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才能の値段

八月に入った。梅雨明けと同時に街を支配した猛暑は、容赦なくアスファルトを焼き尽くしている。


けれど胡蝶雲憩の古い木製の扉を押し開ければ、そこにはいつもと変わらない、静かでひんやりとしたセピア色の世界が守られていた。


軒先からは、雅が持ってきてくれた硝子の風鈴がチリン、からんと涼やかな音色を響かせ、本棚の間を通り抜ける微かな風が、少し甘い古い紙の匂いを乗せて客席へと運んでくる。


その日、詩音はいつもの時間よりも珍しく大幅に遅れて店にやって来た。


「すみません、遅くなりました」


そう言ってゆらの向かいの席へと腰掛けた彼の額には、珍しく細かな汗の粒が滲んでいる。


「外は随分と暑かったでしょう。大丈夫ですか?」


ゆらが手元のおしぼりを差し出しながら尋ねると、彼は丸眼鏡の位置を直しながら


「ええ、ちょっと。……実は、午前中に隣町の大きな古書市場へ買い出しに行っていたんです」


と答えて、抱えていたクラフト紙の大きな紙袋を少しだけ持ち上げてみせた。


中を覗き込むと、そこにはいつも月夜猫に並んでいるような近代文学の小説ではなく、何冊かの大判の、古い「楽譜」が収められていた。


経年によって赤茶色に黄ばんだ紙。何度もめくられて角が丸く擦り切れた楽譜の表紙。長い年月を、誰かの指先と共に生きてきた古い本だけが持つ、独特の乾いた匂いが、紙袋の隙間からふわりと漂ってくる。


「薪原さんのお店では、音楽の楽譜も扱っていらっしゃるんですね」

「ええ、たまにですけれど。市場の片隅で、誰にも見向きされずに埃をかぶっていたので、なんだか可哀想になって引き取ってきたんです」


詩音はそう言いながら、紙袋のいちばん上から一冊の楽譜を何気なく取り出し、木目のテーブルの上にそっと置いた。


それは、ショパンの『エチュード』だった。


その瞬間、ゆらの指先が、まるで見えない凍土に触れたかのようにぴたりと止まった。


脳裏の奥で、激しい警告音が鳴り響く。見覚えがありすぎる、あの独特な海外版の表紙のデザイン。


少女だった頃、自宅の、そして藤音先生のレッスン室のグランドピアノの上に幾度となく置き、指の関節を痛めるほどに、血がにじむほどに何度も何度も繰り返し開いた、あの呪縛のような本。


「……莉瀬さん? なんだか、懐かしいですか」


詩音が、ゆらの視線の強張りに気づいたように、静かに尋ねてくる。


「……ええ、少しだけ」


それは、完全な嘘だった。懐かしいなどという、生ぬるいノスタルジーでは決してない。楽譜の表紙が網膜に映った瞬間から、胃の奥が鉛を流し込まれたかのように重く、苦しく収縮していく。


楽譜というものは、いつだって残酷なほどの解像度で過去を連れてきてしまう。優しかった藤音先生の横顔。防音壁に囲まれた静かなレッスン室。


コンクールの、あの張り詰めた冷たい空気。結果発表の瞬間の拍手と、楽屋で声を殺して泣いていた自分の泣き声。


あの日捨て去ったはずのすべての記憶が、この一冊のショパンによって、濁流のように押し寄せてくる。その時だった。詩音が、珈琲のカップを揺らしながら、本当に何気ないトーンで問いかけてきた。


「莉瀬さんは、昔……その、ピアノをやられていた頃、どの辺りの舞台まで弾いていらっしゃったんですか?」

「どの辺り、ですか?」

「ええ。コンクールとか、そういうものの規模というか」


ゆらは、一瞬だけ答えるべきか迷った。自分の過去の栄光と挫折の核心を、明確な数字にして口にしたことは、プロの作家になってからは一度もない。


けれど――いま目の前にいる、本当の名前を明かしてくれたこの青年になら、ほんの少しだけ、自分の背負ってきたものの重さを話せる気がしたのだ。


「……高校生の頃です」

「はい」

「――全国大会まで、行っていました」


詩音の、珈琲を持ち上げようとしていた指先が、空間に縫い付けられたかのようにぴたりと止まった。


その瞬間、店内の空気が、まるで見えない硝子のひびが入るように、ほんの少しだけピリリと硬く変わる。


「……全国、ですか」

「うん。最後にあの大きな舞台で弾いたのは、確か、ラヴェルの『水の戯れ』だったかな」


重い静寂が、二人の間にストンと落ちてくる。天井のスピーカーからは、キリコさんがかけた古いレコードがゆっくりと回っていた。流れているのは、奇しくも静かなピアノの独奏曲。


窓の外では、何万という蝉たちが、真夏の光を浴びて狂おしく鳴き続けている。


詩音は、それ以上何も言わなかった。ただ、いつものように、ふっと少しだけ優しく口元を緩めて笑ってみせた。


けれど。その笑顔は、ゆらが今まで見たどの表情よりも、明らかに歪んでいて、不自然だった。


「……すごいですね、莉瀬さんは」


彼はぽつりとそう言った。


言ったはずなのに――その低く呟かれた言葉には、賞賛の温度など少しも含まれておらず、ちっとも嬉しそうには聞こえなかった。


ゆらは、胸の奥が冷たくなるのを感じながら、彼の変化に気づいてしまう。何かが、彼の心の繊細な歯車に、決定的な形で引っかかっている。


「……薪原さん?」

「いや」


詩音は弾かれたように小さく首を振り、視線を落とした。


「本当に、すごいなと思ったんです。莉瀬さんは、そこまで音楽と深く向き合って、戦っていらしたんだなって」


けれど、取り繕うように紡がれたその声には、隠しきれない妙な硬さと、冷たい拒絶の響きが混ざり合っていた。


やがて、そんな二人の張り詰めた空気を察したかのように、キリコさんが音もなく珈琲を運んできた。


夏限定の、翠色に鮮やかな桜が描かれた冷茶用のカップ。ゆらの手元にある、青磁色のすずらんのカップ。そして、詩音の前に置かれた、三日月に座る猫のソーサー。


いつもと何一つ変わらない、胡蝶雲憩の日常の景色。なのに、どうしてだろう。今日に限っては、座っている椅子すら落ち着かないほどに、空間全体が居心地悪く感じられた。


「――僕はね」


ぽつり、と。詩音が、窓の外のうだるような陽だまりを見つめたまま、独り言のように声を落とした。


「……県大会止まり、だったんです。バイオリンを、どれだけ必死に練習しても」


ゆらは何も言えず、ただ彼の横顔を見つめることしかできない。


「全国大会なんていう輝かしい場所に、僕はただの一度も、行くことができなかった」


詩音はふっと少しだけ笑った。自分自身を惨めに嘲笑うかのように、ひどく寂しく。


「たぶん、この先の人生を一生かけても、僕があの場所に届くことはなかったんだと思います」


その冷めた言葉の響きが、ゆらの胸のいちばん柔らかい場所に、容赦なく深く突き刺さった。


「そんな……そんな言い方、しなくても……」

「事実ですよ」


詩音は冷めかけた珈琲へそっと口をつけ、まるで苦い毒薬でも飲まされたかのように、一瞬だけひどく苦そうな顔をした。


「世界にはね、莉瀬さん。努力なんかじゃ、どれだけ命を削るほどの時間を費やしても、絶対に埋めることのできない『才能』という名の冷酷な差が、確かに存在するんですよ。本当に、残酷なくらいはっきりと」


その声は、どこまでも静かだった。


けれどそれは、ゆらに向けて放たれた言葉ではなく、彼がこれまでの人生で、あの厳格な父親の影に怯えながら、自分自身に向けて何度も何度もナイフのように突き立ててきた、絶望の独白のようにも聞こえた。


彼がずっと抱えてきた、誰にも言えない劣等感。見ないふりをして、古本の中に隠してきた、魂のひび割れ。


「……」

「――あ、ごめんなさい」


詩音が我に返ったようにハッとして、先に視線を戻した。


「せっかくの綺麗な晴れの日に、変な、つまらない話をしてしまいましたね。忘れてください」


彼はそれ以上、音楽の話を続けようとはしなかった。


けれど、ゆらは、手元で冷めていく珈琲を見つめながら、すべてをはっきりと分かってしまっていた。


詩音の中には、今もなお、狂おしいほどに鮮烈な「音楽」が生き続けている。父親が嫌いだと言いながら、音楽なんて捨てたと言いながら、彼は今でも、その奪われた光に執着し、誰よりも深く傷つきながら、そこに囚われ続けているのだということを。


そして――詩音は、まだ何も知らない。


自分の目の前に座っている莉瀬ゆらという人間の胸の奥にも、全く同じように、捨てきれない音楽の呪縛がドロドロと棲み続け、今も冷たい雨を降らせているのだということを。


ただ、二人はまだ。お互いの抱える本当の傷口を、生々しい血のままで見せ合えるほどには、決定的な場所へと辿り着いてはいなかった。西に傾き始めた強烈な夏の日差しが、硝子窓を容赦なく真っ白に照らしつける。


軒先で風に揺れた硝子の風鈴が、からん、と、どこか悲しげに一度だけ鳴り響いた。その響きは、静かな店内の静寂の中で、まるで二人の関係性のどこかに、目に見えない小さなひびが入る瞬間を告げる音のように、ひどく冷たく、切なく耳に残るのだった。

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