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沈むマンション〜沈みゆく高層マンションで、最後にドアを押さえたのは誰だったのか〜  作者: 妙原奇天


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第5話 椅子と泳ぐ(7F→8F)

 七階のラウンジに籠もるという選択肢は、逆流の二度目で消えかけていた。床はうっすらと常に揺れている。建物の骨が、体重と時間のどちらを優先して支えるべきか迷っているような振動だ。灯は名簿を一度閉じ、短い言葉で列を縛り直す。

「プランを変える。椅子は交互に運ぶ。陸は自力移動。紗耶さんのお父さんの椅子を先に上げる。熊谷、後方保持。海斗、前方牽引」

 陸は膝にかけていた毛布を巻き直し、自嘲半分の笑いを浮かべた。

「自力って言葉、こういう時だけ眩しいね」

「眩しい言葉は、照明にもなる」

 海斗は即答した。自分でも、少し大人びた返しだと思った。けれど、眩しさが嘘の光ではないことを、誰かに知らせたかった。

 紗耶は父の介護椅子の背面を撫で、ストッパーのかかりを確かめる。父は呼気の終わりだけで言葉にならない音を出し、紗耶の親指を探すように握った。灯がその手元を一度見て、頷く。

「行ける。呼吸のリズム、私の声に合わせて」

「四で吸って、六で吐く」

 紗耶は自分に言い聞かせるように繰り返した。数は祈りであり、指示であり、時間の代用品だ。

 八階へ通じる室内階段は細い。そこへ濡れた靴と濡れた恐怖の列が重なると、動きはすぐに詰まる。鴫原が吹抜けに耳を傾け、わずかに顔をしかめた。

「詰まりがまた悪い。三回目が来る前に一段でも稼ぎたいが、ここで渋滞したら丸ごと呑まれる」

 外階段側のドアを開けると、潮と泥の匂いが顔にぶつかった。八階の踊り場まで、水が来ている。柵の向こう、ビルの谷間を汚れた川が走り、泡が風に押されて斜めに飛ぶ。段鼻の白いラインは、もはや見えるところと見えないところが斑になっていた。

「一回、泳ごう」

 陸が言った。車輪のロックを手で外し、背凭れのネジを探る。指の動きは迷いがない。彼は何度も壊して、何度も直してきた子どもの手つきをしていた。

「室内階段の渋滞に並ぶより、ここを短く横切った方が早い。背を外して筏にして、ロープで連結する。踊り場から踊り場まで、一本だけ渡す」

「無謀だ」

 砂原が反射的に言う。だが言い切る前に、視線が水の流速と壁の返しを測っていた。彼の理屈はいつも冷たいが、現場から目を逸らすことはしない。

「外へ出す人数を極力絞る。先行は熊谷、ロープ係。次に海斗。陸を筏に固定。灯が支える。紗耶さんはお父さんの体を抱えて窓枠を跨ぐ。俺は余計な荷を切って流れを見る」

 鴫原は二度だけ笛を吹いた。集まった視線の中で、熊谷が保冷箱を床に置く。中身は半分以下になっているのに、背負いひもが肩に残す重みは軽くならない。彼は黙ってロープを肩に回し、柵の支柱に一周させ、摩擦の角度を作った。

「抜けたら、俺のせいで落ちる」

「抜けさせない」

 灯が短く返した。

 海斗は陸の車椅子から背を外し、座面のクッションをロープで編み直す。結び目は多めに。水を含めば重くなる。重くなれば、安定と引き換えに速度が落ちる。その落ちた速度を、次の手の数で補う。彼は自分の指の皮膚が、寒さで少し木の皮のように硬くなっているのを感じた。

「これは撮るべき」

 結衣が反射でスマホを構えた。画面の黒に、彼女自身の震えた目が映る。灯がその手首を掴み、ゆっくりと下ろさせる。

「今は、見るんじゃなくて、なる」

 結衣の目から配信の光が落ち、代わりに震えだけが残った。震えは悪ではない。震えを持ったまま動けるかどうかが、今日の全てだ。

 準備に使える秒は、指折り数えられるくらいしかない。熊谷が先に飛び込んだ。泥が混じる水が跳ね、顔に斑点の冷たさを撒く。彼はすぐに両手で柵側のロープを引き、胴のロープを踊り場の手すりに回す。摩擦で焼けた匂いが一瞬した。

「張るよ」

 海斗が頷き、陸の筏をそっと押し出す。陸は自分の手のひらにテープを巻き、車輪のフレームに肘を引っかける。

「沈みすぎたら、右の手、上げて。左で掴む」

 灯の指示は短い。短い言葉が水の騒音の中でも届く。海斗は先行してロープを滑らせる。水が腰を切り、筋肉の熱を奪っていく。陸の筏が斜めに傾くたび、海斗の肩の角度が変わる。ロープは生き物の腹のようにたわみ、張り、またたわむ。

 窓枠の向こう側、紗耶は父の体を抱えて跨いだ。父の体温は濡れた布の下でも消えず、重さに混じって紗耶の腕に残る。砂原はラウンジの隅で段ボールを蹴り、不要な荷を切り捨てる。古い雑誌、濡れたポスター、割れた鉢。玄関マットの硬いゴムは、踊り場で靴底を滑らせる。切り捨てるものの中に、ときどき誰かの思い出が紛れ込む。砂原はそこに目を長く置かない。置けば、指が止まる。

 海斗の肩が痺れ始めた頃、陸の筏が中間に達した。流れは踊り場の角で渦を作り、そこに引き込もうとする。熊谷が背中でロープを受け、体重で張りを作った。海斗が両足で段の角を探し、見えない縁にかかとを押し当てる。冷たい刃の上に皮膚を置く感覚。刃は切らない。ただ、境界を教える。

「いける」

 陸の声は低く、濁っていない。彼は車輪のスポークに指を掛け、自分の体を少しだけ引いた。筏が角を抜ける。灯が後方から押し、紗耶が父の椅子を二人で持ち上げる。介護椅子の足が水を掻き、重心がぶれた。砂原が片手で支え、もう片方で紐の結び目を押さえる。

「結び直す時間はない。このまま一気に」

 理屈よりも速く、彼の手が動く。理屈はいつでも後から追いつける。

 結衣が両手を口に当てた。小さな音も出さないように押さえる仕草。犬の鈴が、短く鳴る。少女はスリングの位置を体の中心へ寄せ、背中で犬の体温を受け止めた。

 最初の筏が踊り場へ滑り上がるのと入れ違いに、背後で鈍い唸りが起きた。濁流の押しが一段分、増えた音だ。時間が段差を食べに来る。食べる顎は、ためらいなく強い。

「次の筏、出す」

 灯の指示で、背凭れを外した介護椅子を逆さにし、脚をロープで固定する。紗耶の父は紗耶の胸に顔を寄せ、子どものように息をする。紗耶は泣かない。泣く筋肉は、抱える筋肉と場所が近い。そこに今は力を残せない。

 熊谷が二本目のロープを渡し、海斗が水に沈む。膝まで、腰まで、胸まで。冷たさが体の中心を狙って上がる。胸骨の奥がきしみ、肺の動きがぎこちなくなる。海斗は歯を噛み、肩を水に沈め、また浮かせる。陸が踊り場から手を伸ばし、ロープの角度を直す。熊谷の声が短く飛ぶ。

「右、五センチ。今」

 動きは一瞬ずつ進み、一瞬ずつ止まる。止まる理由は迷いではなく、次の一瞬のための調整だ。灯がその止まり方を許し、鴫原がその止まり方を詰めない。詰めないから、全体は止まらない。

 渡り切る直前、背後の踊り場に濁流がどっと押し寄せた。さっきまで立っていた場所が、一段、消える。水が階段の角を丸く舐め、白い印を洗い落とす。音は重く、胃に落ちた。食べられた段差の空白が、腹の底の空洞と重なる。

「全員、踊り場へ」

 灯が声を放つ。声は鋭くなく、しかし疑いが入る余地がない。海斗は最後に振り返り、ロープの端をほどいた。ほどくより先に切るべきか一瞬迷い、結び目を引いた。ロープは水を含んで重く、手の皮膚に爪のように食い込む。結び目が緩むのと、次の押しが来るのは同時だった。海斗は結び目を肩で抱え、体で受けた。肋骨がずれる手前の痛み。それで足りた。

 八階の踊り場は狭く、濡れていた。だが、立てる。立ったときに倒れなければ、次に足を出せる。灯は陸の肩に手を置き、紗耶の父の膝下をもう一度包む。砂原は濡れた床にタオルを敷き、滑り止めの道を作る。熊谷は保冷箱を引き上げ、蓋を開けずに重さを確かめた。重さがまだ存在することだけが、次の判断を支える。

 結衣はスマホを取り出しかけて、やめた。代わりに、人の数を数える。声に出して、間違えて、訂正して、また数える。数に間違いがあると、誰かが笑い、誰かが頷く。笑いは短い。短いが、ここでは十分だ。

 踊り場のドアは膨らんでいた。枠が歪み、押せば開くが、閉めるには人の数が要る。鴫原が鍵束を見ずに選び、差し込む。金属の感触が指に帰る。回る。戻る。灯は列の先頭に位置を取り、短く呼吸の言葉を置いた。

「吸って。止めて。吐いて。今は吐く時間」

 扉が開く。室内の空気は、水の匂いと石膏の粉を含んでいた。低い天井。剥がれた壁紙。流れ込んだ水が床で薄く広がり、足裏を冷たく撫でる。八階の廊下は長くはない。だが、ただの距離は、今は敵ではない。味方でもない。距離は距離だ。処理できる。

「椅子、交互で行く。陸、ここから自力。紗耶さんの椅子を先に」

 灯が再度確認する。陸は頷き、手の平のテープをきつくした。

「眩しい自力、始めます」

「いちいちタイトルを付けない」

 灯は小さく笑った。笑いは陸の膝に伝わり、車輪の回転に変わる。

 海斗は前方牽引の位置につく。ロープの先を腰に回し、陸のフットレストの根元に結ぶ。腰で引く。腕で引かない。腕は、落ちる人を掴むために空けておく。熊谷は後方保持。紗耶の父の椅子の背に手を置き、灯の合図で押し、止め、また押す。

 砂原は列の脇で、余計な水を蹴って溝に集めた。通路が一本でも増えれば、列の速さは一段上がる。彼は視界の端に、自分が捨てた段ボールの切れ端を見る。そこに印刷されていた笑顔は、もう誰のものでもない。誰のものでもないものに、いまは名前を返せない。

 窓の外、濁流の泡が階段の段鼻の高さで弾け続ける。ときどき、一段分だけ跳ね上がる。跳ね上がらないうちに距離を稼ぐ。跳ね上がったあとも距離を稼ぐ。どちらにしても、稼ぐ。砂原の理屈も、灯の祈りも、ここでは同じ方向を向いている。

 廊下の突き当たりに、別の住民たちがいた。顔は青く、目は赤い。だが、邪魔をする恐怖ではない。合流した列の背中が増え、足音が重なる。人の音が多いほど、逆流の音は薄まる。薄まるからといって、水が弱くなるわけではない。けれど、耳が折れずに済む。

 陸が段の角を越えるたび、小さな息が漏れた。彼は漏れた分だけ、次の息を丁寧に入れる。丁寧な息は、乱暴な水を少しだけ遅らせる。紗耶の父は目を閉じ、紗耶は父の手の甲をゆっくり撫でた。撫でる行為は、介助でも治療でもない。ただの触れ方だ。ただの触れ方が、いちばん難しい。

 曲がり角の前で、犬の鈴が鳴った。少女がスリングの紐を結び直し、きつさを均す。灯が一瞬だけその結び目を確認し、余計な言葉を足さない。足さない配慮は、黙って見ているのとは違う。見て、黙る。黙って、見る。

 突き当たりの非常扉は、鍵がかかっていないはずだった。だが、枠がわずかに沈み、押す力を噛んでいる。海斗は前方からロープを外し、体を横にして肩で押した。砂原が手を添え、鴫原が枠の歪みを目で探す。

「真正面じゃない。少し回す」

 灯の声に合わせ、三つの肩が角度を変える。扉は怒りも不満もなく、ただ鉄として軋み、開いた。

 その瞬間、背後の踊り場で、また水が歯を見せた。濁流が角を舐め、八階へ届こうとする気配が、廊下の空気を冷やす。時間はいつもより早足で、階段を登ってきている。

「閉める」

 鴫原と砂原が同時に言い、扉が閉まった。鍵は回さない。まだ通す人がいる。だが、枠に体を預けるだけで圧は減る。海斗は透明容器を胸の高さに掲げ、列の目線に入れる。

「これは俺が持つ。見える位置で。危ないと思ったら奪って」

 繰り返しは信頼の代わりになる。代わりでもいい。代用品が、多くの命をいままで救ってきた。

 八階の中央ラウンジは、七階よりも狭く、だが風の通りは良かった。窓の一つが割れ、ビニールがテープで貼られている。テープは水分を含み、粘りを失っていた。砂原が新しいテープを探し、鴫原が鍵束から小さなカッターを見つける。灯はテーブルを寄せ、紗耶の父の椅子を乗せる高さを作る。陸は壁際で呼吸を整え、結衣は人の数をもう一度数える。数える声が安定してきた。震えは消えていないのに、声は安定することがある。

「よくやった」

 灯が陸の肩に手を置く。陸は息を吐き、海斗の方を見ずに言った。

「眩しい言葉、あとで返して」

「電気が戻ったら照明で」

「それは嫌だ」

 短い笑いが、ラウンジの湿気に穴を開けた。その穴から乾いた空気が少しだけ入り、肺の底に触れた。

 窓の向こうで、泡がまた一段上に飛んだ。逆流は終わっていない。終わっていないから、こちらの仕事も終わらない。プランはまだ先がある。椅子は二つ。交互に運ぶ。陸は自力移動。父の椅子を先に上げる。熊谷、後方保持。海斗、前方牽引。

 灯は名簿を開き、濡れた端を親指で押さえ、読み上げを続けた。文字は滲んでも、言葉は滲まない。言葉が滲まなければ、体は動ける。

 背後の踊り場を、水がもう一段、食べた。遠くの方で、金属と水がぶつかる音がした。その音は、誰の心臓の音よりも規則的ではなく、誰の嘘よりも正確だった。

 海斗は透明容器の角を指で確かめ、視線を前に戻した。次の段、次の扉、次の判断。眩しい言葉は、たしかに照明の役をした。だが、電池が切れた照明は、誰かが肩で支えるしかない。

 彼らは再び列を組み、八階の先へとにじり出した。背後で波が笑わない顔で歯を見せ、飲み込んだ段差の数だけ、音を低くした。前では灯が、呼吸の数で道を作る。数は祈りで、祈りは筋肉の形になる。筋肉の形が、椅子を運ぶ。椅子が進むと、道ができる。道ができると、人が続く。

 椅子と泳ぐ。そんな愚かな絵面を、誰が想像しただろう。けれど、愚かさの中にしか、いまは正気の居場所がない。彼らはその正気を握り直し、まだ見たことのない次の踊り場へ、濡れた足で踏み入っていった。

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