恋をしない人
その日は、夕方になっても胡蝶雲憩に詩音が姿を見せることはなかった。それは別段、珍しいことでもなんでもない。
彼には自分の城である月夜猫の仕事があるし、新しい古本の仕入れに遠方まで出かける日だってある。
もともと毎日ここで待ち合わせをしているわけでもないのだから、会えなくて当然だった。
それなのに。真鍮の扉のベルがからんと鳴り響くたび、ゆらは無意識のうちに、弾かれたように顔を入り口の方へと上げてしまうのだった。
そして、入ってきたのが全く見知らぬ別の客だと分かると、ほんの少しの落胆と共に、小さく肩の力を抜く。
――私は、あんなにも彼に会いたがっている。認めたくなかった自分の心の偏りを、もう誤魔化すことができないほど、ゆらははっきりと自覚してしまっていた。
「……それ、もう完全に重症ですねえ」
唐突に正面から降ってきた声に、ゆらは持っていたカップを落としそうになり、珈琲を不様に吹きかけそうになった。
「な、何がですか。急に大きな声を出さないでください」
「ふふ、何がですか、じゃありませんよ」
向かいの席に座る雅は、苺のティーカップを細い両手で包み込みながら、すべてをお見通しだと言わんばかりに楽しそうに笑っている。
今日の彼女は、真夏の夕暮れの海を思わせる、涼やかな薄藍色の木綿の着物姿。帯はざっくりとした素朴な生成りのものを合わせており、相変わらず大人の女性らしい、計算された肩の力が抜けた粋な着こなしだった。
「別に……」
「別に?」
「別に、誰かを待っているわけじゃ、ありません」
「へえ、そうなんですか」
雅は顎を少し引き、にこにこと目を細めている。こういう時の雅は、いつもの天真爛漫な姿とは違って、ひどく厄介だった。
こちらの心の防壁を、悪意のない笑顔のまま、絶対に引くことなくじわじわと突き崩してくる。
「本当に、薪原さんを待っているわけじゃないんですか?」
「……違います」
「そうですか」
言葉とは裏腹に、その表情は一ミリもゆらの反論を信じていなかった。
ゆらはこれ以上の抵抗を諦め、逃げるようにして手元の珈琲を口に含んだ。青磁色の縁取りを持つ、いつものすずらんのカップ。
けれど、今日その黒い液体は、いつもよりも少しだけ、胸が痛むほどに苦く感じられるのだった。硝子窓の外では、彼女の持ってきた風鈴が南風に揺れていた。
からん。それは、世界の静けさをいっそう際立たせるような、儚い夏の音だった。二人の間に、しばらくの間、言葉のない穏やかな沈黙が流れる。
キリコさんの淹れるアッサムの甘い香りが漂うその静寂を、不意に破ったのは、他でもない雅だった。
「――恋って、本当に不思議ですよね」
それは、普段の彼女からは想像もつかないような、ひどく低く、静かな声だった。
ゆらは驚いて顔を上げた。雅はもうゆらを見てはいなかった。薄藍色の袖を揺らしながら、ただ窓の外の歪んだ夏の景色を見つめている。
その涼やかな瞳は、どこか遠い、世界の果てのような場所をじっと見つめているかのようだった。
「……星埜さんは、その、誰かに恋をしたことは、あるんですか?」
少しだけ躊躇いながら、軽い世間話のトーンを意識して聞いた問いかけだった。
けれど。雅はふっと、自嘲するような、けれどどこか寂しげな笑みを唇の端に浮かべた。
「ないですよ」
「え?」
「一度も、これまでの人生でただの一度も」
ゆらは思わずパチパチと目を瞬かせ、言葉を失った。彼女がいつものように、冗談や悪戯を言ってこちらをからかっているようには、どうしても見えなかったからだ。
「好きな人、とか……その、気になる方とかも、いなかったんですか?」
「ええ、いませんでした」
「本当に……?」
「本当に」
雅は静かな所作で、アッサムの紅茶をひと口だけ、ゆっくりと喉に流し込んだ。
その一連の仕草はいつも通りに美しく気品に満ちているのに、なぜだか今日の彼女は、いつもよりずっと遠い世界の人に思えて、ゆらの胸が小さくざわめく。
「私がまだ、十代や二十代の若かりし頃はですね。あ、今も二十代ですよ!?」
雅が、遠くを見つめたまま言葉を紡ぐ。
「周囲の友人たちから、ずいぶんと『変な人』扱いをされましたよ」
店内には、いつの間にかスピーカーから、ラヴェルの『ソナチネ』の第2楽章が流れ始めていた。
メヌエットの、どこか古風で、切なくも静かなピアノの旋律。その、淡々と刻まれる音の粒子に混ざり合うようにして、雅の透明な声が静かに続いていく。
『いつかきっと、あなたにも素敵な好きな人ができるよ』
『雅ちゃんは、まだ本当の恋を知らないだけ』
『まだ、運命の人に出会っていないだけだから、焦らなくていいよ』
彼女はそう言って、ふっと小さく肩を揺らして笑った。自らの過去に、冷たい諦めの蓋をするかのように。
「みんな、悪気のない親切な顔をして、私にそう言うんですよ。テンプレートみたいに同じ言葉を」
ゆらは、何も言うことができなかった。彼女の言葉の裏にある、目に見えない孤独の深さに、小説家としての言葉が何一つとして追いつかなかった。雅は静かに続ける。
「でも、違ったんですよ。何年経っても、どれだけ素敵な男性に巡り会っても、私は誰かを、そういう『特別な意味』で好きになるという感覚が、どうしても分からなかった。心に、そんな感情の回路が最初から存在していないみたいに」
その言葉の輪郭には、不思議なほど悲しみや、自己憐憫の色はまったく混ざっていなかった。
彼女はただ、自分が生まれ持った「星埜雅」という人間の、厳然たる事実を、淡々と静かに語っているだけだった。
「それなのに――」
雅は薄藍色の着物の肩を、困ったように少しだけすくめてみせた。
「人間という生き物は、誰もがいつか必ず誰かに恋をする。そう思って疑わない、想像力の足りないバカが世界にはたくさんいたから。……だから私は、あのきらきらした世界の空気が、どうしても嫌だったんでしょうね」
アッサムのカップから、白い湯気がゆらゆらと揺れ、彼女の涼やかな横顔を仄白く遮っていく。
スピーカーから流れるラヴェルのピアノは、どこまでも冷徹で、けれど美しく、二人の間に落ちた沈黙を優しく、深く包み込んでいた。
ゆらは、いつも誰よりも明るく、自分の根っこを肯定してくれた雅という女性が、その眩しい笑顔の裏側にどれほど深く、他人に理解されない孤独の雨を降らせて生きてきたのかを知り、ただ胸の奥を激しく締め付けられるのだった。
からん。軒先の風鈴が、吹き抜けた風に揺れて鳴った。その透明な音色だけが、しじまを破るようにいつもより少しだけ大きく、店内に響き渡る。
ゆらは向かいに座る雅の姿を、じっと見つめていた。いつも私の前に現れる彼女は、底抜けに明るい人で。
伝統の和菓子を心から愛していて。大好きな着物を粋に着こなして。楽しそうによく笑う、太陽のような人。
けれど今、ゆらは、自分の知っているつもりだった雅の、誰も立ち入れない深い内側を、初めて覗き見たような気がしていた。
「――それが、どうしても嫌だった?」
「ええ」
雅は小さく、けれど迷いのない確かな所作で頷いた。
「恋をしないこと、そのものが嫌だったわけではないんですよ。恋をしない自分を、まるで『何かが足りない人』みたいに決めつけられるのが、たまらなく息苦しかったんです」
その言葉は、どこまでも静かだった。世界に対する激しい怒りでもなければ、誰かを責め立てる恨みでもない。
ただ長い、本当に長い時間をかけて、彼女の心の底へと静かに沈殿していった、透明な澱のような気持ちだった。
「だから、私は家を出たんですよ」「え……?」
「実家です」
雅は紅茶のカップをそっとソーサーへと戻し、さらりと言ってのけた。
「いつまでも家にいたら、早く結婚しろだの、あそこのお見合いを受けろだの、周囲がうるさくて仕方がありませんでしたから。私の言葉を、誰もそのまま聞いてはくれなかった」
あまりにも思い切りのいい、いかにも雅らしい潔い理由だった。
けれど、そうやって自分の生まれ育った場所を捨てて逃げ出すまでに、彼女の心がどれほど深く傷つき、どれだけの孤独と戦ってきたのかは、同じように音楽の世界から逃げ出してきたゆらには、痛いほど想像がついた。
「それで、この街で和菓子屋さんを?」
「はい」
雅はふっと笑う。今度は、いつものひまわりのように明るい、屈託のない笑顔だった。
「だって、練り切りは私に『恋をしなさい』なんて、絶対に言いませんから」
ゆらは不意を突かれ、思わずクスリと吹き出してしまった。
「ふふ、何ですか、それ」
「事実ですよ。餡も葛も、ただ私が真摯に向き合えば、その通りに美しく形を変えて、私を全肯定してくれます。それだけで、私の人生は十分に満ち足りているんです」
二人の間に、可笑しそうな笑い声が重なる。薄藍色の木綿の袖が揺れるたび、先ほどまで店内に満ちていた重苦しい空気の粒が、夏の陽射しに溶けるように少しずつ軽くなっていった。その時だった。
カウンターの向こう側、セピア色のランプの下でずっと古い本を読んでいたキリコさんが、穏やかな声を響かせた。
「――それで、良いじゃないですか」
二人が驚いて同時に振り向くと、キリコさんは広げていた本を静かに閉じた。
「好きなものがあるなら、それで良いのですよ」
その声はどこまでも穏やかで、そっと背中をさすってくれるような温かさがあった。
「人でも、本でも、音楽でも、和菓子でも」
老店主は眼鏡の奥の目を細め、慈しむような眼差しを二人に向けた。
「その胸の内に、どうしても大切にせずにはいられないものがあるのなら、それで十分にその人の人生は完成しています」
雅が、子供のように少しだけ照れたような顔をして、アッサムの湯気の中に視線を落とした。
「キリコさん、本当に、いつもそういうところですよね」
「おや、そういうところ、とは?」
「ずばり、ずるいところです」
キリコさんは不思議そうに首を傾げる。本当に、自分が何か特別な良いことを言ったという自覚がまったくない、そんな無垢な顔をしていた。
ゆらは、そっと視線を硝子窓の外の景色へと戻した。容赦なく石畳を焦がす夏の日差し。
風に揺れて、時折からんと涼やかな余韻を残す硝子の風鈴。そして、店内に低く満ちている、深く、香ばしい珈琲の香り。
世界には、誰かを特別な意味で熱烈に愛する人もいる。誰にも恋をすることなく、自分の愛する芸術とだけ添い遂げる人もいる。
人を好きになる形だって、誰かを大切に思う気持ちのグラデーションだって、決して一つなんかじゃない。教科書通りの正解なんて、この世界のどこを探してもないのだ。
それでも。誰かを想い、誰かに「会いたい」と願うことそのものは、やはりとても優しくて、幸せなことなのかもしれないと、ゆらは思う。
ふと、飴色の重厚な扉に目をやる。詩音は来ない。今日はもう、彼はここには来ない。頭のどこかではちゃんと分かっている。
それなのに、時計の針が夕刻を回るたびに、胸の片隅がほんの少しだけきゅんと切なくなり、残念に思ってしまう自分がいて。
ゆらはその甘酸っぱい動揺を隠すように、そっと手元の珈琲へ口をつけた。気づけば、琥珀色の液体は少しだけぬるくなっていた。
けれど、今日のその長年守られてきたブレンドの苦味の奥には、いつもよりほんの少しだけ、優しい甘さが残っているような気がした。店内のスピーカーからは、いつの間にかサティの『ジュ・トゥ・ヴ』が流れていた。
いつもは切ないワルツが、今日に限ってはどこか優しく、三人のそれぞれの「大切」を包み込むように軽やかに、静かに響き続けていた。




