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雨垂れ猫を穿つ

 街灯のぼんやりとした光が、降り注ぐ雨の幕に遮られて激しく滲み、黒く濡れたアスファルトの上で無残に砕け散っている。ゆらは、ただひたすらに走っていた。


 傘も差さずに、夜の闇の中を。吸い込んだ冷たい雨水が、喉を、肺を痛烈に焦がしていく。激しく濡れた髪が容赦なく頬を叩き、ずぶ濡れの服が重く肌に張り付いて、一歩を踏み出すたびに体温を奪っていく。


 けれど、どうしても止まることなんてできなかった。ドク、ドク、と、肋骨の奥で心臓が破裂しそうなほどに激しい音を立てて鳴っている。


 呼吸はとっくに限界を迎えていて、息を吸うたびに胸が苦しい。それでも、ゆらは走るのをやめなかった。あの大切な人に会いたい。私の本当の言葉を、今すぐ伝えたい。


 ただ……それだけ、だった。夜の闇に沈む月夜猫へ向かう道は、一人で走ると、思ったよりもずっと、ずっと遠かった。


 いつもは、彼の少し不器用な歩幅に合わせて、他愛のない本の話をしながら歩く、あの愛おしい並木道。


 たった一人、嵐の中で駆ける今日という日は、まるで世界の果てまで続いているのではないかと思えるほどに、ひどく長く感じられた。


 ようやく、路地の向こうに、生垣の傍らで雨に濡れるあの小さな木製の看板が見えた時、ゆらは激しく息を切らして、その場に立ち止まった。


 満月を優しく抱きしめるように丸まった、一匹の黒猫のシルエット。『月夜猫』。


 古い硝子窓の向こうには、セピア色の温かな灯りがぽつんと灯っていた。


 まだ、閉店はしていない。彼は、まだあそこにいる。ゆらは震える手で木製の重い扉を押し開けた。


 上部に取り付けられた小さな真鍮のベルが、激しい夜の静寂を弾くように鳴り響いた。


 からん、と。一歩足を踏み入れた店内には、いつもと変わらない、あの懐かしい古い紙の匂いが静かに満ちていた。


 真夏の夜の、重い湿気をたっぷりと吸い込んだ古い本の匂い。少しだけ埃っぽくて、どこか寂しい。


 けれど、かつて世界のどこかの誰かの本棚で、長い、長い年月を誰かの指先と共に暮らしてきた本たちだけが持つ、特有の優しい「温度」が、そこには確かにあった。


 その愛おしい匂いに包まれた瞬間、ゆらの張り詰めていた胸の奥が、ぎゅっと締め付けられる。店の最奥、古い木製のカウンターの奥で一人立ち尽くしていた詩音が、ベルの音に弾かれたように顔を上げた。


 そして──入り口に立つゆらの姿を捉えた瞬間、彼は丸眼鏡の奥の瞳を大きく見開いたまま、石のようにその場に固まった。


「──莉瀬、さん……?」


 ゆらもまた、ずぶ濡れの身体のまま、店の入り口で立ち尽くすことしかできなかった。あんなに激しい雨の中を、心臓を破裂させそうになりながら勢いよく走ってきたというのに。


 いざ、こうして彼の姿を目の前にしてしまうと、喉の奥が完全に干からびたように塞がってしまい、一体何から言葉にすればいいのかが、何もかも分からなくなってしまう。


 走っている間に頭の中で何度も反芻したはずの言葉が、霧のように消えていく。きつく結んだ喉の奥が、熱く、苦しく詰まる。


 二人の間に、しっとりとした重い沈黙が落ちてくる。スピーカーからは何の音楽も流れておらず、ただ、古い建物の屋根を叩く、激しい真夏の雨音だけが、世界の唯一のビートとして静かに響き渡っていた。


「……そんなに濡れて。今すぐ拭かないと、風邪を引きますよ」


 最初にその重い沈黙を破ったのは、他ならぬ詩音だった。いつもより少しだけ低く、掠れた声。


 けれど──そこには、先ほど胡蝶雲憩の店内で、お互いの傷口を鋭利なナイフで抉り合っていた時の、あの冷酷な棘は、もうどこを探しても一カケラも残ってはいなかった。


 ただ、目の前の人間を心底心配するような、いつもの彼らしい、静かな優しさだけがそこにあった。


「……薪原、さん」


 その、偽りの苗字を口にして呼んだ瞬間。詩音はハッとしたように、ほんの少しだけ困ったように細い眉を下げた。


 その頼りなげな彼の表情を見て、ゆらは、夕暮れの河川敷で彼が明かしてくれた、あの本当の名前のことを鮮烈に思い出していた。


 小唄詩音。かつて家族みんなで音楽を愛し、並んで歩いたあの美しい夕暮れの思い出を、その不条理な痛みごと、今でも何一つとして手放せずに抱え続けている、優しすぎる彼の本当の名前。


「……ごめん」


 ゆらの唇から、最初に出た言葉は、それだった。彼に謝ろうと思って、すべてをさらけ出そうと思ってここまで走ってきたのだから、当たり前の言葉のはずなのに。


 いざ、その三文字が自分の声を伴って空間に放たれた瞬間、胸の奥から熱いものが一気に込み上げてきて、視界が涙で激しく滲みそうになる。


「ごめんなさい、薪原さん……っ」


 ゆらは、溢れ出そうになる涙を堪えながら、もう一度、絞り出すように言葉を重ねた。


「私……あなたに、本当に、ひどいことを言いました」


 詩音は何も言い返さず、ただゆらの言葉を一つも取りこぼさないように、黙ってその場から静かに聞き入っている。


「『どれだけ努力すれば届くか、なんていう生ぬるい世界しか知らないあなたには、私の気持ちなんて分からない』だなんて……っ。私、そんなこと……本当は、これっぽっちも思っていないの」


 声が、激しい感情の昂ぶりのせいで慘めに震える。


「……そんなこと、本当に、思っていなかった……!」


 努力すれば誰でもできる、みんな同じように届くはずだと、世界の痛みを何も知らないまま、冷たく笑っていたのかもしれない。


 でも、音楽の光を失い、この街で彼と出会ってからは、明確に違っていた。


 今なら、彼の抱えてきた劣等感の重さも、届かなかった場所を見つめ続ける苦しさも、そのすべてが、自分の抱える逃げ続ける地獄と、全く同じだけの深い価値を持っているのだと、痛いほどによく分かるから。


「……本当に、ごめんなさい」


 ゆらは、両手を体の脇できつく握りしめながら、彼に向かって深く、深く頭を下げた。


 彼女の濡れた黒髪の毛先から、吸い込まれた夏の雨水が、月夜猫の古い木の床へと、ぽたぽた、ぽたぽたと、静かに滴り落ちていく。


 その水滴が床を叩く小さな音だけが、店内の静寂の中に、どこまでも切なく響いていた。


 長い、本当に永遠のように長い沈黙が、二人の間に横たわっていた。やがて、ゆらの視界の先で、詩音の履いた古い革靴のつま先が、静かにこちらへと歩み寄ってくるのが見えた。


 ゆらが恐る恐る顔を上げると、詩音はふっと、口元を小さく歪めて笑ってみせた。それは、いつもの世界のすべてを赦すような穏やかな笑顔でもなければ、先ほどの冷酷な薄笑いでもない。


 自分の器の小ささを、そして莉瀬ゆらという一人の少女の、あまりにも真っ直ぐで不器用な誠実さを前にして、ただただ降参してしまったかのような──どこまでも愛おしげな、ひどく苦い、彼らしい苦笑だった。


「僕もです」


 詩音の口から掠れた声で零れ落ちたその一言に、ゆらは小さく肩を揺らして、ゆっくりと顔を上げた。


「……僕の方こそ、本当に、ごめんなさい」


 詩音はそれ以上ゆらの真っ直ぐな瞳を見つめ返すことができず、きつく拳を握りしめたまま、所在なげに視線を床の木目へと逸らした。


「『才能がある人はいいですよね』なんて……。莉瀬さんがどれほど深い地獄を抱えて生きているかも知らずに、そんな風にしか言葉を紡げなかった自分が、本当に最低でした」


 自嘲するように、自らの胸を深く抉るように言う。


「そんなこと、ないです。私だって感情に任せて……」

「いいえ、そんなことあります。僕は、心の底から……本当に、そう思っていましたから」


 ゆらはそれ以上、言葉を続けることができずに息を呑んだ。詩音は痛みを堪えるように、ゆっくりと顔を戻すと、濁流の流れる硝子窓の向こうの闇を見つめた。


「初めて、莉瀬さんが全国大会まで行ったというお話を聴いた時……僕は、自分の醜い劣等感を刺激されて、激しく嫉妬してしまったんです。ずっと、あの日から今まで」


 彼はふっと笑った。丸眼鏡の奥の瞳に、やるせない滲んだ涙の光を湛えながら。


「本当に、情けない人間ですよね、僕は」


 ゆらは小さく、けれど何度も、弾かれたように首を横に振った。情けなくなんか、絶対にない。


 自分自身を大きく、深く変えてくれた大切な人のその告白が、どれほど大きな勇気に満ちたものなのか。


 けれど、喉の奥が熱く焼けてしまって、上手く言葉にすることができなかった。


「……僕」


 詩音が、壊れやすい紙のページをめくるように、慎重に声を落とした。


「ずっと、あなたのことが羨ましかったんです」


 遮るもののない月夜猫の店内が、耳が痛くなるほどの静寂に沈んでいく。


「あなたが生まれ持った、その絶対的な『才能』も」

「かつて、その命のすべてを賭けて追いかけたという、音楽の『夢』も」

「その、僕がどうしても手に入れられなかった、すべての煌めきが」


 語る彼の声は、目に見えて微かに震えていた。


 初めてだった。いつも穏やかで、世界のすべてを俯瞰して見守るような静けさを纏っていた詩音が、こんな風に、自分の隠してきた最も惨めな弱さをさらけ出して見せたのは。


「でも──」


 ゆらは、ずぶ濡れの足で、床をぽたぽたと濡らしながら、彼の方へと一歩近づいた。そして、胸の奥のいちばん柔らかい熱を、そのまま言葉に変えて告げる。


「私も……私も、ずっと、あなたのことが羨ましかったよ」


 詩音が驚いたように、弾かれたように顔を上げた。


「え……?」

「薪原さんのことが、出会ったあの雨の日から、ずっと」


 胸の最深部に深く深く沈め、自分自身でさえ醜くて、絶対に認めたくなかった魂の未練。それをいま、彼女は一つずつ、白日の下に曝け出していく。


「ずっと、羨ましくて仕方がなかった」

「どうして……僕みたいな、何も残せなかった人間が」


 ゆらは、涙に濡れた顔のまま、少しだけふっと笑ってみせた。それは、今にも泣き出しそうな、ひどく不器用で、愛おしい笑顔だった。


「だってあなたは……どんなに傷つけられても、自分のいちばん好きなものを、最後までどうしても『嫌い』になりきれなかったから」


 詩音が、言葉を失ったように静かに口を閉ざした。


「そんな風に名前を偽ってまで過去にしがみついて、『月夜猫』を開いて、古い音楽の本を大切に並べて。……そうやって、あの日失った本も、音楽も、どうしても捨てられずに抱きしめて生きている。その実直さが、私には眩しくて、羨ましかったの」


 ゆらは、頭上で激しく鳴り響く雨音を遠くに聞きながら、昨日、あのセピア色のランプの下でキリコさんが語ってくれた、愛と喪失の遺言を思い出していた。


 人間は、過去を綺麗に乗り越えて、何もなかったかのように新しく生まれ変わるわけじゃない。どんなに傷ついても、どんなに惨めでも、その大好きな痛みを、大好きな名前を、すべて胸に抱えたまま、一歩ずつ前に進んでいく。


 生きるということは、きっとそういうものなのだ。


「私──」


 ゆらは、深く、深く、胸いっぱいに夏の雨の匂いを吸い込んだ。そして、生まれて初めて、偽りのない自分の本当の魂を、声にして紡ぎ出す。


「……私、ピアノが、今でも好き。本当は、狂おしいほどに大好きなの」


 初めてだった。あの日、コンクールの楽屋で世界を呪って逃げ出して以来、自分の口からこんな風に、曇りのない言葉で「好きだ」と口にしたのは。


「今でも、忘れたことなんて一瞬もなくて、ずっとずっと好きなの……っ!」


 堰を切ったように、大粒の涙が彼女の頬を伝って、床の雨水の水溜りへとポトリと落ちていた。


「好きだったから、だから……あんなにも苦しかった」


 詩音は何も言い返さなかった。ただ、自らの胸の奥の傷口と重なり合わせるように、彼女の声を、その涙の温度を、じっと静かに受け止めていた。



「好きじゃなくなったから辞めたんじゃないの。そんな、綺麗な話なんかじゃない……!」


 違う。そんな都合の良い理由ではなかったのだ。


「ただ、これ以上期待を裏切るのが……怖くて、怖くて。でもそれ以上にっ……!!」


「私のせいで誰かの希望が、夢が絶たれるのが本当に怖かったのっ……」


 ようやく。ゆらは、自分の人生における最大の恥部を、ありのままに認めることができた。


 周囲からの過度な才能への渇望からも。勝つことの快感からも、負けることの底なしの絶望からも。そのすべての重圧から、自分はただ不器用に逃げ出したのだと、ようやく大切な人の前で、言葉にすることができたのだ。


 詩音は、それを聴くと、優しく、本当に静かに目を閉じた。そして。


「──僕も」


 と、消え入りそうな声で、けれど確かな足取りで呟いた。


「……僕も、バイオリンが、世界でいちばん好きでした」


 彼は明確に、それを『好きでした』という過去形の言葉で括ってみせた。


 けれど──。いま、月夜猫の店内に響いた彼の声の響きは、先ほどまでの冷めた拒絶とは違い、ほんの少しだけ、確かに現在形の温もりへと近づいているような気がした。 


 外では、まだ世界を遮断するように激しい夏の雨が降り続いていた 。


 けれど、その雨の冷たさは、もう二人の胸を焦がすことはなかった。あの日から二人の間に頑なに存在していた、目に見えない強固な氷の壁は、お互いの涙の熱によって、今、静かに、少しずつ崩れ始めていた。


 店の最奥の暗がりから、チク、タク、と、古い柱時計が一定のテンポで、新しく動き出した二人の時間を刻む音が聞こえてくる。夏の湿気を含んだ古本の匂い。


 窓辺から滑り込んでくる、どこか切ない雨の匂い。そして──。これ以上の言葉にはどうしてもならないほどに不器用な、けれど、世界の誰よりもお互いを強く想い合う二人の本当の気持ちだけが、セピア色の光の中で、静かに、優しく、そこに溶け合っていた。

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