第一章 水は一階から来た
その夜、床島海斗は、帰る場所をひとつ失っただけのつもりで、姉の部屋にいた。
午後八時を少し過ぎた頃だった。湾岸沿いに建つ二十階建ての高層マンション、ブルームタワーの十五階。窓の外には黒い海が広がり、そのさらに向こうに、工場地帯の灯が細く滲んでいた。雨は降っていない。けれど空気は湿っていて、窓ガラスには部屋の灯りと、海斗のぼんやりした顔が重なって映っていた。
床島灯は、ダイニングテーブルにノートパソコンを置き、白いマグカップの横に付箋を何枚も貼った参考書を広げていた。看護学校の課題だと言っていた。画面には、聞いただけで眠くなるような語句が並んでいる。心肺蘇生、低体温、クラッシュ症候群、トリアージ。海斗はそのどれにも興味がなかったが、灯がそれらを必要としていることだけは分かっていた。
姉は昔から、必要なことを必要な順番で覚えられる人間だった。
海斗とは違う。
「まだ帰らないの」
灯は画面から目を離さずに言った。
「帰れってこと?」
「そうは言ってない」
「じゃあ、いいじゃん」
「よくはない。明日、学校でしょ」
「行くよ。たぶん」
「たぶん、じゃない」
灯はようやく顔を上げた。二十二歳。海斗より五つ上。昔はよく笑う人だったが、母が再婚してからは、少し笑い方が変わった。笑っていても、どこか別のことを考えているように見える。母の前でも、新しい父親の前でも、灯は大人だった。海斗だけが、いつまでも大人になりきれずにいた。
「また喧嘩したの」
「喧嘩ってほどじゃない」
「じゃあ何」
「意見の相違」
「高校生が使う言葉じゃないね」
「先生がよく言ってる」
「便利な言葉を覚えたね」
灯は短く息をついた。叱られると思ったが、姉はそれ以上踏み込んでこなかった。海斗はその沈黙に甘えた。甘えていることを自覚している分だけ、居心地が悪かった。
母の再婚相手は、悪い人間ではない。少なくとも、そう思おうとしていた。仕事は真面目で、声を荒らげることも少ない。海斗の進路にも口を出さない。むしろ「無理しなくていい」と言う。だが、その言葉を聞くたびに、海斗の胸の奥に硬いものが生まれた。
無理しなくていい。
それは、期待していないという意味にも聞こえた。
夕食の席で、些細なことから口論になった。進路希望調査をまだ出していないこと。担任から連絡があったこと。母が困った顔をしたこと。再婚相手が「海斗くんも色々ある年頃だから」と言ったこと。
その瞬間、何かが切れた。
気づいた時には、家を出ていた。行き先は姉の部屋しかなかった。母には「灯のところ」とだけメッセージを送った。既読はついたが、返事はない。
灯の部屋に来るのは久しぶりだった。ブルームタワーは、防災性能を売りにした分譲マンションだったと聞いている。免震構造。非常用発電。防潮設備。停電時の自動扉解除。避難階段には蓄光表示。販売当時のパンフレットには、家族を守る塔、という言葉が使われていたらしい。
灯は中古で借りているだけだが、部屋は綺麗だった。無駄なものが少ない。冷蔵庫の横には自治体の防災マップが貼ってあり、その下に小さな非常持ち出し袋が置かれている。海斗はそれを見て、姉らしいと思った。
自分の部屋には、逃げるための荷物などない。
スマホをいじっていると、床が小さく鳴った。
最初は、上の階で何か重いものを落としたのだと思った。だが次の瞬間、窓の向こうで、遠い雷のような音がした。低く、腹の底に響く音だった。
灯が顔を上げた。
「今の、何」
「雷?」
「光ってない」
灯が椅子から立ち上がった。海斗も反射的に窓の方を見た。工場地帯の灯の一部が、ふっと消えたように見えた。気のせいかと思った直後、部屋の照明が一度大きく瞬き、消えた。
闇が落ちた。
数秒後、足元に赤い光が滲んだ。廊下側から非常灯の光が差し込んでいる。家電の低い唸りが消え、冷蔵庫の音も、換気扇の音も、まとめて切り取られたようだった。代わりに、建物全体が軋むような音が聞こえた。
「停電?」
海斗が言うと、灯は黙ってスマホを手に取った。画面の光が、姉の顔の下半分を青白く照らした。
「圏外じゃない。でも、重い」
「地震速報とか来てないよ」
「地震じゃないかもしれない」
灯の声には、嫌な確信があった。
その時、廊下の方で誰かが叫んだ。
「おい、エレベーター止まってるぞ」
続けて、別の声がした。子供の泣き声。スリッパで床を叩く音。ドアが開く音が、十五階の廊下に連なった。
灯はすぐに玄関へ向かった。
「見てくる」
「俺も」
「靴履いて」
その指示があまりにも普通だったので、海斗は逆に落ち着かなくなった。スニーカーに足を突っ込み、灯の後を追う。
廊下には、赤い非常灯が等間隔に灯っていた。普段は明るく清潔に見える内廊下が、その光のせいで病院の夜間通路のように変わっている。住民たちが部屋から顔を出していた。スーツ姿の男、部屋着の女性、幼い女の子を抱えた母親、白髪の老人。誰もが、自分だけは事態の外側にいると信じたい顔をしていた。
「管理室に電話つながらないんだけど」
「非常放送は?」
「エレベーターの中に人いないのか?」
「地震じゃないよね。揺れてないよね」
言葉だけが先に走る。誰も何が起きたのか知らない。知らないまま、知っているふりをしている。
灯は廊下の端にある避難階段の扉へ向かった。海斗もついていく。扉を開けた瞬間、湿った空気が流れ込んできた。
コンクリートの匂いに、鉄と油の匂いが混じっていた。
そして、遠く下の方から、水音が聞こえた。
海斗は最初、それを配管の音だと思った。高層マンションなら、どこかの階で水を流せば、縦管を伝って音が響くこともあるだろう。だが、灯の顔を見て、その考えが甘いことを悟った。
姉は階段の手すりを握ったまま、下を覗き込んでいた。
「灯?」
「静かにして」
海斗は息を止めた。
水音は、下から上へ来ていた。
ざあ、ざあ、という規則的な音ではない。もっと重い。何か大きなものが狭い場所へ無理やり流れ込み、壁に当たり、階段を叩き、また跳ね返っている音だった。時折、金属がぶつかるような甲高い音も混じる。
灯は一段だけ階段を下りた。
「行くの?」
「確認するだけ」
「危ないだろ」
「分からないから確認するの」
海斗は言葉に詰まった。灯はいつもそうだった。分からないことを怖がる前に、分かろうとする。海斗は逆だ。分からないものを見ないふりして、誰かが答えを持ってくるのを待つ。
十四階まで下りると、同じように階段に出てきた住民たちがいた。さらに下の十三階から、男が駆け上がってくる。
「下、やばいぞ」
「何がですか」
灯が尋ねる。
「水だよ。十階の方まで見に行った奴がいるんだけど、下から水が上がってきてるって」
「水?」
「地下駐車場が浸かったんじゃないかって。いや、もっと下かも。とにかく、階段の下が濡れてる。エレベーターは全部停止。非常ボタンも反応してるのか分からない」
男は息を切らしていた。嘘をついているようには見えなかった。だが、事実を正確に掴んでいるようにも見えなかった。恐怖は、人の言葉を早くする。
灯はスマホを確認した。
「消防に電話は」
「してる人はいる。でも通話が混んでるのか、つながらないって。外、何か起きてるんじゃないか」
「外?」
「湾岸道路の方、真っ暗だ」
その言葉で、海斗は窓の外の灯が消えたことを思い出した。
十五階へ戻る途中、マンションの館内放送が鳴った。最初に、ざらついたノイズが数秒続く。その後、女性の声が聞こえた。
「住民の皆様にお知らせします。ただいま、地下設備階において浸水が確認されています。エレベーターの使用を中止し、各階の避難階段より、上階へ避難してください。繰り返します。ただいま、地下設備階において」
そこで音声が途切れた。
ノイズが、廊下全体に広がった。誰かが「おい」と声を上げた。放送は戻らない。赤い非常灯だけが、住民たちの顔を染めていた。
沈黙の中で、幼い女の子が泣き出した。
「ママ、下に行けないの?」
「大丈夫、大丈夫だから」
母親はそう言ったが、その声は少しも大丈夫ではなかった。年齢は四十前後だろうか。細い腕で女の子を抱え、もう片方の手に大きなトートバッグを握っている。バッグの口から、ぬいぐるみの耳が覗いていた。
灯がそちらに歩み寄る。
「お子さん、どこか怪我してませんか」
「え、あ、いえ。大丈夫です。たぶん」
「靴は履いてますか」
母親は女の子の足元を見た。ピンク色の靴下だけだった。慌てて部屋に戻ろうとする。
「靴、取ってきます」
「お母さんも上着を。階段は冷えます」
「はい」
灯は言い方がうまい。命令ではなく、相手がすべきことを思い出せるように言う。海斗はその横で立っているだけだった。
向かいの部屋から、老人が杖をついて出てきた。別の住民が腕を貸している。スーツ姿の男はスマホを耳に当てたまま、廊下を行ったり来たりしていた。
「だから、十五階だって言ってるだろ。ブルームタワー。湾岸の。いや、火事じゃない。水だ、水。下から水が来てるんだよ」
その声が、妙に現実味を失わせた。
高層マンションで、水が下から来る。
言葉にすると馬鹿げていた。水害なら避難所へ行く。低い場所から高い場所へ逃げる。そういう知識なら海斗にもある。だが、いま自分たちは高い場所にいる。十五階だ。普通なら安全な高さだった。
なのに、まだ上へ逃げろと言われている。
「海斗、部屋に戻る」
灯が言った。
「何で」
「必要なものを持つ。水、タオル、モバイルバッテリー。あと靴下替えて。濡れるかもしれない」
「そんなにやばい?」
「やばいかどうか分からない。だから準備する」
部屋に戻ると、灯は無駄なく動いた。リュックを開き、ペットボトルの水を二本、タオル、救急ポーチ、モバイルバッテリー、小型ライトを入れる。海斗は何をすればいいか分からず、玄関の近くに立っていた。
「海斗」
「何」
「自分のスマホ、充電何パーセント」
「六十二」
「省電力にして。動画見ない。ゲームしない。誰かに連絡するなら短く」
「分かってるよ」
「分かってるなら動いて」
少し強い言い方だった。海斗はむっとしたが、言い返せなかった。言い返したところで、状況がよくなるわけではない。そういうことだけは、分かっている。
母にメッセージを送ろうとして、指が止まった。
何と書けばいい。
停電した。水が来てる。上に逃げる。大丈夫。
どれも違う気がした。大丈夫ではないかもしれない。けれど、大丈夫ではないと送れば、母はもっと混乱する。再婚相手が車を出すかもしれない。外の状況も分からないのに。
結局、海斗は短く打った。
灯のマンション停電。上に避難する。スマホ温存する。
送信した直後、既読がついた。返事はすぐに来なかった。
灯が玄関へ向かう。
「行くよ」
「どこまで」
「上。とにかく上」
「屋上?」
「たぶん」
「たぶんって」
「屋上へ出られるかは分からない。鍵の問題がある」
「防災マンションなんだろ」
「防災マンションでも、全部自動で助けてくれるわけじゃない」
その言葉は、妙に海斗の胸に刺さった。
廊下へ出ると、住民の数は増えていた。十五階だけでも十数人いる。上階から下りてきた人、下階から上がってきた人が混じり、廊下は落ち着きのないざわめきで満ちていた。
その中心に、紺色の作業ジャケットを着た女性がいた。髪を後ろで束ね、首から社員証を下げている。年齢は三十前後。顔色は悪かったが、声は通っていた。
「皆さん、階段を使って十七階の共用ラウンジまで上がってください。そこで一度人数確認をします。エレベーターは使用できません。下階には絶対に戻らないでください」
「あなた、管理の人?」
誰かが尋ねた。
「管理会社の雨宮です。本日は設備点検の立ち会いで館内にいました」
「何が起きてるんですか」
「地下設備階と一階共用部に浸水が出ています。原因は確認中です」
「確認中って、そんな悠長な」
「現在、非常用電源に切り替わっています。ですが、電力には限りがあります。廊下照明、防火扉、通信設備の一部を維持していますが、長くは持ちません」
「長くって、どれくらい」
雨宮は一瞬だけ口を閉じた。
「設計上は、六時間程度です」
廊下の空気が変わった。
六時間。
それは長いのか短いのか、すぐには判断できなかった。けれど、今この瞬間にも下から水が上がってきているなら、六時間は安心の数字ではない。むしろ、終わりの時刻を告げられたようなものだった。
「救助は」
「要請は出ています」
「出ていますって、来るんですか」
「外部の状況が分かりません。湾岸道路の一部が通行止めになっている可能性があります。ヘリによる救助が検討されるはずです」
「はずって何だよ」
スーツ姿の男が声を荒らげた。雨宮は動じなかった。動じていないように見せているだけかもしれない。
「今できることは、上へ避難することです」
「屋上は開くんだろうな」
「手動解除できます」
「だったら早く屋上に行かせろよ」
「屋上階への動線は十七階から管理用通路に入る必要があります。通常の住民用階段では直接出られません。順番に移動してください」
「何でそんな造りなんだよ」
雨宮は答えなかった。答えたくても、今それを説明する時間はないのだろう。
海斗は灯を見た。姉は雨宮の説明を聞きながら、周囲の人間の足元や荷物を見ていた。怪我人、歩けない人、子供。そういうものを数えている顔だった。
「灯」
「何」
「全員、上がれるよな」
灯はすぐには答えなかった。
それだけで、海斗は聞かなければよかったと思った。
「今は、上がることだけ考えて」
「それ、答えになってない」
「答えを出すには情報が足りない」
「でも」
「海斗」
灯は低い声で言った。
「怖い時ほど、聞きたい答えを探さないで」
海斗は黙った。
避難は、思っていたよりも遅かった。
階段は広くない。非常灯はあるが、足元が見えにくい。上へ向かう人と、状況を確認しようと下を覗く人がぶつかる。荷物を持ちすぎた人が手すりを塞ぐ。老人の歩幅は小さく、子供はすぐに泣き出す。誰かが「急げ」と言えば、別の誰かが「押すな」と怒鳴る。
十六階へ上がる途中、下から濡れた靴音が聞こえてきた。
一人の男が階段を駆け上がってきた。灰色のパーカーの裾が濡れている。顔には恐怖が貼りついていた。
「十二階まで来てる」
その言葉に、周囲が凍った。
「嘘だろ」
「本当だよ。下見てきた。十一階の踊り場、もう水が入ってた。十階はだめだ。水が階段を叩いてる」
「一階だけじゃなかったのか」
「知らねえよ。下からどんどん来てるんだよ」
「そんな速いわけないだろ」
「じゃあ見に行けよ」
誰も動かなかった。
海斗は階段の吹き抜けを覗いた。赤い非常灯が、下へ下へと続いている。ずっと下の方で、水面らしきものが揺れた気がした。いや、見えたわけではない。音がそう思わせただけかもしれない。
だが、匂いは確かに強くなっていた。
海水の匂いだった。
湾岸の濁った水と、錆びた鉄と、機械油と、どこか生臭い泥の匂い。それが階段の中をゆっくり満たしていた。
灯が口元を押さえた。
「海水が入ってる」
「何で分かるんだよ」
「匂い」
「川じゃなくて?」
「たぶん、海側」
雨宮が近くでその言葉を聞いていた。彼女の表情がわずかに硬くなる。
「海側の防潮ゲートか」
誰かが言った。
「このマンション、防潮設備あるんだろ」
「あるはずです」
雨宮が答えた。
「じゃあ何で入ってくるんだよ」
「分かりません」
「分かりませんばっかりじゃねえか」
怒鳴り声が階段に響く。怒鳴った男の腕を、隣の女性が引いた。
「やめて。今そんなこと言っても」
「言わなきゃ誰が責任取るんだよ」
責任。
その言葉だけが、妙にはっきりと聞こえた。
海斗は、夕食の席を思い出した。母の困った顔。再婚相手の静かな声。自分が椅子を引く音。誰が悪いわけでもない。けれど、誰かのせいにしなければ、自分の怒りの置き場所がない。
この階段でも同じことが起きている。
水が来ている。電気が消えた。下へ戻れない。救助が来るか分からない。だから、誰かを責めたくなる。責めれば、少なくとも自分は被害者でいられる。
灯が、海斗の腕を軽く叩いた。
「止まらないで」
「あ、ごめん」
「謝るより歩いて」
階段を上る。十六階を過ぎ、十七階へ向かう。足が重い。たった二階上がるだけなのに、空気が薄くなったように感じる。背後から水音が追ってくるせいだった。
十七階の共用ラウンジは、普段なら住民が景色を眺めたり、来客を待たせたりするための場所らしい。大きな窓、低いソファ、自動販売機、観葉植物。停電の中では、それらがすべて舞台装置の残骸に見えた。
集まった住民は、三十人近くいた。下階から逃げてきた者も混じっている。濡れた服の人間が何人かいた。裸足の女性、犬を抱えた老人、スーツケースを引いている男。誰もが、自分の持ち物と恐怖を抱えていた。
雨宮は社員証の裏に挟んでいた小さなカードを取り出し、非常用のパネルを開けた。壁の一部が外れ、中に管理用通路へ続く扉がある。普段は住民の目に触れない場所なのだろう。扉には、赤い文字で「関係者以外立入禁止」と書かれていた。
「ここから屋上へ上がります。ただし、すぐには開けられません。上部の安全確認が必要です」
「何を確認するんですか」
灯が尋ねた。
「屋上扉の状態です。風圧、ロック、排水。停電時の手動解除はできますが、開放状態を保てるかどうか」
「保てない場合は?」
雨宮は灯を見た。そこに一瞬、言うべきか迷う色が浮かんだ。
「人が押さえる必要があります」
誰もすぐには理解しなかった。
雨宮は続けた。
「屋上扉は二重構造です。外側からの風と、内側からの気圧差を受けると、閉じようとする力が強く働きます。通常は電動で制御しますが、停電時は手動になります。開けることはできます。ただし、開いた状態を維持するには、内側から押さえる人間が必要になる可能性があります」
「ちょっと待って」
スーツ姿の男が声を上げた。
「それ、どういう意味だよ」
「そのままの意味です」
「最後の人はどうなる」
雨宮は答えなかった。
答えないことが、答えだった。
ラウンジに沈黙が落ちた。外では、闇の向こうから風が窓を叩いている。海は見えない。ただ、黒い塊としてそこにあった。下からは、水音が続いている。十五階にいた時より近い。たしかに近づいている。
女の子が母親の服を掴んだ。
「ママ、ドア押さえる人、あとで来る?」
母親は、答えられなかった。代わりに、女の子を強く抱き寄せた。
海斗は灯を見た。灯は雨宮を見ていた。責める顔ではない。理解しようとしている顔だった。理解しようとする人間は、時々、責める人間より残酷に見える。
「何でそんな扉にしたんですか」
誰かが言った。
「安全基準は満たしています」
雨宮の声は固かった。
「満たしてこれかよ」
「今は設計の話をしている場合ではありません」
「じゃあ誰が押さえるんだよ」
その言葉が、ラウンジの天井に当たって落ちてきた。
誰が押さえるのか。
誰も名乗らない。当然だ。海斗だって名乗れない。自分が残るなど、想像しただけで喉が塞がる。姉を見た。灯も名乗らなかった。だが、灯が何を考えているかは分からなかった。
雨宮が、ラウンジにいる人々を見回した。
「まだ決める段階ではありません。救助の到着状況によっては、全員が順番に出られる可能性があります。まずは人数確認を」
「可能性って何だよ」
「確約はできません」
「確約しろよ。管理会社だろ」
「私は、今分かっていることしか言えません」
雨宮の声は震えていなかった。だが、指先はわずかに震えていた。海斗はそれに気づき、気づいた自分が嫌になった。彼女も怖いのだ。当たり前だ。怖い人間が、怖い人間たちの前で、怖くないふりをしている。
その時、下の方で大きな音がした。
鈍い衝撃音。何か重いものが水に押され、階段の壁にぶつかったような音だった。続けて、金属が折れるような音。誰かが悲鳴を上げた。
ラウンジの床が、ほんのわずかに震えた。
海斗は足元を見た。床はまだ乾いている。ここは十七階だ。水など来るはずがない。そう思おうとした。
けれど、下からの水音は、もうただの音ではなかった。
それは時間だった。
一段ずつ、一階ずつ、確実に上がってくる時間の音だった。
雨宮が管理用通路の扉に手をかけた。
「移動を始めます。荷物は最小限にしてください。両手を空けてください。お子さん、高齢の方、怪我をしている方を優先します」
「優先って何だ」
また誰かが言った。
誰もその言葉を無視できなかった。
優先。
それは、順番を決めるということだ。順番を決めるとは、後になる人間を作るということだ。後になる人間がいるということは、間に合わない人間が出るかもしれないということだ。
海斗は息苦しくなった。
姉が言っていた。全員が助かるとは限らない。いや、灯はそこまで言っていない。ただ、答えを避けただけだ。だが、避けた答えが今、目の前に立っている。
灯が海斗の方を向いた。
「海斗、聞いて」
「何」
「もし途中ではぐれたら、上に行って」
「何言ってんだよ」
「約束して」
「嫌だよ」
「今、嫌とか言ってる場合じゃない」
「じゃあ灯も上に行けよ」
「行く。でも、もしもの話」
「もしもなんかいらない」
自分でも子供じみていると思った。だが、言わずにはいられなかった。ここで頷いたら、何かを認めてしまう気がした。姉と離れる可能性。姉を置いていく可能性。自分だけが助かる可能性。
灯は海斗の腕を掴んだ。指先は冷たかった。
「生きるための話をしてる」
その声が、海斗を黙らせた。
管理用通路の扉が開いた。中は暗く、狭かった。コンクリートの壁がむき出しで、配管が天井を走っている。非常灯の赤が、奥へ細く続いていた。海斗には、それが人の喉の奥に見えた。
住民たちは一人ずつ通路へ入っていく。雨宮が順番を指示し、灯が幼い女の子の靴紐を結び直し、老人の荷物を別の男が持った。誰もが少しずつ協力している。だが、その協力の下には、薄い氷のような恐怖が張っていた。誰かが強く踏めば、すぐに割れる。
海斗は最後にもう一度、ラウンジの窓を見た。
黒い海は、そこにあるだけだった。何も語らない。怒っているわけでも、罰しているわけでもない。ただ、低い場所へ流れ込むという水の性質に従っているだけだ。人間の事情など知らない。誰が悪いかも、誰が助かるべきかも、水には関係ない。
それが一番怖かった。
通路に足を踏み入れた時、背後でまた館内放送が鳴った。
今度は女性の声ではなかった。機械音声でもなかった。ノイズの向こうで、誰かが手動マイクを掴んでいるような声だった。
「こちら、防災センター……聞こえますか……上階へ……上階へ避難を……一階、防火扉、破損……繰り返します……一階防火扉……」
声はそこで大きく歪んだ。
その直後、下から轟音が上がった。
住民たちが一斉に振り返る。海斗も振り返った。ラウンジの入口の向こう、避難階段へ続く扉の下から、白く濁った水が細く吹き出していた。
十七階まで、直接水が来たわけではない。階段室の圧力で、濡れた空気と飛沫が押し上げられているだけなのかもしれない。だが、その細い筋は、床を這うように伸びてきた。
誰かが叫んだ。
「来てる」
その一言で、秩序は崩れかけた。
押すな、走るな、子供がいる、邪魔だ、荷物を捨てろ、痛い、待って。声が折り重なり、通路の入口に人が詰まった。雨宮が必死に叫ぶ。
「一列で進んでください。詰まると全員動けなくなります」
海斗は肩を押された。壁にぶつかり、息が詰まる。灯の手が離れかけた。
「灯」
「ここ」
姉の声がすぐ近くで聞こえた。だが、顔は見えない。人の背中、腕、荷物、濡れた髪。赤い光の中で、誰もが同じ色に染まっていた。
その混乱の中で、幼い女の子の声が聞こえた。
「ママ、ぬいぐるみ」
女の子が床に落としたぬいぐるみに手を伸ばしていた。母親が慌てて引き戻そうとする。後ろから来た男が舌打ちした。
「そんなもの捨てろよ」
母親が男を睨む。男も睨み返す。その間にも、水の筋は床を広がっていく。
灯が動いた。
海斗が止める前に、灯は人の間を抜け、ぬいぐるみを拾い上げて女の子に渡した。たったそれだけのことだった。だが、その数秒で流れが止まった。後ろの人間が苛立つ。前の人間が振り返る。誰かがまた叫ぶ。
「早くしろよ」
灯は女の子の目を見て言った。
「しっかり持ってて。もう落とさないでね」
女の子は泣きながら頷いた。
海斗は胸の奥がざわつくのを感じた。こんな時に、ぬいぐるみなど拾うべきではない。命の方が大事だ。そう思う自分がいた。けれど、灯が拾わなければ、女の子はきっと泣き続けた。母親は動けなくなったかもしれない。列はもっと乱れたかもしれない。
正しさは、時々すぐには見えない。
灯が戻ってきた時、海斗は何も言えなかった。
「行くよ」
姉はそれだけ言った。
管理用通路の奥へ進むにつれて、ラウンジのざわめきは遠ざかった。代わりに、建物の内部を流れる音が大きくなった。壁の向こうを、水が叩いている。下の階で何かが壊れ、その衝撃が鉄骨を伝っている。ブルームタワーという巨大な箱が、内側から少しずつ水に満たされていく音だった。
海斗は、その音を聞きながら思った。
この建物は、沈んでいる。
比喩ではなかった。
街の中で、空へ向かって建っているはずのマンションが、いま下から順番に海へ戻されている。リビングも、寝室も、郵便受けも、宅配ボックスも、駐車場も、誰かの靴も、誰かの写真も、誰かが明日着るつもりだった服も、すべて水の中へ沈んでいく。
そして、その上に自分たちは立っている。
通路の先に、さらに上へ続く狭い階段が見えた。屋上へ向かう階段だ。雨宮が先頭でライトを向けている。住民たちは息を詰めて、その小さな出口を見上げた。
そこへ行けば助かる。
誰もがそう思いたかった。
だが海斗は、さっきの言葉を忘れられなかった。
屋上扉は、内側から誰かが押さえなければならない。
つまり、この階段の先にあるのは出口ではない。最後に誰が残るのかを決める場所だ。
灯が一段目に足をかけた。
海斗も続いた。
下から、水音が追ってくる。
誰かがそれを振り切るように、祈るように呟いた。
「大丈夫だよな」
誰も答えなかった。
ただ、赤い非常灯だけが、狭い階段に並ぶ人々の背中を照らしていた。海斗はその背中を見ながら、まだ自分が助かる側にいると信じていた。信じていなければ、一歩も進めなかった。
けれどその時すでに、ブルームタワーは人間たちに問いを突きつけていた。
誰を先に上げるのか。
誰を待つのか。
誰を置いていくのか。
そして最後に、誰が扉を押さえるのか。
海斗はまだ、その問いの重さを知らなかった。知りたくもなかった。ただ姉の背中を追い、濡れた空気を吸い込みながら、上へ、上へと足を運んだ。
水は一階から来た。
だが本当に沈み始めたのは、建物ではなかった。
そこにいた人間たちの、助かるはずだった日常の方だった。




