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沈むマンション ――最後に屋上のドアを押さえたのは誰だったのか――  作者: 二条理|アコンプリス


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3/7

第三章 名簿にない女

 防火扉が閉まる音は、思っていたよりも長く残った。

 金属が金属を噛む鈍い音。内部のラッチが落ちる乾いた音。最後に、建物全体が息を呑むような沈黙があった。

 海斗はその音を背中で聞きながら、振り返りたい衝動をこらえた。

 誰も取り残されていない。

 そう信じたかった。

 だが、信じたいことと、確かめたことは違う。自分は全員が扉を越えた瞬間を見ていない。老人のリュックを背負い、灯の背中を追うだけで精一杯だった。背後で何が起きていたのか、どんな顔で雨宮が扉を押さえ、誰が最後に通り抜けたのか、分からない。

 分からないことが、今夜は少しずつ増えていく。

 管理用通路は、住民が普段通る場所ではなかった。壁の塗装は粗く、ところどころに配線を覆う金属カバーが走っている。天井は低く、長身の黒瀬は身をかがめなければならなかった。非常灯はあるが、間隔が遠い。赤い光と闇が交互に現れ、そのたびに人々の顔が浮かんでは沈んだ。

 風が前方から吹いている。

 屋上が近い。そう思わせる風だった。だが同時に、その風は希望を運んでくるものではなく、むしろ人間を試すような冷たさを帯びていた。海の匂いが濃い。湿ったコンクリート、錆、機械油、そして下から追ってくる水の匂いが混じっている。

 列は相変わらず遅かった。

 山辺という初老の女性は、灯と黒瀬に支えられながら歩いていた。腕を痛め、腰も打っている。意識ははっきりしているが、階段を上がるたびに小さく息を漏らす。黒瀬の右足も限界に近いように見えた。だが彼は何も言わない。何も言わないことで、自分の痛みを他人の問題にしないようにしている。

 海斗は老人のリュックを背負ったまま、その少し後ろを歩いていた。リュックは軽い。けれど、時間が経つほど肩に食い込んでくる。中身が重いのではない。預かったという事実が重かった。

 前方では佐伯律子が乃々を抱いている。乃々は眠りかけているようにも見えた。恐怖と疲労が、子供の体から抵抗する力を奪っていた。律子は何度も娘の顔を覗き込み、呼吸を確認している。

 仁科要は少し後方にいた。スマホはまだ手にしているが、先ほどよりも構え方が低い。撮っているのか、ただ握っているのか分からなかった。転落の瞬間を決定的に記録できなかったことが、彼の中で何かを変えたのかもしれない。あるいは、自分の記録が何の役にも立たない可能性に初めて気づいたのかもしれない。

 雨宮千尋は先頭にいた。通路の構造を知っているのは彼女だけだ。住民たちは彼女を責めながらも、彼女の背中に従うしかなかった。責任者を憎むことと、責任者に頼ることは、矛盾しないらしい。少なくとも、この夜の人々はそれを平然と両立させていた。

「この先、右です」

 雨宮の声が通路に響く。

「段差があります。足元を見てください」

 右へ曲がると、小さな踊り場に出た。そこには古い設備用の扉があり、壁に細長い窓がついていた。窓の向こうは暗いシャフトのような空間で、配管が縦に何本も走っている。下から水音が反響していた。直接見えない分、音だけが増幅される。建物の内臓が水に浸されていく音だった。

 海斗は喉の奥が乾くのを感じた。

「あとどれくらいで屋上ですか」

 誰かが尋ねた。

「この区画を抜ければ、屋上直下の前室に出ます」

 雨宮が答える。

「前室?」

「屋上扉の手前にある待機区画です。そこから外部扉を開けます」

「すぐ開くんですよね」

「手動解除を行います」

「開くんですよねって聞いてるんです」

 声に苛立ちが滲む。雨宮は答えを選ぶように間を置いた。

「開けます」

 それは「開く」とは少し違う言い方だった。だが誰も指摘しなかった。指摘すれば、その違いを直視しなければならないからだ。

 その時、山辺が小さく呻いた。

 灯がすぐに支え直す。

「大丈夫ですか」

「ごめんなさい。少し、気分が」

「座れますか」

「座ったら立てなくなりそうで」

「立てなくなる前に座るんです」

 灯の口調は柔らかいが、内容は容赦ない。黒瀬が山辺を壁際へ誘導し、ゆっくり座らせた。列が止まる。

 後方から不満の気配が伝わってきた。

「またかよ」

「仕方ないだろ」

「水、来てるんだぞ」

「聞こえる声で言うな」

 ひそひそ声は、ひそひそ声であるほどよく聞こえる。山辺は下を向いた。痛みよりも、申し訳なさの方が彼女を縮こまらせているように見えた。

 灯は山辺の脈を取り、顔色を確認した。

「少し休んで、すぐ行きます」

「ごめんなさいね」

「謝らないでください」

「でも、私のせいで」

「山辺さんのせいではありません」

 灯の声はきっぱりしていた。

 海斗はその言葉を聞いて、胸の中で何かがざわつくのを感じた。山辺のせいではない。確かにそうだ。けれど、山辺がいることで列は止まっている。それも事実だ。事実と罪は違う。違うはずだ。だがこの状況では、その境目がひどく曖昧になる。

 佐伯律子が乃々を抱き直した。

「どれくらい休むんですか」

 灯が振り返る。

「一、二分です」

「その一、二分で水が来たら?」

「ここまで水位が直接到達するには、まだ」

「まだ、って言える根拠はあるんですか」

 灯はすぐには答えなかった。律子の声は震えていた。怒りではない。恐怖だ。恐怖が、他人への攻撃の形を取っている。

 黒瀬が低い声で言った。

「佐伯さん。娘さんを怖がらせる」

 律子ははっとして、乃々の顔を見た。乃々は半分眠ったような目で母親を見上げている。

「ママ、怒ってる?」

「怒ってない。大丈夫」

「ドア、まだ?」

「もう少し」

「お外、寒い?」

 律子は答えに詰まった。

 灯が代わりに言った。

「寒いと思う。だから、乃々ちゃんはお母さんにぎゅっとしてて」

「うん」

 乃々はぬいぐるみを胸に押しつけ、律子の首に腕を回した。

 その小さな腕を見て、海斗は不意に母のことを思い出した。母は今、何をしているのだろう。メッセージは送った。返事はまだ見ていない。見るのが怖かった。母が心配していることも、再婚相手が何か言っていることも、想像できる。だが、こちらから追加で連絡する余裕はなかった。

 スマホを確認しようとして、やめた。

 省電力にしておけと灯に言われたからではない。

 母からの言葉を読むことに、今は耐えられそうになかった。

 山辺が再び立ち上がった。黒瀬が支える。灯が反対側に回る。

「行けますか」

「ええ。ごめんなさい」

「謝らないで」

 灯は同じ言葉を繰り返した。

 列が再び動き出す。

 通路はさらに狭くなった。片側に配管、反対側に制御盤が並び、人一人が通るのがやっとの幅になる。雨宮が何度も「手を触れないでください」と注意した。どの配管が水で、どれが電気系統に関わるものなのか、海斗には分からない。ただ、どれも触れば何かが起きそうに見えた。

 その時、通路の奥から、微かな音がした。

 誰かが泣いているような音だった。

 最初に気づいたのは乃々だった。

「ママ、誰かいる」

 律子が足を止める。

「え?」

「泣いてる」

 全員が耳を澄ませた。

 風の音。水音。配管が軋む音。誰かの荒い呼吸。そこに混じって、確かに別の音があった。泣き声ではないかもしれない。息を殺している声。喉の奥で詰まったような声。

 雨宮がライトを向ける。

「誰かいますか」

 返事はなかった。

「この先は立入禁止区画です。住民の方がいるはずは」

 雨宮の言葉が途切れた。

 通路の奥、配管の陰に、人影があった。

 若い女だった。壁にもたれ、膝を抱えるようにして座っている。紺色のジャンパーに、黒いパンツ。足元には大きな保冷バッグのようなものが倒れていた。雨宮のライトに照らされると、彼女は顔を上げた。

 年齢は海斗より少し上だろう。十九か二十歳くらい。濡れた前髪が頬に貼りつき、唇が青白い。だが目だけははっきりしていた。怯えているのに、怯えを見せまいとしている目だった。

「誰ですか」

 雨宮が尋ねた。

 女は立ち上がろうとして、少しふらついた。右足をかばっている。

「白石です」

「住民の方ですか」

「違います」

 その一言で、周囲の空気が変わった。

 住民ではない。

 今この場所では、それは単なる属性ではなかった。列に割り込む理由を持たない人間。名簿にない人間。もともと数えられていなかった人間。そう受け取られた。

「配達です」

 白石はかすれた声で言った。

「荷物を届けに来て、停電でエレベーターが止まって……管理用通路に誘導されると思って、こっちに」

「誰に誘導されたんですか」

「一階の防災センターの人に。上へ行けって。途中で人が多くて、押されて、足をひねって」

 彼女の言葉は断片的だった。だが嘘をついているようには見えなかった。保冷バッグの横には、濡れた配達票が何枚か張りついている。ジャンパーの胸元には、小さく配送会社のロゴが入っていた。

「名前は」

 雨宮が確認する。

「白石澪です」

 白石澪。

 海斗はその名前を心の中で繰り返した。澪という字は、海や川の水路を意味する。こんな夜に、その名前は妙に不吉に思えた。

 雨宮が手元の紙を確認した。非常時用の簡易名簿だろう。居住者名と部屋番号が印刷され、そこに避難確認の印をつけているようだった。

「白石さんは、居住者名簿には」

「載っていません」

 澪が自分で言った。

 雨宮は顔を上げた。

「もちろん避難対象です。怪我は」

「足首を少し。歩けます」

 澪は立とうとした。だが体重をかけた瞬間、顔を歪める。灯がすぐに近づいた。

「見せてください」

「大丈夫です」

「大丈夫かどうかは見てからです」

 灯はしゃがみ込み、澪の足首を確認した。靴の周囲が濡れている。水なのか汗なのか、分からなかった。

「腫れてます。歩けますか」

「歩きます」

「答えになってない」

「歩けないと困ります」

 澪の声は静かだった。困るのは自分だけではないと、彼女は分かっているのだろう。

 佐伯律子が言った。

「住民じゃない人まで入れるんですか」

 その言葉は、狭い通路にはっきり響いた。

 誰かが息を呑んだ。誰もすぐには反論しなかった。反論しないことで、その言葉が自分たちの中にもあったことを認めているようだった。

 灯が振り返る。

「佐伯さん」

「だって、そうでしょう。ここにいる人たちだって、全員助かるか分からないんですよね。だったら、住民じゃない人まで」

 律子はそこまで言って、言葉を切った。乃々が自分を見ていることに気づいたのだ。

「ママ」

 乃々が小さく言う。

「お姉ちゃん、だめなの?」

 律子の顔が歪んだ。

「そういう意味じゃないの」

 澪は何も言わなかった。

 反論も、怒りも、悲しみも見せなかった。ただ、自分の保冷バッグを引き寄せようとする。海斗には、その動作が奇妙に見えた。こんな時に荷物を持って行くつもりなのか。

 黒瀬が低く言った。

「荷物は置けるか」

 澪はバッグを見た。

「中身は、もうだめだと思います」

「なら置いていけ」

「一つだけ、取り出してもいいですか」

 黒瀬は頷いた。

 澪はバッグの中から、防水袋に入った薄い封筒を取り出した。封筒は何度も折られていた。角が擦り切れ、ビニール越しにも紙の古さが分かる。配達物というより、個人的な手紙のように見えた。

 灯が足首に応急処置をしながら尋ねる。

「大事なものですか」

「届けるものです」

「仕事の荷物?」

 澪は少しだけ迷った。

「半分は」

 その答えは曖昧だった。だが灯は深く聞かなかった。

 雨宮が名簿に手書きで「白石澪」と書き加えた。

 その動作を見て、律子が言った。

「今から書き足すんですか」

「避難者として把握する必要があります」

「書けば、同じになるんですか」

 雨宮の手が止まった。

 澪が顔を上げる。

「書かなくていいです」

 その声は小さかったが、通路に届いた。

「私、一番後ろで行きます。邪魔なら荷物も置きます。だから、止まらないでください」

「白石さん」

 灯が言う。

「今、その言い方は」

「いいんです」

 澪は灯を見た。表情は穏やかですらあった。

「慣れてますから」

 何に慣れているのか、海斗には分からなかった。邪魔者扱いされることか。数に入れられないことか。それとも、自分の必要性を自分で低く見積もることか。

 海斗は何か言おうとした。

 だが言葉が出なかった。

 住民ではないから何だ、と言えばよかったのかもしれない。人間だろ、と言えばよかったのかもしれない。けれどその言葉は、あまりにも簡単だった。簡単な言葉ほど、今は薄く聞こえる。

 黒瀬が澪の保冷バッグを壁際に寄せた。

「後ろには行くな。怪我してる人間を最後尾にすると、全体が遅れる」

「でも」

「真ん中に入れ。支えが必要なら、床島」

 急に名前を呼ばれて、海斗は顔を上げた。

「はい」

「彼女の荷物はない。足元だけ見てやれ」

「え、俺が」

「不満か」

「いや」

 不満ではなかった。驚いただけだ。だが、驚いたこと自体が少し恥ずかしかった。

 澪が海斗を見た。

「大丈夫です。一人で歩けます」

「でも、足」

「あなたも荷物持ってますよね」

「これは、軽いから」

「私も軽いです」

 海斗は一瞬、何を言われたのか分からなかった。

 澪は少しだけ笑った。

「存在が、という意味です」

 冗談のような言い方だった。だが笑えなかった。

 灯が足首を固定し終える。

「痛みはあると思います。無理に走らないで。足を引きずってもいいので、転ばないことを優先してください」

「ありがとうございます」

「それから、自分を軽いとか言わないでください」

 澪は瞬きをした。何か言いかけて、やめた。

「……はい」

 列に澪が加わった。

 たった一人増えただけだった。だが、その一人が列全体の空気を変えた。誰かにとっては、助けるべき人が増えた。別の誰かにとっては、助かる順番を脅かす存在が増えた。

 海斗は澪の少し後ろを歩いた。彼女は本当に足を引きずっていた。だが、痛みを顔に出さないようにしている。右手には防水袋の封筒を握っていた。左手は壁に添えている。誰の肩も借りない。

 その背中は細かった。

 細いのに、妙に折れないものを感じさせた。

 しばらく進むと、通路の右手に小さな窓があった。外ではなく、吹き抜け状の設備空間を覗くためのものだ。仁科がそこへスマホを向けた。

「下、映るかもしれない」

「やめておけ」

 黒瀬が言う。

「確認です」

「見ていいものばかりじゃない」

 仁科はそれでもスマホを向けた。画面の光が彼の顔を照らす。海斗は見ないようにした。だが、仁科の表情が変わったのが分かった。

「何か、流れてる」

 誰も返事をしなかった。

「家具みたいな……いや、人じゃない。たぶん」

「たぶん、で言うな」

 黒瀬の声は鋭かった。

 仁科は黙った。だが撮影は止めていない。

 その時、彼のスマホに通知音が鳴った。小さな電子音だったが、通路の中ではやけに大きく響いた。

「つながった」

 仁科が画面を見る。

「一瞬だけ、回線戻ってます」

 周囲がざわつく。

「消防に」

「家族に連絡を」

「救助は」

 仁科は素早く画面を操作した。

「配信、少しだけ上がってる。コメントが来てる」

「コメント?」

 海斗は思わず聞き返した。

 仁科は画面を見つめたまま言う。

「外でニュースになり始めてる。ブルームタワー浸水。湾岸の一部で道路冠水。消防と海保が」

「救助は来るんですか」

 律子が身を乗り出した。

「ヘリが向かってるってコメントがあります。でも公式じゃない」

「公式じゃなくてもいい。来るんですね」

「分かりません」

「分かりませんって」

 律子の声が尖る。だが、今度は誰も彼女を責めなかった。皆、同じ言葉を待っていたのだ。救助が来る。大丈夫。あと少し。そのどれか一つでいい。誰かに断言してほしかった。

 雨宮が言った。

「屋上に出られなければ、ヘリは収容できません」

 現実が、再び落ちてきた。

 救助が来ても、屋上に出られなければ意味がない。

 屋上に出るには、最後の扉を開けなければならない。

 そしてその扉は、誰かが押さえる必要があるかもしれない。

 乃々が、眠そうな声で言った。

「ドア押さえる人も、ヘリに乗れる?」

 誰も答えなかった。

 澪が足を止めずに言った。

「乗れますよ」

 全員が彼女を見た。

 澪は乃々に微笑んだ。

「順番に行けば、きっと」

「ほんと?」

「ほんと」

 それは嘘かもしれなかった。だが、乃々は少し安心したように母親の肩に頬をつけた。

 律子は澪を見た。さっき「住民じゃない人まで」と言った相手を。何か言いたそうに唇を動かしたが、結局何も言わなかった。

 海斗は澪の横顔を見た。

 この人は、自分が最後尾でいいと言った。名簿に書かなくていいとも言った。そのくせ、子供には助かると言う。

 それは優しさなのか、諦めなのか、海斗には分からなかった。

 仁科のスマホから、小さく音声が流れた。彼が外部のニュースか何かを再生したらしい。

「……湾岸エリアで大規模な停電が発生しています。ブルームタワーでは下層階への浸水が確認されており、現在、消防が救助活動を」

 音声はすぐに途切れた。回線が切れたのだろう。だが、それだけで人々の表情にわずかな変化が生まれた。

 外は知っている。

 自分たちは忘れられていない。

 その事実は、細い糸のような希望だった。

 だが同時に、外に知られているということは、外から見られているということでもあった。誰がどう振る舞ったのか。誰が助け、誰が怒鳴り、誰が押したのか。記録され、語られ、責められるかもしれない。

 仁科はその役割を自分に与えようとしている。

 海斗は、彼を嫌いになりきれなかった。撮るだけの人間はずるい。だが、撮る人間がいなければ、起きたことは簡単になかったことにされる。山辺が落ちた瞬間も、映像がなければ、もっとひどい疑いが生まれていたかもしれない。

 映像があっても、結局分からなかったが。

 通路の先で、雨宮が足を止めた。

「どうしました」

 灯が尋ねる。

 雨宮は壁の端末を見ていた。非常灯の赤に照らされた画面には、薄く文字が浮かんでいる。予備電源で辛うじて生きている監視システムらしい。

「屋上前室の状態を確認しています」

「開けそうですか」

「前室までは行けます。ただ、屋上扉の外側センサーが反応していません」

「それは、どういう」

「外部電源が落ちているか、センサーが破損している可能性があります」

「開けられないということですか」

「手動で開けます」

 雨宮はまたその言い方をした。

 開く、ではなく、開ける。

 その時、仁科がふいに声を上げた。

「これ、何ですか」

 彼はスマホではなく、雨宮の端末を見ていた。画面の端に、過去の点検ログらしきものが表示されている。

「触らないでください」

 雨宮の声が鋭くなった。

「いや、今見えたんですけど。防潮ゲート、警告履歴って」

 周囲がざわつく。

 雨宮が端末の表示を切り替えようとした。だが仁科はすでにスマホを向けていた。

「撮りました」

「消してください」

「なぜですか」

「避難に関係ありません」

「防潮ゲートの警告なら関係あるでしょう。今回の浸水、そのせいなんじゃないんですか」

 雨宮の顔から血の気が引いた。

 黒瀬が眉をひそめる。

「どういうことだ」

 仁科はスマホの画面を周囲へ見せた。そこには、赤い文字で表示されたログの一部が映っていた。

 海側防潮ゲート 閉鎖不全警告。

 最終点検日。

 再通知。

 対応保留。

 細かな文字はブレて読めない。だが、「警告」と「対応保留」という言葉だけははっきりしていた。

「対応保留って何」

 誰かが言った。

「危ないって分かってたってこと?」

「管理会社は知ってたのか」

「雨宮さん、説明してください」

 人々の視線が一斉に雨宮へ向いた。

 さっきまで先頭で道を示していた人間が、急に被告席へ立たされたようだった。雨宮は端末の前で固まっていた。唇がわずかに動く。だが言葉が出ない。

「雨宮さん」

 灯が呼んだ。

「今、説明できますか」

 その声は責めるものではなかった。けれど、逃がすものでもなかった。

 雨宮はゆっくり息を吸った。

「私は、全てを把握しているわけではありません」

「知っていたんですか」

 仁科が畳みかける。

「防潮ゲートに不具合が出ていたことは、社内で共有されていました」

 通路に、重い沈黙が落ちた。

 水音だけが続いている。

「共有されていた?」

 スーツケースを捨てた男が声を震わせた。

「じゃあ、何で直してないんだよ」

「補修計画はありました」

「ありました、じゃねえよ。今、沈んでるんだぞ」

「正式な施工日程の調整中で」

「ふざけるな!」

 男が雨宮へ詰め寄ろうとした。黒瀬が間に入る。

「やめろ」

「どけよ。この女、知ってたんだぞ」

「今殴っても水は止まらない」

「だからって許せるかよ」

「許す話は後だ」

 黒瀬の声は低かった。だが男の怒りは収まらない。周囲の住民たちも、雨宮を見る目を変えていた。恐怖は、ついに明確な標的を見つけたのだ。

 雨宮は反論しなかった。

 それが余計に、彼女が罪を認めているように見えた。

「あなたのせいなんですか」

 律子が言った。

 雨宮は顔を上げた。

「違うなら違うって言ってください。私たちがこんなところで、子供を抱えて、水に追われて、誰がドアを押さえるかなんて話をしてるのは、あなたたちが放っておいたからなんですか」

「佐伯さん」

 灯が止めようとする。

 律子は止まらなかった。

「答えてください」

 雨宮は、長い沈黙の後で言った。

「私一人の判断ではありません」

 その言葉は、最悪だった。

 責任逃れに聞こえた。実際、そう受け取られた。

「じゃあ誰の判断なんだよ」

「上司か? 管理組合か?」

「住民には知らせなかったのか」

「防災マンションって宣伝してたよな」

「金返せよ」

 怒号が重なる。

 海斗はその中心で、背中に冷たい汗が流れるのを感じた。誰かが悪かったのかもしれない。雨宮も何かを知っていたのかもしれない。だが、この狭い通路で彼女を責めても、出口は近づかない。

 そう思うのに、海斗も雨宮を見てしまう。

 この人がもっと早く何かしていれば。

 その考えが、頭の片隅に浮かんだ。

 浮かんだ瞬間、自分が嫌になった。

 澪が小さく言った。

「進みませんか」

 声は大きくなかった。だが、不思議と通った。

 全員が彼女を見る。

「今は、上に行くしかないです」

「住民じゃないあなたに何が分かるんですか」

 律子が鋭く言った。

 澪は少しだけ目を伏せた。

「住民じゃないから、分かることもあります」

「どういう意味」

「外にいる人間から見れば、この建物は安全そうに見えました。高くて、綺麗で、明るくて、防災って書いてあって。でも、中に入ったら、みんな逃げ道を探してる」

 澪は防水袋の封筒を握り直した。

「たぶん、建物だけじゃないです。人も、外から見えるものと中身は違う」

 その言葉に、誰もすぐには返せなかった。

 黒瀬が雨宮に言った。

「道を開けろ。説明は後で聞く」

 雨宮は頷いた。顔色は悪いままだが、端末を閉じ、先へ進む準備をする。

 仁科はスマホを構えていた。

「今の、全部記録しました」

「仁科さん」

 灯が低い声で言った。

「それをどう使うか、考えてください」

「事実を出すだけです」

「事実は、人を助けることも、殺すこともあります」

 仁科は何も言わなかった。

 雨宮が通路の奥へ進む。

「前室まで、あと少しです」

 その言葉には、さっきまでよりも力がなかった。

 列が動き出す。だが、空気は変わってしまった。人々はもう、雨宮の背中をただの案内役として見ていない。彼女の一歩一歩に、疑いと怒りがついていく。

 海斗は澪の後ろを歩いた。

 彼女は足を引きずりながらも、速度を落とさないようにしていた。時折、痛みで肩が揺れる。海斗は何度か手を貸そうとしたが、そのたびに言葉を飲み込んだ。拒まれるのが怖かったのではない。自分の親切が、彼女を「助けられる側」に固定してしまう気がしたのだ。

 少しして、澪が振り返らずに言った。

「さっき、ありがとう」

「何が」

「何も言わなかったこと」

 海斗は意味が分からなかった。

「俺、何もできなかっただけです」

「何か言われるより、何も言われない方が楽な時があります」

「でも、それって」

「優しい言葉って、時々、返事をしなきゃいけないから」

 澪は淡々と言った。

 海斗は返す言葉を探した。結局、見つからなかった。

 通路の先に、また防火扉が見えた。

 さっきよりも大きく、重そうな扉だった。雨宮がその前に立ち、手動解除のハンドルに手をかける。壁には「屋上前室」と表示されている。

 風が強くなった。

 扉の隙間からではない。建物全体が風を吸い込んでいるようだった。上では外気が暴れている。屋上に出るとは、その中へ身を晒すということだ。

 雨宮が振り返った。

「この扉の向こうで、屋上扉の開放準備をします。外部状況によっては、すぐに出られない可能性があります」

「また可能性かよ」

 男が吐き捨てた。

 雨宮は反論しなかった。

「中に入ったら、壁際に寄ってください。中央を空けて。怪我人と子供を先に」

「子供を先に」

 律子が小さく繰り返した。

 その声には、安堵と罪悪感が混じっていた。

 黒瀬が山辺を支え直す。

「行けるか」

「ええ」

 山辺は弱々しく笑った。

「こんな時に、足手まといで」

「謝るなと言われただろう」

 黒瀬が言った。

 山辺は少し驚き、それから頷いた。

 灯が海斗を見た。

「大丈夫?」

「大丈夫」

「嘘でも、そう言えるならいい」

「嘘じゃない」

「ならもっといい」

 灯は少しだけ笑った。その笑顔に、海斗は胸が詰まった。姉はまだ笑える。こんな時でも、人を安心させるために笑える。

 自分には無理だ。

 雨宮がハンドルを回した。重い音がして、防火扉のロックが外れる。

 扉が開いた瞬間、冷たい空気が一気に吹き込んだ。

 前室は、思っていたよりも広かった。コンクリートの四角い部屋。壁際に非常用の備品棚があり、床には排水溝が走っている。奥に、屋上へ続く最後の扉があった。

 灰色の鋼鉄扉。

 取っ手は大きく、横に手動解除用のレバーがある。扉の下には、水ではなく、風で吹き込んだ雨粒のようなものが散っていた。外は雨が降り始めたのだろうか。それとも海水が風で巻き上げられているのか。

 誰もすぐには入らなかった。

 その扉を見た瞬間、全員が思い出したのだ。

 最後に誰かが押さえる必要がある。

 海斗は喉を鳴らした。

 ここまで来た。

 だが、出口はまだ出口ではなかった。

 背後で、仁科のスマホが再び小さく鳴った。彼は画面を見て、息を呑んだ。

「何」

 誰かが尋ねる。

 仁科は顔を上げた。

「今、外で流れてます。ブルームタワーの防潮ゲート不具合、過去に住民説明されていなかった疑いって」

 雨宮が振り返った。

「もう?」

「僕の動画じゃない。別の誰かが、点検ログを流してる」

「誰が」

「分かりません。でも、外はもう知ってます」

 前室に入る直前、人々の視線が再び雨宮に集まった。

 水に追われ、風に怯え、出口の前まで来て、それでも人間は誰かの責任を探す。あるいは、探さずにはいられない。

 雨宮は何か言おうとした。

 その時、下から今までで一番大きな音が響いた。

 建物のどこかで、防火扉が破られた音だった。水が空気を押し潰し、階段を駆け上がる轟音。前室の床がわずかに震える。

 黒瀬が叫んだ。

「中へ入れ!」

 秩序は一瞬で消えた。

 住民たちは前室へなだれ込んだ。律子が乃々を抱きしめる。山辺がよろけ、灯が支える。澪が壁に手をつき、足を引きずりながら中へ入る。海斗は老人のリュックを背負ったまま、人の波に押される。

 その混乱の中で、海斗はふと澪の手元を見た。

 防水袋に入った古い封筒。

 その紙には、深い折り目があった。

 何度も開かれ、何度も閉じられ、捨てられずに持ち運ばれてきたものの折り目だった。

 なぜか海斗は、その折り目から目が離せなかった。

 扉が閉まる。

 前室に、全員が入ったのかどうか、まだ誰にも分からない。

 ただ、屋上扉は目の前にあった。

 そしてその向こうでは、救助のヘリか、嵐か、あるいはその両方が、見えない音を立てていた。



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