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沈むマンション〜沈みゆく高層マンションで、最後にドアを押さえたのは誰だったのか〜  作者: 妙原奇天


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第4話 逆流の兆し(6F→7F)

 六階から七階へ向かう階段は、さっきまでより狭く感じられた。実際の幅は変わらないのに、段ごとの隙間に暗いものが溜まっていく。吹抜けの中空には流木が引っかかり、ビニール袋や発泡スチロール片が絡まり合って、巨大な巣のような塊を作っていた。濁流はその巣に当たるたび、形をわずかに変え、次の当たりどころを探して息継ぎをした。息継ぎの次には、必ず押しが来る。押しの次には、必ず奪うような引きが来る。階段の柵がそのたびに軽く鳴り、金属の音が肌の内側でひっかいた。


 鴫原が立ち止まり、吹抜けの底を覗き込んだ。耳をすませる仕草は、年齢のせいではない。彼は水の音を聞き分けることに集中していた。

「逆流の音だ」

 短い言葉が背中に置かれる。

「詰まりが一気に抜ける。段抜かれで二つ分、飲まれるかもしれん」

 誰も余計な質問をしなかった。説明を求めれば、わかるより先に時間を失う。隊列の前方で灯が合図をし、歩幅を広げる。速度が上がる。速度の代償は判断の粗さだと、誰もが知っているはずなのに、誰も止められない。


 四人目くらいの位置にいた青年が咳き込んだ。胸を押さえ、肩を震わせる。喘息の青年だ。顔色が悪く、口元に力が入らない。灯が振り返り、ポーチから吸入器を取り出したが、ボタンを押した瞬間に気づいた。ランプが点かない。

「電池が死んでる」

 灯の声は平らだが、早い。彼女は吸入器を握り直し、青年の背に手を回す。

「前に倒れて。腕で体を支える」

 海斗は青年の脇に入って、肋骨の下に手のひらを差し入れた。押さえつけるのではなく、持ち上げるでもなく、空気の通り道が広がる方向へ、支える。

「入ってこない空気は、無理に追いかけないでいい。出せるぶんだけ出す」

 灯が短く言い、青年の目を見た。青年はこくりと頷き、喉で浅い音を立てる。金属と湿気の匂いが混じる。名簿の紙が海斗の胸元で擦れ、端に落ちた水滴がじわりと広がった。書かれた文字のいくつかが、ひと文字ぶんだけ丸く滲む。滲むたび、誰かの順番が重くなる。


「止まらないで」

 砂原が前へ押し出す。声は冷たいが、焦りの角は出していない。

「止まるなら、止まると宣言して止まる。黙って立ち止まるのが一番危ない」

 宣言の意味は、列の中に合図を作ることだ。合図のない停止は、不意打ちになる。不意打ちは、最初の一人の躓きで終わらない。


 外階段の踊り場に出るドアを押し開けると、匂いが変わった。さっきまでの鉄とゴムに、塩と油の混じった重い匂いが乗る。風は南から来ている。遠い沖の色を運んでくるのに、ここでは何も軽くならない。開いた隙間に湿った空気が滑り込み、体温をうすく剥いでいった。


 結衣がスマホを掲げ、空の割れ目を探す。圏外の表示は変わらないが、彼女は角度を少しずつ変え、周囲の誰もが気づかないわずかな電波の癖に賭ける。

「入って。数秒だけ」

 画面の隅に小さな矢印が回り、通知の列が一瞬動いた。新しいコメントはない。最後に止まっている文字列は、変わらずだった。

「ヘリ 朝 一回」

 読み上げると、彼女自身が眉を寄せた。誰の言葉でもない。誰かが落とした短い情報。真偽はわからない。けれど、知らない誰かの残した言葉でも、ここでは重さを持つ。軽い希望でも、足取りだけは軽くする。


「情報はただの数値だ」

 砂原が切る。彼の視線は空ではなく、階段の先にある曲がり角を見ている。

「検証可能性がなければ、判断に使えない」

「でも、人を動かすには十分」

 灯が返す。言い方は柔らかいが、内容は譲っていない。

「動かないよりは、動く方が生存率は上がる。いまは、足を止めさせる理由の方が危ない」

 ふたりの論争は端的で、共通の目的を前提にしている。だが、論争は論争だ。列の速度がわずかに落ち、背後の階段で水の音が強くなった。


 踊り場の窓の外では、濁流の泡が階段の段鼻に沿って、同じ位置で何度も弾け続けている。規則的な誤差のような、やまない打音。海斗は一歩、窓に近づき、柵越しに吹抜けの底を見た。流木の巣が、たわみ、耐え、擦れている。次の瞬間、そこに溜まっていた何かが、ひと束の筋を残したまま切れた。泡の弾ける位置が、一段ぶん跳ね上がった。


「来る」

 灯が叫ぶより先に、鴫原が扉を押し戻していた。

「逆流だ。進め。駆け上がれ」

 声は低いのに、背骨に直接刺さる。


 下から突き上げる水柱が吹抜けを叩いた。風のような音ではない。太い管に空気を詰めた状態で殴られたような、鈍い圧の音。階段の手摺りがびりびりと震え、七階の踊り場の裏側に冷たい舌が伸びる。空気が一瞬だけ奪われ、誰かの喉がからからの咳を一つ吐いた。


 全員が駆け上がる。速さに慣れていない靴が、段鼻でつまずく。陸は自分の手のひらにテープを巻きつけ、身体を横に倒して段差を這い上がる。四つん這いに近い態勢は、恥ではない。上へ行くための形だ。熊谷が背を押し、海斗が前から手首をつかむ。引くと同時に、陸の足が段の角を捉える。体が一枚、上へ上がる。


「お父さん、四で吸って、六で吐く」

 紗耶が父の耳元で数える。彼女は自分にも言い聞かせている。数は祈りだ。祈りは息の長さに変換できる。父の胸がわずかに落ち着く。優先順位の紙が、彼女の掌に貼りついている。紙からインクの匂いが上がる。


 美桜が腹を押さえ、踊り場に出た瞬間、顔色を曇らせた。灯がすぐに横につき、小さく問う。

「痛み」

「軽い。大丈夫」

 軽いの定義は曖昧だが、彼女の目はまだ動ける目をしている。


「ドアは開けたら閉める」

 鴫原が囁く。囁きなのに、全員に届く。

「逆流は、開けっぱなしの怠惰を狙う」

 屋上の規約に書かれていた文言が、いま、階段の現実に侵食する。規約は紙の上にあるとき弱いが、状況に一致した瞬間だけ強くなる。


 七階のドアは重かった。鍵は閉まっていない。だが金属枠がわずかに歪んでいる。砂原が肩で押し、海斗が横から支え、熊谷が持ち上げる方向に力を足す。さっき鴫原から習った力の入れ方だ。直線で押すのではなく、捻って回す。ドアは動き、わずかな隙間が現れた。吹抜けの逆流は、その隙間を獲物の口のように舐める。冷たい舌が床を這い、甲の皮膚を刺す。


「いま」

 灯の合図で列が一斉に流れ込む。順番は崩さない。崩さない範囲で速める。陸が先に滑り込み、紗耶と父が次に入る。美桜と灯が続く。西田が足を引きずりながら、手すりを頼りに身を斜めにして差し込む。結衣が犬を抱いた少女の肩を押し、犬の鈴が短く鳴る。最後尾で鴫原と砂原がドアを押さえ、海斗が透明容器を胸に抱いて残る。全員の視線が彼の腕に集まり、鍵が光を返す。


「閉める」

 砂原が言い、鴫原が頷く。二人がタイミングを合わせ、押していた力を内側に切り替える。海斗が体をひねって入る。冷たい水がかかとを打ち、脛に一筋、氷の線を描く。扉が重く閉じ、金属同士が噛み合う音が狭い踊り場に残った。逆流は板一枚を隔ててうなり、すぐに次の出入口を探す。探す音は、離れていくようで、実際は近づいている。


 七階の廊下は、六階よりさらに薄暗い。非常灯はところどころで死んでいて、天井の吸気口から湿った息が落ちてくる。壁紙は下の方から剥がれ、波打っている。人の目線の高さに貼られた案内図は、もう読めない。水に溶けたインクが、文字を別の記号に変えた。


「ここで止まるな。広い場所へ出る」

 灯が指示する。七階の中央に、共有ラウンジがある。六階より狭いが、窓が二面に開けている。風が通る分、体温が奪われる。奪われる分だけ、頭は冴える。冴える頭は、怖がり方を選べる。


 ラウンジに入ると、先に上がっていた数人の住民が振り向いた。顔に泥がついている。若いカップルと、年配の男、それから制服姿の見覚えのない少女。少女は濡れた髪を後ろで結び直しながら、こちらを真っ直ぐ見た。

「下、まずい」

 彼女は短く言った。

「逆流、二回目が来る。ついさっき音がした」

 住民の誰かが窓に手を当て、曇りを拭う。外の色は変わらない。灰色の中の濃い灰色が、たまに筋になって動く。それを見ていると、視界の方が歪んでくる。


「優先は同じ。妊婦、子ども、介護者」

 砂原が名簿を開く。紙は濡れ、角が柔らかくなっている。字はまだ読める。彼は読み上げ、灯が各人の位置を調整する。紗耶は父をソファの端に座らせ、靴底を拭う。泥は小さな石を含み、床に残ると滑る。陸がモップ替わりに毛布を押し、床の水を一方へ寄せる。熊谷は水を配る。配る手は速いが、量は変えない。変えるのは基準の方だ。


「ヘリの話」

 結衣が躊躇いながら口を開いた。

「さっきのコメント。朝、一回。誰かが見たって」

 灯は結衣を責めない。責めないかわりに、言葉の脇に支柱を足す。

「見た人がいても、ここに来るとは限らない」

「でも、来るかもしれない」

「来るかもしれない」

 反復は否定でも肯定でもない。重ねることで、言葉の重さを調整する。調整できる重さにする。


「逆流が続く。ここで待ちながら次へ備える」

 鴫原が部屋の奥を見回す。非常用のロープや、簡易の救命胴衣があるはずの棚は、鍵がかかっていた。鍵穴は小さく、錆びている。砂原が鍵束から似た形を選び、差し込む。回らない。別の鍵。回らない。三本目で、固い手応えがあり、錠が開いた。中身は、数だけは多いが、質はばらついている。古いロープは手に繊維が刺さる。救命胴衣は片方のバンドが切れている。使えるものと使えないものを分ける。分けるだけで、誰かの顔色が少し良くなる。


 貴重品のリストを作っていた年配の男が、砂原に近づいた。

「名簿、見せてくれ」

 砂原は一瞬だけ迷い、差し出す。男は目を走らせ、眉を動かさずに言う。

「順番は理解した。だが、閉じる判断は誰がする」

「鍵の所持者」

 砂原が海斗の透明容器に視線を落とす。

「開ける判断と、閉める判断は同格だ。どちらも公にする。独断はしない」

「公にする時間がないときは」

「独断のあとで説明する」

 年配の男は小さく笑った。笑いは干からびているが、悪意はなかった。

「それでいい。説明は後回しにできるが、閉めなかった結果は後回しにできない」


 灯が喘息の青年に再び近づいた。吸入器の電池は交換できない。彼女は別の方法を選ぶ。紙コップを切り、簡易のスペーサーを作る。青年が持っていた古い予備の薬剤を接続し、呼吸の深さに合わせてゆっくり吹き込ませる。完全ではないが、さっきより胸の動きはましだ。青年は自分の胸に手を置き、灯に小さく礼を言った。


 窓の外で、白いものが斜めに走った。雨ではない。泡に混じった破片が、風に乗って流れたのだ。破片の後を追うように、また押しの音が来た。部屋の空気が一度だけ重くなる。七階の床が、ごくわずかに軋んだ。


「もう一回、来る」

 吹抜け側のドアへ近づくと、下の階から短く潜るような音が上がってきた。水が体勢を変える前の息の音。鴫原が腕時計を見て、秒針の位置を確かめる。別に意味はない。ただ、時間を掴む手がかりが欲しいだけだ。


「扉、施錠」

 砂原が言う。鍵束から七階共用ドアの鍵を選び、差し込む。回す音が金属に吸い込まれて、薄く響く。

「開けるのは、上へ動かすときだけ。下への確認は、六階のドア越しの声に限定」

 規則は冷たいが、いまは冷たさが人を生かす。


 犬を抱いた少女が、窓際で小さく手を挙げた。

「すみません。あの、ここ、寒いです」

 灯が頷く。毛布をもう一枚肩にかけ、犬のスリングの位置を少し下げる。体の中心に近い位置は温度が保ちやすい。少女は「ありがとう」と言って、犬の耳の後ろを撫でた。鈴が鳴り、短い音が空気の角を丸くする。


 結衣が再びスマホを見た。電波は消えている。彼女は画面を消し、深く息を一つ吐いた。画面に頼らない役割を探す。探す目に迷いはあるが、逃げてはいない。

「人数、もう一度数えます。七階にいる人」

 声に出して数える。数字を壁に貼り付ける作業。数は、場の輪郭を作る。


「上へ」

 灯が、ふいに言った。誰かが反射的に顔を上げる。

「七階の天井、配管が低い。逆流で床が一段上がれば、ここも危ない」

 砂原が頷く。鴫原も同意した。六階より高い安心は、思ったより薄い。薄い安心の中で決定が早くなる。早くするために、理由は短い方がいい。


 その時、廊下の奥でガラスの割れる音がした。誰かの叫び声が重なり、すぐに切れた。砂原が視線を鋭くして、顔だけで合図する。誰かが勝手に窓を開けたか、外から何かが当たったか。どちらにせよ、そこはもう危険だ。海斗は透明容器を胸板に押し当て、灯の目を見た。灯は短く頷く。頷きは、鍵を回す前の約束だ。


 七階の端から端までを速く歩く。途中、倒れている観葉植物の鉢を跨ぎ、濡れた雑誌を踏まないように避ける。ラウンジの反対側に、もう一つの外階段へ続くドアがある。鍵は閉まっていない。だが、ドア枠の一部が曲がり、完全には閉まらない。開ければ、閉めるのに力がいる。閉めるための力は、開けるための力より難しい。


「開ける。入れる。閉める」

 砂原が行動の順番を口にする。言葉の順番は、体の順番を前もって作る。海斗は容器の蓋の封印テープを皆の前で剥がした。裂ける音がやけに大きい。鍵を取り出す。金属の冷たさは、指の皮膚を通って骨に触れる。鍵を差す。回す。金属が合う感覚が、指先に伝わる。扉が重く開く。外の風が一気に入り、頬に潮の味を置いた。


 踊り場は狭い。柵の向こうは、ビルの谷間を流れる汚れた海だ。泡が風で斜めに飛び、階段の段鼻を濡らす。逆流の舌が、まだ遠くでうねっている。だが、遠いのは距離であって、時間ではない。時間はもう近い。


 陸が先に出て、低い姿勢で段を這い上がる。紗耶が父の車椅子を押し、熊谷が後ろから支える。西田が妻を探すように目を走らせるが、灯が肩に触れて止める。

「いまは上」

 その一言で、西田は前を見る。見るふりではない。見ることを決めた目だ。


 結衣が少女の背に手を置き、犬のスリングが滑らないように紐の結び目を確認する。少女は「大丈夫」と言って、小さく笑った。笑いは短い。短いけれど、そこに力がある。力がある笑いは、長くなくていい。


 隊列が踊り場の半分を通過したところで、吹抜けの底から重い音が突き上げた。詰まりが外れたという合図。二回目の逆流だ。空気が押され、階段の壁が一瞬だけ呼吸したように膨らむ。柵がきしむ。水の舌が、さっきより高い位置に現れた。


「急げ」

 灯の声は鋭くない。鋭い声は、手元を狂わせる。彼女の声は平で、しかし速い。海斗は最後尾に回り、鴫原と砂原の肩越しに外の色を見た。色は変わらないのに、形だけが変わる。形が変わるのは、水の都合だ。人の都合ではない。


 踊り場の端で、足を滑らせる音がした。ジャージの男だ。六階で熊谷の胸ぐらをつかんだ彼が、戻ってきていたらしい。靴底が濡れに負け、膝から落ちる。海斗は反射的に容器を胸から離し、片手で柵の支柱をつかみ、もう片方で彼の腕を掴んだ。重さが肩に食い込む。指が滑る。容器が片側の腕から離れ、宙を泳いだ。透明の四角が光を受け、時間のない海に落ちていく幻を見た。


「離すな」

 砂原が短く言い、容器の底を掴んだ。二人の握力が重なり、容器は手の中に戻る。ジャージの男は自分で膝を立て、体を押し上げた。海斗は男の目を見た。男は言葉を失い、唇だけで何かを言った。ありがとう、だと思った。思うだけで十分だった。


 逆流の舌が踊り場の一段下に達した。泡が一面に咲き、切り刻まれた光が足首を刺す。榴弾の破片を思わせる冷たさが、皮膚の表面を細かく裂く。階段の角が見えなくなり、足場の縁が不確かになる。灯が叫ぶ。

「段鼻を見ない。手すりを見て。手すりに合わせて足を置く」

 指示は現実に直結している。目は不確かでも、手すりの鉄は嘘をつかない。みんなの左手に同じ感触があり、同じ強さで握り、同じ硬さで支える。


 扉の前にひしめき、順番に身体を滑り込ませる。誰かが誰かの背中を押し、押しすぎないように調整し、押し足りないときには自分の腰で補う。押す動作は、謝らない方がいい。謝る隙に、誰かの靴が段の角を外す。謝るのは、扉が閉まってからでいい。灯はそう教える。誰も口には出さないが、今はその通りに動く。


 最後に残ったのは、海斗、砂原、鴫原だった。鍵の容器は、海斗の胸の前で再び高く掲げられている。奪える距離。見える高さ。逆流はもう、踊り場の中央まで来ている。水の舌は床に張りつき、薄い刃のように伸びている。刃は痛みを持っていない。冷たさだけを持っている。


「閉めるぞ」

 鴫原が言う。砂原が頷き、扉を引く。重い。枠が噛んでいる。水の圧が外から押している。押す方向と、閉める方向が一致しているのに、重い。重いときの扉には、閉じるための角度がある。真正面から押さず、少しだけ回す。海斗は容器を脇に抱え、両手で扉の縁を掴み、肩で押す。体の中の骨と、扉の金属が一瞬だけ同じ素材になった気がした。


 扉が閉じ、鍵が回る。金属が重ねて出す音は、楽器の音色に近い。外の水の音を、内側の静けさに変換する合図。砂原が息を整えながら言う。

「閉める判断、完了」

 報告は短い。短いのに、ここでは誰もが理解できる。


 ラウンジへ戻る途中、結衣が立ち止まり、振り返った。

「いまの、撮れてたかな」

 言ってから自分で首を振る。撮れているかどうかより、撮ろうとしたかどうかが、いまは問題になる。彼女はスマホをポケットに入れ、海斗の容器に目をやった。

「落とさなくてよかった」

「落としかけた」

「落ちる方に、映えるのかもしれないけど」

 結衣は苦い笑いをして、すぐに消した。灯が彼女の肩を軽く叩く。

「映えるより、残る方を選んだ。それでいい」


 七階のラウンジは、さっきより人で埋まっていた。六階から上がってきた新しい顔が混じる。足元は水で光り、濡れた靴下の匂いが広がる。人の匂いは嫌いではないが、こういう場では不安の匂いと区別がつきにくい。


「次に上げられるのは、何人」

 砂原が名簿に目を落とし、数字を指で追う。灯が医療的に動かせるかどうかを重ねて判断する。紗耶は父の背に枕代わりの毛布を当て、足元に小さな箱を置いた。足先が浮かないようにするためだ。陸は濡れた床の水路を作る。どこへ流すかを決めない水は、足元の敵になる。流す先がある水は、まだ人の言うことを聞く。


「上へ送る班、準備」

 灯が言ったとき、ラウンジの奥で声が上がった。制服の見知らぬ少女が窓の外を指差す。

「あれ」

 遠くの空で光が点滅した。灰色の薄い幕の向こうで、光がゆっくり動く。ヘリかもしれない。ドローンかもしれない。反射かもしれない。判断はつかない。つかないまま、沈黙が一斉に立ち上がる。期待の形の沈黙。全員の喉が同時に重くなる。


「来るかどうかは、わからない」

 砂原が言う。言い方はいつも通りだ。

「わからないが、動きに影響させない。計画の外の希望は、計画を壊す」

「でも」

 結衣が言いかけ、灯が目だけで制した。止めたのは反論ではない。止めたのは、言葉が足を止めるのを嫌ったからだ。灯は代わりに言う。

「来るなら、動いている人間の方へ来る。止まっている人間のところには来ない」


 逆流の音は少し遠のいていた。遠のいたのは、次に備えているからだ。備えの音は、ほとんどの人には聞こえない。聞こえないうちに、こちらは上へ移動する。移動の列が、再び組まれる。


 海斗は透明容器を胸の前に掲げ、ゆっくりと左右に動かして全員の視界に入れた。奪える距離を保つ。見える高さを保つ。鍵の在処は、持っている手ではなく、見ている目の中にある。そう思うと、不思議と容器の重さが現実に戻ってくる。現実に戻った重さは、肩の筋肉で持てる。


 ラウンジを出る前に、鴫原が小さな声で言った。

「ドアは開けたら閉める。忘れるな」

 忘れるという言葉が、やけに鮮やかに聞こえた。忘れたくないことは、忘れる可能性が高い。忘れられる可能性があるから、口に出す。規約は、こういうときにだけ生きる。


 七階から八階へ続く階段の口は、細く暗い。逆流が上がってくる前に、できる限り距離を稼ぐ。距離は時間に変換できる。時間は判断に変換できる。判断は、生存に変換できる。変換の順番を誰かが口に出す必要はない。いまここでは、全員の体がその順番で動いている。


 振り返れば、六階のときよりも迷いの少ない列があった。迷いはある。だが、列がそれを吸収する。吸収した迷いは、動きの中で温度をなくし、ただの汗になる。汗は匂うが、命を奪わない。奪うのは、止まることだけだ。


 海斗は最後尾で、まだ濡れた床を踏みしめた。足裏に残る冷たさが、手の中の鍵の冷たさと重なる。二つの冷たさは同じではない。だが、どちらもいまは生きる側の温度を奪いすぎないでいてくれる。その程度の味方が、ここでは十分だ。


 七階の扉が、背後で静かに鳴った。鍵穴の金属が微かに震え、音を内側にしまい込む。逆流の舌が、また階段を試す。試す音は、鼓動と同じ数で来るわけではない。来るときに来る。来ないときに来ない。だから、こちらは勝手に数えない。数えないかわりに、順番を数える。誰が先で、誰が次か。誰が開け、誰が閉めるか。誰が持ち、誰が見るか。


 名簿の紙は、まだ読める。端の滲みは広がっていない。紙くずになる前に、紙である時間を使い切る。紙であるうちに、上へ行く。


 海斗は透明容器を掲げ直し、前を見る。灯が一段、上がる。砂原が数字を確認する。鴫原がドアの位置を目で測る。熊谷が保冷箱を押し上げる。紗耶が父の脈を指で確かめる。陸が毛布の滑りを調整する。美桜が腹にそっと手を置く。結衣が人数を数える。犬が短く鳴き、鈴が重ならない音で応える。


 七階は越えられる。そう決めることが、越えるための最初の段だ。決めた段を、ひとつずつ上がる。上がっているあいだだけ、逆流は追いつかない。追いつく前に、次の扉を開け、閉める。開けると閉めるは、対立ではない。対になる。対になることを、手が覚える。


 逆流の兆しは、まだ続くだろう。兆しは、不安を増やすばかりではない。兆しがあるから、こちらは準備できる。準備があるから、扉を閉められる。扉が閉まるから、次の扉へ向かえる。


 鍵は二本、ここにある。透明の箱に、全部入っているわけではない。一本は胸の前。もう一本は、列の目の中。誰かが目を逸らせば、一本ぶん欠ける。欠けないように、誰も目を逸らさない。逸らせない。


 七階の階段は続いている。上も、まだ続いている。上があるという事実は、希望のふりをしていない。ただの構造だ。構造がある限り、上へ行ける。構造が壊れる前に、上へ行く。壊れたら、別の構造を作る。作れるものは、まだ手の中にある。


 海斗は最後にもう一度、廊下の窓越しに灰色の海を見た。光は弱く、波は強い。遠くの点滅は、もう見えない。見えないものに頼らず、見えるものだけで進む。見えるものは、扉と、段と、手すりと、鍵と、人の背中だ。それで十分だった。今は、十分だと信じて前に出るしかない。


 逆流は背後で舌を鳴らした。鳴らし返すのではなく、扉で受け止める。扉の向こうで、音は別の形に変わる。変わる音を背中に聞きながら、列は七階を越え、八階へ向かっていった。

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