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沈むマンション ――最後に屋上のドアを押さえたのは誰だったのか――  作者: 二条理|アコンプリス


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第二章 上に行ける人、行けない人

 階段を上がるだけなら、誰にでもできる。

 海斗は、それまでそう思っていた。学校の非常訓練でも、駅のホームでも、古い雑居ビルでも、階段はただの通路だった。エレベーターが使えない時に仕方なく使うもの。息が切れれば文句を言い、荷物が重ければため息をつき、それでも足を交互に出せば必ず上か下へ進めるもの。

 だがその夜、ブルームタワーの非常階段は、ただの通路ではなかった。

 そこは、人間の体力を測る場所だった。荷物の量を測る場所だった。年齢を、怪我を、覚悟を、他人への遠慮を、あるいは遠慮のなさを、容赦なく測る場所だった。

 十七階の共用ラウンジから管理用通路へ入った住民たちは、狭い階段の前で早くも渋滞を起こしていた。壁は剥き出しのコンクリートで、天井には太い配管が走っている。普段、人目に触れることを想定されていない場所なのだろう。床には埃が溜まり、非常灯の赤い光がその上に薄く広がっていた。

 先頭付近で、雨宮千尋がハンドライトを掲げている。

「一人ずつ上がってください。手すりを持って。足元に段差があります」

 声は通っていたが、返事をする者は少なかった。皆、自分の呼吸の音を聞くことで精一杯だった。階段の幅は広くない。大人が二人並んで進むには窮屈で、荷物を持った人間がいれば、すぐに流れが詰まる。

 海斗の前には、幼い女の子を抱えた母親がいた。さっきぬいぐるみを落とした子だ。女の子は母親の肩に顔を埋めているが、片手には茶色い犬のぬいぐるみを強く握っていた。母親はトートバッグを肘に引っかけ、片手で娘の背中を支え、もう片方の手で手すりを掴んでいる。どう見ても無理な体勢だった。

 灯がそれに気づいた。

「バッグ、持ちます」

「え、でも」

「お子さんをしっかり抱いてください」

 母親は一瞬ためらったが、すぐにバッグを灯へ渡した。

「ありがとうございます」

「お名前は」

「佐伯です。佐伯律子。娘は乃々です」

 女の子が、母親の肩越しに灯を見た。

「のの」

 小さな声だった。

「乃々ちゃんね。私は灯。こっちは弟の海斗」

 灯が海斗を振り返った。海斗は反射的に会釈した。乃々は何も言わず、また母親の肩に顔を埋めた。

 佐伯律子は細身だったが、目つきは強かった。泣きそうな顔はしていない。泣けば娘がもっと怖がると分かっているのかもしれない。だが、体の硬さが恐怖を物語っていた。彼女は階段を一段上がるたび、娘を抱く腕に力を込め直している。

 後ろから男の声がした。

「子供を抱えてるなら先に行かせた方がいいんじゃないか」

「もう先頭が詰まってるだろ」

「いや、だからさ、歩ける大人が少し下がれば」

「下がるってどこへだよ」

 声はすぐに険しくなった。

 海斗は振り返らなかった。振り返れば、自分も何か言わなければならない気がした。何か言えば、その言葉には責任がついてくる。

 階段の下から、水音が響いている。最初は遠かったそれが、今は建物の腹の中から聞こえるようだった。音そのものが近づいたのか、人の恐怖が近づけて聞かせているのか、区別がつかなかった。

 先頭で雨宮が立ち止まった。

「ここから先、通路がさらに狭くなります。大きな荷物は置いていってください」

 その言葉に、数人がざわついた。

「置いていくって、ここに?」

「避難の妨げになります」

「中に薬が入ってるんです」

「必要なものだけ取り出してください」

「パソコンが」

「置いてください」

 雨宮の声が少し強くなった。

 スーツケースを持っていた中年の男が、露骨に顔をしかめた。黒いキャリーケースの表面には航空会社のタグがついたままだった。出張帰りか、これから出張へ行く予定だったのかもしれない。

「これ、仕事の資料が入ってるんだよ」

「命より大事な資料ですか」

 そう言ったのは、海斗の少し後ろにいた男だった。

 年齢は四十前後。背は高く、がっしりしている。短く刈った髪に、濃い眉。右足を少し引きずっていた。片手で手すりを掴み、もう片方の手で白髪の老人の腕を支えている。落ち着いた声だったが、不思議な迫力があった。

 スーツケースの男が振り返る。

「何だよ、あんた」

「黒瀬。十五階の東側に住んでる」

「名前を聞いたんじゃない」

「じゃあ答えは出てるな。荷物を捨てろ」

 黒瀬真吾と名乗った男は、声を荒らげなかった。だが、その言い方には逆らいにくいものがあった。スーツケースの男は舌打ちし、しゃがみ込んで中を開けた。書類の束、ノートパソコン、充電器、衣類。それらの中から小さなポーチだけを取り、残りは壁際へ押しやった。

 それを見た別の住民も、荷物を減らし始めた。紙袋、スリッパ、犬用のキャリーバッグ、非常食の箱。必要だったはずのものが、次々と不要なものに変わっていく。

 海斗は自分のポケットに入ったスマホの重みを意識した。もし誰かに「それも置いていけ」と言われたら、自分は従えるだろうか。

 灯が低い声で言った。

「黒瀬さん、でしたっけ。足、痛めてますか」

 黒瀬は少し目を細めた。

「昔の怪我です」

「歩けますか」

「今のところは」

「今のところ、という言い方は、あまり安心できません」

「看護師さん?」

「学生です」

「なら、まだ命令権はないな」

 黒瀬は冗談のように言った。灯は笑わなかった。

「悪化すると、途中で動けなくなります」

「その時はその時だ」

「その時が来る前に、申告してください」

 黒瀬は少しだけ口元を緩めた。

「しっかりしてるな」

「しっかりしてないと、怖いので」

 その答えに、黒瀬は何も言わなかった。

 海斗は姉の横顔を見た。灯は怖いと口にした。だが、その声は震えていなかった。怖さを認めても動ける人間がいる。そのことが、海斗には不思議だった。

 階段は、途中からほとんど梯子に近い角度になった。屋上へ直接続くものではなく、機械設備の点検用に使われる階段らしい。雨宮が先頭で一段ずつ確認しながら進むため、列はさらに遅くなった。上からは冷たい風が吹き下ろしてくる。どこかで外気とつながっているのだろう。湿った海の匂いと、機械室の金属臭が混じり、喉の奥に張りついた。

 途中、踊り場に出た。

 そこは十八階相当の機械設備フロアだった。住居ではないため、廊下の雰囲気がまるで違う。壁には配電盤や制御盤が並び、床には黄色と黒の縞模様の注意表示が貼られている。天井は低く、配管が迷路のように伸びていた。

 雨宮が住民たちを一時的に止めた。

「ここで少し待機します。上部のロック状態を確認します」

「また待つのかよ」

 スーツケースを捨てた男が苛立った声を出した。

「確認せずに進む方が危険です」

「危険危険って、下から水が来てる方が危険だろ」

「だからこそ、詰まらないように進めています」

 雨宮は淡々と答えた。その淡々さが、男には気に障ったらしい。

「そもそも何でこんなルートしかないんだ。二十階建てなんだろ、この建物。普通に二十階まで階段で行けるようにしとけよ」

 雨宮は制御盤の鍵を開けながら答えた。

「十七階より上は、居住階ではありません。十八階から二十階相当は、貯水槽、空調、電気設備、屋上連絡区画に分かれています。住民用の通常階段は十七階までです。屋上へは管理用通路を通る設計です」

「だから、その設計がおかしいって言ってんだよ」

「今は、おかしいかどうかを議論する時間ではありません」

「便利な言い方だな」

 男が吐き捨てる。

 雨宮は顔を上げなかった。

 海斗は、そのやり取りを聞きながら、以前の自分なら男の方に同調していたかもしれないと思った。管理会社なら何とかするべきだ。防災を売りにしていたなら、どんな状況でも安全に逃がすべきだ。正しい。たぶん正しい。けれどその正しさは、今この狭い機械フロアで、何の役にも立っていない。

 正しいことを言えば誰かが助かるなら、いくらでも言えばいい。

 だが、水は正しさを待たない。

 黒瀬が老人を床に座らせた。

「少し休みましょう」

「すまないねえ」

 老人は荒い息をついていた。細い首に汗が浮いている。名前はまだ聞いていない。海斗は、今ここにいる人たちの大半の名前を知らなかった。知っているのは、灯、雨宮、佐伯律子、乃々、黒瀬。それだけだ。

 名を知らない人間は、どうしても輪郭が薄くなる。

 それが怖かった。

 さっきまで同じマンションに住んでいた住民というひとまとめの存在だった人たちが、今は助かる順番を争う相手になっている。名前を知らなければ、押しのけることも少しは容易になるのだろうか。

 佐伯律子が乃々を床に下ろした。乃々は灯から返してもらった茶色い犬のぬいぐるみを抱きしめている。

「お母さん、お水」

「ちょっとだけね」

 律子はバッグから小さなペットボトルを出し、乃々に飲ませた。自分は飲まなかった。

 灯がそれを見て言った。

「お母さんも飲んでください」

「私は大丈夫です」

「大丈夫じゃなくなる前に」

 律子は一瞬だけ灯を睨むように見た。だが、すぐに視線を落とし、ペットボトルに口をつけた。

「……ありがとうございます」

「いえ」

「さっきも、ぬいぐるみ」

「落としたら、乃々ちゃんが不安になりますから」

 律子は苦笑した。

「こんな時にぬいぐるみなんて、馬鹿みたいですよね」

「馬鹿みたいではないと思います」

「でも、あの人が言った通り、そんなものって思う人もいる」

「思うだけなら、自由です」

 灯は少し間を置いてから続けた。

「ただ、乃々ちゃんにとっては、そんなものじゃなかった」

 律子は何か言いかけて、やめた。乃々の髪を撫でる。その手は震えていた。

 その時、機械フロアの奥から光が揺れた。

 誰かがスマホを掲げている。画面の白い光が、非常灯の赤の中で妙に目立った。男は三十代半ばくらい。ゆるい黒髪に、細いフレームの眼鏡。片手にスマホ、もう片方の手に小型のジンバルらしきものを持っている。避難中だというのに、画面を自分へ向けて何かを話していた。

「現在、ブルームタワー十八階相当の機械設備フロアにいます。下層階からの浸水はすでに十七階付近まで影響が出ている模様。管理会社からの正式な説明は不十分で、住民の間には混乱が」

「何撮ってんだ」

 黒瀬の声が飛んだ。

 男はスマホを少し下げた。

「記録です」

「避難中だぞ」

「だから記録してるんです。外部に状況を知らせないと」

「配信か」

「電波が安定しないので、録画もしています」

 男は悪びれなかった。むしろ、自分が重要な役割を担っていると信じている顔だった。

 雨宮が制御盤から振り返る。

「撮影は控えてください。住民の顔が映ります」

「こんな状況でプライバシーですか」

「こんな状況だからです」

「外に知らせる必要があるでしょう。救助が遅れているならなおさら」

「救助要請は出ています」

「その証拠は?」

 男の声には挑発が混じっていた。

 雨宮は答えない。黒瀬が一歩踏み出す。

「名前は」

「仁科要です」

「仁科さん。撮るなら邪魔にならない場所で撮れ。手が空いてるなら、荷物を持つか、誰かを支えろ」

「僕は記録することで役に立っています」

「今、目の前で転びそうな人間を支える方が役に立つ」

 仁科は不満そうに口元を曲げたが、スマホを完全には下ろさなかった。

 海斗はそのやり取りを見ながら、自分も仁科を責められないと思った。自分だって何もしていない。撮っていないだけで、誰かを支えているわけでもない。灯の後ろにいて、状況に流されているだけだ。

 黒瀬が海斗の方を見た。

「君、名前は」

「あ、床島海斗です」

「高校生か」

「はい」

「体力はあるな」

「たぶん」

「その『たぶん』を、今は使えるものとして扱え。老人の荷物、持てるか」

 海斗は少し戸惑った。黒瀬の近くに座っている老人が、小さなリュックを抱えている。重そうではない。だが、他人の荷物を持つということは、その人と関わるということだ。途中で落としたらどうする。中に大事なものが入っていたら。そんな考えが一瞬で頭を巡った。

 黒瀬は待っていた。

 海斗は頷くしかなかった。

「持ちます」

「ありがとう」

 老人がリュックを差し出した。軽かった。驚くほど軽い。中には何が入っているのだろう。薬か、通帳か、家族の写真か。海斗は聞かなかった。

 黒瀬が低い声で言う。

「迷うのはいい」

 海斗は顔を上げた。

「だが、迷っている間にも水は上がる」

 その言葉は、叱責というより事実の確認だった。だから余計に重かった。

 雨宮が制御盤を閉じた。

「上部ロックは手動解除に切り替えられます。ただし、屋上扉まではまだ複数の防火区画があります。ここから先は一列で進んでください。転倒した場合、後続が巻き込まれます」

「水はどこまで来てるんですか」

 灯が尋ねた。

「正確には分かりません」

「階段室に飛沫が上がっていました」

「圧力がかかっている可能性があります」

「水位そのものは」

 雨宮は一瞬迷った。

「十六階下部までは影響が出ていると考えた方がいいです」

 誰かが息を呑んだ。

「十六階って、さっきまでいたところじゃないか」

「だから急いでいます」

 雨宮の声は冷静だったが、額には汗が滲んでいた。

 移動が再開された。機械フロアを抜け、さらに上の連絡階段へ向かう。だが、列は思うように進まない。老人の足取りが遅く、犬を抱えた女性が途中でしゃがみ込んだ。喘息の発作らしく、胸を押さえている。灯がすぐに近づき、呼吸を確認する。黒瀬が周囲に指示を出して空間を作る。海斗は老人のリュックを持ったまま、その場に立ち尽くした。

「灯、大丈夫なの」

「吸入薬ありますか」

 灯は女性に尋ねている。女性は震える手でポーチを探る。犬が腕の中で小さく鳴いた。

「早くしてくれよ」

 後ろの方から声がした。

「こっちだって子供がいるんです」

 律子がきつい声で言った。

「止まられたら困るんですよ」

「発作です」

 灯が振り返った。

「今動かす方が危険です」

「でも水が来てるんでしょう」

「だから、動ける状態にしています」

「その人のせいで乃々が間に合わなかったら、責任取れるんですか」

 空気が凍った。

 律子自身も、自分の言葉に驚いたようだった。だが取り消さなかった。取り消せない言葉というものがある。口に出した瞬間、その人間の中にあった形が見えてしまう。

 喘息の女性が顔を伏せた。

「すみません」

 その謝罪に、海斗は胸が痛くなった。彼女は何も悪くない。発作を起こしたくて起こしたわけではない。けれど、今この場所では、動けないことが罪のように扱われる。

 灯は律子を責めなかった。

「佐伯さん」

「何ですか」

「乃々ちゃんを助けたいんですよね」

「当たり前です」

「なら、ここで列を乱さないでください。転倒者が出たら、もっと遅れます」

 律子は唇を噛んだ。乃々を抱く腕に力が入る。

 黒瀬が喘息の女性の犬を預かった。片腕で犬を抱え、もう片方の手で手すりを掴む。右足を引きずっていることを考えれば、無茶だった。

「黒瀬さん」

 灯が言う。

「大丈夫だ」

「その言葉、信用しません」

「信用しなくていい。今は進む」

 灯は女性に吸入薬を使わせ、数十秒様子を見た。呼吸が少し落ち着く。完全ではないが、歩ける程度には戻った。

「ゆっくりでいいです。黒瀬さん、犬を」

「持つ」

「海斗、前の人との間を空けすぎないで」

「分かった」

 海斗は返事をした。返事だけはできる。行動はいつも遅れる。

 列が再び動き出す。

 その頃には、機械フロアの床にも微かな湿り気が広がっていた。水が直接来ているわけではない。配管の結露かもしれない。だが誰も、それをただの結露だとは思わなかった。全員が足元を見ながら歩いていた。

 階段の途中で、下から別の集団が追いついてきた。

 彼らは十四階から上がってきた住民たちだった。数は十人ほど。先頭の若い男のズボンは膝まで濡れている。後ろには、肩を借りて歩く女性がいる。顔面蒼白で、足首を捻ったのか片足を引きずっていた。

「入れてください」

 若い男が叫んだ。

「下はもう無理です。階段、十六階の下まで水が来てます」

 雨宮が振り返る。

「一列に合流してください。押さないで」

「押してないと上がれないんだよ」

「落ち着いてください」

「落ち着けるかよ。下にまだ人がいるんだぞ」

 その言葉で、列の中にざわめきが走った。

「まだ人が?」

「何人」

「知らない。動けない爺さんがいた。あと、部屋に戻った人も」

「戻った?」

「猫を取りに行くって」

 誰かが小さく「馬鹿な」と言った。

 それが誰の口から出たのか、海斗には分からなかった。もしかすると、自分の中でも同じ言葉が浮かんでいたかもしれない。

 だがその人にとって、猫は馬鹿なものではなかったのだろう。

 階段はさらに混み始めた。上へ行こうとする人間と、合流しようとする人間が交差し、流れが歪む。黒瀬が声を張った。

「詰めるな。前の人間の足を見ろ。押したら全員止まる」

「偉そうに仕切るなよ」

 下から来た若い男が噛みついた。

「仕切られたくなければ、自分で周りを見ろ」

「何様だよ」

「元消防だ」

 その一言で、周囲の目が黒瀬に集まった。

 黒瀬は少し苦い顔をした。自分から言うつもりはなかったのかもしれない。

「今は辞めてる」

「消防士なら、下の人を助けに行くべきじゃないんですか」

 律子が言った。声に責める響きがあった。

 黒瀬は彼女を見た。

「俺が下へ行けば、ここにいる人間を上へ進める人間が一人減る」

「でも下に人がいるって」

「いるだろうな」

「見捨てるんですか」

「全員を助けられる場所じゃない」

 その言葉は、あまりに直接的だった。律子が目を見開く。周囲の何人かが黒瀬を睨んだ。だが黒瀬は視線を逸らさなかった。

「綺麗な言葉が欲しいなら、誰か他の人間に言ってもらえ。今ここで必要なのは、上に行ける人間を確実に上げることだ」

「下の人は」

「助けに行ける人間がいるなら行けばいい。ただし、戻ってこられない可能性がある」

 沈黙が落ちた。

 誰も「自分が行く」とは言わなかった。

 海斗も言わなかった。言えるはずがなかった。下には水がある。暗い階段がある。知らない誰かがいる。その誰かを助けに行く自分を想像してみたが、すぐに灯の背中が頭に浮かんだ。姉を置いて行けない。そう思った瞬間、自分が下の誰かを切り捨てたような気がした。

 灯が黒瀬に言った。

「言い方は最悪です」

「だろうな」

「でも、今は進みます」

「それでいい」

 雨宮が列を整理し直した。下から来た集団を中ほどへ入れ、足を捻った女性を黒瀬と若い男で支えることになった。黒瀬の右足には明らかに負担がかかっている。灯が何度も視線を向けたが、黒瀬は気づかないふりをした。

 海斗は老人のリュックを背負い直した。自分のものではない軽い荷物が、さっきより重く感じた。

 進むしかなかった。

 上へ進むという行為が、少しずつ誰かを下に残す行為になっていく。

 十九階相当の連絡区画へ近づいた時、突然、列の後方で悲鳴が上がった。

 海斗は反射的に振り返った。狭い階段の下、赤い光の中で人影が乱れている。誰かが転んだのかと思った。だが次の瞬間、乾いた金属音が響いた。

 手すりを掴み損ねた音。

 いや、それだけではない。

 人が階段を滑り落ちる音だった。

「待って!」

 女性の叫び声がした。

 列が一気に止まる。後方で誰かが「落ちた」と叫んだ。海斗は心臓が凍るような感覚に襲われた。

 黒瀬がすぐに動いた。

「動くな。全員止まれ」

「落ちたって、どこに」

「階段の踊り場だ。まだ下までは落ちてない」

 仁科がスマホを向けていた。画面の光が揺れている。

「撮るな」

 黒瀬が怒鳴った。

「状況確認です」

「邪魔だ」

 黒瀬は足を引きずりながら後方へ向かった。灯も続こうとする。

「灯」

 海斗は姉の腕を掴んだ。

「行かない方が」

「怪我人がいる」

「でも」

「海斗、手を離して」

 その声は静かだった。海斗は手を離した。離したくなかった。けれど、掴んだままにする理由を言えなかった。

 灯が後方へ向かう。海斗もついていった。狭い階段で人の間を抜けるたび、肩がぶつかり、非難の目を向けられた。

 踊り場には、初老の女性が倒れていた。頭から血は出ていない。だが、腕を押さえて苦しげに呻いている。足元には割れた眼鏡が落ちていた。彼女のすぐ近くで、さっき下から合流してきた若い男が青ざめて立っている。

「押したんじゃない」

 若い男は、誰に聞かれたわけでもないのに言った。

「俺は押してない」

 その言葉が、周囲の空気を変えた。

 誰も、押したとは言っていなかった。

 灯が女性の状態を確認する。

「意識ありますか。名前、言えますか」

「……山辺」

「山辺さん、腕を見ます。痛いところ、他にありますか」

「腰……でも、立てると思う」

「無理に立たないで」

 灯が手際よく確認する。黒瀬は階段の下を見ていた。水音はさらに近くなっている。

 雨宮が駆け寄ってきた。

「何が」

「転落です」

 灯が言った。

「骨折の可能性があります。移動には支えが必要です」

 若い男がまた言った。

「俺は押してない」

 雨宮が彼を見る。

「誰もそう言っていません」

「でも、見てただろ。後ろから詰められて、あの人が勝手に」

「落ち着いてください」

「俺じゃない」

 その時、仁科がスマホを見ながら低く言った。

「映ってるかもしれません」

 全員の視線が彼に向いた。

 仁科は画面を操作していた。録画を巻き戻しているらしい。非常灯の赤が、彼の眼鏡に反射する。

「列の後方を撮っていました。ちょうど、転落の瞬間が」

「見せろ」

 若い男が詰め寄る。

「待ってください。手元がブレていて」

 画面に、赤い階段と人の背中が映っている。怒号。足元。誰かのバッグ。山辺という女性がバランスを崩す瞬間。そこまでは見えた。

 だが、肝心の部分は、誰かの背中で隠れていた。

 彼女の肩に手がかかったようにも見える。自分で手すりを掴み損ねたようにも見える。後ろの若い男が押したようにも、前の人間が急に止まってぶつかったようにも見える。

 決定的ではなかった。

「ほら、俺じゃないだろ」

 若い男が言った。

「分からない」

 仁科が答える。

「分からないって何だよ」

「映っていない部分があります」

「ふざけんな」

 若い男が仁科の胸ぐらを掴みかけた。黒瀬がその腕を押さえる。

「やめろ」

「こいつが変なこと言うから」

「お前が騒ぐから列が止まる」

「俺は押してないんだよ」

「なら黙って進め」

 黒瀬の声が、階段に低く響いた。

 海斗は山辺の割れた眼鏡を拾った。レンズの片方にひびが入っている。それをどうすればいいか分からず、灯を見る。灯は山辺の腕を三角巾代わりのタオルで固定していた。

「海斗、その眼鏡、山辺さんのポケットに入れて」

「うん」

 山辺は痛みに顔を歪めながら、それでも海斗に小さく頭を下げた。

「ごめんね」

 また謝罪だった。

 動けない人間が謝る。落ちた人間が謝る。怪我をした人間が謝る。そのたびに、海斗の中で何かが削られていく。

 灯と黒瀬、そして別の住民が山辺を支えることになった。若い男は距離を置かれた。本人は不服そうだったが、誰も彼の近くに立とうとしなかった。

 事故かもしれない。

 誰かが押したのかもしれない。

 そのどちらでも、列の空気はもう元には戻らなかった。

 上に行ける人と、行けない人。

 その差が、だんだん目に見える形を取り始めていた。

 足の速い人。遅い人。子供を抱える人。支えられる人。支える人。荷物を捨てられる人。捨てられない人。撮る人。怒る人。黙っている人。

 そして、何も決められない人。

 海斗は自分のことをそう思った。

 再び列が動き出すまでに、数分かかった。たった数分。だが、その間にも水は上がっている。階段の下から、冷たい湿気が吹き上がってきた。足元の鉄板がかすかに震えている。

 雨宮が先頭で叫んだ。

「急ぎます。ただし走らないでください。ここから屋上連絡区画に入ります」

 屋上。

 その言葉に、住民たちの顔がわずかに上がった。希望というには弱い。けれど、暗闇の中で出口の形をしたものがあるだけで、人はそこへ向かえる。

 海斗も上を見た。

 階段の先に、重い防火扉が見えた。赤い非常灯の下で、灰色の扉が沈黙している。そこには小さな表示板があり、白い文字でこう書かれていた。

 屋上連絡区画。

 扉の向こうに何があるのか、海斗には分からなかった。ただ、そこを越えなければ助からないことだけは分かった。

 黒瀬が山辺を支えながら、海斗の横を通った。

「床島」

「はい」

「さっきの荷物、持ち続けられるか」

「持てます」

「なら持て。途中で嫌になっても、黙って持て」

「分かりました」

「それでいい」

 黒瀬の息は荒かった。右足をかばうたびに、顔の筋肉がわずかに動く。灯はそれに気づいている。だが、今止めることはできない。

 佐伯律子は乃々を抱えて、列の前方へ進んでいた。誰かが子供を優先しようと言い、誰かが不満を呑み込んだ結果だった。律子は振り返らない。ただ、乃々の頭を抱えるようにして階段を上がっていく。

 仁科はスマホを下ろしていなかった。だが、さっきよりも口数が少ない。画面の中に、彼が望んだ決定的瞬間は映っていなかった。それでも、彼は撮り続けている。記録するためなのか、自分が何もしない理由を保つためなのか、海斗には分からなかった。

 雨宮が防火扉の前で立ち止まった。社員証の裏に差していた鍵を取り出し、手動解除のカバーを開ける。金属音が響く。彼女の手は汗で濡れていた。

「開けます」

 誰も声を出さなかった。

 雨宮がレバーを下ろした。

 扉の向こうから、風の音がした。

 水の音ではない。まだ水ではない。だがそれは、救いの音にも聞こえなかった。狭い区画を抜け、どこか高い場所から吹き込んでくる、冷たく荒い風だった。

 防火扉が数センチ開いた瞬間、風がこちら側へ流れ込んだ。湿った空気が一気に押し戻される。乃々が小さく悲鳴を上げ、律子が抱きしめる。老人が咳き込み、山辺が痛みに顔を歪めた。

 雨宮が肩で扉を押さえる。

「一人ずつ。足元に注意してください」

 その時、階段の下からまた轟音が響いた。

 今度は近かった。鉄扉が何枚も連続して叩かれるような音。水が空気を押し上げ、壁の内側を走る音。悲鳴が下の方からかすかに聞こえた気がしたが、それが実際の声なのか、配管の音なのかは分からなかった。

 海斗は振り返った。

 赤い階段の下から、白い霧のような飛沫が上がっていた。

 誰かが言った。

「もう時間がない」

 その言葉は、全員のものだった。

 雨宮が扉をさらに押し開ける。

「進んでください」

 上に行ける人。

 行けない人。

 その差を、誰かが決めたわけではなかった。けれど、現実はすでに選別を始めていた。

 海斗は老人のリュックを背負い、灯の背中を追った。姉は山辺を支え、黒瀬はその反対側に立っている。佐伯律子は乃々を抱いて先へ進み、仁科は少し遅れてスマホを構え直している。雨宮は扉を押さえ、誰もが彼女の横を通り過ぎていく。

 その姿を見た時、海斗は初めて思った。

 扉を押さえる人間は、通り過ぎる人間の顔を全部見ることになる。

 助かっていく人間の顔を。

 自分を置いていく人間の顔を。

 雨宮の横を通る瞬間、海斗は彼女の目を見た。疲れた目だった。責められ、急かされ、それでも立っている人間の目だった。

「行ってください」

 雨宮が言った。

 海斗は頷くことしかできなかった。

 防火扉の向こうへ入ると、通路はさらに暗かった。壁が近い。天井も低い。風が奥から吹いてくる。屋上は近いはずなのに、出口はまだ見えない。

 背後で、扉が重く閉まる音がした。

 その音に、海斗はなぜか胸騒ぎを覚えた。まだ誰も置いていかれていない。そう思いたかった。だが本当に全員が通れたのか、自分には分からない。

 列は前へ進む。

 下から水が来る。

 上には扉がある。

 そしてその途中で、人間たちは少しずつ、自分がどういう人間なのかを暴かれていく。

 海斗は歯を食いしばり、濡れた空気を吸い込んだ。

 まだ終わっていない。

 むしろ、本当に始まったのはここからだった。



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