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沈むマンション ――最後に屋上のドアを押さえたのは誰だったのか――  作者: 二条理|アコンプリス


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第六章 最後のドア

 屋上は、外ではなかった。

 海斗は最初にそう思った。

 空の下に出た。壁も天井もない。非常灯の赤ではなく、黒い雲の下にいる。頬を打つ風は本物で、鼻の奥に入り込む潮の匂いも本物だった。けれど、そこに解放感はなかった。

 屋上は、もうひとつの閉鎖空間だった。

 下から水に追われている前室よりは広い。だが、その広さは人間を守るものではなかった。むしろ、強風と雨粒と海からの飛沫を容赦なく受ける分だけ、前室よりも危険に思えた。床は濡れ、非常用の誘導灯がところどころで青白く瞬いている。風に煽られた雨水が、薄い膜となって床を走っていた。

 右側の壁沿いに、先に出た住民たちが固まっていた。

 佐伯律子が乃々を抱きしめている。山辺は壁にもたれ、犬を抱いた女性がその横に座り込んでいる。老人は誰かに肩を貸されていた。雨宮千尋は痛めた右肩を押さえながら、それでも屋上の端を確認しようとしている。灯は海斗の腕を掴んでいた。

 灯の手は冷たかった。

「海斗」

 姉が叫んだ。

 風に消されないよう、怒鳴るような声だった。

「怪我は」

「ない」

「本当に」

「ないって」

 海斗はそう答えながら、屋上扉の方を見た。

 扉は、まだ開いていた。

 完全に開いているわけではない。人が一人、体を横にすれば通れる程度の幅だった。扉は風に押され、何度も閉じようとしている。そのたびに、内側から誰かが押し返す。鋼鉄が軋み、蝶番が悲鳴を上げる。

 その音が、海斗の耳に焼きついた。

 一度。

 二度。

 三度。

 扉の内側に、まだ人がいる。

 誰かが、あの暗い前室に残っている。

「黒瀬さんは」

 海斗は灯に聞いた。

 灯は答えなかった。

「白石さんは」

「分からない」

 灯の声は震えていた。

「見えなかった。あなたが押し出されて、私が腕を掴まれて、その後は」

「戻る」

 海斗は立ち上がろうとした。

 灯が腕を強く掴む。

「だめ」

「離して」

「だめ」

「中にいるんだよ」

「分かってる!」

 灯の声が風の中で裂けた。

 海斗は初めて、姉の顔が泣きそうになっているのを見た。

「分かってる。でも、戻ったら扉がもっと乱れる。あなたが入って、誰かが出られなくなるかもしれない」

「じゃあ、見てろって言うのかよ」

「見ているしかない時がある」

「そんなの嫌だ」

「私だって嫌だよ!」

 灯は海斗の腕を掴んだまま、歯を食いしばっていた。看護学生として人を助けようとしていた姉が、目の前にいる人を助けに戻れない。その事実が、彼女の顔を歪ませていた。

 海斗は胸元の封筒を握った。

 防水袋越しに、深い折り目の感触がある。

 澪が託したもの。

 外で返してください。

 そう言った人が、まだ中にいる。

 返す相手がいなければ、この封筒はまた宛先を失う。

 屋上扉が大きく揺れた。

「押さえろ!」

 外側にいた誰かが叫んだ。

 だが、外側からは支えにくい。扉は外開きで、外には十分な取っ手がない。濡れた床では踏ん張りも効かない。雨宮が痛む肩を押さえながら、叫んだ。

「扉に近づきすぎないでください! 風で持っていかれます!」

「でも、中に人が」

「近づけば巻き込まれます!」

 雨宮の声には、恐怖と責任が混じっていた。

 その時、扉の隙間から仁科要が飛び出してきた。

 正確には、押し出されたように見えた。彼は肩から屋上側へ転がり、濡れた床に膝をついた。スマホを胸に抱えたまま、激しく咳き込んでいる。

「仁科さん!」

 灯が駆け寄る。

 仁科は顔を上げ、すぐに扉を振り返った。

「まだ、中に」

「誰が」

 海斗が詰め寄る。

 仁科は荒い息のまま答えた。

「黒瀬さんと、白石さん」

 海斗の腹の奥が冷えた。

「何で仁科さんが出てるんだよ」

 自分でも、責めるような声になったのが分かった。

 仁科は何も言い返さなかった。雨と飛沫で眼鏡が濡れている。その向こうの目は、ひどく怯えていた。

「黒瀬さんに出された。撮れって。外で、何があったか残せって」

「それで出たのかよ」

「海斗」

 灯が止めようとする。

 海斗は止まれなかった。

「中に二人残して、自分だけ出たのかよ」

 仁科は唇を噛んだ。

「そうだよ」

 その答えは、言い訳ではなかった。

「僕は出た。出されたけど、出た。中に残れなかった」

 仁科の声が震える。

「だから、撮る。撮るしかない」

 彼はスマホを握り直した。

 だが、画面を扉へ向けた瞬間、海斗の中で何かが切れた。

「撮るな!」

 海斗は怒鳴った。

 仁科がびくりとする。

「撮ってどうするんだよ。誰が残ったか、誰が押したか、誰が悪いか、またそれを探すのかよ」

「違う」

「何が違うんだよ」

「消さないためだ」

 仁科も怒鳴り返した。

 風の音の中で、二人の声だけがぶつかった。

「映っていなければ、なかったことになる。映っていても分からないことはある。でも、何も残らなければ、誰かが都合よく話を作る。管理会社が、住民が、世間が、僕が」

 仁科は歯を食いしばった。

「僕は、そういうことを何度もしてきた。誰かの失敗を切り取って、正義みたいな顔をして流した。そうすれば見られたから。自分は画面の外にいられたから。でも今は違う。僕もここにいる。だから、残すなら、逃げるためじゃなくて、消さないために残す」

 海斗は言葉を失った。

 仁科のスマホは、まだ扉を向いている。

 だが、彼の手は震えていた。

 扉の内側から、黒瀬の声が聞こえた。

「誰かいるか!」

 風に裂かれ、くぐもった声だった。

 海斗が扉へ向かおうとする。灯が止める。雨宮が叫ぶ。

「近づきすぎないで!」

 黒瀬の声が続いた。

「外側! 壁沿いに避難させろ! ヘリが来るまで中央に出すな!」

 外に出ても、彼はまだ指示を出している。

 海斗は胸が締めつけられた。

「黒瀬さん!」

 海斗は叫んだ。

「出てください!」

 返事はなかった。

 代わりに、扉がまた大きく揺れた。

 内側から押さえる音。黒瀬の呻き声。もう一人、澪の声らしきものも混じった気がした。

 灯が雨宮に聞いた。

「外側から補助できませんか」

「扉の端を押さえることはできます。でも、内側の支点がなければ閉じます」

「ロープは」

「備品棚に避難用ロープがあるはずです。ただ、風で絡まる可能性が」

「可能性の話は後で。ありますか」

 雨宮は痛む肩を押さえながら、備品棚へ向かった。律子が乃々を近くの女性に預け、雨宮を支える。

「私も行きます」

「佐伯さんはお子さんを」

「今は、手がいるんでしょう」

 律子の声は震えていたが、足は動いていた。

 海斗はその姿を見た。

 この人は、最初に澪を拒んだ。雨宮を責めた。自分の娘を守るために、他人を押しのけようとした。

 だが今は、娘を他人に預け、雨宮を支えている。

 人は、一つの言葉だけで決まらない。

 一つの失敗だけでも、一つの善意だけでも決まらない。

 雨宮が備品棚を開ける。中には非常用毛布、発煙筒、救急箱、ロープ、簡易担架が入っていた。濡れた手でロープを取り出そうとして、右肩の痛みに顔を歪める。

 律子が代わりに引き出した。

「これですか」

「はい。扉の内側のハンドルに回せれば、外から引けるかもしれません」

「内側にどうやって」

 その問いに、全員が扉を見る。

 中にいる人間に渡すしかない。

 しかし扉の隙間は狭く、風が強い。近づけば体を持っていかれる。足元も滑る。

「俺が行く」

 海斗は言った。

 灯が即座に首を振る。

「だめ」

「封筒を返す」

「今それを理由にしないで」

「理由じゃない。約束だ」

「戻れば危ない」

「知ってる」

「知ってて行くのは、勇気じゃない」

「じゃあ何だよ」

「無謀」

「それでも」

「海斗!」

 灯の叫びに、海斗は止まった。

 姉の目から涙が落ちていた。雨なのか涙なのか分からない。ただ、彼女の顔は確かに崩れていた。

「お願いだから、私に二回も弟を失わせないで」

 その言葉で、海斗は動けなくなった。

 二回。

 一回目は何だ。

 その答えを、海斗は知っていた。母の再婚以来、彼は家から少しずつ離れた。灯の部屋に逃げ込み、何も決めず、家族の中で自分だけが傷ついているような顔をしていた。灯はそれを見ていたのだ。弟がいなくなっていくのを、ずっと見ていた。

 海斗は何も言えなかった。

 代わりに、仁科が動いた。

「僕が行く」

 海斗が振り返る。

「何で」

「さっき出たから」

「それ、理由にならないって黒瀬さんに言われただろ」

「そうだね」

 仁科はスマホを海斗へ差し出した。

「持ってて」

「え」

「撮るなら、君が撮って」

「嫌だよ」

「じゃあ撮らなくていい。持ってるだけでいい」

 仁科はロープを受け取った。

「僕は軽い。黒瀬さんが言った通り、扉を支えるには軽すぎる。でも、隙間まで行ってロープを渡すくらいならできる」

 雨宮が言った。

「危険です。風に煽られたら」

「分かってます」

 仁科は扉を見た。

「分かった上で、やります」

 それは先ほどまでの、撮ることで距離を取る仁科ではなかった。画面のこちら側に立つ人間の顔だった。

 黒瀬の声がまた聞こえた。

「外! まだか!」

「ロープを渡します!」

 雨宮が叫ぶ。

「白石さん、黒瀬さん! 内側のハンドルに回せますか!」

 扉の向こうで、澪の声がした。

「やってみます!」

 その声を聞いた瞬間、海斗は胸元の封筒を握った。

 生きている。

 澪はまだそこにいる。

 仁科が扉へ近づく。雨宮と律子がロープの片端を押さえ、灯が仁科の腰にもう一方のロープを結びつけた。

「これで引き戻します」

「信用していいですか」

 仁科が冗談めかして言った。

 灯は真顔で答えた。

「信用しなくても、引き戻します」

「頼もしいですね」

「怖いだけです」

 仁科は小さく笑った。

 そして、屋上扉へ向かった。

 風が彼を叩く。濡れた床で足が滑りかける。海斗は思わず前に出そうになったが、灯に腕を掴まれた。雨宮が叫ぶ。

「低く! 壁側から!」

 仁科は身を低くし、扉の隙間に近づく。

 扉は内側から押さえられているが、それでも暴れている。外から見ると、鋼鉄の板が呼吸しているようだった。開いて、戻り、また開く。そのたびに、内側の二人にどれほどの負担がかかっているのか想像できた。

「白石さん!」

 仁科が叫ぶ。

 扉の隙間から、澪の手が見えた。

 白く、濡れた手。

 海斗は息を呑んだ。

 その手にロープが渡される。だが、風に煽られてロープが外れかけた。仁科が身を乗り出す。

「危ない!」

 灯が叫ぶ。

 仁科の足が滑った。

 海斗は反射的に動いた。灯の手を振りほどき、仁科の腰に結ばれたロープを掴む。雨宮と律子も引く。仁科の体が屋上側へ倒れ込み、寸前で止まった。

「引け!」

 黒瀬の声が内側から響いた。

 澪の手がロープを掴み直す。隙間の向こうで、何かに巻きつけようとしているのが分かった。

「入りました!」

 澪の声。

「引いてください!」

 外側の全員がロープを引いた。

 海斗、灯、雨宮、律子、仁科、近くにいた住民たちも加わる。ロープが軋む。扉が少しだけ安定した。完全ではないが、内側の負担がわずかに軽くなったのが分かった。

「今なら一人出られる!」

 雨宮が叫ぶ。

「黒瀬さん! 白石さん! どちらか先に!」

 返事はない。

 海斗が叫ぶ。

「白石さん、出てください!」

 澪の声が返ってきた。

「黒瀬さんが先です!」

 黒瀬が怒鳴る。

「馬鹿言うな! お前が先だ!」

「足が邪魔で遅いんです!」

「俺は足が使えないんだよ!」

 非常時だというのに、二人の言い合いはどこか滑稽ですらあった。だが、誰も笑わなかった。どちらも、自分ではなく相手を出そうとしている。

 灯が叫んだ。

「どちらでもいいから、早く!」

 それは残酷な正論だった。

 扉の内側で、黒瀬が呻いた。

「白石、行け」

「嫌です」

「命令だ」

「あなたは私の上司じゃありません」

「元消防だ」

「今は違うんでしょう」

 澪の声は震えていた。怖いのだ。だが、譲らない。

 黒瀬が短く笑ったような声を出した。

「言うようになったな」

「さっき会ったばかりです」

「十分だ」

 その直後、扉が大きく押し返された。

 ロープが手に食い込む。海斗は歯を食いしばった。全員で引いても、風と扉の力に負けそうになる。水の音も近い。前室の中はどうなっているのか。海斗には見えない。

「時間がない!」

 雨宮が叫ぶ。

「水が前室に入っています!」

 澪の声が聞こえた。

「黒瀬さん、行って!」

 黒瀬が怒鳴る。

「お前が行け!」

 その時、内側で何かが倒れる音がした。

 重いものが水に落ちる音。

「黒瀬さん!」

 澪の叫び。

 海斗の全身が冷たくなった。

「黒瀬さん!」

 灯も叫ぶ。

 返事がない。

 扉が急に重くなった。内側で支えていた力の一部が消えたのだ。ロープが激しく揺れる。外側の全員が引く。仁科が歯を食いしばり、雨宮が痛む肩を忘れたように左腕でロープを掴み、律子が叫びながら引く。

「白石さん!」

 海斗は扉に近づいた。

 灯が止める前に、隙間へ身を寄せる。

「出てください!」

 隙間の向こうに、澪の顔が見えた。

 濡れた髪。青白い唇。額に張りついた汗と水。だが目ははっきりしていた。

「黒瀬さんが倒れた」

「じゃあ引っ張って」

「水が」

「二人で出ればいい!」

「無理です」

「無理って言うな!」

 海斗は叫んだ。

「封筒、返すんだろ! 外で返すって、言っただろ!」

 澪は一瞬だけ、泣きそうな顔をした。

 そして微笑んだ。

「覚えていて」

「嫌だ」

「床島くん」

「それ、嫌だって言っただろ!」

 海斗は隙間へ手を伸ばした。

 澪の手が近づく。

 触れた。

 冷たい手だった。

 海斗は必死に掴んだ。澪も掴み返す。外側から灯が海斗の腰を支え、仁科がロープを引き、雨宮と律子も叫んでいる。

「引いて!」

 灯の声。

 澪の体が少しだけ扉の隙間へ近づく。

 その瞬間、内側で水が大きく跳ねる音がした。

 澪の表情が変わった。

 何かを見た顔だった。

 海斗には見えない。見えないが、彼女が何を見たのか分かってしまった。

 黒瀬だ。

 倒れた黒瀬が、水の中で扉を支えようとしている。あるいは、支えきれなくなっている。

 澪の手から力が抜けかけた。

「だめだ!」

 海斗は叫ぶ。

「手を離すな!」

「黒瀬さんが」

「後で助ける!」

「今、離したら扉が閉まります」

「じゃあ、出ろよ!」

「出たら閉まります」

 その答えが、最後の現実だった。

 ロープで支えても、外側から引いても、内側に誰かがいなければ、扉は閉まる。

 そして黒瀬は倒れた。

 残っているのは、澪だった。

「白石さん」

 海斗の声は、もう怒鳴り声ではなかった。

「お願いだから」

 澪は海斗の手を見た。

 その手を、そっと外した。

「返しに来てって言ったのに」

 海斗の声が掠れる。

 澪は微笑んだ。

「届きました」

 海斗は意味が分からなかった。

「何が」

「手紙」

 澪は扉の内側で、何かを足で押さえるように姿勢を変えた。水が跳ねる音がする。彼女の肩越しに、前室の赤い非常灯が見えた。床の水に、濡れた名簿が浮いている。そこに、誰かの名前が滲んでいる。

「あなたが持っているから」

「そんなの、違う」

「違わないです」

「違う!」

「床島くん」

 澪の声は、不思議なほど穏やかだった。

「誰かに届けば、配達は終わりです」

 扉がまた揺れる。

 ロープが限界まで張る。雨宮が叫んだ。

「離れて! 扉が戻ります!」

「嫌だ!」

 海斗は扉にしがみつこうとした。

 その時、黒瀬の声が内側から聞こえた。

 ひどく低く、かすれた声だった。

「床島」

 海斗は息を止めた。

「はい」

「行け」

「嫌です」

「封筒、濡らすな」

「黒瀬さん」

「それと」

 黒瀬の声が途切れる。水音が混じる。

「姉ちゃんの言うことは、たまには聞け」

 海斗の目から涙が落ちた。

 風でどこかへ飛ばされる。

 澪が海斗の手を、完全に離した。

「さよならは言いません」

「白石さん!」

「返しに来てください。いつか」

 扉が閉まり始めた。

 外側の全員がロープを引いた。だが、内側から押さえる力が一瞬緩み、風が勝った。鋼鉄扉がゆっくりと、しかし確実に戻っていく。

 海斗は叫びながら手を伸ばした。

 隙間の向こうで、澪が黒瀬の方へ振り返るのが見えた。

 彼女は一人で扉を押さえていたのではない。

 水の中で倒れた黒瀬も、まだ体を扉に預けていた。

 二人で、押さえていた。

 いや、もしかすると、最後の瞬間には、どちらが押さえていたのか分からない。黒瀬なのか、澪なのか。二人なのか。ロープを引く外側の人間たちも含めてなのか。

 分からなかった。

 扉が閉まる。

 最後に見えたのは、澪の手だった。

 白い手。濡れた手。何かを押さえる手。

 その向こうで、赤い非常灯が揺れていた。

 鋼鉄の扉が、重い音を立てて閉じた。

 世界が切断された。

 しばらく、誰も動かなかった。

 屋上には風の音があった。雨粒が床を叩く音があった。遠くからヘリのローター音が近づいていた。生き残った住民たちのすすり泣きがあった。

 だが、海斗には扉の内側の音しか聞こえなかった。

 閉じた扉の向こうで、何かがまだ押さえられているような音。

 一度。

 二度。

 三度。

 それが本当に聞こえたのか、海斗の記憶が作った音なのか、分からない。

 分からないまま、海斗は扉に縋りついた。

「開けろよ」

 声にならなかった。

「開けろよ」

 灯が背後から抱きしめる。

「海斗」

「開けろよ!」

 叫んでも、扉は開かなかった。

 雨宮が濡れた床に膝をついた。律子は乃々を抱きしめ、泣いていた。仁科はスマホを握ったまま、画面を下に向けていた。彼は撮っていなかった。少なくとも、その瞬間は。

 誰も撮らなかった。

 だから、最後に誰が扉を押さえていたのか、誰にも証明できない。

 ヘリの音が近づく。

 屋上に白い光が差した。強風の中、救助隊の声が拡声器越しに響く。壁沿いに移動してください。頭を低くしてください。順番に救助します。声は現実的で、手順に満ちていた。人が助かるための声だった。

 けれど海斗は動けなかった。

 胸元に封筒がある。

 澪の父が残した手紙。

 折り目のついた、届かなかった言葉。

 それは濡れていなかった。澪が託し、海斗が握りしめ、屋上の風と雨から守った。守ってしまった。紙は残った。持ち主は扉の向こうに消えた。

 灯が海斗の顔を覗き込む。

「立てる?」

 海斗は答えられなかった。

「立って。救助が来てる」

「白石さんが」

「分かってる」

「黒瀬さんが」

「分かってる」

「何も分かってない」

「分かってないよ!」

 灯が叫んだ。

 その声に、海斗は顔を上げた。

 灯は泣いていた。

「私だって分からない。どうすればよかったのか、誰を先に出せばよかったのか、誰を残せばよかったのか、分からない。でも、今は立って。生きて外に出て。それしかできない」

 海斗は姉を見た。

 強い人だと思っていた。

 いつも必要なことを必要な順番でできる人だと思っていた。

 だが違った。

 灯も分からないまま動いていた。怖いまま、人を支え、決められないまま、誰かを外へ押し出していた。

 海斗は、ようやく立ち上がった。

 足が震える。

 胸元の封筒を押さえる。

 仁科が近づいてきた。

「床島くん」

 海斗は彼を見た。

 仁科はスマホを差し出した。

「撮れてない」

「え?」

「最後の瞬間、撮れてない。僕は……撮らなかった。撮れなかった」

 海斗は何も言わなかった。

 仁科は続ける。

「でも、音は少し残ってるかもしれない。扉の音。声。全部じゃないけど」

「それで、分かるんですか」

「分からないと思う」

 仁科は正直に言った。

「誰が最後だったかは、たぶん分からない」

 海斗は閉じた扉を見た。

 分からない。

 それは、今夜何度も繰り返された言葉だった。

 だが最後の分からないは、これまでのものとは違った。

 分からないから、なかったことにできる。

 分からないから、都合よく誰かを英雄にできる。

 分からないから、責任を曖昧にできる。

 分からないから、誰かがいたことまで消えてしまう。

 海斗は封筒を握った。

「分からなくても」

 声が出た。

 自分の声ではないようだった。

「いた」

 灯が海斗を見る。

 仁科も見る。

「誰かがいた。中に。最後まで」

 言いながら、海斗はそれが誰なのかを考えた。

 黒瀬か。

 澪か。

 二人か。

 それとも、外側でロープを引いた全員も、その扉を押さえた一部だったのか。

 分からない。

 けれど、誰もいなかったわけではない。

 それだけは、絶対に違う。

 救助隊員が屋上へ降り立った。強風の中、命綱をつけた隊員が住民たちを一人ずつ誘導する。けが人を優先し、子供を抱え、高齢者を支える。乃々が泣きながら母親にしがみついている。律子は何度も扉を見ていた。雨宮は救助隊員に前室の構造を説明しようとしているが、声が震えてうまく伝わらない。灯がその横で補足する。

 海斗は扉の前から動けなかった。

 救助隊員が近づく。

「君、移動できる?」

 海斗は頷いた。

「中に、人がいます」

 隊員の表情が変わる。

「何人?」

 海斗は答えようとした。

 一人。

 二人。

 分からない。

 そのどれも違った。

「分かりません」

 海斗は言った。

「でも、います」

 隊員は一瞬だけ海斗を見つめ、すぐに無線で連絡を取った。専門の救助チームが確認する。水位と扉の状態を見てから。今すぐは危険。そういう言葉が飛び交う。

 今すぐは危険。

 その言葉を聞いた瞬間、海斗は笑いそうになった。

 危険。

 そんなことは分かっている。

 危険だから、二人は残ったのだ。

 ヘリの光が屋上を白く照らす。雨と飛沫がその光の中で舞っている。まるで無数の紙片が空を飛んでいるようだった。

 海斗は胸元の封筒を取り出した。

 防水袋の中で、古い紙は折り畳まれたままだった。澪の父の言葉。誰にも届かなかった警告。折られて、持ち運ばれて、ようやく誰かの手に渡ったもの。

 海斗はそれを、両手で握った。

 扉の向こうの音は、もう聞こえなかった。

 本当に止まったのか、風で聞こえないだけなのか、分からない。

 ただ、海斗の耳には、まだ三度の音が残っていた。

 一度。

 二度。

 三度。

 誰かが、最後まで扉を押さえていた音。

 救助隊員に肩を支えられ、海斗は扉から離れた。

 灯が隣に来る。

 仁科が少し後ろにいる。

 雨宮は救助隊員に支えられ、律子は乃々を抱いている。

 屋上の隅で、山辺が手を合わせていた。

 誰に向けた祈りなのかは分からない。

 ヘリのローター音が、すべてを飲み込んでいく。

 海斗は最後にもう一度、屋上扉を振り返った。

 灰色の扉は、何も語らなかった。

 その向こうで何が起きたのか、誰がどの瞬間まで生きていたのか、誰の手が最後まで鉄を押さえていたのか、扉だけが知っている。

 けれど扉は、証言しない。

 だから、生き残った誰かが証言しなければならない。

 正確でなくても。

 完全でなくても。

 分からないことを、分からないまま。

 誰かがいた、ということだけは。

 海斗は封筒を握りしめた。

 白石澪に返すはずだったそれは、もう返せないかもしれない。

 だが、届かなかったことにはしない。

 そう思った瞬間、封筒の折り目が、指の腹に強く当たった。



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