声は、どこまでもフラットで、静かだった。けれどそれは、激しい感情の波を、心の奥底で必死に抑え込んでいるようにも聞こえた。


「コンクールでも、発表会でも、とにかく『一番じゃなきゃ意味がない』って、それが父の口癖でした。二位以下は、全員負け犬と同じだと」


ゆらの胸の奥が、まるで自分の傷口を直接触られたかのように、ズキリと小さく痛んだ。


その感覚を、その張り詰めた息苦しさを、ゆらは痛いほどによく知っている。形や言葉は違えど、自分もまた、音楽という名の絶対的な評価の嵐に巻き込まれ、窒息しかけていたあの日を知っているからだ。


「僕は、ただ純粋にバイオリンが好きだったんです。その木箱から鳴る音が、愛おしくて仕方がなかった。……好きだったのに、父の顔を見るたびに、だんだん楽器を持つことそのものが怖くなっていった」


夕陽の赤い残光が、詩音の静かな横顔を真っ直ぐに照らし出している。


それは、ゆらが今まで見たことのない表情だった。愛おしい過去を慈しむような、けれど、もう二度と戻らない場所に置いてきてしまった何かを遠くから見つめているような、少しだけ寂しそうな、ひどく遠い顔。


「そんな時、先生は僕に、よく言ってくれたんです」


詩音が、ふっと目元を和らげて笑った。本当に、愛おしい記憶を抱きしめるように。


「『詩音、コンクールの順位なんてどうでもいいのよ。あなたがただ、その楽器を、音楽を、好きでいてくれさえすれば、私はそれだけでいいの』って」


その言葉を聴いた瞬間、ゆらの脳裏に、あの日手紙をくれた藤音先生の温かな面影が、鮮烈に蘇ってきた。


どれだけ練習してもうまく弾けなかった日。コンクールのプレッシャーに押しつぶされ、泣きながらレッスン室を飛び出してしまった日。


藤音先生はいつも、血相を変えてゆらを追いかけてきてくれて、小さな肩を抱きしめながら、ただこう言ってくれたのだ。


『ゆらちゃん、音楽を、嫌いにならないでね』


順位でもない。結果でもない。ただ、音楽そのものを、嫌いにならないでね、


と。二人はそれから、しばらくの間何も言わずに、ただ静かに並んで歩いた。夕暮れの街並みに、二人の長い影が寄り添うように伸びていく。


それは、安易な慰めの言葉など何一つとして必要のない、ひどく優しく、濃密な沈黙の時間だった。やがて、路地の向こうに『月夜猫』の小さな佇まいが見えてきた。


満月を抱く黒猫の木製の看板。セピア色のランプの光を微かに漏らす、古びた硝子窓。


「――そういえば」


路地の向こうに『月夜猫』の静かな佇まいが見えてきたその時、ゆらはふっと思いついたように声を上げた。


「紫苑の花、あの『胡蝶雲憩』の椅子に施されている刺繍と、まったく同じですね」


いつも詩音がごく自然に腰掛けている、薄紫色の花が編み込まれたアンティークの椅子。詩音は丸眼鏡の縁を少しだけ指先で押し上げ、ふっと穏やかに笑った。


「ええ、本当にそうですね」

「やっぱり、それだけその花が好きだからですか?」


何気ない世間話のつもりで、軽いトーンで聞いた問いかけだった。けれど、詩音はその瞬間、まるで言葉の重さを測るように一瞬だけ静かに口を閉ざした。


そして、長く伸びた自らの影を見つめながら、ぽつりと静かに告げた。


「……好きだから、というよりは、もう二度と忘れたくないから、かもしれません」


その声のあまりの静けさと、そこに宿るかすかな切なさに、ゆらはそれ以上言葉を重ねることができなかった。


これ以上は踏み込んで聞いてはいけないのだと、彼女の作家としての、そして一人の人間としての直感が強く警鐘を鳴らした気がした。


ただ、彼の残していったその言葉だけが、夏の生温かい夕風に混ざって、ゆらの胸の最深部へと深く、深く残る。


忘れたくない。彼がそう強く願う、その対象は誰なのだろう。彼が手放したくないと祈る、その記憶は何なのだろう。その明確な答えは、今のゆらにはまだ何も分からなかった。


けれど、きっと。人間という生き物は、自分自身の魂の一部になってしまうほどに大切だったものほど、どれだけ時が流れても、どんなに傷つくことになっても、決して手放すことなどできないのだろう。


二人の背後で、名前も知らない空き地に群生していた紫苑の花が、夕闇の迫る風に吹かれてさらさらと優しく揺れていた。


それはまるで、彼らが抱える誰にも言えない遠い記憶の数々を、外の世界からそっと守り続けているかのようだった。

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