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沈むマンション ――最後に屋上のドアを押さえたのは誰だったのか――  作者: 二条理|アコンプリス


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第四章 責任者を沈めろ

 屋上前室の扉が閉まった瞬間、音の種類が変わった。

 それまでは、水が下から追ってくる音だった。階段を叩き、壁を殴り、配管の奥で喉を鳴らすような音。見えないものが見える場所へ迫ってくる恐怖だった。

 だが、前室に入ってから聞こえる音は、別のものだった。

 外からの風。

 鋼鉄の扉を叩く風。屋上の床を滑り、排水口を鳴らし、扉の隙間を探して前室へ入り込もうとする風。そこに混じって、雨か波しぶきか分からない粒が扉の向こうで弾けている。

 上にも敵がいる。

 海斗はそのことを、ようやく理解した。

 下からは水が来る。上には風がある。人間たちは、その間の薄い空間に押し込められていた。

 前室は、避難してきた全員を受け入れるには狭かった。コンクリートの四角い部屋。壁際に非常用の備品棚があり、奥には屋上へ続く灰色の扉がある。床には排水溝が切られているが、すでに細かな水滴が溜まっていた。外から吹き込んだものか、人々の濡れた靴から落ちたものか、あるいは壁のどこかから滲んできているのか分からない。

 人々は壁際に寄せられ、中央を空けるよう雨宮に指示された。けれど、全員が従えるほど余裕はなかった。誰かの肘が誰かの背中に当たり、荷物を捨てたはずの人間も、まだ何かしらを抱えている。子供を抱いた律子、犬を胸に抱く女性、山辺を支える灯と黒瀬、足を引きずる澪、スマホを握る仁科。誰もが自分の持ち場を守るように立っていた。

 海斗は老人のリュックを背負ったまま、壁際に押し込まれていた。肩が痛い。手のひらには汗が滲んでいる。息を吸うたび、前室の中の空気が少しずつ薄くなっていくように感じた。

「全員、入ったのか」

 誰かが言った。

 その問いに、誰もすぐには答えられなかった。

 全員。

 その言葉が、こんなに頼りないものだと海斗は知らなかった。誰が全員なのか。誰を数えれば全員になるのか。住民名簿に載っている者だけか。途中で合流した下階の住民も含むのか。白石澪のような、配達中に巻き込まれた者も含むのか。下に残っているかもしれない者たちは、もう全員の中に入らないのか。

 雨宮は前室の入口扉へ近づき、耳を澄ませた。外ではなく、今通ってきた管理用通路側の扉だ。向こうからは、水音が低く響いている。すでに近い。けれど、扉のすぐ向こうまで達しているのかどうかは分からなかった。

「名簿を確認します」

 雨宮は首から下げた社員証の裏に挟んでいた折り畳み式のクリップボードを取り出した。紙は湿気で少し波打っている。避難者の名前を書き込んだものだ。彼女の手元に、住民たちの視線が集まる。

「十七階以上の確認済み住民、二十一名。下階から合流した方が九名。白石さんを含めて、現在三十一名」

「三十一?」

 スーツケースを捨てた男が声を上げた。

「さっき三十人近くって言ってなかったか」

「合流した方がいます」

「じゃあ、増えてるじゃないか」

「避難者です」

「増えたら、その分遅くなるだろ」

 雨宮は返事をしなかった。

 その沈黙が、また火種になった。

「やっぱりおかしいんだよ」

 男は仁科の方を見た。

「あんた、さっきの動画、もう一回見せろ。防潮ゲートのやつ」

 仁科はスマホを握り直した。

「今は回線が切れてます。録画はあります」

「見せろ」

「ここで見る意味がありますか」

「あるだろ。何が起きたか分からないと」

「分かったところで水は止まりません」

 仁科の言葉に、男の目つきが変わった。

「撮ってたくせに、急にまともなこと言うんだな」

「僕は事実を確認したいだけです」

「じゃあ確認しろよ。こいつが何を知ってたのか」

 男が雨宮を指した。

 雨宮は名簿を持ったまま立っていた。前室の赤い非常灯が、彼女の頬を暗く染めている。目の下には疲労の影が濃かった。だが、背筋だけはまだ伸びていた。

 黒瀬が低い声で言った。

「今は扉を開ける準備が先だ」

「うるさい。あんたは何でも仕切ればいいと思ってるのか」

「思ってない」

「じゃあ黙ってろよ。俺たちは騙されてたんだぞ」

「騙されていたとしても、今ここで吊るし上げをしている時間はない」

「吊るし上げ? 説明を求めてるだけだ」

 言葉の形は、確かに説明要求だった。だが前室の空気は、そんな穏やかなものではなかった。住民たちの目は、雨宮の中から罪を引きずり出そうとしていた。彼女が何を知っていたのか。誰の指示だったのか。なぜ警告は放置されたのか。なぜ自分たちは今、こんな場所にいるのか。

 誰もが答えを欲しがっていた。

 けれどそれは、助かるための答えではない。怒るための答えだった。

 佐伯律子が、乃々を抱きしめたまま言った。

「雨宮さん。あなたは、危ないって知ってたんですか」

 その声は、先ほどより静かだった。静かな分だけ、重かった。

「佐伯さん」

 灯が制止しようとする。

「灯さん、私は聞きたいんです」

 律子は灯を見なかった。雨宮だけを見ていた。

「この子は、今日、熱を出していたんです。本当なら実家に帰る予定でした。でも雨が降りそうだから、明日にしようと思った。ここは安全なマンションだからって。防災設備がしっかりしているからって。そう思って、この子をここに寝かせていました」

 乃々が母親の首に顔を埋めた。

「それが間違いだったんですか」

 雨宮の喉が動いた。

「私は……全てを知っていたわけではありません」

「全てじゃなくていいです。危ない可能性があると、知っていましたか」

 前室が静まり返る。

 外の風だけが、鋼鉄扉を叩いた。

 雨宮は目を伏せた。

「知っていました」

 その一言は、前室に落ちた水滴のようだった。

 小さいのに、広がった。

「いつから」

 仁科が尋ねた。スマホは下げていない。

「半年前から、海側防潮ゲートの閉鎖不全警告が出ていました」

「半年前?」

 誰かが呟いた。

「点検時には、完全閉鎖までに時間がかかることが確認されていました。ただ、通常の雨量や潮位では浸水に直結しないと判断されていました」

「誰が判断したんだよ」

「設備管理部と、管理組合への報告を経て」

「住民には?」

 雨宮は答えなかった。

「住民には知らせなかったのかって聞いてるんだよ」

「正式な説明は、されていません」

 男が壁を殴った。鈍い音が響く。乃々がびくりと肩を震わせた。

「ふざけんなよ」

 誰かが言った。

 それは一人の声ではなかった。複数の声が、同じ言葉になっていた。

「何で黙ってた」

「資産価値が下がるからか」

「修繕費を出したくなかったんだろ」

「管理会社と組合で揉めてたんじゃないの」

「うち、子供いるんですよ」

「老人もいる」

「ペットだって」

「何で今まで」

 雨宮は一つ一つに答えなかった。答えられなかったのだろう。あるいは、どれに答えても同じ場所へ行き着くと分かっていたのかもしれない。

 対応が遅れた。

 共有はされていた。

 正式な説明はされていなかった。

 誰かが知っていて、誰かが止めなかった。

 それだけで十分だった。

 海斗は雨宮を見る。彼女が悪いのか。悪いのだろう。少なくとも、何も知らないとは言えない。だが、彼女一人を殴れば済む話なのか。それも違う気がした。

 母の再婚相手の顔が頭に浮かんだ。

 意見の相違。

 大人は、時々そういう言葉で物事を先送りにする。誰かが強く止めるほどではない。誰かが責任を取るほどでもない。今すぐ大事故になるわけではない。費用がかかる。説明が難しい。調整中。検討中。確認中。

 その間に、水は来る。

 灯が雨宮に言った。

「補修は決まっていたんですか」

 雨宮は小さく頷いた。

「六月に、部分改修の予定でした」

「今日は五月です」

「はい」

「間に合わなかった」

「はい」

 その短いやり取りが、妙に残酷だった。

 間に合わなかった。

 その一言で、これほど多くの人間が水に追われている。

「あなたは、止めようとしたんですか」

 澪が言った。

 全員の視線が彼女へ向いた。

 澪は壁に手をつき、足首をかばいながら立っていた。右手には、あの古い封筒を握っている。濡れた髪が頬に貼りついていたが、目は静かだった。

「会社の中で、早く直した方がいいって、言いましたか」

 雨宮は澪を見た。

 見知らぬ配達員。住民名簿にない女。けれどその問いは、誰よりも核心に触れていた。

「言いました」

 雨宮は答えた。

「何度か、上司に。台風の時期に入る前に、臨時対応だけでもと」

「それで?」

「予算と日程の問題で、次回理事会に回すと」

「その議事録は」

「あります」

 仁科がすぐに反応した。

「それ、公開できますか」

 雨宮は首を横に振った。

「今はアクセスできません」

「便利ですね」

 男が吐き捨てた。

 雨宮は反論しなかった。

 澪はさらに尋ねた。

「住民に直接知らせようとは思いませんでしたか」

 前室の空気が、また少し変わった。

 その問いは、手続きの話ではない。人としてどうしたのか、という問いだった。

 雨宮は長く黙った。

「思いました」

「でも、しなかった」

「はい」

「なぜ」

「私には、その権限がありませんでした」

「権限がなければ、人は危ないと知らせられないんですか」

 雨宮の顔が歪んだ。

 その瞬間、海斗は、澪の問いが責めるためだけのものではないことに気づいた。澪は雨宮を責めている。だがそれ以上に、何か別のものを見ている。過去に同じ言葉を聞いたことがある人間の顔だった。

 権限がない。

 正式な手順ではない。

 今はまだ決まっていない。

 海斗にも聞き覚えがある。学校でも、家でも、大人は時々そう言う。その言葉は、正しく見える。けれど、正しい言葉の陰で誰かが沈むことがある。

 雨宮はようやく口を開いた。

「怖かったんです」

 前室が静まった。

「住民に直接伝えれば、会社にも、管理組合にも、問題になります。担当を外されるかもしれない。訴えられるかもしれない。私の判断で混乱を招いたと言われるかもしれない。だから、正式な手順を待ちました」

「その結果がこれかよ」

 男が言った。

 雨宮は顔を上げた。

「はい」

 短い肯定だった。

「その結果が、これです」

 誰も何も言えなかった。

 謝罪より重い肯定があるのだと、海斗は思った。

 だが、それでも怒りは消えなかった。むしろ、雨宮が認めたことで、住民たちの怒りは形を得た。彼女は完全な悪人ではない。だからこそ、余計に許しにくい。悪意ではなく、保身と手続きと沈黙によって、自分たちは追い詰められた。その事実は、単純な悪意よりも耐え難かった。

 仁科がスマホを向けたまま言った。

「今の発言、録画されています」

 雨宮は彼を見た。

「構いません」

「本当に?」

「構いません」

「責任を取るってことですか」

「責任を取れるなら、取ります」

「取れるなら?」

 仁科の声が尖る。

「死んだ人が出たら、どう責任を取るんですか」

 その言葉で、前室が凍った。

 死んだ人。

 まだ誰も、その言葉をはっきり口にしていなかった。下に残った人がいるかもしれない。落ちた人がいるかもしれない。水に呑まれた人がいるかもしれない。だが、死という言葉だけは、誰も見ないふりをしていた。

 仁科はそれを、簡単に口にした。

 雨宮は答えられなかった。

「ほら、取れないじゃないですか」

 仁科の声には、記録者の冷たさと、どこか個人的な苛立ちが混じっていた。

 黒瀬が一歩前へ出た。

「もういい」

「よくないでしょう」

「よくない。だが今やることじゃない」

「いつやるんですか。助かったあと? 会社が弁護士を立てて、記録が消されて、住民同士で揉めて、結局誰も責任を取らない。そうなる前に」

「お前は何がしたい」

「事実を残す」

「違うな」

 黒瀬の声が低くなった。

「お前は、事実を持っている側に立ちたいだけだ」

 仁科の表情が変わった。

「何ですか、それ」

「撮っている間は、当事者じゃなくて済む。画面の外に立っていられる。だが、お前もここにいる」

 仁科は何か言い返そうとしたが、その時、背後の入口扉が大きく鳴った。

 全員が振り返った。

 前室の入口、管理用通路へ続く扉。その向こうで、何かがぶつかった。水か、漂流物か、人か。二度、三度と音が続く。扉の下から、細い水の筋が滲み始めた。

 誰かが悲鳴を上げた。

「来た」

 水は、まだ勢いよく流れ込んでいるわけではない。だが、確実に扉の向こうまで来ている。水圧がかかり始めているのだ。扉の縁から白い泡が滲み、床の排水溝へ向かって細く流れていく。

 雨宮の顔が変わった。

「屋上扉を開けます」

「開けられるんだな」

 男が言った。

「開けます」

 雨宮は屋上扉へ向かった。

 だが、その瞬間、スーツケースを捨てた男が彼女の腕を掴んだ。

「待てよ」

「離してください」

「逃げるな」

「逃げません。扉を開けます」

「お前が最初に出るんじゃないだろうな」

 男の声には、恐怖が混じっていた。恐怖が、雨宮を犯人にし、犯人が逃げるという物語を作っていた。

 雨宮は腕を振りほどこうとした。

「離してください。時間が」

「責任者なら最後まで残れよ」

 その言葉が前室に落ちた。

 最後まで残れ。

 誰も否定しなかった。

 雨宮の表情が、ほんの一瞬だけ空白になった。責任を取るとは、そういう意味なのか。誰かの怒りのために、最後に残ることなのか。彼女自身も考えたように見えた。

 灯が強く言った。

「離してください。今その人が倒れたら、扉を開けられません」

「灯さん、でも」

 律子が言いかける。

「でも、じゃありません」

 灯の声は、それまでで一番厳しかった。

「今いるのは、責任を取らせる場所じゃない。命をつなぐ場所です」

「綺麗ごと言わないでください」

 律子が叫んだ。

「この子が死んだら、誰が責任取るんですか」

「誰も取れません」

 灯は即答した。

 律子が息を呑む。

「死んだ人の代わりに、誰かが死んでも戻りません。だから今は、死なせないことを考えるしかない」

 その言葉は正しかった。

 正しかったが、律子には痛すぎた。

 男が雨宮の腕をさらに強く引いた。

「お前が残れよ」

「離して」

「最後にドア押さえるの、お前でいいだろ」

 雨宮がよろけた。

 次の瞬間、誰かが押したのか、男が引いたのか、足元の水に滑ったのか、分からなかった。

 雨宮の体が横へ倒れた。

 制御盤の角に肩を打ち、彼女は床に崩れた。名簿が手から離れ、水の筋の上に落ちる。紙が一瞬で濡れ、インクが滲み始めた。

「雨宮さん!」

 灯が駆け寄る。

 前室が混乱した。

 男が後ずさる。

「俺は、突き飛ばしてない」

 その言葉は、先ほど転落事故の時に若い男が言ったものと似ていた。

 俺は押してない。

 今夜、同じ言葉が何度も繰り返される。

 灯が雨宮の肩を確認する。

「意識ありますか」

「……あります」

「頭は打ってませんか」

「肩を」

 雨宮は痛みに顔を歪めた。右肩を押さえている。腕がうまく上がらないようだった。

 黒瀬が男を睨む。

「何をした」

「だから、俺は」

「離せと言われただろう」

「責任を」

「責任と暴力は違う」

 黒瀬の声が怒りで低くなった。

 男は言い返せなかった。だが、その顔にはまだ納得の色はない。自分は間違っていない。そう言いたげだった。

 入口扉の下から滲む水が、少しずつ増えていた。

 床の排水溝へ流れ込む水音が聞こえる。前室の床はまだ浸水していない。だが、時間はもうほとんど残っていない。

 雨宮は立ち上がろうとした。

「扉を……」

「動かないで」

 灯が止める。

「私が開けます。手順を教えてください」

 雨宮は奥の屋上扉を見た。

「レバーのカバーを開けて、赤いピンを抜きます。その後、下の手動ハンドルを左に三回転。重いです。外圧がかかっているので」

「分かりました」

「最後に、上部ロックを解除します。鍵が」

 雨宮が社員証の方へ手を伸ばそうとする。肩の痛みで顔を歪めた。

 海斗は慌てて近づいた。

「鍵、取ります」

 雨宮が頷く。首から下がった社員証ケースの裏に、小さな鍵束があった。海斗はそれを外した。手が震えてうまくいかない。

「落ち着いて」

 灯が言う。

「分かってる」

「分かってないから震えてる」

「そんなこと言うなよ」

「震えててもいい。落とさないで」

 海斗は鍵を握りしめた。

 その時、床に落ちた名簿が水に濡れていることに気づいた。

 雨宮が避難者の名前を書き込んでいた紙。そこに、黒いインクが滲み始めていた。海斗は反射的に拾い上げた。紙は湿り、柔らかくなっている。住民の名前が並び、途中に手書きで「白石澪」と書き足されている。その字だけ、まだ乾ききっていなかったのか、少し滲んでいた。

 名簿にない女。

 さっきまでそうだった人の名前が、今は水で消えかけている。

「海斗、鍵」

 灯の声で我に返る。

 海斗は鍵束を渡した。

 灯が屋上扉へ向かう。黒瀬も続こうとしたが、右足を引きずってよろけた。山辺を支えていたため、負担が限界に来ていたのだ。

「黒瀬さん、座って」

 灯が言う。

「俺は」

「座ってください」

「命令権はないんじゃなかったか」

「今はあります」

 黒瀬は苦笑しかけたが、うまく笑えなかった。壁に手をつき、ゆっくり座り込む。犬を抱いていた女性が彼から犬を受け取った。

「すみません」

「謝るな」

 黒瀬は短く言った。

 雨宮は床に座ったまま、手順を伝える。

「カバーを開けてください。そうです。赤いピンを抜いて」

 灯が作業する。仁科がスマホを向けかけた。

 海斗は思わず言った。

「撮るなよ」

 自分でも驚くほど強い声だった。

 仁科が海斗を見る。

「記録は必要だ」

「今、手伝えよ」

「何を」

「ライト。灯が手元見えない」

 仁科は一瞬固まった。自分のスマホを見た。それから、画面を録画モードからライトへ切り替えた。

 白い光が灯の手元を照らす。

 それだけのことだった。だが、海斗には大きな変化のように思えた。

 灯がハンドルを回す。

 重い音がした。一回転。二回転。三回転。

 扉の向こうで、風が唸った。

「上部ロックです」

 雨宮が言う。

 灯は鍵を差し込もうとした。だが、風圧のせいか、扉が微かに揺れている。鍵穴が安定しない。灯の指先にも疲労が出ていた。

 海斗は近づいた。

「俺が押さえる」

「扉じゃない。パネルを押さえて」

「分かった」

 海斗はパネルを両手で押さえた。金属は冷たく、細かく震えている。扉の向こうに、外の力がある。それは人間の力とは別のものだった。怒りでも罪悪感でもない。ただ風として、圧力として、そこにある。

 灯が鍵を回した。

 かちり、と小さな音がした。

 その瞬間、前室の入口扉がまた大きく鳴った。

 今度は水がぶつかった音だと、誰もが分かった。

 扉の下から流れ込む水が増えた。排水溝が受けきれなくなり、床に薄く広がっていく。靴底が濡れる。乃々が泣き出した。

「ママ、水」

「大丈夫、大丈夫だから」

 律子の声は震えていた。

 雨宮が叫ぶ。

「屋上扉、少しだけ開けてください。ただし、一気に開けないで。風で持っていかれます」

 灯が取っ手を握る。

 だが、その前に、扉を開けるための人手が足りないことは明らかだった。灯一人では重すぎる。黒瀬は立てない。雨宮は肩を痛めている。山辺は支えが必要。澪は足を痛めている。

 海斗は取っ手に手をかけた。

「俺も」

 灯がちらりと海斗を見る。

「離すなよ」

「分かってる」

「本当に」

「分かってる」

 取っ手は冷たかった。

 海斗と灯が力を込める。扉は動かない。外から押し返されている。まるで扉の向こうに巨大な手があり、こちらを拒んでいるようだった。

「もっと低く構えて」

 雨宮が床から指示する。

「腰を落として、体重をかけて」

 海斗は歯を食いしばった。肩に力が入り、腕が痺れる。灯も顔を歪めている。仁科がライトを当てる。澪が壁から手を離し、足を引きずりながら近づいてきた。

「私も」

「足が」

 灯が言う。

「手は使えます」

 澪は扉の横に立ち、取っ手ではなく扉の縁を押した。

 佐伯律子が、乃々を抱いたまま立ち尽くしていた。水は彼女の靴の下まで来ている。乃々は泣いている。律子の顔には、恐怖と迷いが浮かんでいた。

 その視線が、床に倒れかけた雨宮に向く。

 雨宮は片腕で体を支えながら、痛みに耐えている。さっきまで責めていた相手。自分たちを危険に晒した側の人間。だが今は、その人間が動けなければ、扉の手順も、屋上への道も失われる。

 律子は乃々を見た。

 それから、灯を見た。

 ほんの一瞬だけ、顔が歪んだ。

「乃々、ここに立って」

「やだ」

「大丈夫。お母さん、すぐそこにいる」

「やだ、ママ」

「お願い。ぎゅっとぬいぐるみ持ってて」

 律子は乃々を壁際に下ろした。犬を抱いた女性が、その横にしゃがむ。

「見てます」

 律子は小さく頭を下げた。

 そして、雨宮の方へ向かった。

 誰もが少し驚いた顔をした。

 律子は雨宮の左腕を取った。

「立てますか」

 雨宮も驚いていた。

「佐伯さん」

「手順、あなたが言わないと分からないんでしょう。立ってください。痛いなら、私が支えます」

 雨宮の目が揺れた。

「私は」

「謝罪なら後で聞きます。今は、私の子を外に出してください」

 それは許しではなかった。

 だが、助ける行為だった。

 律子は雨宮を支え、壁際に立たせた。雨宮は肩の痛みに息を詰めながらも、屋上扉を見た。

「少し開いたら、固定バーを差してください。右下にあります」

「固定バー?」

 海斗が叫ぶ。

「足元、右。黄色いバーです」

 仁科がライトを向けた。確かに、扉の右下に折り畳まれた黄色い金属バーがある。海斗は片手を取っ手から離しかけた。

「離さないで」

 灯が叫ぶ。

 澪が身を屈めた。

「私が」

「足が悪いでしょう」

 律子が言った。

「しゃがむだけです」

 澪は痛みに顔を歪めながら、黄色いバーに手を伸ばした。

 その瞬間、入口扉の下から流れ込む水が一段と増えた。前室の床に薄い水膜が広がり、澪の膝が濡れる。彼女は封筒を胸元に押し込み、両手でバーを掴んだ。

「開けてください」

 海斗、灯、澪の三人が力を合わせる。扉がわずかに動いた。外の風が隙間から刃物のように吹き込む。冷たい飛沫が顔を打った。海斗は目を細める。

 外が見えた。

 黒い空。白く荒れる風。屋上の床を走る水。遠くで何かの光が瞬いている。救助ヘリの灯か、ビルの非常灯か、分からない。

 扉の隙間は十センチほど。

 それだけで、前室の空気が一気に乱れた。乃々が泣き叫ぶ。老人が咳き込む。山辺が壁にしがみつく。

「もう少し!」

 雨宮が叫ぶ。

 海斗は全身で取っ手を引いた。肩が外れそうだった。灯の歯を食いしばる音が聞こえた。澪がバーを差し込もうとする。

 だが、扉はまた押し戻される。

「だめ、入らない」

 澪が言う。

「もっと開けてください」

「これ以上は」

 海斗の腕が震える。

 その時、黒瀬が立ち上がった。

「黒瀬さん!」

 灯が叫ぶ。

 黒瀬は右足を引きずりながら扉へ近づき、海斗の横に肩を入れた。

「若いのに情けない声出すな」

「出してません」

「出てる」

 黒瀬が体重をかけた。

 扉が数センチ開いた。

 澪が黄色いバーを押し込む。金属が噛み合う音がした。

「入った!」

 扉は、完全ではないが、開いた状態で止まった。

 前室に、外の風が流れ込む。

 人々の間から、安堵とも悲鳴ともつかない声が上がった。

 だが雨宮の表情は晴れなかった。

「これは仮固定です。人が通るには、もっと開ける必要があります。それに、外へ出る時は扉を押さえ続けなければなりません。固定バーだけでは持ちません」

 誰も声を出さなかった。

 海斗は、扉の隙間の向こうを見た。

 屋上は、すぐそこだった。

 だが、そのすぐそこへ行くためには、やはり誰かが扉に残らなければならない。

 入口扉の下からは、水が流れ込んでいる。

 屋上扉の向こうでは、風が待っている。

 前室の中央には、濡れた名簿が落ちていた。雨宮が拾い損ねた紙だ。海斗がさっき拾ったはずだったが、鍵を渡す時に落としたらしい。水に濡れ、折れ曲がり、名前のいくつかが滲んでいる。

 澪の名前も、半分ほど滲んでいた。

 白石澪。

 その三文字が、水に溶けかけていた。

 海斗はそれを拾い上げようとした。

 だが、灯が叫んだ。

「海斗、今は扉!」

 海斗は手を戻した。

 名簿は、足元の水の中で揺れている。

 誰かの名前が消えていく。

 そのことに気づいているのは、たぶん海斗だけだった。

 雨宮が、痛みに耐えながら前を見た。

「これから順番に屋上へ出します。子供、高齢者、怪我人から」

 男が言った。

「で、誰が押さえるんだ」

 その問いが、再び戻ってきた。

 誰も答えなかった。

 扉の隙間から吹き込む風が、前室の中を走った。水に濡れた名簿の端がめくれる。折り目のついた紙が、小さく震えた。

 海斗は取っ手を握りしめたまま、思った。

 誰かを責めても、扉は開かない。

 誰かを許しても、水は止まらない。

 それでも、人間は誰かを責めずにはいられない。許すか許さないかを考えずにはいられない。そうしている間にも、時間は足元から満ちてくる。

 律子は乃々の方を見た。

 雨宮は扉を見た。

 黒瀬は自分の右足を一度だけ見下ろした。

 灯は海斗を見た。

 澪は胸元の封筒を押さえた。

 仁科は、ライトをつけたスマホを持ったまま、初めて何も撮っていなかった。

 前室の床に、水が広がっていく。

 屋上は、目の前にあった。

 けれどそこへ出るための最後の答えは、まだ誰の口からも出ていなかった。



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