プレリュード
七月の終わり。空は驚くほどに高く、そこに浮かぶ雲はどこまでも白かった。
夏という季節は本当に不思議だと、ゆらは思う。これから何か劇的なドラマが始まりそうな高揚感に満ちているのに、同時に、すべての美しい一瞬が砂のように指の隙間からこぼれ落ちて、何かが終わってしまいそうな、切ない予感にも満ちている。
その日の『胡蝶雲憩』は、いつもとは違って珍しく混み合っていた。
めったに重ならないはずの年配の常連客たちが何人か鉢合わせ、そこへ試作品の餡を抱えた雅も顔を出したため、セピア色の店内はいつもより少しだけ、お祭りの前日のような賑やかさに包まれていた。キリコさんもさすがに忙しそうにネルドリップを回している。
「なんだか、僕たちが店を追い出されてしまったみたいですね」
飴色の扉を閉め、外の熱気の中へと出ながら、詩音が苦笑交じりに言った。
「追い出されてなんていませんよ。キリコさんは『ゆっくりしていって』と言ってくれましたし」
「でも、僕たちの座る席がどこにもなかったですよ」
「それは……そうですけれど」
どちらからともなく顔を見合わせ、声を合わせて笑った。気づけば、こうして『胡蝶雲憩』の扉を後にしたあと、並んで街を歩くことが、自分たちにとっての当たり前の日常になっている。
最初は、あの雨の喫茶店で偶然隣り合わせるだけの、名前も知らない赤の他人だった。
次に、少しだけ本や音楽の話をするようになった。それから、おすすめの本を貸し借りしたり、雅の和菓子屋へ足を運んだり、静かな『月夜猫』を訪ねたり。
そうやって、お互いの物語のページを少しずつめくっていくうちに、いつの間にか、隣り合って同じ歩幅で歩くことが、世界で一番自然なことになっていたのだ。
二人の足は、自然といつもの広大な河川敷へと向かっていた。土手を吹き抜ける夕方の風は、日中の熱をさらっていくように涼しく、ひどく心地良い。
大きく蛇行する川の、緩やかな川面が、西日に照らされて一面の鮮やかな橙色に光っていた。
まるで世界中の光を集めて溶かしたようなその輝きを遠くに見ながら、対岸の緑地では、夏休みに入った子どもたちが歓声を上げてボール遊びに興じている。
「――莉瀬さん、新作の原稿のほうはどうですか?」
詩音が、歩調を合わせながら穏やかな声で尋ねた。
「全然、です。一文字も進んでいません」
「おかしいですね、僕にはそんな風に行き詰まっている顔には見えませんけれど」
「ふふ、作家というのは、心の中でどれだけ嵐が吹き荒れていても、平気な顔をして嘘をつく生き物なんですよ」
「それは怖いですね」
「ええ、すごく怖いですよ。近づかない方がいいです」
そんな、なんの役にも立たないような、たわいもない会話。なのに、どうしてこんなにも、胸の奥が温かく楽しいのだろう。
ゆらは、ほんの数ヶ月前の、孤独だった自分自身の姿をそっと思い出していた。あの頃の私は、部屋に閉じこもって、他人の書いた小説ばかりを読み、自分の紡ぐ小説ばかりを書いていた。
誰かと時間を共有して心をすり減らすより、ずっと一人で暗がりにいる時間の方が好きだった。
いや。一人でいる方が、圧倒的に「楽」だったのだ。誰の言葉にも傷つかなくて済むから。誰の視線にも、余計な期待をしなくて済むから。
けれど、今はもう、明らかに違っていた。『胡蝶雲憩』へ行く日の朝は、クローゼットの前で少しだけ時間をかけて服を選ぶ自分がいる。
『月夜猫』へ行く時は、彼が好きそうな新しい古本の背表紙を、無意識に本屋で探してしまう自分がいる。
そんな、他人のために自分の時間を使っている変化に気づくたび、ゆらは少しだけ照れくさくなり、原稿鞄の紐をぎゅっと握り直すのだった。
「莉瀬さんは、人生で一番好きな小説って、何かありますか?」
詩音が、風に髪を揺らしながら言った。
「いっぱいありますよ。一人の作家さんには絞りきれないくらい」
「じゃあ、その中から、どうしても一冊だけを選ぶなら?」
本を愛する者にとっては、これ以上ないほど意地悪で、難しい質問だった。ゆらは足を止め、茜色に染まり始めた高い空を見上げた。
どこまでも広く、深い青色の空。そこを、ちぎれた綿菓子のような白い雲がゆっくりと流れていく。
「……やっぱり、無理です。選べません」
「あはは、ですよね。愚問でした」
「じゃあ、薪原さんは? 一冊だけ選ぶなら何ですか?」
今度はゆらが、意返しのように彼に問いを投げる。詩音は少しだけ歩みを緩め、丸眼鏡の奥の瞳を細めて考え込んだ。
「たぶん――」
そして、自らの長い指先をリネンシャツのポケットに添えながら、静かに答える。
「タイトルではなくて、『これまでの人生で、何度も何度も読み返した本』です」
「タイトルじゃなくて、その行為そのものが一番なんですか?」
「ええ。タイトルよりも、僕にとってはそっちの事実の方が大切です」
ゆらはその理屈っぽくも実直な答えに、思わずクスリと笑った。本当に、どこまでもこの人らしい、誠実な答えだった。
「じゃあ、その本は今までに、何回くらい読み返したんですか?」
「そうですね……もう十回以上は、確実に」「それはもう、立派な『愛』ですね」
「ええ、きっと愛ですね」
また二人で、声を合わせて小さく笑う。川沿いの、紫苑の葉が茂る平坦な道を、二人はゆっくりと歩き続けた。
頭上の空は、一分ごとにその色彩を劇的に変えていた。燃えるような橙色から、妖艶な薄紫色へ。
そして、夜の帳を静かに引き連れてくる、深い、深い群青色へ。昼と夜の、光と影の、明確な境界線。世界がその輪郭を最も美しく、そして曖昧にする、そんな魔法のような時間だった。
ゆらは、自分のすぐ隣を歩く青年の横顔を見つめた。詩音が、何か楽しそうに、自らの愛する言葉を紡いでいる。
その横顔の表情は、ひどく柔らかかった。『月夜猫』の店主として、天井まで届く棚の間で本を熱っぽく語る時の顔。
『胡蝶雲憩』の客として、セピア色のランプの下で静かに珈琲を味わっている時の顔。そのどちらとも、少しだけ違う。
そこには何の虚飾もなく、ただ目の前にいるゆらに対してだけ開かれた、ごく自然な「ひとりの青年」の顔だった。
たぶん、今の自分も、彼とまったく同じ表情をしているのだろうなとゆらは思う。
肩の余計な力が、綺麗に抜けている。誰の前でもない、小説家としての莉瀬ゆらでもない、ただの一人の人間として、何も演じることなく呼吸ができている。
自分の傷を隠す必要も、他人の目を恐れる必要もない。ただ、この世界の美しい夕暮れを、隣にいる人と一緒に、そのまま受け入れることができる。
それは、あの日音楽を奪われてからずっと、凍りついていたゆらの時間が、本当に、静かに動き出したことを意味する、何よりも愛おしい境界線の時間だった。
「莉瀬さん?」
ふいに耳元へ滑り込んできた穏やかな響きに、ゆらはハッとして我に返った。気づけば、少し隣を歩く詩音が、丸眼鏡の奥の瞳を覗き込むようにしてこちらを見つめていた。
「……あ、すみません。また、聞いていませんでした」
「ふふ、珍しいですね」
「いえ、最近なんだか多い気がします、私」
自分のあまりの上の空ぶりに少しだけ落ち込むゆらを見て、詩音は声を立てて優しく笑った。
「何か、深い考え事ですか?」
「……たぶん、そんなところです」
本当は、違った。ゆらがその思考を埋め尽くされていたのは、世界に溢れる言葉や物語のことなどではなく、他でもない、いま自分のすぐ目の前を歩いている、この青年のことだった。
彼の紡ぐ静かな声の響きに。その穏やかな横顔の輪郭に。
けれど、そんな胸の内をそのまま曝け出してしまうことなんて、今のゆらには到底できなかった。まだ、言葉にするにはあまりにも眩しすぎて、怖かった。
川上から、少しだけひんやりとした夕暮れの風がふわりと吹き抜ける。河川敷に生い茂る青々とした草たちが、一斉にざわざわと波打つように揺れた。
風が運んでくるのは、日中の熱を帯びた土の香りと、草いきれが混ざり合った、どこまでも濃密な夏の匂い。
その時、遠くの並木道の梢から、カナカナカナ……と、どこか物悲しいひぐらしの鳴き声がぽつり、ぽつりと響き始めた。
世界が完全に夜へと移り変わる瞬間にだけ許された、切ない夕暮れの音だった。
「――綺麗ですね」
ゆらが、空と川の境界線を見つめたまま、祈るように呟いた。
「ええ、本当に、そうですね」
詩音も同じように歩みを止め、茜色から群青色へと染まりゆく高い空を見上げた。二人で、並んで、全く同じ景色を見つめている。ただそれだけのこと。
文字にしてしまえば、世界のどこにでもある、ありふれたただのひとコマ。それなのに、どうしてだろう。
ゆらの胸の奥底には、まるで温かい珈琲を注ぎ込まれたかのように、じんわりとした確かな熱が広がっていくのだった。
その時、ゆらは、自分の人生における重大な真実にそっと気がつく。あの日、音楽を奪われてからというもの、私は必死に小説を書いてきた。
他人の書いた無数の本を、貪るようにして読んで、言葉の檻の中に自分の身を隠してきた。けれど、そうやって言葉を尽くしても、どれだけ物語を紡いでも、どうしても手に入らなかったものが、いま、この場所にはあった。誰かと、ただ同じ瞬間に、同じ美しい景色を見つめるということ。
その、言葉にならない静かな共有は――。自分が原稿用紙に書き連ねてきたどんな美しい文章よりもずっと静かで、そして、どんな劇的な物語よりも、残酷なほどに確かだった。
太陽の最後の残光が、対岸の山際の向こう側へと完全に沈んでいく。黄金色に弾けていた川面は、一気に深い、深い群青色へとその色彩を沈めていった。
ゆらは、薄暗がりの中でさらにその存在感を増していく詩音の影を見つめながら、静かに思う。人間が、心の底から「会いたい」と願う人というのは。
自分の人生を劇的に変えてくれるような特別な誰か、などではないのかもしれない。今日、自分の身に起きた、本当に他愛のないささやかな出来事を。
一番に、その声で、その言葉で、ただ「話したい」と思える人のことなのだろう、と。その決定的な考えが脳裏に浮かんだ瞬間、ゆらの頭の中には、他でもない、いま自分のすぐ隣で静かに息をしている、この青年の優しい笑顔が真っ直ぐに浮かび上がっていた。
自分の恋心にも似た、けれどそれよりもずっと深い魂の引力に、ゆらは心底慌ててしまい、それを誤魔化すようにして、ぎこちなく夜空の始まりを見上げた。
梅雨が明けて、夏が本格的に始まったばかりの七月の終わり。季節の終わりを告げるには、まだまだ、あまりにも早すぎる。
けれど――ゆらの止まっていたはずの心のいちばん深い場所では、あのセピア色の扉を開いたあの日から、何かが静かに、けれどもう二度と止まらないほどの確かな熱を持って、始まろうとしていた。




