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亡き才能のために

夏の雨は、いつだって容赦なく唐突だった。午前中までは眩しいほどの青空が広がり、アスファルトをじりじりと焼き尽くしていたというのに。


夕方を迎える頃には、天の底を擦りガラスで覆ったかのような厚い雨雲が街を包み込み、気づけば胡蝶雲憩の硝子窓を、大粒の雨滴が激しく叩きつけ始めていた。


ゆらはいつもの窓際の席に座り、膝の上に一冊の古書を広げていた。先日、本棚の最下段で見つけた青い布張りの本――雨音のアラベスク。


「店内で読むだけなら」


と、キリコさんが特別に許してくれた非売品の世界に、ゆらは静かに没頭していた。その物語は、ひどく不思議な手触りをしていた。


息を呑むような大どんでん返しもなければ、劇的な事件が起きるわけでもない。これが純粋な恋愛小説なのかどうかすら、読み手であるゆらにも判然としなかった。


それなのに、ページを捲る指がどうしても止まらない。ただ、この広い世界の中で「会いたいと願う人がいる」ということ。


そのあまりにもシンプルで不器用な尊さだけが、淡々とした静かな筆致で描かれている。それはまるで、激しい雨の日に、毛布にくるまって遠い誰かの体温を想うような、そんな切ない温もりに満ちていた。


からん、と。激しい夕立の音を弾くように、真鍮の扉のベルが鳴った。


入ってきたのは、詩音だった。白いリネンシャツの肩や黒髪の毛先が、不揃いにぐっしょりと濡れている。


「――随分と激しい雨に降られてしまいましたね。大丈夫ですか?」


ゆらがノートを閉じながら声をかけると、詩音は細い指先で濡れた前髪を無造作に払い、


「ええ、駅からの途中で急につかまってしまって」


と、力なく笑ってみせた。けれど、その丸眼鏡の奥にある瞳は、いつもの穏やかさとは違って、どこか酷く疲れ果てているように見えた。


古書市場での厳しい価格交渉の帰り道だったのだろうか。


彼はいつもの、紫苑の刺繍が施された向かいの席へと腰掛けた。何も言わずとも、キリコさんの手によって、三日月に座る黒猫のソーサーに載った深煎り珈琲が運ばれてくる。


「莉瀬さん、さっきから熱心に、何を読んでいらっしゃるんですか?」


詩音が、温かいカップを両手で包み込みながら尋ねてくる。ゆらは膝の上の本を持ち上げ、その美しい雨色の表紙を彼に見せた。


「これ。……雨音のアラベスクっていうんです。キリコさんの、特別な非売品の本」


「へえ……雨音のアラベスク、ですか」


詩音は、その銀色のタイトルを、唇の動きだけで愛おしそうに繰り返した。


「本当に、綺麗な本ですね。表紙の絵も、どこか懐かしい色をしている」

「そうですよね」


ゆらは胸の奥が、ほんの少しだけ誇らしく、嬉しくなるのを感じた。


自分が大切に見つけ出した秘密の宝物を、大好きな人に同じように褒められた時のような、甘やかな充足感。


「もしよかったら、後で薪原さんも読んでみます?」

「ええ、ぜひ。……後で、ゆっくりと」


しばらくの間、二人の間にいつもの穏やかな沈黙が流れていった。窓外を激しく叩く土砂降りの雨音。ターンテーブルの上で静かにパチパチとノイズを刻む、古いレコードのクラシックの調べ。


そして、二人の間にゆらゆらと立ち上る、珈琲の香ばしくも苦い湯気。それは、どこを切り取っても、いつもの愛おしい胡蝶雲憩らしい、時を忘れるための時間のはずだった。


しかし、その静けさを、唐突に引き裂いたのは詩音だった。


「――莉瀬さん」

「……何?」

「莉瀬さんは、あの日から一度も、またピアノを弾きたくなったことは、ないんですか?」


ゆらの、本の角をなぞっていた指先が、凍りついたようにぴたりと止まった。


その質問は、ゆらのこれまでの人生の中で、何度も、何度も投げかけられてきたものだった。熱心だった担当の編集者にも。


孤独だった大学の友人にも。手紙をくれた藤音先生にも。そして他ならぬ、夜中のベッドの中で、自分の醜い本質と対峙するゆら自身にも。


「……ありますよ」


ゆらは視線を落としたまま、嘘を吐くことなく、素直に答えた。


「今でも?」

「はい。今でも、時々、狂いそうなくらい弾きたくなります」


詩音はそれを聞くと、ごくりと喉を鳴らして少しの間黙り込んだ。その横顔には、なぜだか冷たい影がじわじわと広がっていく。


「じゃあ、どうして弾かないんですか。そこまでの強い想いがあるのに」


ゆらは手元を離れ、窓ガラスを濁流のように流れ落ちていく無数の雨粒を見つめた。


「……怖いから」

「何が、そんなに怖いんですか」


少しだけ、考える。答えなんて、ゆらの胸の奥には数え切れないほど床に転がっているのだ。他人に勝つこと。他人に負けること。周囲からの過度な期待に応え続けること。


そして、自分の持てる「才能」という名の限界の底を、白日の下に証明され続けること。けれど、そのどれもが今の詩音の胸には綺麗に届かないような気がして、結局、ゆらは掠れた声でこう呟いた。


「……分からないです。自分でも、もう何が怖いのか、よく分からない」


詩音は、笑わなかった。それどころか、いつも世界のすべてを赦すように穏やかだった彼の眉間には、見たこともないほどの深い不快の皺が刻まれており、その丸眼鏡の奥の瞳は、激しい苛立ちの炎を宿して硬く強張っていた。


「……分からない?」

「はい」

「そんなの――」


詩音は、手元の白磁の珈琲カップへと視線を落とし、低く、押し殺した声で吐き捨てた。


「そんなの、あまりにも贅沢すぎますよ、莉瀬さん」


バチバチバチ、と、店のトタン屋根を叩く雨音が、急激にその音量を増して店内に響き渡った。


ゆらは息を呑み、正面の詩音の顔を凝視した。彼の表情は、まるで冷たい大理石のように強張っている。


「……贅沢? 今、なんて言いました?」

「だって、そうでしょう」


彼の声は、どこまでも低く、静かだった。静かなのに、まるで研ぎ澄まされた冷たい剃刀の刃のように、容赦なくゆらの肌を切り裂いてくる。


「あなたは、その指にまだ、世界を驚かせるだけの完璧な技術も、音も、すべてが五体満足に『弾ける状態』で残っているのに、ただ自分のプライドが傷つくのが怖くて、我儘で弾かないだけなんだから」


ゆらは胸を強く突かれ、呼吸を忘れて立ち尽くしそうになった。


「薪原さん……!」

「全国大会なんていう、僕が一生をかけても届かなかった輝かしい頂上まで行った人には、僕みたいな人間の本当の絶望なんて、絶対に分かりっこないんですよ」


初めてだった。ゆらの知っている、あの不器用で、本を愛する優しい詩音の姿は、そこには影も形もなかった。


いま目の前にいるのは、過去の劣等感に塗れ、狂おしいほどの嫉妬と呪詛を剥き出しにした、生々しく泥臭いひとりの不器用な男の姿だった。


「僕は、欲しかった……! あの人が僕に強要した、どんなに血の滲むような努力を重ねても、逆立ちしても手に入らなかった、本物の、絶対的な『才能』が欲しかった……!」


窓外の土砂降りの雨が、まるで世界の終わりを告げるドラムのように激しく窓を叩く。


その冷たい嵐の向こう側で、詩音の声には、彼が子供の頃からずっと背負わされてきた、父親からの抑圧と長年の痛みが、どろどろとした血のままで滲み出ていた。


「どれだけ指を痛めて練習しても、僕の前には、絶対に越えられない冷たい壁があった。……でも、莉瀬さんは違った。あなたは、その壁の向こう側の景色に、いとも簡単に届いていたんでしょう?」

「……」

「届いていたのに、あなたはそれを、ただの恐怖なんていう個人的な理由で、簡単にゴミみたいに捨てて逃げ出したんだ」


その瞬間。ゆらの胸のいちばん深い場所で、あの日からずっと彼女の理性と自責を繋ぎ止めていた、細い鎖のすべてが、大きな音を立ててぷつりと切れた。


世界のすべてが、真っ白に沸騰していく。


「――捨ててなんか、いない!」


気付けば、ゆらは自分の座る椅子を激しく後ろへと蹴り飛ばすようにして、大声を張り上げて立ち上がっていた。


詩音がハッとしたように顔を上げ、丸眼鏡の奥の瞳を大きく見開く。


「捨ててなんか、ないよ……っ!」


ゆらの声は、激しい感情の昂ぶりのせいで、今にも泣き出しそうなほどに細く、惨めに震えていた。


「今だって、あの鍵盤の冷たさを、コンクールのまぶしいライトの光を、毎晩のように悪夢に見て、息が止まりそうになって飛び起きるの! 私の人生のすべては、あの日に置き去りにされたまま、一歩も前に進めていないのよ! それを、捨てただなんて、そんな簡単な言葉で片付けないで……!」

「だったら、どうして――」

「簡単に、弾けばいいだなんて、言わないで!!」


ゆらの絶叫が、セピア色の店内の壁を激しく揺るがした。その直後、文字通りの完全な静寂が、喫茶店の中に訪れる。


ターンテーブルの上では、曲の終わった古いレコードの針が、ただ砂が崩れるような悲しいノイズだけを乗せて、虚しく回り続けていた。


カウンターの奥に佇むキリコさんは、怒るでもなく、止めるでもなく、ただ哀悼を捧げるような深い、静かな眼差しで、傷つけ合う二人の子供たちの姿を、黙って見守っていた。


ゆらは全身を激しい怒りと悲しみで震わせながら、目の前の詩音を真っ直ぐに睨みつけた。


「薪原さんに、私の何が分かるの……っ?」


言ってしまった。自分の脳裏に浮かんだ、いちばん醜く、いちばん鋭利な、言ってはならない最低の言葉を、ゆらはもう止めることができなかった。


「――どれだけ努力すれば届くか、っていう、そんな生ぬるい世界しか知らないあなたみたいな人には、私の本当の地獄なんて、一生かかっても理解できるわけがない!」


詩音の顔が、まるで内側から完全に凍りついたかのように、真っ白に固まった。


その瞬間、ゆらは、自分が今、この世界で一番大切にしたいと願っていた人に対して、どれほど残酷で、取り返しのつかない致命的な刃を突き立ててしまったのかを、突きつけられて、激しい戦慄に襲われた。


どれだけ努力しても届かなかった。それはつまり、あの厳格な父親の言葉通り、詩音に「本物の才能がなかった」という、彼の人生における最大の劣等感の傷口を、ゆらのその傲慢な言葉で、生々しく抉り出したことに他ならなかったからだ。


窓の外では、残酷なほどに美しい夕暮れの茜色をすべて漆黒の雨幕で塗り潰すように、世界を遮断する激しい土砂降りの雨が、ただ二人の絶望をあざ笑うかのように、いつまでも、いつまでも轟音を立てて降り注ぎ続けていた。


けれど、もう止まれなかった。一度決壊した感情の濁流は、ゆらの理性を呑み込んで激しく暴走していく。


「――私だって、狂いそうなくらい苦しかったの!」

「……苦しい?」


詩音が低く笑った。それは、ゆらがこれまで一度だって見たことのない笑い方だった。温度というものが一切存在しない、刃物のように鋭利で、冷酷な薄笑い。


「本物の才能を持って生まれた選ばれし人の、贅沢な苦しみ、ですか」

「違う……!」

「違わないでしょう!!」


初めて、詩音の口から張り裂けんばかりの大声が放たれた。その凄まじい声の咆哮に、セピア色の店内の空間そのものがびりびりと震えた気がした。


「僕は、欲しかったんだ……っ!」


彼は立ち上がり、テーブルに両手を叩きつける。その衝撃で、白磁のカップの珈琲の湯気が激しく揺らぎ、水面が歪んだ。


「欲しくて、欲しくて、死んでしまいたくなるくらい欲しかった……! あなたが、ただの恐怖なんていう我儘で簡単に投げ捨てた、その特別な場所を!」


ゆらは喉の奥が完全に干からびたように、もう何一つとして言葉を返すことができなくなった。


そして。詩音はさらに、ゆらの魂の最深部に隠されていた最大の禁忌へと、容赦なくその鋭い爪を立てた。


「――あなたが、そうやって今も小説を書き散らしているのも」


地を這うような、ひどく低い声。


「結局は、あの白い鍵盤から、ピアノから、一生泥泥と逃げ回り続けるための、ただの卑怯な言い訳じゃないんですか」


今度は、ゆらが内側から完全に凍りつく番だった。


それは、二十余年の人生の中で、誰からも言われたことのない、最も残酷な指摘だった。いや、他ならぬゆら自身が、自分自身の心にすら、恐ろしすぎて一度だって言ったことのなかった、真実という名の劇薬。


だからこそ――その言葉は、何重にも築いていた心の防壁を易々と突き破り、彼女の魂の核心へと、深く、深く、致命的なまでに刺さった。


「……帰る」


小さく、掠れた声でそれだけを呟く。詩音は何も答えなかった。


ただ、自らの言葉の刃の鋭さに、自分自身も傷ついたかのように、青白い顔で拳を強く握りしめている。


ゆらは、投げ出すようにして原稿鞄をひったくるように掴んだ。縋るようにして、真鍮の重厚な扉を押し開ける。


外は、世界のすべてを圧殺するかのような、土砂降りの雨。夏の、激しく、冷たい夕立だった。


ゆらは、一度だって後ろを振り返ろうとはしなかった。もしも今、ほんの一瞬でも振り返って、彼の傷ついた顔を見てしまえば、その場に崩れ落ちて、子供のように大泣きしてしまいそうだったから。


だから、ゆらはそのまま、容赦なく肌を叩く冷たい嵐の中へと、激しく身を飛び出させた。


からん、からん、と。逃げ出した少女の背中をなじるように、真鍮のベルが寂しく店内に鳴り響き、そして閉じた。


二人が去ったあとの胡蝶雲憩には、ただ耳が痛くなるほどの、濃密な沈黙だけが残されていた。詩音は、立ち尽くしたまま微動だにしない。金縁の青磁色のソーサーの上で、主を失った珈琲が、窓外の雨音に急かされるようにして、ただ寂しく、ぬるく冷めていく。


窓の外では、すべてを洗い流そうとするかのように、激しい雨がどこまでも降り続いている 。


そして、カウンターの奥でその一部始終をずっと見つめていたキリコさんは、静かに、本当に深く、胸の奥でこう思った。


人間という生き物は、時々。どうしようもないほどに本当に大切で、心の底から愛おしいと願う相手だからこそ。


その人を、この世界で一番深く傷つけるための、最悪の言葉を正確に選んでしまう生き物なのだと。スピーカーからは、いつの間にかラヴェルの『亡き王女のためのパヴァーヌ』が、二人の破滅を哀悼するように、どこまでも切なく、重く流れ続けていた。

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