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薔薇色の棘のある記憶

夏の夕暮れという時間は、いつだって不思議な寂しさを孕んでいる。


昼間はあれほど生命力に満ちて賑やかだった世界が、影が長く伸びるにつれて、少しずつ、けれど確実に静寂へと沈んでいく。


鼓膜を震わせていた狂おしい蝉の声も、いつの間にか遠くの梢へと退いていく。空の天井は、鮮やかな青から燃えるような茜色へ、そして深い紫のグラデーションへと移り変わっていく。


世界がその色彩を失っていく一日の終わりだけが、砂時計の砂のように、ゆっくりと、贅沢に流れていた。


その日、ゆらと詩音は、街を南北に貫く大きな河川敷を並んで歩いていた。あらかじめ時間を決めて待ち合わせをしたわけではない。


いつものように胡蝶雲憩のセピア色の空間で偶然顔を合わせて、珈琲を飲み終えたあと、どちらからともなく「少し歩きませんか」と誘い合い、なんとなく一緒に出てきただけだった。


川上から、乾いた夏の風が吹き抜ける。さらさらと音を立てて波立つ川面が、西日に反射してきらりと黄金色に光った。


それはまるで、誰かが空から夕陽をそのまま溶かして流したかのような、ひどく濃厚で、美しい朱色だった。


「――最近、お仕事のほう……『月夜猫』はどうですか?」


ゆらが、歩調を合わせながら何気ないトーンで尋ねる。


「相変わらずですよ」

「ということは……やっぱり、相変わらず暇なんですね」

「ええ、困ったことに、すこぶる暇ですね」


どちらからともなく、小さく声を合わせて笑う。最近、二人の間にはこういう会話が目に見えて増えていた。何かのプロットに役立つわけでもない、意味のない会話。相手に明確な結論を求めない、他愛のない会話。


けれど、胸の奥をじんわりと温めてくれる、どうしようもなく心地良い会話。


かつての、他人に対して常に心の壁を何重にも築いていたゆらなら、到底考えられないことだった。誰かと沈黙を共有して、その時間が一秒たりとも苦にならないなんて、あの日音楽を失ってからは初めての経験だった。


川沿いの傾斜には、先日の空き地と同じように、野生の紫苑がひっそりと群生して咲いていた。


細い花弁が夕陽の残光を受けて、本来の薄紫よりも、少しだけ赤みがかって温かそうに見える。ゆらは、その花の前でふっと足を止めた。


「……やっぱり、こうして見ても、本当に綺麗ですね」

「紫苑、ですか」

「はい」


詩音もまた足を止め、風にそよぐ花へと視線を落とした。


その丸眼鏡の奥の横顔は、やはりどこか遠い季節を慈しむように、ひどく懐かしそうだった。


その、どこか浮世離れした彼の輪郭を見つめているうちに、ゆらは、以前からずっと胸の奥底で、かすかな違和感として気になっていたことを不意に思い出した。


「――そういえば、薪原さん」

「はい?」

「……薪原さんって、本当に、お名前は『薪原さん』なんですか?」


言葉が唇を離れた瞬間、ゆらは自分自身の唐突な問いかけに、ハッとして息を呑んだ。詩音もまた、意表を突かれたように大きく目を瞬かせ、動きを止めた。


自分でも不思議だった。なぜ、今このタイミングで、そんな立ち入った質問を投げかけてしまったのか。


たぶん、目の前で夕陽に透ける紫苑の花を見ていたから。その花がまとう『追憶』という切ない言葉を、胸の奥で反芻してしまったから。ただ、それだけのはずだった。


しばらくの間、二人の間に重い沈黙が落ちる。ざざあ、ざざあ、と、足元を流れる川の緩やかな水音だけが、世界の唯一の音であるかのように響いていた。


やがて。詩音は困ったように、けれど諦めたように小さく笑った。


「……莉瀬さんは、本当に鋭いですね」


その笑顔は、どこか自嘲気味で、ひどく脆そうに見えた。


「……違う、んですか? そのお名前は」

「ええ、違います。本当の僕の苗字は、薪原ではありません」


あまりにもあっさりとした、潔い返事だった。ゆらは驚きにパチパチと目を瞬く。


詩音はそれ以上ゆらの顔を見ようとはせず、ただ足元の紫苑の葉へと視線を落とした。


「本当の、僕の生まれ持った名前は――」


生温かい風が吹き抜け、紫の花弁が一斉にざわざわと揺れる。その風の音に混ざるようにして、彼は言った。


「『小唄』、と言います」


ゆらは、その初めて聴く響きを、心の中で何度も何度も、壊れ物を扱うように繰り返した。


小唄。小唄詩音。どこか、一編の美しい歌曲のタイトルをそのまま冠したかのような、ひどく繊細で、風雅な名前。それは、目の前に佇むこの青年の持つ、静かで優しい雰囲気に、恐ろしいほどに似合っていた。


「じゃあ……どうして、今は『薪原』という別の名前を名乗っていらっしゃるんですか?」


ゆらの問いに、詩音は少しだけ顎を持ち上げ、茜色に染まる高い空を見上げた。燃えるような夕暮れの色が、彼の丸眼鏡の硝子に、そしてその奥の綺麗な瞳に、鮮やかに映り込んでいる。


「……捨てられなかったんです、どうしても」


静かな声だった。ゆらは何も言わず、彼の言葉を遮らないように、ただ次の言葉をじっと待った。


「僕がまだ学生の頃、両親が離婚しましてね。本当なら、僕は父の籍を離れて、母の元の姓を名乗るはずだったんです。小唄、という名前のままで。それが、僕の本当の名前になるはずだった」

「……」

「けれど……僕は今も、あえて父の姓である『薪原』を名乗って、この街で生きている」


初めて聴く、彼の複雑な家庭の、そして人生の断片だった。


「父とは、あの離婚の日以来、今もほとんど会っていません」


そう語る彼の言葉の端々には、普段の穏やかな彼からは想像もつかないような、冷たい棘が含まれていた。


薔薇色の記憶には小さい、けれど決して抜けない棘が刺さっている。


「……音楽に対して、ひどく冷徹で、厳しい人だったからですか?」


ゆらが先日の会話をなぞるように静かに重ねると、詩音は力なく苦笑した。


「厳しいというか……あの人は、僕という人間ではなく、ただ『音楽』しか見ていなかったんです。僕の奏でる、バイオリンの音の価値しか」


夕陽が、ゆっくりと対岸の山際へと落ちていく。世界はその赤みを増し、二人の境界線を曖昧にするように、すべてを濃い茜色へと染め上げていく。


「コンクールで一番を取ること」

「他人に勝って、トロフィーを持ち帰ること」

「あの人の頭の中にあったのは、いつでもそういう、数字で表せる結果のことばかりで……」


ゆらの胸の奥が、今度は引き裂かれるように激しく痛んだ。知っている。その息苦しさを。


その、誰のために弾いているのか分からなくなるような、底なしの恐怖を。形は、そして置かれた境遇は違っても、自分もまた全く同じ嵐の中で溺れ、息の根を止められたのだと、痛いほどに知っていた。


「だから――僕は、嫌いなんです」


詩音は遠くを見つめたまま、ぽつりと言った。


「あの、僕を追いつめた父のことも」


一拍。まるで、自分の胸に冷たい刃を突き立てるかのような、痛切な一瞬の沈黙。


「……そして、あの人が僕に強要した、この『音楽』というもののことも」


その言葉は、川面を渡る夏の風にかき消されてしまいそうなほど、ひどく小さく、儚い響きだった。


けれど、遮るもののない河川敷の中で、ゆらの耳には、それがまるで絶叫のようにはっきりと、痛烈に聞こえていた。


スピーカーのないこの河川敷で、ゆらの耳の奥には、いつの間にかシューベルトの『未完成交響曲』の、あの重厚で悲劇的なオーケストラの旋律が低く鳴り響いているような気がした。


途中で断ち切られ、完成することを許されなかった、悲しい音楽の残像。


けれど。ゆらは、夕陽の光の中で少しだけ肩を震わせている彼の横顔を、じっと見つめながら、胸の奥で静かに首を振った。


いま、音楽を「嫌いだ」と拒絶した彼のその表情は、本当にそれを憎んでいる人間の顔では、決してなかったからだ。


もし、本当に音楽のすべてを憎み、過去として綺麗に捨て去ることができているのなら。


そんな、今にも泣き出しそうな、傷ついた子供のような顔をして、夕陽を見つめたりはしないはずだ。『月夜猫』の片隅に、あんなに大切に読み込まれた音楽の本棚を残したりしない。


『胡蝶雲憩』の古い扉を押し開けて、クラシックの流れるあの空間に、何度も何度も通い詰めたりしない。


ドビュッシーやシューマンの旋律が流れるたび、愛おしそうに耳を傾けたりしないはずなのだ。


それなのに。詩音は、まるで自分自身の魂に重い呪いを言い聞かせるかのように、ただ頑なに「音楽が嫌いだ」と、言葉の檻の中に自分を閉じ込めようとしていた。


その姿は、他でもない、藤音先生からの手紙を鞄に隠したまま、ピアノから逃げ回り続けている自分自身の姿と、あまりにも残酷なほどに、美しく重なり合っていた。


二人の長い影は、夕闇に溶けていく川の土手の上で、どこまでも切なく、寄り添うように重なり続けていた。


「――じゃあ、どうして」


ゆらはたまらず、溢れる疑問をそのまま言葉にして尋ねていた。


「本当なら小唄になるはずだったのに、どうして今も、お父様の『薪原』という名前のまま、ここで生きているんですか」


詩音はふっと笑った。けれど、今度の笑顔は、これまでに見たどの表情よりも、ひどく儚く、寂しそうに歪んでいた。


「……楽しかったからです」


ゆらは、不意に胸を突かれたように、一瞬だけ息を止めた。


「あの名前を名乗っていた頃……まだ僕が小さくて、父がただ純粋に僕の音を喜んでくれていた頃、家族みんなで演奏会へ行ったこととか」

「……」

「母が作ってくれた、あのお弁当の味とか」「……」

「その帰り道に、みんなで並んで歩いた、あの夕暮れの景色とか」


夕暮れの残光が川面に乱反射し、二人の瞳を赤く、優しく揺らしている。


「あの頃の、僕がバイオリンを世界で一番愛していた頃の記憶の全部が、あの『薪原』という名前の中にしか、残っていないので……」


しばらくの間、言葉のない重い沈黙が続いた。


ざざあ、ざざあ、と、足元を流れる川の、どこまでも不変な水音だけが、二人の足元を通り過ぎていく。


その静寂の中で、ゆらは胸の奥深くで、ある一つの真実にたどり着いていた。


人間という生き物は、案外、ただの「嫌な思い出」や「憎しみ」だけでは、それほど深く傷つくことも、苦しむこともないのかもしれない、と。


本当に全部が嫌いなら、とっくの昔にすべてを綺麗に捨て去ることができているはずだ。本当に全部が憎いだけのものなら、何の未練もなく、その存在すら忘れることができている。


でも、そうではないのだ。傷つけられるよりもずっと昔に、それを心から「好きだった」という鮮烈な記憶があるから。


壊されてしまうよりも前に、言葉にできないほど「幸せだった」という豊かな時間があったから。


だからこそ、どんなに冷たく裏切られても、人はどうしても、その原風景を、名前を、手放すことができないのだ。


「――中途半端、ですよね、僕のやっていることは」


詩音が、自嘲気味に肩をすくめて力なく笑う。


「そんなこと、ないです」


ゆらは、間髪入れずにすぐ答えていた。自分で驚くほど、強く、真っ直ぐな声だった。詩音が意外そうに、丸眼鏡の奥の瞳を大きく瞬かせてゆらを見つめる。


「……私も」


言いかけて、ゆらは言葉を一度止めた。あの楽屋の冷たい空気のこと。ピアノのこと。コンクールの数字のこと。


まだ、自分の抱える傷の全容を、すべて物語として紡ぎ出すほどの勇気は出なかった。けれど。


「私にも……どんなに傷ついても、どうしても捨てられないまま、鞄の奥に隠し持っているものがあります」


それだけは、真っ直ぐに彼の瞳を見つめて、伝えることができた。詩音は、それ以上の理由を何一つとして詮索しようとはしなかった。


「何を持っているの?」とも、「どうして?」とも聞かない。


彼はただ、ゆらの言葉の重みをそのまま受け止めるように、深く、静かに一度だけ頷いた。


その、言葉を超えた確かな頷きだけで、今のゆらには、もうこれ以上ないほどに十分だった。


太陽は、対岸の山際の向こう側へと完全に沈みかけている。空の天井は、鮮やかな茜色から、夜の帳を連れてくる深い群青色へと、少しずつ、劇的に変わり始めていた。


静かな夜が始まる帰り道。ゆらは、並んで歩く詩音の少し不器用な歩幅を見つめながら、ふと思った。


人間が、誰かを「好きになる」ということは。


その人の、世界の誰もが羨むような眩しく輝かしい部分を知ることではなく。その人が、どれだけ歳月が流れても決して手放せずにいる、心の奥底の歪んだ『痛み』の在処を、そっと知るということなのかもしれない、と。


川上から、少し冷たさを帯びた夜の風がふわりと吹き抜ける。土手の斜面に群生していた紫苑の花たちが、一斉に首を振るようにして、サラサラと寂しげな音を立てて揺れていた。


その『追憶』という名を持つ可憐な花は、完全に夜へと沈みゆく夕暮れの中で、二人の歩みを静かに見守るように、どこまでも美しく、凛と咲き誇っていた。

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