第七章 名簿にない名前
海斗が最初に聞いたのは、機械の音だった。
ヘリのローター音ではない。水の音でもない。一定の間隔で、静かに空気を押し出す音。病院のベッドの脇に置かれた機械が、誰かの呼吸を数えているような音だった。
目を開けると、白い天井が見えた。
あまりにも白かった。前室の赤い非常灯でもなく、屋上の黒い空でもなく、ヘリのサーチライトの白とも違う。殺菌されたような白。そこには風も水もなかった。ただ、明るすぎる天井と、薬品の匂いがあった。
海斗はしばらく、自分がどこにいるのか分からなかった。
体を動かそうとした瞬間、胸の奥が痛んだ。筋肉痛のようでもあり、もっと深い場所を掴まれたようでもあった。腕には点滴がつながっている。手の甲に透明なテープが貼られていた。
「海斗」
声がした。
灯だった。
ベッドの横の椅子に座っている。髪は乱れていて、目の下には濃い隈ができていた。着ている服は病院の貸し出しらしい簡素なものだった。けれど、そこにいる。生きている。
そのことを理解するまでに、少し時間がかかった。
「灯」
声が掠れた。
「水、飲める?」
海斗は頷こうとして、うまく動けなかった。灯がストロー付きのカップを口元に運ぶ。水はぬるかった。だが、喉を通った瞬間、海斗は自分が生きていることを思い知らされた。
「ここ、どこ」
「臨海中央病院」
「みんなは」
灯の手が止まった。
その一瞬で、海斗は質問を間違えたことに気づいた。
みんな。
誰のことを指しているのか、自分でも分かっていなかった。屋上にいた住民たち。佐伯律子と乃々。雨宮。仁科。山辺。老人。犬を抱いていた女性。前室に残った黒瀬。白石澪。
みんな、という言葉でまとめるには、それぞれの距離が違いすぎた。
灯はカップをテーブルに置いた。
「助かった人は、この病院と別の病院に運ばれた。軽傷の人は避難所に移ってる」
「乃々ちゃんは」
「無事。低体温気味だったけど、命に別状はないって」
「佐伯さんは」
「付き添ってる」
「雨宮さん」
「肩の脱臼。あと打撲。命に別状はない」
「仁科さんは」
「軽い打撲。スマホを握ったまま救助された」
灯はそこまで言って、黙った。
海斗は聞かなければならない名前を、まだ聞いていなかった。
聞けば、答えが来る。
答えが来れば、あの扉の向こうに残したものが確定する。
だが、聞かないわけにはいかなかった。
「黒瀬さんは」
灯は目を伏せた。
「まだ確認中」
「確認中って」
「前室はすぐには開けられなかった。水圧と風で、救助隊も入れなくて。建物の安全確認が終わってから、捜索が入った」
「白石さんは」
「……確認中」
同じ言葉だった。
同じ言葉なのに、同じ意味ではなかった。
確認中。
それは、助かっているかもしれないという希望の形にも見えた。けれど同時に、死亡確認がまだ終わっていないだけという意味にも聞こえた。言葉は、時々、残酷なほど曖昧に人を生かす。
海斗は胸元に手をやろうとした。
封筒がない。
体が跳ねるように動いた。点滴のチューブが引っ張られ、灯が慌てて押さえる。
「何してるの」
「封筒」
「ある。あるから」
「どこ」
灯はベッド横の引き出しから、防水袋に入った封筒を取り出した。
古い紙。
深い折り目。
澪の父の手紙。
海斗はそれを両手で受け取った。防水袋の外側は拭かれていた。中の紙は濡れていない。折り目もそのままだった。何度も開かれ、何度も閉じられてきた跡が、白い病室の光の中で浮かび上がっている。
「よかった」
海斗は呟いた。
何がよかったのか、自分でも分からなかった。
紙が残ったことか。
澪から預かったものを失くさなかったことか。
それとも、紙が残ったことで、澪がいたことまで消えずに済むと思ったのか。
灯は何も言わなかった。
病室の外では、人が忙しく動く足音がしていた。廊下からは、ニュースを流すテレビの音が微かに聞こえる。ブルームタワー、浸水、救助、管理会社、防潮ゲート、不具合、住民説明。断片的な言葉が、白い壁を通して入ってきた。
もう、外の世界は名前をつけ始めている。
ブルームタワー浸水事故。
管理会社の責任。
防潮設備の不備。
奇跡の屋上救助。
最後の扉。
名もなき英雄。
海斗は封筒を握った。
「灯」
「何」
「誰だったと思う」
灯はすぐに答えなかった。
「最後に、扉を押さえてた人」
灯は窓の方を見た。病室の窓にはブラインドが下りている。外の空は見えない。
「分からない」
「黒瀬さんかな」
「分からない」
「白石さんかな」
「分からない」
「二人かな」
「分からない」
灯は繰り返した。
海斗は腹が立った。
「分からないばっかりだな」
「そうだね」
「ちゃんと見てなかったのかよ」
「見えなかった」
「灯なら」
「私なら何」
灯の声が低くなった。
「私なら全部分かると思った? 誰を助ければいいか、誰を先に出せばいいか、誰が最後だったか、全部正しく覚えていられると思った?」
海斗は黙った。
「私も見えなかった。怖かった。手を離したくなかった。あなたを外に出すことで頭がいっぱいだった。白石さんの手も、黒瀬さんの足も、仁科さんのロープも、雨宮さんの声も、全部ばらばらにしか覚えてない」
灯は自分の手を見た。
「たぶん、みんなそう。あの場にいた誰も、全部は見てない」
全部は見ていない。
その言葉が、海斗の胸に沈んだ。
事件というものは、後から見ると一本の線になる。ニュースでは、何時何分に浸水が始まり、何時何分に停電し、何時何分に屋上へ避難し、何時何分に救助された、と説明されるのだろう。だが、その中にいた人間には、そんな直線は見えていなかった。
見えていたのは、濡れた靴、赤い非常灯、誰かの怒鳴り声、乃々のぬいぐるみ、雨宮の震える指、仁科のライト、黒瀬の肩、澪の白い手。
それだけだ。
それだけで、人は助かったり、助からなかったりする。
数日後、海斗は退院した。
大きな怪我はなかった。低体温と疲労、軽い打撲。医師はそう説明した。命に別状はない。よく聞く言葉だった。けれど、その言葉は、生きている者にだけ使われる。海斗はそれを、病院で何度も思い知った。
母は泣いていた。
病室に入ってきた母は、海斗を見るなり何も言わずに抱きしめた。再婚相手も来ていた。彼は少し離れた場所で、申し訳なさそうに立っていた。何に申し訳なさを感じているのか、海斗には分からなかった。自分が父親ではないことか、海斗を迎えに行けなかったことか、それとも今まで距離を詰めきれなかったことか。
以前なら、その表情を見て苛立っていたかもしれない。
けれど、今は違った。
大人も、何をすればいいか分からない顔をするのだと知ったからだ。
「心配かけてごめん」
海斗が言うと、母はさらに泣いた。
再婚相手は何か言いかけ、結局「無事でよかった」とだけ言った。
短い言葉だった。
その短さが、今はありがたかった。
事故から三週間後、臨時の説明会が開かれた。
会場は、市の公共ホールだった。ブルームタワーの住民、遺族、管理会社、施工関係者、行政、報道陣が集められた。海斗は灯と一緒に出席した。母は行かなくていいと言ったが、海斗は行くと決めていた。
胸元には、澪の封筒があった。
まだ開けていない。
中身を読む権利が自分にあるのか、分からなかった。澪から預かったものではある。けれど、それは澪の父の言葉であり、澪が届けようとしたものだ。海斗が勝手に開くには、あまりに重かった。
会場には、見知った顔がいくつもあった。
佐伯律子と乃々もいた。乃々は母親の膝の上に座り、茶色い犬のぬいぐるみを抱いている。以前より少し痩せたように見えたが、海斗を見つけると小さく手を振った。
雨宮千尋は、管理会社側の席ではなく、証言者として別の席に座っていた。右肩はまだ固定されている。顔色は悪い。だが、視線は逃げていなかった。
仁科要もいた。彼はスマホを持っていたが、画面をこちらへ向けてはいなかった。膝の上に置き、両手で押さえている。取材陣の一部が彼に声をかけていたが、仁科は短く答えるだけだった。
黒瀬の席はなかった。
白石澪の席もなかった。
そのことに、海斗は喉の奥が詰まった。
説明会は、予定調和のように始まった。
管理会社の役員が頭を下げる。行政の担当者が経緯を説明する。防潮ゲートの閉鎖不全警告は、半年前から記録されていた。設備管理部は対応を検討していた。管理組合への説明は限定的だった。正式な住民説明は行われていなかった。非常電源の一部は想定より早く停止した。原因は浸水経路と設備配置の複合的な問題と見られる。
言葉は丁寧だった。
丁寧な言葉ほど、時々、人間の痛みから遠くなる。
会場から怒号が飛ぶ。
「検討していたで済むのか」
「家族を返せ」
「誰が責任を取るんだ」
「なぜ公表しなかった」
役員は何度も頭を下げた。だが、頭を下げても時間は戻らない。
やがて、救助時の状況について説明が始まった。
屋上扉は電動制御が不能となり、内側から手動で開放された。強風と水圧の影響により、扉は不安定な状態だった。複数名が内外から扉を保持し、避難者の脱出を補助した。最後に前室内に残った人物については、映像記録が不完全であり、確定には至っていない。
海斗は顔を上げた。
確定には至っていない。
それが、公式の言葉だった。
黒瀬真吾は、前室内で発見された。死亡確認。死因は溺水および外傷性ショックの可能性。扉付近に倒れていた。
白石澪は、前室内では発見されなかった。
その説明が出た瞬間、会場がざわついた。
発見されなかった。
救助隊による捜索では、前室内と連絡通路から複数の遺留品が見つかった。白石澪の配送会社のジャンパーの一部、防水袋の切れ端、身分証の入ったカードケース。だが、本人の遺体は確認されていない。浸水時に連絡通路側へ流された可能性もあり、捜索は継続中。
海斗は封筒を握った。
澪は、いない。
死んだと断定されてもいない。
生きているとも言われない。
また、確認中だった。
その曖昧さが、海斗の胸を引き裂いた。
会場のスクリーンには、仁科が録音していた音声の解析結果が映し出された。映像は風雨で乱れ、最後の瞬間は記録されていない。音声には、扉の軋み、複数の叫び声、黒瀬の声と思われるもの、澪の声と思われるもの、そして扉が閉まる直前の衝撃音が含まれていた。
だが、誰が最後に扉を押さえていたのかは分からない。
専門家はそう結論づけた。
質問の時間になった。
報道陣の一人が手を挙げた。
「最後に扉を押さえた人物について、黒瀬真吾さんだったという見方が出ています。元消防士であり、現場でも避難誘導をしていたとの証言があります。これについて、生存者の方はどう見ていますか」
別の記者が続ける。
「一方で、白石澪さんが最後まで扉付近にいたという証言もあります。彼女は住民ではなく、偶然巻き込まれた配送員だったとのことですが、いわゆる名もなき英雄として」
名もなき英雄。
その言葉を聞いた瞬間、海斗の中で何かが冷えた。
名もなき。
まるで名前がないことが、美談の飾りになるかのような言い方だった。名前が分からないから、好きな言葉を貼りつけてもいいとでも言うようだった。
仁科がマイクを持った。
「僕は、最後の瞬間を撮っていません」
会場が静まる。
「撮らなかったのではなく、撮れなかったと言う方が正しいかもしれません。手を貸していました。ロープを渡して、扉を外から引いていました。だから、決定的な映像はありません」
彼は自分のスマホを見下ろした。
「僕は以前なら、撮れなかったことを後悔したと思います。でも今は、撮っていなくてよかったとも思っています。もし映像があれば、誰が最後だったかを決められたかもしれない。けれど、その映像は、残った人を一人の英雄にして、他の人の手を消したかもしれない」
会場の空気が変わった。
仁科は続けた。
「外からロープを引いた人もいました。扉を開ける手順を伝えた人もいました。子供を先に出した人も、怪我人を支えた人も、名簿に名前を書き足した人もいました。内側で最後まで押さえた人が誰か、僕には分かりません。でも、一人だけではなかったと思います」
その言葉に、雨宮が顔を上げた。
灯も静かに仁科を見ていた。
記者が聞いた。
「では、黒瀬さんと白石さんのどちらが最後だったのかは、分からないと?」
「はい」
「それでは、真相が曖昧なままになりますが」
仁科は少しだけ笑った。
「曖昧なまま残すしかない真相もあります」
会場がざわついた。
その後、雨宮が証言した。
自分が防潮ゲートの不具合を知っていたこと。上司に早期対応を進言したこと。住民への直接説明はしなかったこと。権限がないという理由で、正式な手順に委ねたこと。その判断が間違っていたこと。
雨宮は何度も頭を下げた。
だが、今回はただ謝るだけではなかった。
「私が生き残ったのは、許されたからではありません」
彼女は言った。
「黒瀬さんと白石さんに、説明し続けろと言われたのだと思っています。ですから、知っていることは全て話します。会社の責任も、私自身の沈黙も」
その声は震えていた。だが、最後まで途切れなかった。
律子も発言した。
最初は断るかと思ったが、彼女は乃々を隣の席に座らせ、マイクの前に立った。
「私は、あの日、白石さんにひどいことを言いました」
会場が静まる。
「住民じゃない人まで入れるのか、と言いました。自分の子供を助けたい一心でした。でも、その言葉が、白石さんを最後に残る理由にしてしまったのではないかと、今でも考えています」
律子は声を詰まらせた。
「白石さんは、うちの娘に、ドアを押さえる人もあとで来ると言ってくれました。本当かどうか分からなかったのに、そう言ってくれました。私は、その言葉に救われました。だから、彼女を名もなき誰かにしないでください。名前があります。白石澪さんです」
乃々が母親の手を握った。
記者たちは黙っていた。
最後に、海斗の名前が呼ばれた。
証言を求められることは事前に知らされていた。だが、実際にマイクの前に立つと、膝が震えた。会場の人間がこちらを見ている。住民、遺族、会社、行政、報道。誰もが答えを欲しがっているように見えた。
海斗は封筒を持っていた。
澪の父の手紙。
それを机の上に置いた。
「これは、白石澪さんから預かったものです」
会場がざわつく。
「澪さんのお父さんが残した手紙だと聞きました。このマンションの防潮設備について、昔、警告していた人の言葉です。僕はまだ中を読んでいません。誰が読むべきなのか、分からなかったからです」
海斗は封筒に触れた。
「でも、これが届いたことだけは言えます。澪さんは、届けました。少なくとも、僕には届きました」
言葉が詰まりそうになる。
灯が客席で海斗を見ている。頷きもしない。ただ、見ている。それだけで、海斗は少し息ができた。
「最後に誰が扉を押さえたのか、僕には分かりません」
会場が静まる。
「黒瀬さんだったかもしれない。澪さんだったかもしれない。二人だったかもしれない。外からロープを引いた人たちも含めて、みんなだったのかもしれない。僕は、押し出されました。自分で出たんじゃありません。だから、最後を見ていません」
海斗は自分の手を見た。
あの時、澪の冷たい手を掴んだ。
そして、離された。
「僕は、残れませんでした。残ると言えませんでした。黒瀬さんに押し出されて、澪さんに封筒を託されて、姉に引き止められて、生き残りました。だから、誰が英雄だったかを言う資格はないと思っています」
記者のペンが止まる音がした。
「でも、一つだけ言えます」
海斗は顔を上げた。
「誰かがいました」
会場の空気が止まった。
「扉の向こうに、誰かがいました。最後まで、扉を押さえていた人がいました。名前が分からないからといって、いなかったことにはできません。映像に残っていないからといって、なかったことにはできません。名簿に名前が残っていないからといって、その人が軽かったわけではありません」
海斗の声が震えた。
だが、止まらなかった。
「僕たちが助かったのは、誰かが最後まで押さえていたからです。それが誰だったか、僕には分からない。でも、誰もいなかったことには、絶対にしません」
マイクの前で、海斗は深く息を吸った。
「それだけです」
会場はしばらく静かだった。
拍手は起きなかった。
それでよかった。
これは、拍手をもらうための言葉ではなかった。
説明会が終わった後、海斗はホールのロビーに出た。報道陣が何人か近づいてきたが、灯が間に入った。仁科も近くに来て、記者たちに「今はやめてください」と言った。以前の彼なら、取材される側の表情を撮っていたかもしれない。今は、撮られる人間の前に立っていた。
雨宮が近づいてきた。
「床島くん」
海斗は振り返る。
雨宮は深く頭を下げた。
「白石さんの手紙、会社と調査委員会に提出する前に、写しを取らせてもらえませんか。正式な資料として残したいんです」
「白石さんに聞かないと」
海斗はそう言ってから、言葉を止めた。
聞けない。
まだ見つかっていない。
雨宮は静かに頷いた。
「そうですね」
「でも、残してください」
海斗は封筒を見た。
「どこかに、ちゃんと。なかったことにならない場所に」
「約束します」
その約束をどこまで信じられるのか、海斗には分からなかった。けれど、雨宮の顔は逃げていなかった。
律子と乃々も来た。
乃々はぬいぐるみを抱えたまま、海斗を見上げる。
「お兄ちゃん」
「うん」
「ドア押さえてくれた人、寒かったかな」
海斗は息を詰めた。
説明会場のどんな質問より、その一言の方が答えにくかった。
寒かっただろう。
怖かっただろう。
痛かっただろう。
苦しかっただろう。
それをそのまま六歳の子に言えるはずがなかった。
海斗はしゃがみ、乃々と目線を合わせた。
「寒かったと思う」
律子が息を呑んだ。
海斗は続けた。
「でも、乃々ちゃんが覚えていてくれたら、その人は一人じゃないと思う」
乃々は、完全には理解していないようだった。
それでも、ぬいぐるみをぎゅっと抱きしめた。
「じゃあ、覚えてる」
「うん」
「名前、分からないの?」
「分からない」
「じゃあ、どうやって覚えるの」
海斗は答えられなかった。
その時、灯が隣で言った。
「名前が分からなくても、してくれたことを覚えるの」
乃々は灯を見た。
「ドアを押さえてくれたこと?」
「そう」
「みんなを出してくれたこと?」
「そう」
「あとで来てねって言ったことも?」
灯の目が揺れた。
「うん。それも」
乃々は真剣な顔で頷いた。
「じゃあ、忘れない」
海斗は涙が出そうになった。
誰かがいた。
その証言は、難しい言葉だけで残るものではないのかもしれない。事故報告書、映像データ、議事録、名簿。そういうものも必要だ。必要だが、それだけでは足りない。
六歳の子供が、ドアを押さえてくれた人は寒くなかったかと聞いたこと。
その問いを誰かが忘れないこと。
それも、記録なのだと思った。
数日後、海斗は一時立ち入りが許可されたブルームタワーの近くまで行った。
建物内部には入れない。周辺は規制線で囲まれ、警備員と調査関係者が出入りしている。高層マンションは、遠くから見ればまだ建っていた。空へ向かって、何事もなかったように。
だが、下層階の窓には泥の跡が残り、エントランス付近は水に洗われた傷を晒していた。海に面した防潮設備の周辺には、仮設のシートがかけられている。かつて安全を売りにした塔は、今は沈黙した証拠品のようだった。
灯と仁科も一緒だった。
雨宮は調査に立ち会っているらしく、規制線の向こうに姿が見えた。彼女は海斗たちに気づき、小さく頭を下げた。
その時、調査員の一人がビニール袋に入った紙束を持って出てきた。濡れて乾いた、波打った紙。海斗はなぜか目を奪われた。
雨宮が近づいてくる。
「前室で見つかった名簿です」
海斗の心臓が跳ねた。
「見てもいいですか」
雨宮は迷ったが、調査員と短く話し、透明な袋越しに見せてくれた。
名簿は、ひどい状態だった。
水に濡れ、泥がつき、何かに押し潰されたように折れている。インクは滲み、読める名前と読めない名前が混じっていた。印刷された住民名の列。雨宮が手書きで加えた避難者の名前。下階から合流した人の名前。そして、白石澪の名前。
そこだけ、折り目が走っていた。
紙が水の中で折れたのか、誰かが踏んだのか、以前からついていたのかは分からない。けれど、ちょうどその折り目にかかるようにして、白石澪の名前は滲んでいた。
白石、までは読める。
澪の字は、ほとんど消えていた。
海斗は息を呑んだ。
「消えてる」
仁科が小さく言った。
灯は黙っていた。
雨宮が説明する。
「完全に判読できるよう、修復処理に回します。赤外線撮影や画像処理で、復元できる可能性があります」
「復元できなかったら?」
海斗が尋ねた。
雨宮はすぐには答えなかった。
「別の記録で補います。私の証言、仁科さんの録音、床島くんの証言、佐伯さんの証言。白石澪さんがいたことは、もう消えません」
海斗は名簿を見つめた。
濡れて乾いた紙。
折り目。
滲んだ名前。
それは、澪の封筒とよく似ていた。何度も折られて、それでも捨てられずに残った紙。完全な形ではない。綺麗ではない。けれど、そこにあったことを示している。
「最後の一人」
灯が呟いた。
「え?」
海斗が見る。
灯は名簿の端を指した。
袋越しに、紙の欄外が見える。そこには、誰かの字で短く書かれていた。
最後の一人
名前はなかった。
その文字を書いたのが誰なのか、分からない。雨宮かもしれない。前室で誰かが濡れた名簿を拾った時に書いたのかもしれない。あるいは、調査員が一時的に記したものかもしれない。
ただ、その言葉だけが残っていた。
最後の一人。
誰のことを指すのかは分からない。
黒瀬か。
澪か。
それとも、最後に扉を押さえた誰か全員のことか。
海斗は名簿を見つめ続けた。
「名前、書き足せますか」
雨宮が海斗を見る。
「誰の」
「分からないです」
海斗は正直に言った。
「分からないから、勝手に名前は書けない。でも、空白のままにもしたくない」
雨宮は静かに頷いた。
「調査記録には、そう書きます。最後に扉を保持した人物は特定できない。ただし、複数名の証言により、閉鎖直前まで内側から保持されていたことは確認されている、と」
「硬いですね」
仁科が言った。
雨宮は少しだけ困ったように笑った。
「記録は、硬い方が残ることもあります」
「じゃあ、僕は柔らかい方を残します」
仁科はスマホを取り出した。
海斗は一瞬身構えたが、仁科はカメラを向けなかった。ただ、メモアプリを開いている。
「撮れなかったことも、書きます。分からないことも。誰かを英雄にするためじゃなくて、誰かがいたことを消さないために」
海斗は頷いた。
その日の夜、海斗は初めて封筒を開いた。
灯も同席した。雨宮にも連絡し、後日正式な場で提出する前に、海斗が読むことを伝えた。澪の家族とはまだ連絡が取れていない。配送会社を通じて確認中だという。
封筒の中には、数枚の便箋が入っていた。
澪の父の文字は、丁寧で細かった。
そこには、専門的な設備の話が書かれていた。防潮ゲートの閉鎖不全時のリスク。非常電源の設置高。排水能力。高潮と停電が重なった場合の浸水シミュレーション。海斗には分からない言葉も多かった。
だが、最後の一文だけは分かった。
この建物に暮らす人たちが、知らないまま沈むことだけは避けたい。
海斗はそこで読むのを止めた。
灯が静かに便箋を見ている。
「届いていたら、変わったかな」
海斗が言った。
「分からない」
灯は答えた。
「またそれかよ」
「分からないものは、分からない」
灯は便箋に触れないまま続けた。
「でも、届かなかったから何もなかった、とは違う」
海斗は頷いた。
澪の父は警告した。
澪は届けようとした。
雨宮は知っていたが、知らせられなかった。
黒瀬は扉を押さえた。
澪も扉を押さえた。
仁科は撮らずに手を貸した。
律子は雨宮を支えた。
灯は人を助け続けた。
海斗は、何もできなかった。
そう思いかけて、海斗はやめた。
何もできなかった、で終わらせるのは簡単だ。それは、自分を責めているようでいて、これから何もしなくていい理由にもなる。
自分は生き残った。
封筒を受け取った。
見たものを、分からないまま証言した。
それだけは、やった。
それを続けなければならない。
数週間後、ブルームタワーの浸水事故に関する中間報告が発表された。
防潮ゲートの不具合、情報共有の遅れ、非常電源配置の問題、避難経路の設計上の課題。報告書には多くの言葉が並んだ。責任の所在は、まだ完全には定まっていない。裁判になるという話もある。管理会社は謝罪会見を開き、行政は調査委員会を設置した。
世間では、最後に扉を押さえた人物について様々な説が流れた。
元消防士の黒瀬真吾が最後だったという人。
白石澪が最後まで残ったという人。
二人で押さえていたという人。
外からロープを引いた全員が、最後の扉を支えたのだという人。
中には、英雄美談にするなと怒る人もいた。
海斗はそのどれにも、完全には頷けなかった。
けれど、完全に否定することもできなかった。
分からないからだ。
分からないものを、無理に分かった形にすることが、どれほど危ういかを、海斗はもう知っていた。
春が終わり、雨の季節が近づいた頃、海斗はもう一度、海沿いへ行った。
ブルームタワーはまだ規制されている。遠くから見るだけだった。高い建物は、曇った空の下に立っている。あの日、下から水が上がってきたとは思えないほど静かだった。
海斗の隣には灯がいた。
「家、帰ってる?」
灯が聞いた。
「帰ってる」
「お母さん、安心してた」
「うん」
「お義父さんとは」
海斗は少し考えた。
「普通」
「普通って」
「前よりは、話してる」
「そう」
灯はそれ以上聞かなかった。
海斗は海を見た。水面は鈍い銀色だった。あの日の黒い海とは違う。けれど、同じ海だ。穏やかな顔も、荒れた顔も、水はどちらも持っている。
「灯」
「何」
「俺、大学どうしようかな」
「急に?」
「何となく」
「何をやりたいの」
「分からない」
灯が笑った。
「また分からない」
「でも、前の分からないとは違う」
「どう違うの」
「逃げるための分からないじゃなくて、考えるための分からない」
灯は少し驚いたように海斗を見た。
「いいんじゃない」
「それだけ?」
「それだけ。いい分からないは、持ってていい」
海斗は頷いた。
ポケットには、封筒の写しが入っている。本物は調査委員会へ提出された。澪の家族には、まだ全てが伝わっていない。遠方に親族がいることが分かり、手続きが進んでいるという。
白石澪本人は、まだ見つかっていない。
生存の可能性は低いと、誰もが分かっている。
けれど、確認中という言葉はまだ残っている。
海斗はその言葉を、以前ほど嫌いではなくなっていた。確認中。それは宙ぶらりんで、苦しい。だが、探し続けているという意味でもある。諦めていないという意味でもある。
海斗は、名簿の写真を思い出した。
最後の一人。
名前のない欄外の文字。
あれを見た時、自分は名前を書き足したいと思った。けれど今は、少し違う。
名前を書けないことを、そのまま残す。
誰だったか分からないことを、分からないまま残す。
それは、忘れることとは違う。
「名簿にない名前って、変だよな」
海斗が呟く。
「何が」
「名前がないなら、名前じゃない」
「そうだね」
「でも、あったんだよな」
灯は海斗を見た。
「うん」
「名簿に残ってなくても」
「うん」
「映像に映ってなくても」
「うん」
「俺が最後を見てなくても」
「うん」
灯の返事は短かった。
海斗は海を見た。
「誰かがいた」
「うん」
風が吹いた。
潮の匂いがした。
その匂いは、あの日の前室を思い出させた。赤い非常灯。水音。扉の軋み。澪の手。黒瀬の声。仁科のロープ。雨宮の震える指。律子の叫び。乃々の問い。灯の涙。
忘れたいものばかりだった。
けれど、忘れてはいけないものばかりでもあった。
海斗はポケットの中の写しに触れた。
紙には折り目がついている。
本物ではない。けれど、同じ場所で折ってある。あの封筒の折り目をなぞるように、自分で折った。折り目は、傷に似ている。完全には消えない。だが、そのおかげで紙は同じ形に戻ることができる。
人間の記憶も、そうなのかもしれない。
痛みの場所で折れ、何度もそこへ戻る。
戻るたびに苦しい。
けれど、そこに何があったのかを、忘れずにいられる。
数日後、海斗は事故の記録をまとめるため、ノートを開いた。
最初の一行に何を書くか、長い間迷った。
ブルームタワー浸水事故について。
最後の扉について。
白石澪さんの手紙について。
黒瀬真吾さんの行動について。
どれも違う気がした。
海斗はペンを握り、白い紙にゆっくり書いた。
水は一階から来た。
そこまで書いて、手が止まった。
あの日のことが、また戻ってくる。息苦しさも、寒さも、怒号も、誰かの手の冷たさも。
それでも、海斗は続きを書いた。
あの夜、僕たちは上へ逃げた。
上へ逃げながら、少しずつ何かを置いていった。
荷物を置いた。
言い訳を置いた。
怒りを置いた。
正しさを置いた。
そして最後に、誰かが扉の内側に残った。
誰だったのか、僕には分からない。
分からないから、書く。
分かったふりをしないために。
いなかったことにしないために。
海斗はそこで一度ペンを置いた。
窓の外では、雨が降り始めていた。静かな雨だった。街の音を少しずつ薄める雨。水はどこにでもある。コップにも、雲にも、海にも、人の体にも、涙にも。
そして時々、生活を沈めるものとして現れる。
海斗は再びペンを取った。
名簿にない名前だけが、あの日、いちばん長く扉を押さえていた。
その一文を書いた時、胸の奥で何かが小さく震えた。
それは救いではなかった。
許しでもなかった。
ただ、記憶が形を持った音だった。
海斗は紙を折った。
一度。
二度。
三度。
折り目はまっすぐではなかった。少し曲がっていた。けれど、それでいいと思った。
あの日の記憶も、まっすぐではない。
誰が最後だったのか分からない。
何が正しかったのかも分からない。
それでも、誰かがいた。
そのことだけは、折り目のように残っている。
了
最後までお読みいただき、本当にありがとうございます。
本作は、沈みゆく高層マンションという閉鎖状況の中で、
「最後に扉を押さえたのは誰だったのか」
という問いを軸に書いた物語です。
けれど、書き進めるうちに、この作品の本当の問いは、
「誰が英雄だったのか」ではなく、
「名前が残らなかった誰かを、いなかったことにしていいのか」
なのだと感じるようになりました。
黒瀬だったのか。
澪だったのか。
あるいは、扉の内側と外側で力を貸した全員だったのか。
答えを一つに決めることは、簡単なようでいて、誰かの手を消してしまうことでもあります。
だから本作では、最後の一人を明確に断定しませんでした。
災害の中では、誰も完璧な判断などできません。
怒る人もいる。
逃げたい人もいる。
撮ることで距離を取ろうとする人もいる。
責任から目を逸らしてしまう人もいる。
それでも、その瞬間に誰かを支えようとする手がある。
その手の重さを、少しでも残せていたら嬉しいです。
もしよろしければ、
「最後に扉を押さえていたのは誰だと思ったか」
「どの人物の選択が印象に残ったか」
など、感想で教えていただけると、とても励みになります。
★評価、ブックマーク、感想などもいただけましたら、今後の執筆の大きな力になります。
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。




