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沈むマンション ――最後に屋上のドアを押さえたのは誰だったのか――  作者: 二条理|アコンプリス


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第五章 十七階の折り目

 屋上扉は、開いたとは言えなかった。

 わずかに隙間が生まれただけだった。黄色い固定バーが噛んでいるおかげで、扉は完全には閉じない。だが、それは人が通れるほどの幅ではない。外から吹き込む風は、その細い隙間を刃のように通り抜け、前室の中にいる人間たちの頬を切った。

 海斗は取っ手を握ったまま、息を吐いた。

 手が痺れている。腕の筋肉が、もう自分のものではないみたいだった。扉はただの鉄の板のはずなのに、そこには巨大な生き物の意思があるようだった。開けまいとしている。こちら側の人間を外に出すまいとしている。そう思えてしまうほど、重かった。

 床には水が広がっていた。

 前室の入口扉の下から滲み出した水は、もう細い筋ではなくなっている。足首まで来るほどではない。けれど、床全体に薄い膜を作り、人々の靴底を濡らしていた。水の上に非常灯の赤が揺れている。その赤は血のようでもあり、夕暮れのようでもあった。

 濡れた名簿が、床の隅に張りついていた。

 海斗はそれが気になって仕方なかった。雨宮が書き加えた避難者名。そこに白石澪の名前もあった。だが水に濡れ、インクは滲んでいる。名前はあるのに、消えかけている。

 人間の名前は、思っていたより簡単に消える。

 そんなことを考えている場合ではないと分かっていた。それでも、目が勝手にそちらへ向いてしまう。

「もう少し開けます」

 雨宮千尋が言った。

 彼女は佐伯律子に支えられながら立っていた。右肩を痛めているせいで、腕を上げるたびに顔を歪める。それでも、屋上扉の構造を説明できるのは彼女だけだった。さっきまで責められていた女が、今は全員の命綱になっている。

 この場所では、人の役割がすぐに変わる。

 加害者に見えた人間が案内人になり、怒鳴っていた人間が誰かを支え、撮っているだけだった人間がライトを掲げる。善人も悪人も、固定された名前ではなく、その瞬間の行動でしかなかった。

「固定バーは仮です。扉を人が通れる幅まで開けたら、内側から押さえ続ける必要があります。最初は私が」

「その肩で?」

 黒瀬真吾が遮った。

 彼は壁際に座り、右足を伸ばしていた。顔色が悪い。額には脂汗が浮いている。それでも声にはまだ力があった。

「肩は関係ありません」

「関係ある」

「私が構造を知っています」

「構造を知っていても、体が持たなければ意味がない」

 黒瀬はそう言って立ち上がろうとした。灯がすぐに止める。

「黒瀬さん、座ってください」

「いつまで座っていればいい」

「立たなくていいところまでです」

「そんなところは、もうないだろ」

 灯は返答に詰まった。

 その通りだった。

 前室にいる全員が、もう誰かの助けなしには進めない場所まで来ている。足を痛めた者、腕を痛めた者、子供を抱いた者、老人を支える者、恐怖で立ち尽くす者。誰か一人が強ければ全員助かる、という状況ではなかった。

 扉の向こうに見える屋上は、近い。

 だが近すぎる出口ほど、時に残酷だ。

「子供から出しましょう」

 灯が言った。

 それは当然の判断だった。だが、その当然さが前室に緊張を生んだ。子供が先なら、高齢者はどうする。怪我人はどうする。住民ではない澪はどこに入る。雨宮は残るべきなのか。黒瀬は支える側なのか、支えられる側なのか。誰も口にしない問いが、湿った空気の中に浮かんでいた。

 佐伯律子は乃々を抱きしめていた。

 乃々は泣き疲れたのか、母親の肩に顎を乗せ、ぼんやり屋上扉を見ている。手には茶色い犬のぬいぐるみ。ぬいぐるみの耳も濡れていた。

「ののちゃんを最初に」

 灯が言った。

 律子は一瞬、何かを言おうとした。礼なのか、謝罪なのか、あるいは「他の人は」と言おうとしたのか。結局、何も言わなかった。ただ、乃々の背中を撫でた。

「聞こえた? 乃々、外に出るよ」

「ママも?」

「もちろん」

「ドア押さえる人は?」

 律子の手が止まった。

 誰も答えなかった。

 その沈黙が、乃々には答えに聞こえたのかもしれない。彼女は母親の肩から顔を上げ、前室の大人たちを見た。

「ドア押さえる人、あとで来る?」

 同じ質問だった。

 少し前にも彼女はそう聞いた。あの時、白石澪が「乗れますよ」と答えた。だが今は、誰も軽々しく答えられなかった。

 澪は壁際に立っていた。足首の痛みが増しているのか、唇の色が悪い。胸元には防水袋に入った古い封筒がある。扉の隙間から吹き込む風で、ジャンパーの裾が細かく揺れていた。

 乃々の視線に気づいた澪は、少しだけ微笑んだ。

「行くために、今みんなで考えてる」

「みんな?」

「うん。みんな」

 嘘ではなかった。だが、答えでもなかった。

 雨宮が前室の壁を確認していた。屋上扉の横には、手動解除の説明プレートがある。濡れた指で表面を拭き、文字を読む。

「扉は外開きです。ただ、今は風が強くて押し戻されています。固定バーだけでは人が通るたびに外れます。内側から二人以上で押さえ、開放角度を維持する必要があります」

「二人以上?」

 仁科が尋ねた。彼はスマホのライトを消していない。撮影ではなく照明として使っている。その白い光が、雨宮の顔と説明プレートを照らしていた。

「はい」

「さっきは、一人が押さえればって」

「通常の風速なら、一人で一時的に支えられる想定です。でも今は外部風速が高い。扉のヒンジにも負荷がかかっています」

「つまり?」

 仁科の声が少し掠れた。

 雨宮は前室にいる全員を見た。

「一人では持ちません」

 その言葉は、扉の隙間から吹き込む風より冷たかった。

 海斗は取っ手を握り直した。

 一人では持たない。

 では、誰が残るのかという問いは、変わった。

 誰か一人ではない。

 誰と誰が残るのか。

 前室の空気が、重く沈んだ。

「交代すればいいだろ」

 スーツケースを捨てた男が言った。さっき雨宮を掴んだ男だ。名前はまだ知らない。知りたいとも思えなかった。

「全員が順番に押さえて、最後に残った奴も出ればいい」

「扉を支えながら、最後の人が外に出るには、誰かが内側に残っていなければなりません」

 雨宮が答える。

「だから、外側から押さえれば」

「外側には取っ手がありません。風向きによっては、外から閉まる扉を支えられません」

「そんな馬鹿な造りがあるかよ」

「あります」

 雨宮の声は静かだった。

「この扉は、普段人が避難に使うためのものではなく、管理用の屋上アクセス扉です。通常時は電動制御と非常電源で開放を維持します。今は、その電源が死んでいます」

「じゃあ、設計ミスじゃないか」

「そうかもしれません」

 雨宮は否定しなかった。

 男は一瞬言葉を失った。否定されれば怒れた。言い訳されれば責められた。だが、認められると、怒りの置き場所がなくなる。

 黒瀬が壁に手をついて立った。

「俺が残る」

「黒瀬さん」

 灯がすぐに言った。

「その足では無理です」

「足で扉を押さえるわけじゃない」

「踏ん張れません」

「元消防が最後に残る。話としては綺麗だろ」

「冗談を言っている場合じゃありません」

「冗談じゃない」

 黒瀬は灯を見た。

「俺はもう、速く歩けない。山辺さんを支えながら上がるのも限界だ。どうせ最後まで動けないなら、ここで役に立つ方がいい」

「どうせ、なんて言わないでください」

「言わせろ。自分の体のことだ」

 黒瀬の声には、諦めではなく、冷静な判断があった。だからこそ灯は言葉を失った。

 海斗は黒瀬を見ながら、自分の中に小さな安堵が生まれたことに気づいた。

 黒瀬が残ると言った。

 誰かが名乗った。

 それなら、自分は残らなくていい。

 そう思った。

 その瞬間、海斗は自分が嫌になった。喉の奥に苦いものが込み上げる。黒瀬の犠牲を悲しむ前に、自分の安全を計算した。自分だけではない。きっと前室の何人かは同じことを考えたはずだ。けれど、自分がそう考えたことは消えない。

 灯が海斗を見た。

 姉に見透かされた気がして、海斗は目を逸らした。

「一人では持たないと言ったはずです」

 雨宮が黒瀬に言う。

「なら二人目が必要だ」

 黒瀬は答えた。

 誰も名乗らなかった。

 水音がした。

 入口扉の下から流れ込む水は、少しずつ水位を上げていた。まだ靴底を濡らす程度だが、排水溝は追いついていない。前室全体が、浅い水槽のようになり始めている。

 山辺が壁に寄りかかりながら言った。

「私が」

 灯が振り返る。

「山辺さんは無理です」

「でも、私が一番遅いでしょう」

「無理です」

「迷惑をかけてばかりで」

「違います」

 灯の声が強くなった。

「自分が遅いから残る、というのは違います」

 山辺は黙った。目に涙が浮かんでいた。

 犬を抱いた女性も、老人も、下階から合流した若い男も、誰もが視線を泳がせている。残るべき理由なら、探せば誰にでもある。足が遅い。怪我をしている。責任がある。住民ではない。年を取っている。迷惑をかけた。誰かを押したかもしれない。何もしなかった。

 だが、理由があることと、残れることは違う。

 死ぬ理由を他人に認めてもらいたいわけではない。

 生きる理由を、自分で言えなくなっているだけだ。

 海斗はそう思った。思っただけで、何も言わなかった。

 澪が前へ出た。

 足を引きずりながら。

「私が、黒瀬さんと押さえます」

 灯が顔を上げた。

「白石さん」

「住民じゃありませんし」

 澪は淡々と言った。

 その言い方に、前室の数人が目を伏せた。さっき律子が言った言葉が、まだ空気の中に残っている。

「その理由はだめです」

 灯が言った。

「でも事実です」

「事実でも、理由にしていいことと悪いことがあります」

「私の名前は、もともと名簿になかった」

「今はあります」

 灯が即座に答える。

 澪は少しだけ笑った。

「あの紙、水で濡れてますよ」

 海斗は名簿を見た。

 確かに、白石澪の名前は滲みかけている。

「書いても、すぐ消えるんです」

 澪の声は静かだった。

「だから、いいです。私は、もともといなかったことにしやすい」

 その言葉が、前室に刺さった。

 佐伯律子が唇を噛んだ。さっきの言葉を思い出したのだろう。住民じゃない人まで入れるんですか。自分が口にした言葉は、今、澪自身の口で死ぬ理由に変えられようとしている。

「やめてください」

 律子が言った。

 澪が彼女を見る。

「私、そんな意味で言ったんじゃありません」

「知っています」

「知ってるなら」

「でも、聞こえました」

 澪の声は穏やかだった。

「ここでは、言葉がそのまま残ります。言った人の意味じゃなくて、聞いた人の中に」

 律子は何も言えなかった。

 乃々が母親の腕の中で、澪を見ていた。

「お姉ちゃん、ドア押さえるの?」

 澪は答えなかった。

 乃々が続ける。

「あとで来る?」

 澪は微笑んだ。

 だが、今度は「来る」と言わなかった。

 灯が澪の前に立った。

「白石さん。封筒、何ですか」

 突然の問いに、澪は少し驚いたようだった。

「今、それが関係ありますか」

「あります」

 灯は澪の胸元の防水袋を見た。

「あなたは、それを届けるためにここへ来たんですよね。ただの配達物じゃない」

 澪は黙った。

 雨宮が眉をひそめた。

「届け先は?」

 澪は防水袋から封筒を取り出した。

 古い封筒だった。水からは守られているが、紙そのものに長い年月の疲れが染み込んでいる。縦横に深い折り目があり、角は丸くなっていた。何度も開かれ、読まれ、また閉じられたものだと分かる。

「二十階相当の屋上設備区画にある、旧管理組合保管庫宛てです」

「旧管理組合?」

 雨宮が聞き返す。

「今は使われていない部屋です。宛名は、曽根原武」

 雨宮の顔が変わった。

 ほんの一瞬だったが、海斗にも分かった。

 知っている名前なのだ。

「誰ですか」

 仁科が尋ねる。

 雨宮は言葉を選ぶように沈黙した。

「ブルームタワーの初期設計変更に関わった、元設備顧問です。数年前に亡くなっています」

「亡くなってる人に配達?」

 仁科の目が鋭くなる。

 澪は封筒を握りしめた。

「父の手紙です」

 前室の風音が、一瞬遠のいたように感じた。

「父は、このマンションの設備工事に関わっていました。正式な社員じゃありません。下請けのさらに下でした。防潮ゲートの仕様変更に反対したそうです。けれど、記録には残らなかった」

 澪の声は淡々としていた。感情を込めないよう、慎重に言葉を並べているようだった。

「父は、危ないと何度も言いました。湾岸部の高潮と停電が重なった場合、ゲートが閉まり切らなければ地下設備階から水が入る。非常電源の位置も低すぎる。排水能力も足りない。でも、コストと工期の問題で、その警告は正式な議事録に残らなかった」

 雨宮は青ざめていた。

「その話は、社内資料には」

「残っていないと思います」

 澪は言った。

「残らないようにされたから」

 誰も声を出さなかった。

 仁科がスマホを構え直そうとしたが、黒瀬が目で制した。仁科は迷った末、撮らなかった。ライトだけが白く前室を照らしている。

「父は事故で亡くなりました。過労だったのか、自分で死んだのか、今でもよく分かりません。最後に残したのが、この手紙でした。曽根原さんに渡してくれと書いてありました。でも、その人も亡くなっていた。私は、どうすればいいか分からなくて、ずっと持っていました」

 澪は封筒の折り目を指でなぞった。

「捨てようとして、開いて。もういいと思って、折って。やっぱり届けようと思って、また開いて。何度も、何度も」

 海斗はその折り目を見た。

 紙は不思議だ。

 一度ついた折り目は、完全には消えない。どれだけ伸ばしても、そこだけ弱くなる。そこだけ光を違う角度で返す。折られた事実を、紙は覚えている。

「今日、ここに配達で来たのは偶然です」

 澪は続けた。

「でも、ブルームタワー宛ての荷物を見た時、父の手紙も持ってきました。旧保管庫に入れられなくても、どこかに置いて帰ろうと思った。父が危ないと言った建物が、まだ何も知らない顔で立っているのが嫌だったから」

「復讐に来たんですか」

 男が言った。

 澪は首を横に振った。

「復讐なら、もっと早く来ています」

「じゃあ何だよ」

「届けに来ただけです」

「誰に」

 澪は封筒を見た。

「分かりません。父の言葉を、誰かに」

 その言葉に、海斗は胸が詰まった。

 届ける相手がもういない手紙。

 記録に残らなかった警告。

 名簿に載っていなかった配達員。

 すべてが同じ形をしているように思えた。そこにあったのに、なかったことにされたものたち。誰かが見ないふりをしたものたち。

 雨宮が、澪の前に一歩出た。

 律子の支えを借りながら。

「白石さん」

 澪が彼女を見る。

「私の会社が、その警告を見落としていたのか、消したのか、私は今ここで断言できません。でも、防潮ゲートの不具合を、私は知っていた。それを住民に知らせなかった」

 雨宮は深く頭を下げた。

「申し訳ありませんでした」

 澪はしばらく雨宮を見ていた。

 それから、静かに言った。

「私に謝っても、父は戻りません」

「はい」

「でも、聞きました」

 澪は封筒を再び胸元へしまった。

「だから、今は扉を開けてください」

 雨宮は顔を上げた。

「はい」

 そのやり取りを、前室の全員が見ていた。

 単純な和解ではなかった。許しでもない。ただ、言葉が届いた。長い間折り畳まれていた言葉が、ようやく誰かの耳に入った。それだけのことだった。だが、海斗にはその瞬間、前室の空気が少しだけ変わったように思えた。

 水音がそれを引き裂く。

 入口扉が大きく軋んだ。

 水圧が増している。扉の下から吹き出す水は、もう筋ではなく、細い流れになっていた。前室の床に溜まった水が靴の甲を濡らし始める。乃々が悲鳴を上げた。

「時間がない」

 黒瀬が言った。

 雨宮が屋上扉を見た。

「避難を始めます。最初に子供、高齢者、怪我人。扉を支える人が最低二人必要です。途中交代しながら、できるだけ全員を出します」

「最後は?」

 仁科が尋ねた。

 誰もが聞きたくなかった問いだった。

 雨宮は答えなかった。

 黒瀬が答えた。

「最後に考える」

「それでは遅い」

 澪が言った。

「最初に決めると、途中で人が動けなくなる」

 黒瀬は澪を見た。

「最後に考えればいい。人間は、先に死ぬ順番を決めるほど強くない」

 その言葉に、前室の誰かが小さく泣いた。

 灯が扉の取っ手を握った。

「まず開ける。話はそれからです」

 黒瀬が隣に立つ。

「俺が押さえる」

「黒瀬さんは初動だけです。交代します」

「命令か」

「命令です」

 灯はきっぱり言った。

 黒瀬がわずかに笑う。

「看護学生は強いな」

「怖いだけです」

「それは、さっき聞いた」

 海斗も取っ手に手をかけた。灯が目だけで見た。

「海斗」

「俺もやる」

「逃げてもいいよ」

「逃げない」

 その言葉を口にした瞬間、海斗は自分で自分を信じられなかった。逃げないと言った。言ってしまった。けれど、扉が開き、風が吹き込み、誰かが先に出て、最後の人間が残る段階になったら、自分は本当に逃げないのか。

 分からなかった。

 分からないまま、取っ手を握った。

 仁科がスマホのライトを扉へ向ける。

「僕も、押さえます」

 黒瀬が彼を見る。

「撮らなくていいのか」

「今は、手が足りないんでしょう」

 仁科の声はぎこちなかった。だが、それは本心に聞こえた。

 律子は乃々を犬を抱いた女性に預け、雨宮の体を支えたまま言った。

「私は、雨宮さんを支えます。この人が手順を言えないと困るので」

 雨宮が小さく頭を下げる。

 山辺は壁際で、老人の手を握っていた。自分が動けないことを責める代わりに、隣の人を落ち着かせようとしている。

 澪は足を引きずりながら、扉の下の固定バーのそばにしゃがんだ。

「バー、外れたら押さえます」

「足が」

 灯が言う。

「足は一本痛いだけです。手は二本あります」

 その言い方に、誰かが小さく笑った。緊張の中で生まれた、ほとんど息のような笑いだった。

 雨宮が深く息を吸った。

「いきます。固定バーを一度外して、扉を一気に開けます。風で戻されるので、取っ手側は引く。蝶番側は押さえる。開いたら、子供を通します。外へ出た人はすぐ右側の壁沿いに移動してください。屋上中央には出ないでください。滑ります」

 灯が頷く。

 黒瀬も頷く。

 海斗は喉を鳴らした。

 澪が黄色いバーに手をかける。

「外します」

 バーが抜けた。

 その瞬間、扉がこちら側へ押し戻されようとした。灯と海斗が取っ手を引く。黒瀬が肩を入れる。仁科が片手でスマホを壁に置き、両手で扉を押さえた。澪が足元のバーを押さえ、雨宮が叫ぶ。

「今!」

 扉が開いた。

 風が爆発した。

 前室にいた全員が、同時に息を呑んだ。冷たい飛沫が顔を打ち、髪を濡らす。屋上の向こうには黒い空があった。海は見えない。だが海がそこにあることは、匂いで分かった。視界の端で、遠くの灯りが滲んでいる。ヘリの音らしきものが、風に混じって聞こえた。

「子供!」

 灯が叫んだ。

 律子が乃々を抱き上げる。

「乃々、目を閉じて」

「ママ」

「大丈夫。絶対離さない」

 律子は乃々を抱え、扉の隙間へ向かった。風が二人を押し戻そうとする。雨宮が左腕で律子の背を押した。海斗と灯が扉を引く。黒瀬が踏ん張る。仁科が顔を歪めながら扉を支える。

 律子と乃々が屋上へ出た。

 外の闇に二人の姿が消える。

 次に老人。山辺。犬を抱いた女性。下階から来た住民たち。順番は完全ではなかった。誰かが先に出ようとし、誰かがそれを押さえる。灯が叫び、黒瀬が怒鳴り、雨宮が外の動線を指示する。

 海斗の腕は限界に近かった。

 扉は生き物のように暴れる。外へ人が通るたび、風の流れが変わり、内側の人間を叩く。手の皮が剥けそうだった。足元の水で踏ん張りが利かない。何度も滑りそうになる。

「海斗、腰!」

 灯が叫ぶ。

「分かってる!」

「分かってない!」

「うるさい!」

 こんな時でも姉弟喧嘩のような言葉が出る。そのことが妙に現実的で、海斗は泣きそうになった。

 黒瀬の右足が崩れた。

「黒瀬さん!」

 灯が叫ぶ。

 黒瀬は片膝をついた。だが扉から肩を離さない。

「構うな。通せ」

「無理です」

「通せ!」

 山辺が屋上へ出る直前、振り返った。

「黒瀬さん」

「行け!」

 山辺は泣きながら外へ出た。

 仁科が黒瀬の位置に体を入れようとする。

「代わります」

「お前じゃ軽い」

「軽くても、いないよりましです」

「それはそうだ」

 黒瀬は苦しそうに笑った。

 澪がバーを再び差し込もうとした。だが、扉の開放角度が大きくなったため、さっきの仮固定位置には合わない。

「バーが入りません」

 雨宮が叫ぶ。

「その角度では固定できません。人が押さえるしかない」

 その言葉が、最後の希望を削った。

 交代しながら全員出る。

 その計画は、理屈としては可能だった。だが、最後の瞬間に必ず穴が残る。扉を押さえる人数が足りなくなる。誰かが内側に残らなければならない。

 分かっていたことが、現実の形を持ち始めていた。

 前室の人間は、もう半分以下になっていた。

 律子と乃々は外へ出た。山辺も老人も出た。犬を抱いた女性も出た。雨宮はまだ内側にいる。灯、海斗、黒瀬、仁科、澪も残っている。ほかに数人。

 外から律子の声が聞こえた。

「灯さん! 海斗くん!」

 風に千切れそうな声だった。

 灯が叫ぶ。

「右の壁沿いに! 中央に出ないで!」

 律子の返事は聞こえなかった。

 雨宮が腕を押さえながら扉へ近づく。

「私が入ります」

「肩が」

 灯が言う。

「片方でも押せます」

「押せません」

「責任があります」

「責任で筋力は増えません」

 灯の言葉は厳しかった。

 雨宮は言葉を失う。

 澪が立ち上がった。

「私が」

「白石さんもだめです」

 灯が即座に言う。

「だめな人ばっかりですね」

 澪は少しだけ笑った。

「でも、だめな人しか残っていない」

 その言葉に、海斗は顔を上げた。

 だめな人しか残っていない。

 足を痛めた人。肩を痛めた人。撮るしかできなかった人。責任を取れなかった人。決められなかった人。

 完璧な英雄など、ここにはいない。

 いるのは、だめなところを抱えたまま扉を押さえている人間たちだけだった。

 澪が胸元の封筒を取り出した。

「床島くん」

 急に呼ばれて、海斗は驚いた。

「はい」

「これ、持っていてください」

「え」

 澪は封筒を差し出した。

「もし私が落としたら、誰かに届かなくなるので」

「自分で持って出ればいい」

「そのつもりです。でも、念のため」

「そういうの、やめてください」

 海斗の声が震えた。

「何で俺に渡すんですか」

「あなた、見ていたから」

「何を」

「名簿」

 澪は床の隅に残った濡れた紙を見た。

「私の名前が消えかけてるの、見てましたよね」

 海斗は答えられなかった。

「だから、あなたなら、消えたことに気づいてくれると思った」

 封筒が海斗の手に押しつけられる。

 古い紙の感触が、防水袋越しに伝わってきた。深い折り目。何度も迷った跡。何度も諦めかけ、それでも捨てなかった跡。

「白石さん」

「出ますよ。ちゃんと」

 澪はそう言った。

 だが、その言葉を誰も完全には信じられなかった。

 残っていた数人の住民が外へ出る。仁科が扉を押さえながら、外へ目をやった。

「ヘリ、見えます」

「本当か」

 黒瀬が言う。

「ライトが。こっちに向かってる」

 外に出た住民たちの声も聞こえる。助かったわけではない。まだ屋上で救助を待つ必要がある。それでも、前室よりは外に近い。外界に近い。生に近い。

 雨宮が言った。

「残っている人は?」

 灯が数える。

「私、海斗、黒瀬さん、仁科さん、白石さん、雨宮さん」

 六人。

 その数字が、重く響いた。

 六人のうち、誰が先に出るのか。

 誰が残るのか。

 黒瀬が言った。

「雨宮さん、出ろ」

「私は」

「外で救助に状況を伝えろ。扉の構造を知っている人間が外にも必要だ」

 雨宮は首を横に振る。

「私が残ります」

「残ったら伝えられない」

「でも」

「責任を取るなら、生きて説明しろ」

 雨宮は泣きそうな顔をした。

 黒瀬の言葉は、彼女にとって罰より厳しかったのかもしれない。死んで終わるより、生きて説明し続ける方が苦しいこともある。

 灯が雨宮の背中を押した。

「行ってください」

「でも」

「行って」

 雨宮は一歩、外へ踏み出した。

 風が彼女を押し戻そうとする。律子の声が外から聞こえた。誰かが雨宮の腕を掴んだらしい。彼女の姿が屋上へ消えた。

 残りは五人。

 黒瀬、灯、海斗、仁科、澪。

 黒瀬の右足はもうほとんど使えていない。仁科の腕は震えている。灯も限界だ。澪は足を引きずっている。海斗は封筒を胸元に入れ、取っ手を握り直した。

「灯、出て」

 海斗は言った。

 灯が振り返る。

「何言ってるの」

「出ろよ」

「海斗が先」

「嫌だ」

「ここで喧嘩しない」

「喧嘩じゃない」

「喧嘩です」

 黒瀬が苦しそうに笑った。

「姉弟は面倒だな」

 仁科が言った。

「僕が残ります」

 全員が彼を見た。

「撮っていただけでしたし」

「それは理由にならない」

 灯が言う。

「じゃあ、何なら理由になるんですか」

 仁科の声には、苛立ちではなく、疲労があった。

「責任がある人? 足を痛めた人? 住民じゃない人? 若い人? 男? そうやって理由を探しても、結局誰かを死なせる理由になるだけでしょう」

 誰も答えられなかった。

 仁科は続けた。

「だったら、僕が」

 その時、黒瀬が彼の肩を掴んだ。

「簡単に死ぬな」

「簡単じゃありません」

「今のは簡単だった」

 仁科は唇を噛んだ。

 黒瀬は扉に肩を押しつけながら、低く言った。

「死んで帳尻を合わせようとするな。そんなものは記録にもならない」

 仁科は黙った。

 外から、灯の名前を呼ぶ声が聞こえた。律子か、雨宮か。風に混ざって判別できない。

 澪が灯の手に触れた。

「床島さん」

「何ですか」

「あなたは外へ」

「嫌です」

「看護の知識がある人が外に必要です」

「そんな言い方」

「本当です」

 澪は静かに言った。

「怪我人がいます。子供もいます。あなたは、外で必要です」

「あなたも必要です」

「私は、手紙を届けるだけの人間です」

「それを軽く言わないで」

 灯の声が震えた。

 澪は少しだけ目を伏せた。

「軽く言っているわけではありません。軽くしないと、持てないだけです」

 その言葉に、灯は息を呑んだ。

 海斗は封筒の感触を胸に感じた。折り目。何度も折られた紙。持てない重さを、折ることで小さくしたもの。

 澪が灯の手を扉から外そうとした。

「外へ」

「嫌です」

「覚えている人でいてください」

 澪の声は、扉の轟音の中でもはっきり聞こえた。

「助けた人が誰だったか、分からなくても。何があったか、覚えている人が必要です」

 灯は首を横に振った。

「それなら、あなたも」

「私は、ずっと届ける側でした」

 澪は笑った。

「今度は、届いたかどうかを、誰かに見てもらえればいい」

 次の瞬間、扉が大きく揺れた。

 固定していた姿勢が崩れた。黒瀬が呻く。仁科が足を滑らせる。海斗の手から取っ手が外れかける。

「海斗!」

 灯が叫ぶ。

 海斗は必死に掴み直した。胸元の封筒が濡れないよう、片腕で押さえた。

 黒瀬が怒鳴った。

「灯さん、出ろ!」

「でも」

「外で弟を待て!」

 その言葉に、灯の動きが止まった。

 黒瀬は続けた。

「こいつはまだ出せる。あんたが外にいないと、出た時に止める人間がいない」

「何を」

「こいつが戻ろうとするのをだ」

 海斗は黒瀬を見た。

 黒瀬は海斗を見ない。扉だけを見ている。

「床島。お前は、まだ残る顔をしてない」

 海斗は何か言おうとした。

 だが、何も言えなかった。

 その通りだったからだ。

 残る覚悟など、まだなかった。残りたいと思っていない。誰かのために死ぬ自分を想像して、酔う余裕すらない。ただ、灯を出したい。澪を出したい。黒瀬にも仁科にも出てほしい。けれどそのために自分が残るとは、まだ言えない。

 言えない自分が、ここにいた。

 灯が外へ押し出される。

 澪と黒瀬が、ほとんど同時に彼女の手を離した。灯は抵抗したが、風に煽られ、屋上側から誰かに腕を掴まれた。律子の声が聞こえた。

「灯さん!」

 灯の姿が外へ消えた。

 残りは四人。

 黒瀬、海斗、仁科、澪。

 前室の水は、もう靴の中に入っていた。入口扉の下から流れ込む水は止まらない。背後にも死があり、前にも選択がある。

 仁科が息を切らしながら言った。

「床島くん、出ろ」

「嫌です」

「お姉さんが待ってる」

「だから何だよ」

「だから、生きろってことだろ」

 その言葉が、海斗の胸を殴った。

 生きろ。

 それは命令ではなく、誰かの希望だった。だが、その希望は時々、人を置き去りにする。

 澪が海斗を見た。

「封筒、お願いします」

「自分で持って行ってください」

「お願いします」

「嫌です」

「床島くん」

「嫌だって言ってるだろ!」

 海斗の声が前室に響いた。

 自分でも驚いた。怒鳴ったのは、澪に対してではない。自分に対してだった。託されることが怖い。覚えている人になれと言われるのが怖い。自分が助かる前提で話されるのが怖い。

 澪は怒らなかった。

 ただ、静かに言った。

「じゃあ、外で返してください」

 その言葉に、海斗は顔を上げた。

「外で、私に返してください」

 それは約束だった。

 澪が自分も出ると言った、初めての言葉だった。

 黒瀬が叫ぶ。

「仁科、先に出ろ!」

「でも」

「お前は外で映せ」

 仁科が黒瀬を見る。

「撮っていいんですか」

「今度は、人を責めるためじゃない。何があったか残すために撮れ」

 仁科の顔が歪んだ。

 彼は何か言おうとして、やめた。スマホを胸に押し込み、扉の隙間へ体を滑り込ませる。風に煽られ、外側の誰かに引き上げられるようにして姿が消えた。

 残りは三人。

 黒瀬、海斗、澪。

 黒瀬はもう立っているだけで限界だった。右足は震え、肩で扉を支える顔には血の気がない。澪は足元の水に膝まで濡れながら、扉の下側を押さえている。海斗は取っ手を握り、外と内の境目に立っていた。

「床島」

 黒瀬が言った。

「はい」

「封筒、濡らすなよ」

「黒瀬さん」

「それと、姉ちゃんに謝っとけ。手がかかる弟だって」

「自分で言ってください」

「それは無理そうだ」

「無理とか言うなよ」

 海斗の声が震えた。

 黒瀬は笑った。

「いい顔になった」

「何が」

「残りたい顔じゃない。残したくない顔だ」

 海斗には意味が分からなかった。

 澪が言った。

「床島くん、外へ」

「嫌だ」

「約束しました。外で返してくれるって」

「一緒に出ればいい」

「出ます」

「だったら」

「順番です」

 澪はそう言った。

 その時、黒瀬が海斗の肩を掴んだ。

 信じられないほど強い力だった。

「行け」

「嫌だ!」

「行け!」

 黒瀬に押され、海斗の体が扉の隙間へ向かった。外の風が全身を叩く。海斗は踏ん張ろうとした。だが足元の水で滑り、体勢が崩れた。

 澪が片手で海斗の胸元を押した。

「返しに来て」

 その声が聞こえた。

 次の瞬間、海斗は屋上側へ押し出されていた。

 外の風が顔を殴る。誰かが腕を掴む。灯の声が聞こえる。律子の声も。仁科の叫びも。海斗は振り返ろうとした。

 屋上扉の隙間の向こうに、前室が見えた。

 黒瀬の肩。澪の濡れた髪。水に浮く名簿。赤い非常灯。深い折り目のついた封筒の感触。

 そして扉が、再び大きく揺れた。

 海斗は叫んだ。

「白石さん!」

 声は風に千切られた。

 扉の向こうで、誰かがまだ押さえている。

 誰が、どの位置で、どれだけ残っているのか、海斗には分からなかった。

 ただ、内側から扉を支える音だけが聞こえた。

 一度。

 二度。

 三度。

 それは、人がまだそこにいる音だった。

 海斗は胸元の封筒を握りしめた。

 折り目が、指に当たった。

 紙は濡れていない。

 けれど、海斗の手は震えていた。



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