月
雨はまだ、静かに降り続いていた。けれど、先ほどまで天の底を叩きつけるようだったあの激しい勢いは、いつの間にかどこかへ鳴りを潜めている。
硝子窓を伝い落ちていく無数の透明な雫も、その速度をゆっくりとしたものへと変えていた。
月夜猫の中には、雨宿りの夜にふさわしい、しっとりとした静かな時間が流れていた。
古い柱時計が一定のテンポで時を刻む、規則的な針の音。夏の湿気をたっぷりと含んだ、古い紙の落ち着く匂い。
開け放たれた小窓の隙間から、時折すうっと通り抜ける湿った夜風。
そして──少しだけお互いの距離を縮めて、向かい合って座る、不器用な二人。
ゆらは、手渡された紙コップの温かい紅茶を、冷え切った両手で愛おしそうに包み込んでいた。
店主である詩音が、店の奥の小さな給湯スペースで、ずぶ濡れの彼女のために急いで淹れてくれたものだ。
白磁のカップではなく、ありふれた紙コップ。けれど、そこからはほんの少しだけピリッとした、身も心も芯から温めてくれるような生姜の香りが漂っていた。
「……ありがとう、薪原さん」
「いえ。僕のせいで、莉瀬さんにそんなに酷い雨の中を走らせてしまったんですから。風邪を引かれて寝込まれてしまったら、本当に困ります」
そう言って、詩音はいつもの穏やかな、少し困ったような苦笑を浮かべた。
その、世界のすべてを優しく赦すような彼の笑顔を見つめていると、ゆらは不思議なほど、胸の奥底にずっとへばりついていた冷たく硬い塊が、静かに、じわじわと溶けていくような気がした。
ゆらはしばらくの間、何も言わずに温かい紅茶の表面を見つめて黙っていた。
けれど。もう、この人の前でだけは、自分の醜い部分も、弱さも、何もかもを隠したくはないのだと、強く思った。
「──私ね」
ぽつり、と。静寂に波紋を広げるように、ゆらは唇を開いた。詩音はそれ以上何も言わず、ただ彼女の言葉のすべてを受け止めるために、じっと静かに耳を傾けている。
「あの高校生の最後のコンクールで、全国の一番になって、優勝した時ね」
言葉にしようとした瞬間、喉の奥が、まるで細い針で刺されたかのようにズキリと小さく痛んだ。あの日置き去りにしてきた栄光の瞬間を思い出すだけで、今でも胸が苦しくなる。
「もちろん、自分の音楽が認められて、すごく嬉しかったの」
詩音の丸眼鏡の奥にある瞳が、わずかに、繊細に揺れた。
「ステージの袖で、私のせいで負けてワンワン泣いている他の子たちの姿を見て、胸が締め付けられるように苦しくなったのも、全部本当のこと」
ゆらは言葉を繋ぐ。
「でもね──」
紙コップから立ち上る生姜の湯気が、二人の間でゆらゆらと切なく揺れた。
「あの日、トロフィーを手渡された瞬間に、私の頭の中で一番最初に浮かんだ感情は、そんな綺麗なものじゃなかったの」
張り詰めた沈黙が、古い本棚の間にしっとりと落ちてくる。
「……勝った、って、そう思ったのよ」
その言葉は、あの日から何年もの間、ゆらが自分自身にすら恐ろしすぎて口にすることができなかった、魂の最も醜い本音だった。
「私の演奏の方が、あの子たちよりも、世界の誰よりも圧倒的に上手かったんだって……そう確信して、心の底から優越感に浸っていたの」
窓の外からは、静かな雨の音だけが聞こえてくる。
「……最低でしょう?」
ゆらは、ふっと歪んだ笑みを唇の端に浮かべた。自分の持つ底なしのエゴイズムを、浅ましさを、自分自身で徹底的に嘲笑うかのように。
「──そんなこと、ないです」
詩音が、遮るようにして、真っ直ぐにすぐ言った。
「でも、私は他人の絶望の上で……」
「そんなこと、絶対にないです、莉瀬さん」
低く、けれどこれ以上ないほどに強い、静かな声だった。その絶対的な肯定の響きに、ゆらは言葉を失い、ただ静かに目を伏せることしかできない。
「……それからね、急に、世界中のすべてが怖くなってしまったの」
ぽつり。ぽつり。一度溢れ出した本音の言葉は、まるで天井から漏れ出す雨の雫のように、床の木目へと静かに落ちていく。
「周囲の大人たちから、次も勝つことを期待されるのも」
「一度掴んでしまったその頂上で、ずっと孤独に勝ち続けなさいと強要されるのも」
「いつか、誰かにその座を引きずり下ろされて、無様に負ける瞬間が来るのも」
「莉瀬ゆらには、他の子とは違う特別な『才能』があるんだって、記号みたいに言われるのも……」
脳裏の向こう側に、あの優しかった藤音律子先生の温かな顔が、鮮烈に浮かび上がる。防音壁に囲まれた、あの狭く安全だったレッスン室。ステージの上で浴びた、鼓膜を破らんばかりの盛大な拍手の渦。
そして、自分の指先だけを不気味に浮かび上がらせていた、眩しいステージの照明の光。その、かつて愛したはずの音楽の記憶のすべてが、いつの間にか自分を追い詰める鋭い刃へと変わっていく。
「私、自分が一体何者なのか、本当は何のために音を紡いでいるのかが……何もかも、分からなくなっちゃって」
詩音は、彼女の告白の途中に、反論も同情も一切挟もうとはしなかった。
ただ、そこに佇む一人の少女の孤独な魂の叫びを、そのまま自分の胸で引き受けるようにして、静かに聴いていた。
彼が、その絶対的な静けさで待っていてくれるからこそ、ゆらは生まれて初めて、自分の人生のいちばん暗い泥濘のすべてを、言葉にすることができたのだ。
「──だから、私がピアノを放り出して、小説を書き始めたのも……あの重苦しい音楽の世界から、ただ卑怯に逃げ出したかったからだったのかもしれないな、って。薪原さんに言われて、ようやく気づいたの」
その、自分の最も認めたくなかった敗北の事実を、ありのまま言葉にして口にしたその瞬間。
どうしてだろう、ゆらの両肩から、何年もの間彼女を縛り付け、息の根を止めようとしていた目に見えない重い鉄の鎖が、音を立てて綺麗に崩れ落ち、すうっと肩の力が抜けていくような不思議な感覚に包まれた。
ずっと認めたくなかった、自分の不器用な逃亡。けれど、それは紛れもない、彼女の人生の切実な「本当」だったのだ。
詩音はそれを聴くと、胸の奥に溜まっていた熱を逃がすように、静かに、本当に深く、息を吐き出した。
「──僕も、実は似たようなものなんですよ」
詩音は、手元の冷めかけた珈琲に一度視線を落とし、それから小さく、本当に穏やかに笑った。
「この、古本屋」
「え?」
「本が狂おしいほど好きだから始めた、というのは本当なんです。でもね……」
彼の丸眼鏡の奥の目が、過去の霧の向こうを見つめるように、少しだけ遠くなる。
「僕にとってもここは、あの息苦しい音楽の世界から、必死に逃げ込むための場所でもあったんです」
ゆらは紙コップを両手で包み込んだまま、黙って彼の言葉に耳を傾けた。
「コンクールの結果しか見なかった、父のことを思い出したくなかった。……でも、それと同時に、あの人が僕の音をただ純粋に喜んでくれていた頃の思い出まで、完全に忘れてしまうことも、どうしてもしたくなかったんです」
拒絶したいほど憎いのに、手放したいほど愛している。あまりにも矛盾している、けれど、だからこそ愛おしいほどに人間らしい告白だった。
「だから僕は、母の姓である小唄ではなく、あえてあの人の『薪原』という名前を名乗って、ここで生きている。……楽しかった頃の、あの温かかった家族の記憶を、どうしても捨てきれなかったから」
詩音はそう言って、ふっと窓の外へと視線を向けた。硝子窓を叩いていた夏の激しい雨は、いつの間にかその勢いを失い、しとしとと静かな優しさへと変わっていた。
「変、ですよね。自分から音楽を諦めて逃げ出したくせに、名前だけは捨てられないなんて」
「ううん」
ゆらは大きく、真っ直ぐに首を振った。
「変なんかじゃない。絶対に、変なんかじゃないよ」
むしろ──ゆらは自分の胸の奥が高鳴るのを感じていた。彼のその弱さを知ったから。
誰よりも傷つきながら、それでも愛したものを捨てきれないその不器用な優しさを知ったからこそ、私は、この人のことをこんなにも深く好きになったのだと、確信していた。
二人の間に、長い長い沈黙が落ちてくる。けれど、それは先ほどまでの張り詰めた気まずいものでは決してなかった。
お互いの傷口をそのまま受け入れ合ったあとの、ひどく心地良く、温かな静けさだった。やがて。静寂の底から、詩音がゆっくりと口を開いた。
「──莉瀬さん」
突然名前を呼ばれて、ゆらの胸の奥がドクンと大きく鳴った。
「はい……」
顔を上げると、詩音はいつものように少しだけ困ったように、けれど、どこか腹を括ったような、観念したような顔をして微笑んでいた。そして、丸眼鏡の奥の瞳で、ゆらの目を真っ直ぐに見つめて言った。
「……ずっと」
一拍。世界からすべての雑音が消え去ったかのような、濃密な一瞬。
「──ずっと、あなたのことが、好きでした」
時間が、完全に止まった。カタカタと回る古い柱時計の針の音も、窓外を流れる静かな雨の音も、何もかもが鼓膜の手前でかき消されて、世界に彼の声だけが響き渡る。
「あの雨の日の『胡蝶雲憩』で、初めてあなたと出会った時から」
詩音は耳の端をほんのり赤くして、本当に照れくそうに笑った。
「カウンターの前で、真剣な顔をして本を選んでいるあなたの横顔も」
「キリコさんの淹れた珈琲を、美味しそうに、愛おしそうに飲んでいる顔も」
「自分の大好きな小説のことを、少し恥ずかしそうに熱っぽく話してくれる時の、あの生き生きとした顔も」
語る彼の言葉は、微かに、けれどはっきりと震えていた。いつも一歩引いていた彼が、今、持てるすべての勇気を振り絞って、その魂のすべてをゆらへと差し出してくれているのが分かった。
「あなたの、その全部が、狂おしいほど好きでした」
ゆらの視界が、一気に熱いもので激しく滲んでいった。今にも大声を上げて泣き出しそうだった。
いや、もうとっくに、涙は頬を伝ってボロボロと零れ落ちていた。
だって──それは他でもない、ゆら自身が彼の前でずっと、ずっと抱き続けてきたものと、全く同じだったからだ。
「私も……っ」
声が、激しい愛おしさのせいで惨めに震える。
「私も、そうなの……っ!」
涙が、顎の先から床へとぽたぽたと落ちていく。
「私も、あなたのことが……」
ゆらは涙を拭うこともせず、真っ直ぐに詩音の目を見つめ返した。この小さな古本屋、月夜猫の空間も。外で優しく降り続く、この真夏の雨の夜も。店内に満ちている、愛おしい古い紙の匂いも。
そして、自分の目の前で、泣きそうな顔をして立ち尽くしている、この愛おしい青年のことも。そのすべてが、世界の何よりも狂おしいほどに、大切で、愛おしかった。
「──世界で、いちばん、大好きです」
口にした瞬間、心臓が爆発してしまいそうなほどに恥ずかしくてたまらなかったけれど、一片の後悔もなかった。
詩音は丸眼鏡の奥の瞳を驚いたように大きく見開き、それから──本当に、ほんの少しだけ泣き出しそうな、困った顔をして、最高に愛おしそうにクスクスと笑った。
その時だった。ふっと、窓の外の漆黒の闇が、嘘のように仄白く明るくなった。二人は何かに導かれるようにして、同時に振り返り、硝子窓の向こう側の空を見上げた。
雨が、止んでいた。あんなに街を激しく叩きつけていた、あの土砂降りの嵐が、いつの間にか完全に引き揚げていたのだ。
空を重く覆い尽くしていた真夏の黒い厚い雲が、夜風に流されて静かに裂けていく。その青黒い夜空の隙間から──驚くほどに白く、美しい満月が、そっと穏やかに顔を覗かせていた。
それは、何も言わない、ひどく静かな月だった。言葉を持たないその光は、ただそこに佇んでいるだけで、まるでこの世界の片隅でようやく想いを結んだ不器用な二人を、優しく祝福してくれているかのようだった。
まばゆい月の光が、曇りなき硝子窓を抜けて、月夜猫の店内へと真っ直ぐに差し込んでくる。それは、天井まで届く本棚に並ぶ、古い本たちの背表紙をひとつひとつ美しく銀色に照らし出し──。
そして、向かい合って立ち尽くす、ゆらと詩音の二人の間にも、どこまでも柔らかく、舞台のスポットライトのように、静かに降り注いでいるのだった。




