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売らない本

あの日から、街はまた容赦のない雨に包まれていた 。


朝からしとしとと降り続く細かな雨は、夕方を迎えても一向に止む気配を見せない。胡蝶雲憩の古い硝子窓には無数の不揃いな雫が並び、外の歪んだ世界をなぞるようにして、静かに、ゆっくりと伝い落ちていく。


店内には、じっくりと深煎りされた珈琲の、どこかビターで芳醇な香りが漂っていた。


古いターンテーブルの上でゆっくりと回るレコードからは、澄んだピアノの旋律が低い水流のように流れている。


トタンの屋根を優しく叩き、本棚の背表紙を撫でていく心地よい雨音。それらの音の粒子が溶け合って、このセピア色の空間だけ、外の世界とは明らかに違う、ひどく遅い時間が流れているようだった。


今日の向かいの席に、詩音の姿はなかった。帰り際に「明日は月夜猫の新しい仕入れの日なんです」と、少しだけ申し訳なさそうに言っていたのを思い出す。


ゆらは窓際の席で、ノートパソコンの液晶画面に表示された原稿のテキストを、そっと閉じた。


先日、二人の間に生じてしまったあの目に見えない小さなひび割れの感覚が、冷たい澱のように胸の奥底に閦えていて、どうにも文章が進まなかった。


気分転換をしようと、ゆらは重い腰を上げて本棚へと向かった。胡蝶雲憩の、天井まで届く重厚な本棚はいつ見ても面白い。


何十回、何百回と熱心に眺めてきたはずの列なのに、訪れるたびに、まるで最初からそこにあったかのように見たことのない新しい本を見つける。


古い知識の葉が茂り、言葉の枝が幾重にも重なる、まるで静かな森みたいだとゆらは思う。その時だった。


「――あれ」


近代文学の棚のいちばん下。他の分厚い革装丁の古書に隠れるようにして、


ひっそりと置かれた一冊の小さな本が、不意に目に入った。指先を伸ばし、そっと引き抜いてみる。そ


れは、手のひらにしっくりと収まる、美しい布張りの装丁だった。色は、たっぷりと雨を含んだ夏の終わりの空のような、どこか物憂げで深い青。


そして、その中央にあしらわれた表紙の絵に、ゆらは思わず息を呑み、釘付けになってしまった。それは、繊細なタッチで描かれた一枚の水彩画だった。


激しい雨の中を、並んで歩く一組の男女。女性は傘を持っていない。ずぶ濡れのはずなのに、その表情には一切の悲壮感がない。


隣を歩く男性は、片手に立派な長傘を携えているというのに、なぜだかそれを差そうとはせず、ただ静かに腕に抱えている。


二人とも、髪も服もすっかり雨に濡れている。


それなのに――二人は、お互いの顔を見合わせて、本当に、心底楽しそうに幸せそうに笑っているのだ。


まるで、世界に降り注ぐその冷たい雨そのものを、二人だけの特別な祝福として、全身で楽しんでいるみたいに。


淡い翠色。切ない紫。そして、溶け合うような透明な水色。


絵に使われている色彩のグラデーションには、なぜだかひどく見覚えがあった。ゆらはハッとして、いつも詩音がこの店で珈琲を飲むときに使っている、あの不思議なカップの色彩を思い出す。


キリコさんが彼のためだけに用意する、翠色と紫と水色がマーブル状に溶け合う、あの雨の日の空みたいな色。


ゆらは微かに震える指先で、本の題名を見つめた。布地の背表紙に、ひっそりと刻まれた銀色の文字。


――雨音のアラベスク。


ゆらは、驚きのあまり思考が真っ白になり、パチパチと目を瞬かせた。


当然だった。それは他でもない、いま自分がこの喫茶店で行き詰まりながら、必死に紡ぎ出そうとしている新しい恋愛小説と、一字一句まったく同じ名前だったからだ。


「……キリコさん」


ゆらは本を胸に抱きしめたまま、カウンターの奥に佇む老人へと、掠れた声で呼びかけた。


「はい、何でしょう、莉瀬さん」

「この、本……」


ゆらが差し出した青い布装丁の本を見た瞬間。キリコさんはネルドリップを動かす手を、ほんの一瞬だけ、凍りついたように止めた。


老眼鏡の奥にあるその深い目が、激しい動揺か、あるいは狂おしいほどの懐かしさに打たれたかのように、柔らかく、切なく揺れたのを、ゆらは見逃さなかった。


けれど、老店主はすぐにいつもの穏やかで、すべてを包み込むような静かな笑顔へと戻る。


「……珍しい本を、見つけ出しましたね」


ゆらはゴクリと息を呑み、尋ねた。


「すごく、綺麗な本ですね。……あの、キリコさん、この本は、私が買い取ることはできますか?」


何気ない、けれど切実な問いかけだった。雨の中を濡れながら笑う二人の絵が、あまりにも好きだった。


その銀色のタイトルが、今の自分の運命と重なっているような気がして、どうしても自分の部屋へ持ち帰り、夜が明けるまで何度も何度も眺めていたいと思ったのだ。


しかし、キリコさんはいつもなら喜んで本を譲ってくれるというのに、今日に限っては、静かに白髪の頭を横へと振った。


「申し訳ありませんが、それは非売品なのです。この店の、お売りできない特別な一冊でしてね」


それだけだった。老店主はそれ以上、何も語ろうとはしなかった。その物語を誰が書いたのかも。その美しい水彩画を誰が描いたのかも。


どんな経緯で、この店の一番下の棚に隠されるようにして置かれていたのかも。何もかもを、深い雨の霧の向こう側に隠してしまうように、ただ静かにそう言った。


「……そうですか。残念です」


ゆらは少しだけ肩を落とした。


けれど、それ以上に不思議で仕方がなかった。キリコさんが、客からの本への問いかけに対して、何も語ろうとしないなんて、出会ってから初めてのことだったからだ。


いつもなら、どんなに些細な古本であっても、その作者の壮絶な生涯や、出版社のこだわり、自分がどんな古書街でその本と巡り合ったのかを、子供のように目を輝かせて楽しそうに話してくれる人なのに。


今日の彼は、まるで重い蓋を閉じたままの記憶を守るように、頑なだった。窓の外からは、相変わらず激しい雨音だけが、世界の唯一のビートとして聞こえてくる。


ゆらは諦めきれずに、もう一度だけ、手のひらの中の表紙を見つめた。雨の中を、ずぶ濡れで行き交う二人。


お互いの肩を優しく寄せるわけでもなく。子供のように固く手を繋ぎ合うわけでもない。ただ、一歩の距離を保ったまま、隣同士で、同じ雨の音を聴きながら笑い合っている。


ただ、それだけのことなのに。どうしてだろう、ゆらはその絵から、どうしても目を離すことができなくなっていた。


その二人の姿が、どうしても、自分と詩音の不器用な距離感と重なって見えてしまうからかもしれない。


「……本当に、不思議な表紙ですね」


ゆらが、胸の奥の痛みを誤魔化すようにぽつりと呟いた。キリコさんは、ネルドリップをトレイへと置き、ゆっくりと顔を上げて窓の外の歪んだ景色を見つめた。


その目は、ガラス窓を伝う無数の雨粒を見ているようでもあり、あるいは、とうの昔に通り過ぎてしまった、もっと遠い遠い季節の残像を見つめているようにも見えた。


「――ええ」


老人は、深く、静かに息を吐き出すようにして言った。


「私も、本当に、そう思いますよ」


それ以上は、もう何も語らなかった。ターンテーブルの上で、レコードの針が静かに最後の溝をなぞり、一瞬の、空白の静寂が訪れる。窓外の雨音だけが、二人の間に落ちた秘密の重さを包み込むように、どこまでも優しく、そしてどこまでも切なく、いつまでも店内に響き渡り続けていた。

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