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雨上がりのアラベスク

 夏が、静かに終わりを告げていた。


 あれほど狂おしく街を震わせていた蝉の声はいつの間にか綺麗に消え去り、窓隙から滑り込んでくる風は、肌を撫でるたびに少しだけ冷たくなっている。


 あの雨の夜の告白から、数ヶ月の時間が流れていた。秋の気配を孕んだその日の胡蝶雲憩の窓辺には、しとしとと穏やかな雨が降っていた 。


 世界を優しく包み込むような、ひどく静かな雨。店内には、焙煎されたばかりの珈琲の、どこかビターで芳醇な香りが心地よく満ちている。


 飴色の本棚には変わらず無数の古い本が背表紙を並べ、レースカーテンの裾に吊るされた小さなプリズムは、曇り空のわずかな光を拾って、古い木の床へと淡い虹の破片を落としていた。


 何一つとして変わらない、いつもの愛おしい景色。けれど。そこには、確かに変わったものもあった。カウンターの奥には、いつも通り店主のキリコさん──胡蝶霧己さんが佇んでいた。


 今日も、夏限定だったはずの翠色に鮮やかな桜の描かれたお気に入りの冷茶用カップを、大切そうに手元に置いている。


 そして、その向かいの特等席には、一通の白い手紙でゆらの時間を動かした恩師、藤音律子が静かに腰を下ろしていた。


 二人は、まるで何十年も前からここで語り合ってきた旧友のように、久しぶりの再会を慈しみながら、静かに琥珀色の珈琲を口に運んでいる。


「──本当に、やるんですね。あの子たち」


 藤音先生が、万年筆を握るような凛とした声で、そっと店の奥へと視線を向けた。


「ええ。どうやら、本当にやるみたいですね」


 キリコさんは眼鏡の奥の目を細め、慈しむように、本当に嬉しそうに微笑んだ。ランプの光が届かない、薄暗い店の奥。窓際の広いスペース。


 そこに、二人は並んで立っていた。


 莉瀬ゆら。そして、その隣にいるのは、薪原詩音──いや。彼はもう、過去の憎しみや劣等感から逃げるようにして、父親の旧姓を名乗ることをやめていた。


 小唄詩音。彼は過去の歪んだ痛みを、無理に乗り越えて捨て去ったわけではなかった。


 キリコさんが言った通り、その手放せない痛みを、愛おしい記憶のすべてを、そのまま胸に抱えたまま、この眩しい光の差す場所へと前を向いて進むことに決めたのだ。


 ゆらの目の前には、長年この店に眠っていた、蓋の開かれた古いアップライトピアノ。そして、詩音の手には、一本の美しいバイオリン。


 それは、キリコさんがかつて大切にしていたという、この店にとって最も神聖な楽器だった。ゆらは、目の前に均等に並ぶ、白と黒の鍵盤をじっと見つめた。


 本当に、どれだけの月日が流れただろう。あの日、コンクールの楽屋で絶望してから、何度も何度もこの鍵盤の前から逃げ出した。


 大切な人からの手紙を鞄の奥に隠して、心の扉に重い蓋を閉じた。


 音楽なんて、ピアノなんて、もう二度と視界に入れたくないと、都合の良い嘘をついて見ないふりをし続けてきた。


 それでも。──やっぱり、私は、これが狂おしいほどに好きだった。すべての虚飾を剥ぎ取ったあとに残されたのは、結局、ただそれだけの、あまりにも純粋でシンプルな事実だった。


 音楽を、ピアノの奏でる音の色を、どうしても嫌いになりきれなかったから、私は今日、この大好きな人の隣へと戻ってきたのだ。ゆらは、そっと隣を見つめた。


 バイオリンを肩に構えた詩音と、真っ直ぐに目が合う。彼は、いつものように少しだけ困ったように、けれど、すべてを委ねるように優しく微笑んだ。


 言葉なんて、もう何一つとして必要なかった。それだけで、二人の魂を繋ぎ止めるには十分すぎた。


「──緊張、してる?」


 ゆらが、鍵盤の上に指先を添えながら、小さく囁くように聞いた。


「ええ、すごく。指が震えてしまいそうなくらいに」

「ふふ、私も。心臓の音が、外まで聞こえちゃいそう」


 二人は顔を見合わせ、声を合わせて小さく笑った。


 かつての、孤独の暗がりにいた頃なら、お互いに到底考えられなかった光景だった。


 周囲からの過度な期待と「才能」という名の呪縛に怯え、窒息しかけていた少女と。どんなに努力を重ねても届かない「才能」という名の絶対的な壁に憧れ続け、絶望していた青年。


 互いの抱える本当の痛みの在処を知らないまま、別の場所で深く傷ついていた二人が。


 いま、この胡蝶雲憩の雨の日の片隅で、全く同じ、ひとつの地平の場所に立っている。


 ゆらは、深く、深く、胸いっぱいに珈琲と古い紙の匂いを吸い込んだ。


 そして、祈るようにして、白い鍵盤の上へとそっと両手を下ろした。最初の一音が、静かな店内の空気を優しく震わせた。


 それは、窓外でしとしとと降り続く、静かな雨音にそのまま溶けていくかのような、ひどく柔らかな旋律。淀みなく、流れるように、水面を渡るきらめきのように。


 ──ドビュッシー、『アラベスク 第1番』。


 かつてゆらを苦しめ、そして彼らの時間を動かし始めたあの美しい曲の粒子が、セピア色の空間の隅々にまで、温かな光の網目のように広がっていく。


 詩音は、そっと静かに目を閉じた。そして、しなやかな指先で、バイオリンの弦へと、吸い込まれるように弓を引いた。


 その瞬間、古い木箱から、世界の誰よりも切なく、澄み切ったバイオリンの極上の音色が響き渡り、ゆらの紡ぐピアノの旋律へと、優しく応えるように重なり合った。


 それはまるで、彼がこれまでの人生でずっと、ずっと長い間探し求め続けていた、本当の言葉をようやく見つけたみたいに、どこまでも実直で、温かな響きだった。


 ピアノの和音と、バイオリンの旋律が、幾重にも美しく絡み合い、重なっていく。


 硝子窓を静かに伝い落ちていく、無数の透明な雨粒。

 カウンターの奥から立ち上る、深い珈琲の香り。

 本棚の奥から漂う、愛おしい古い紙の匂い。


 その世界のすべてが、二人の奏でる、ただ一つの完璧な音楽の中へと、優しく、深く、溶けていくようだった。


 キリコさんは、万年筆を持った手を止めて、カウンターの奥でただ静かにその音色に聴き入っていた。


 その目は、かつてレッスン室でこの曲を必死に書き残していった、愛する娘・翠雲の面影を重ね合わせるように、どこまでも優しく、凪いでいた。


 隣に座る藤音先生も、もう何も言わなかった。かつての厳格な指導者の顔ではなく、ただ一人の優しい恩師として、自分の愛した弟子が、本当に大切な人の隣でようやく自分だけの本当の音を取り戻したその瞬間を、涙の滲む目で見守り続けていた。


 ゆらは、鍵盤の上を流れるように滑る、自分の指先を見つめながら、静かに思っていた。


 かつて自分をあれほどまでに追い詰め、狂わせた『才能』というものの正体は、一体、何だったのだろう、と。


 他人に勝つことだろうか。誰よりも高い順位を獲り、負けないことだろうか。


 ──違う。今はもう、明確にそう言い切れる。今なら、少しだけその本当の意味が分かる気がした。


 人間にとって、本当の才能とは。


 ただ、自分の人生の中で出会った、世界の何よりもかけがえのない誰かに、自分の大切な「この音を、この言葉を、聴いてほしい」と、心の底から真っ直ぐに願う、その器の小さくて不器用な『心』そのもののことなのだろう、と。


 詩音もまた、弓を引く右腕の重みを感じながら、胸の奥で静かに想いを馳せていた。音楽は、自分を追いつめ、大切だったあの幸せな家族のすべてを奪い去った残酷な悪魔なのだと、あの日からずっと自分に呪いをかけるように信じ込んできた。


 けれど、それは全くの思い違いだったのだ。


 音楽は、僕たちの人生から、何一つとして奪い去りなんかしていなかった。


 ただ、その冷たい楽譜の行間を通り抜けて、時代を越えて、人と人との千切れかけた心を、目に見えない強固な糸で繋ぎ続けていただけだったのだ。


 あの冷徹だった父親の誇りとも。紫苑の好きな母親も。


 そして──いま、自分のすぐ隣で、世界の誰よりも美しい音を紡いでくれている、この愛おしいゆらとも。


 物語は、そしてアラベスクの美しい旋律は、ゆっくりと、穏やかな終わりへと向かっていく。それに呼応するかのように、窓の外で降り続いていた細かな雨も、ほんの少しずつ、その勢いを弱めていた。


 最後の、二人の魂を重ね合わせるような重厚な和音。そして、空間のすべてを浄化するような、消え入りそうな、最後の一音。


 店内に、しっとりとした、深い、深い静寂が訪れる。キリコさんも、藤音先生も、誰も拍手なんかをしなかった。


 いや、拍手の音でこの完璧な余韻を汚してしまうことが、あまりにも無粋であると思えるほどに、そこには世界のどこよりも、美しく神聖な静けさが満ちていたからだ。


 やがて。カウンターの奥から、キリコさんの、いつも通りの少し掠れた優しい声が小さく響いた。


「──本当に、良い演奏でしたよ。お二人さん」


 その、すべてを包み込むような老店主の声だけが、セピア色の空間に優しく響き渡る。ゆらは、そっと視線を、曇りのな硝子窓の向こう側の景色へと向けた。


 いつの間にか、街を濡らし続けていたあの雨は、完全に止んでいた。


 空を低く覆い尽くしていた灰色の雲が、初秋の少し冷たい風に吹かれて、ドラマチックに、静かに流れていく。


 雲の裂け目から、眩しいほどの、柔らかな黄金色の光の矢が、店内の飴色の本棚へと真っ直ぐに差し込んできていた。


 そして──その光の射す向こう側の高い空には、どこまでも広く、どこまでも澄み切った、美しい青い空が、世界の始まりのように広がっていた。


 この広い世界の中で、心の底から「会いたい」と思える大切な人がいるということは、それだけで、本当にすごく幸せなことだ。


 けれど。その自分の胸の内の熱を信じて、傷つくことを恐れずに、その足で真っ直ぐに「会いに行きたい」と思える誰かがいるということは──。


 それは、人間の人生にとって、きっと、もっともっと、言葉にならないほどに幸せなことなのだ。


 雨の日の胡蝶雲憩で、二人の不器用な出会いから始まったこの静かな物語は。


 いま、雨上がりの街に響き渡った、二人だけの美しいアラベスクの音楽と共に、静かに、優しく、その幕を閉じる。


 けれど。新しく本当の名前を取り戻した二人の、どこまでも不器用で、愛おしい人生の物語のページは、これからもずっと、この青空の下で続いていく。


 あのドビュッシーの、どこまでも柔らかく流れるアラベスクの旋律のように。どこまでも、どこまでも柔らかく。そして、どこまでも、どこまでも遠くへ。

 

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