あの子のために
雨は、夜の闇に塗り潰されてもなお、その激しさを緩めることはなかった 。
外の世界は、天の底が完全に抜けたかのような土砂降りの嵐。ずぶ濡れのまま街を彷徨っていたゆらは、気づけば、またあのセピア色のランプが灯る胡蝶雲憩の前に立ち尽くしていた。
本当は、このまま誰もいない冷たい自宅へと帰り、布団を頭から被って、今日起きた最悪の出来事のすべてを、彼に浴びせられた鋭いナイフのような言葉を、綺麗さっぱり忘れてしまいたかった。
けれど、凍える体を抱えて足が勝手に向かってしまったのは、他でもない、この場所だった。雨の日になると、磁石のように吸い寄せられてしまう、温かな珈琲の城。
薪原詩音という、世界の誰よりも不器用で、優しい青年と出会った場所。
そして今、人生で一番、気まずくて来たくなかったはずの、あの傷跡の場所。
真鍮の重厚なノブを押し開けると、からん、と、湿った大気を震わせる乾いた鈴の音が響いた。広大な薄暗がりの中に、客の姿は一人もなかった。
世界のすべてを圧殺するかのように、窓硝子を激しく叩きつける、濁流のような雨音だけが店内に轟いている 。
「――おかえりなさい、莉瀬さん」
カウンターの奥から、キリコさんの静かな声が届いた。それは、いつもと何一つ変わらない、深く穏やかなトーンだった。
なぜ店を飛び出した彼女がこんな夜更けに戻ってきたのか、その理由を詮索するような色もなければ、詩音を深く傷つけて逃げ出してきた醜い本質を、責め立てるような響きも一切ない。
ただそこにある、絶対的な赦しのような声。ゆらは、かすれた喉で返事をすることすらできなかった。
ただ、吸い込まれるようにいつもの窓際の席へと歩み寄り、崩れるようにして腰を下ろした。背もたれに、白く静かに咲き誇る鈴蘭の刺繍が入ったアンティークの椅子。
手元には、何も言わずともキリコさんが運んできてくれた、青磁色の縁を持つすずらんのカップ。そこから、命の灯火のように、香ばしくも苦い湯気が真っ直ぐに立ち上っている。
いつもと何一つ変わらない、世界で一番愛おしいはずの見慣れた景色。
なのに――今日のゆらの目には、ランプの光も、飴色の本棚も、そのすべてが歪んで、ぐずぐずの輪郭のまま水底のように滲んで見えた。
泣いているからだ。
自分でも、もうどうしようもないほどに分かっていた。情けない。いい大人が、まるで大好きな玩具を壊してしまった子供みたいに、ボロボロと大粒の涙を零して震えている。
けれど、一度決壊してしまった涙の温度は、どれだけ袖で拭っても、堰を切ったように止まろうとはしなかった。
キリコさんは、そんな彼女の涙に対して、安易な慰めの言葉をかけることはしなかった。
ただ、音もなく古い大型の蓄音機の前に立つと、棚から一枚の、分厚い漆黒のレコードを慎重に選び出した。
カシャリ、と、金属のレバーが引かれ、ターンテーブルがゆっくりと回転を始める。厳かに行われたその儀式の果てに、サファイアの針が静かに、深い溝へと落ちた。
パチパチ、チリチリと、暖炉の薪がはぜるような微かな、悲しいノイズ。
そして次の瞬間――店内のスピーカーから、地を這うような低音の、あまりにも重厚で悲劇的な弦楽器の調べが、ゆっくりと流れ始めた。
ゆらは、涙に濡れた顔をゆっくりと持ち上げた。これまでの長い読書人生の中でも、そしてあの狂おしい音楽の記憶の中でも、一度だって耳にしたことのない、全く知らない異国の楽曲だった。
けれど。なぜだろう――最初の一音が鼓膜を震わせ、胸の奥の最も柔らかい場所に触れたその刹那、ゆらは理屈ではなく、直感だけで理解してしまっていた。
この曲は、あまりにも、悲しい。悲しいだとか、切ないだとか、そんなありふれた語彙では到底足りないくらい。
人間の魂のいちばん深い絶望の泥濘から、血を流しながら搾り出されたかのような、あまりにも壮絶な音だった。
激しい怒り。底のない絶望。そして、二度と取り戻すことのできない、狂おしいほどの喪失。それらの巨大な感情の質量が、暗い水流のように、静かに、けれど圧倒的な力で店内のセピア色の空気を支配していく。
「……あの、キリコさん。これは……何の、曲ですか」
今にも消え入りそうな、掠れた涙声で尋ねる。キリコさんは、ゆっくりと回転を続ける漆黒のレコードの盤面をじっと見つめた。
その眼鏡の奥の目は、いつもより少しだけ、ひどく遠く、懐かしそうな色を帯びていた。
「――ジェームズ・バーンズの、『交響曲第三番』ですよ」
窓を叩く、土砂降りの夏の雨音。スピーカーから吹き荒れる、悲哀のオーケストラの音色。
世界からすべての光が消え去り、ただその二つの激しい音だけが、ゆらの周囲をぐるぐると取り囲む唯一の要素になったかのようだった。
「この曲にはね、莉瀬さん。ある、特別な副題がついているのです」
キリコさんは、ぽつりと声を落として続けた。
「『ナタリーのために』――」
ゆらは黙って、涙を流したまま老人の横顔を見つめた。
「生後わずか半年足らずで、この世を去ってしまった愛する幼い娘、ナタリーを亡くした作曲家が、その引き裂かれるような絶望のどん底で、命を振り絞って書き上げた……これは、魂の葬送曲なのですよ」
しっとりとした、重い沈黙が店内に落ちてくる。
そして――キリコさんは、ゆっくりと顔を上げると、歪んだ窓の向こう側で降り続く、漆黒の夜の雨を見つめた。
「私はね、莉瀬さん」
初めてだった。出会ってから何ヶ月も経つというのに、キリコさんの口から、こんなにも細く、どこか掠れた遠い声を聴くのは。
まるで、世界の果てにある、もう二度と触れられない真っ白な灰の山を見つめているかのような声。
「――ずっと昔にね、最愛の妻と、そしてまだ小さかった私の娘を、同時に亡くしているのですよ」
ゆらの呼吸が、肺の奥でひゅっと音を立てて完全に止まった。キリコさんは、いつものように穏やかに微笑むことはしなかった。ただ、凪いだ湖面のように、どこまでも、どこまでも静かだった。
「あまりにも激しい、今日のような、夏の土砂降りの日の夜でした。凄惨な、交通事故でしたよ。……あの日、家族の中で、何の才能もない私だけが、皮肉にも傷一つなく、生き残ってしまった」
その言葉の持つ絶対的な質量は、あまりにも重く、あまりにも冷たかった。
あの日、コンクールの楽屋でただピアノの順位に泣いていたゆらの傷口など、一瞬で吹き飛んでしまうほどの、底なしの業。
ゆらには、想像することすらおこがましいほどに、果てしなく重い、一人の老人が背負い続けてきた十字架の歴史だった。
「私の、最愛の妻の名前がね、憩子と言うのです」
ゆらは息を呑み、涙に濡れた目をさらに大きく見開いた。
「そして、私が命よりも大切にしていた、まだ幼かった娘の名前が、翠雲」
窓ガラスを、数え切れないほどの雨粒が、二人の涙の代わりにどこまでも、どこまでも激しく流れ落ちていく 。
「だから……この場所は、あの子たちの名前を繋ぎ合わせた、『胡蝶雲憩』なんです。私が死ぬまで、あの子たちの生きた証を、ここに集まる美しい音楽や本と一緒に、守り続けるための……ここは、私のささやかな墓標なんですよ」
知らなかった。今日まで、何不自由なくこの店の特等席で珈琲を啜っていたゆらは、その美しい名前の裏に隠された、凄絶なまでの愛と喪失の真実を、何一つとして知らなかった。
けれどその瞬間、ゆらの中で、この『胡蝶雲憩』というセピア色の喫茶店の存在が、まったく違う、神聖で、狂おしいほどに愛おしいものへと様変わりしていった。
ここは、ただのお洒落で居心地の良い隠れ家などではない。
老店主が人生のすべてを賭けて、二度と会えない最愛の人々の名前を抱きしめ、忘れたくないあの幸せな記憶の残像を守り続けている、祈りの場所だったのだ。
「――莉瀬さん、あなたが先日、棚の奥から見つけ出してくれた、あの青い布装丁の『雨音のアラベスク』もね」
キリコさんは、静かに言葉を続けた。
「あの子が、私の娘の翠雲が、生前、小説家になることを夢見て細い指先で懸命に書き残していった……たった一編の、物語だったのですよ」
ゆらは、胸の奥が張り裂けそうになり、思わず自分の両手で口を覆った。
あの、雨の中をずぶ濡れで笑い合っていた、美しい水彩画の表紙。あの、世界で一番不器用で、愛おしいタイトル。
「世界に、たった一冊だけしか存在しない本です」
老人は、ふっと少しだけ目元を和らげて笑ってみせた。けれど、今度のその笑顔は、本当に、胸が締め付けられるほどに寂しそうで、哀切に満ちていた。
「あの子、装丁のデザインから、表紙の水彩画の絵の具の配合まで、本当に楽しそうに、必死になって頑張って手作りしていたんですよ。……莉瀬さん、あの子の描いたあの表紙の三色の色彩、誰かのまとう空気に、とてもよく似ているとは思いませんか?」
ゆらは、何も答えることができなかった。ただ、溢れ出る涙が、顎を伝ってテーブルの木目へとポトリ、ポトリと小さな雨音を立てて落ちていく。
スピーカーからは、バーンズの交響曲の、天を仰いで慟哭するようなチェロの重厚な弦の響きが、狂おしく流れ続けていた。
それはまるで、あの日取り残されたキリコさんの、そして大切な人を傷つけて逃げ出してきたゆらの、言葉にならない心の叫びを、代わりに代弁して激しく泣いてくれているかのようだった。
夏の激しい雨は、すべての嘘と虚飾を洗い流すように、ただ静かに、夜の胡蝶雲憩をどこまでも深く、深く包み込んでいくのだった。
「会いたいですね」
ゆらは胸の奥から絞り出すように呟いた。一度だって会ったことのない、顔も知らない人たちなのに。
この胡蝶雲憩という優しく悲しい空間を遺してくれた、翠雲ちゃんに、そして憩子さんに、どうしても会ってみたかった。
「ええ」
キリコさんは静かに深く、白髪の頭を縦に振った。
「毎日、朝が来るたびに、そしてこうして雨が降るたびに思いますよ。もう二度と、叶わぬ願いだと分かっていてもね」
その静かな、けれど途方もない時間を耐え抜いてきた老人の言葉に、ゆらはまた、堰を切ったように涙が止まらなくなってしまった。
大切な人に、大好きな人に、もう一度だけ会いたい。その、胸の奥から湧き上がる衝動は。
人間という生き物にとって、こんなにも当たり前で、そして、どんな物語よりも残酷なほどに尊いものなのだ。
「でもね、莉瀬さん」
キリコさんが、窓の外の漆黒の雨幕を見つめたまま、ぽつりと言った。
「人間という生き物は、本当に不思議なものでね」
雨音の向こう側から響く、どこまでも穏やかで、けれど確かな実感を伴った声。
「人はね……大切な人と、本当にもう二度と会えなくなってしまってから、初めて狂おしいほどに後悔するものなのですよ」
ゆらはきつく唇を噛み締め、深く、深く俯いた。視界の滲む薄暗がりの中で、他でもない、先ほどこの店で最悪の言葉をぶつけ合い、青白い顔で傷ついて立ち尽くしていた、あの詩音の横顔が鮮烈に浮かび上がってくる。
彼が放った、自分自身の核心を突く鋭い言葉。自分が彼に浴びせてしまった、彼の尊厳をズタズタに引き裂く最低の侮辱。
傷ついた彼の顔。自分が、世界でいちばん大切にしたいと願っていたはずの手で、無残に傷つけてしまった、あの愛おしい顔。
『――もっと、私の本当の言葉を、ちゃんと伝えればよかった』
『――つまらないプライドなんて捨てて、その場ですぐに謝ればよかった』
『――過去の恐怖から目を背けずに、あの人の元へ、まっすぐに会いに行けばよかった』
キリコさんは、ふっと寂しそうに微笑んだ。
「取り残された者はね、いつでも、そんな風に過去の『たら、れば』のことばかりを、何年も、何十年も、暗闇の中で呪文のように考え続けてしまうのですよ」
そして。老店主はゆっくりと顔を戻すと、ゆらの顔を真っ直ぐに見つめた。
それは、いつものすべてを甘やかすような目ではなかった。どこまでも優しく、けれど、これ以上現実から逃げることを決して許さない、魂の核心を捉える強い目だった。
「――だからね、莉瀬さん。会いたい人がいるのなら、まだその手を伸ばして触れられる、会えるうちに、迷わず会いに行っておきなさい」
「……キリコさん」
「自分の本当の想いを、謝罪を、言葉を伝えたいのなら、まだその声が相手の鼓膜に届く、言えるうちに、すべてをさらけ出して言っておきなさい」
老人は、その刻まれた深い皺をなぞるように、ゆっくりと、祈るように優しく微笑んだ。
その完璧な微笑みを見た瞬間――ゆらは、自分の胸の最深部で、すべての迷いの霧が晴れていくのを感じ、思わず弾かれたように勢いよく立ち上がっていた。
ガタ、とアンティークの椅子が激しく床を鳴らす。両手の袖で、頬を濡らす涙を力強く拭った。
「莉瀬さん。……そんなに慌てて、一体どこへ行くのですか?」
カウンターの奥から、キリコさんの声が飛ぶ。自分の言葉が、彼女の止まっていた時間を完全に動かしたのだということを。
彼女が今からどこへ向かおうとしているのかを。すべて分かっているくせに、すべて分かっているだろうに。
それでも、老店主はゆらの口から、その決定的な覚悟の言葉を聴くために、あえて優しく問いかけたのだ。
ゆらは、顔を上げて真っ直ぐに入り口の扉を見据え、叫ぶようにして答えた。
「――好きな人に逢いに!」
窓の外では、依然として世界のすべてを押し流すような、激しい夜の夕立が降り続いている 。
外へ一歩でも出れば、傘を持たないゆらの体は、一瞬にして容赦なくびしょ濡れになってしまうだろう。
けれど、そんなこと、今のゆらにとってはどうでもよかった。服が濡れることも、寒さに震えることも、彼に再び拒絶されるかもしれない恐怖すらも、今の彼女を止める理由にはなり得なかった。
キリコさんは、出会ってから初めて、本当に心の底から嬉しそうな、愛おしい子供を見送るかのような、最高の笑顔を浮かべた。
「――ええ。行ってらっしゃい、莉瀬さん」
ゆらは、振り返ることもなく、全速力で走り出した。真鍮の重厚なノブを掴み、外の嵐の世界へと、その扉を力任せに押し開ける。
からん、からん、からん! と、激しく、高らかに真鍮のベルが鳴り響き、少女の背中を祝福するように夜の闇へと送り出した。
一歩外へ出た瞬間、冷たい夏の激しい雨が、ゆらの髪を、頬を、白いシャツのすべてを容赦なく濡らしていく。
けれど、ゆらは足を止めなかった。暗い雨の夜へ。自分の魂の半身である、あの愛おしい会いたい人の元へ。
今なら、まだ間に合う。まだ、二人の物語のページが、最悪の結末で閉じられてしまう前なら。その手を伸ばせば届く、会えるうちに。自分の本当の醜さも弱さも、すべてを言葉にして伝えられるうちに。
そして――あの人を、世界の誰よりも特別に「好きだ」と、その声で言えるうちに。水しぶきを激しく跳ね上げながら、濁流のような雨音の中を、ゆらはただ真っ直ぐに、前だけを見つめて走り続けた。




