第3話 鍵の在処(5F→6F)
鍵は二本そろった。冷たく、重く、指に角を押し返してくる。金属の感触は安心に近いのに、誰が握るかという一点だけが不安を増やす。鍵の位置は、床のどこでも同じだ。問題は、誰の手にあるかだった。
廊下の端で、鴫原が一本、砂原が一本を握って向き合う。二人の間に距離はない。見張るための距離だった。灯が周囲を見回し、列の乱れを整える。熊谷は保冷箱のベルトを締め直す。結衣はスマホの圏外表示を恨めしく見て、電源を落とした。
「共同管理にしましょう」
住民の一人、スウェット姿の男が透明の食品容器を掲げた。蓋は割れていない。中身の見える安心。彼の顔には、善意の疲れがあった。
「これに入れて、持ち回りで。誰か一人じゃなくて、みんなで見えるように」
「反対だ」
砂原は即答した。声は濁っていない。
「責任の分散は、責任の不在だ。持ち回れば、落ちたときの責任も回る。最終的に、誰も責任を持たない」
彼が鍵を握り直す音が、小さく鳴る。廊下の壁に吸い込まれて消えた。
「じゃあ私が預かる」
鴫原が言った。迷いの色はあるが、背中はぶれない。
「日誌を残す。誰に渡し、いつ、どこで。記録すれば、不在にはならない」
空気が少し動く。言葉はどちらも正しい。正しさ同士がぶつかると、足元の段差が見えにくくなる。海斗は一歩、前に出た。
「俺に預けて。持って走る。見えるところで」
その声は若かった。若さは反発を呼ぶ。呼ぶはずだった。
灯が背中を軽く押した。押すというより、そこにあると確認する触れ方だった。
「海斗は最後まで残る人だから、最後まで持てる」
言い切りだった。言い切りに、数人が息を呑む。残る人に持たせる。逃げない者に持たせる。理屈は単純で、残酷なくらい強かった。
「見えるところに」
海斗は透明容器を受け取り、鍵を入れて蓋を閉めた。蓋がカチリと鳴る。容器を胸の高さに掲げる。誰かが手を伸ばせば、届く位置。奪える位置。
「俺が持つ。でも、常に見える位置に。危ないと思ったら、奪っていい」
言うと、背中に視線が刺さる感じがした。信頼は言葉で増えない。見えている時間でしか増えない。
「話はあと。六階にラウンジがある。そこで一度、体勢を整える」
灯が区切った。区切りがなければ、議論は階段を塞ぐ。塞いだ時点で、どんな正しさも同じだけ間違いに変わる。
六階のラウンジは、小さな船室のようだった。窓の外には、灰色の海面が近い。ガラス越しの波が、低く喉を鳴らしている。床には濡れた靴の跡がいくつも重なっていた。
中には、動けなくなった住民が数名いた。糖尿を抱える高齢の女性。息が荒く、指先が冷たい。発作をこらえるように肩が上下している青年。胸の音が浅く速い。ソファの端には、犬を抱いた少女が座っていた。小型犬。震えて、鼻先を少女の腕に押し付けている。
「名簿に犬の欄はない」
砂原が淡々と告げる。紙を一枚、折り目に沿って撫でた。
「ないものは、ない」
少女は顔を上げる。涙でまつ毛が重い。犬の首輪には小さな鈴がついていて、微かに触れ合う音がした。
「家族です。家族なんです」
「人間の水が減る」
「やめて」
結衣の口が滑った。焦りが先に出る声だった。
「犬がいたら、再生数が伸びる。外に向けて、目立てる」
ラウンジの空気が、目に見えない針を増やす。灯が結衣を見た。怒鳴らなかった。静かな怒りは、言葉の密度を増やす。
「数字に命を合わせるな」
その一言で、結衣はうつむいた。自分の口癖の危うさを、ようやく追い抜いた顔だった。
海斗は段ボールを探した。備蓄棚の脇に、空の箱が三つ。紐もあった。彼は箱の角を折り、紐でハンモック型のスリングを作る。犬が収まる幅を手で測り、少女に見せる。
「抱えたままだと、両手が塞がる。これなら肩にかけて、犬はここ。重みは分散する。両手は使える」
少女はためらってから、犬をそっと入れた。犬は震えを続けながら、すぐに小さく丸くなった。紐が軋む音はあるが、重心は落ち着く。
「水は」
熊谷が保冷箱を開け、ペットボトルのキャップに少しだけ水を注いだ。犬の鼻先に近づけると、舌がためらいがちに動く。二口、三口。犬の目が少し潤んで、体の震えがゆるむ。
「人間の水は減らさない。犬の分は、俺の分から」
「だめ」
灯が首を振る。
「分けるなら、合意の上で。ここにいる全員の前で」
熊谷は頷く。蓋を閉めた。閉めた音が、ひとつの約束になった。
糖尿の女性には、砂糖の入っていないクラッカーと少量の水。灯は血色と反応を確かめ、カロリー補給のタイミングを決める。喘息の青年には、吸入の器具があるかを尋ねた。ない。彼は首を横に振り、呼吸を潜めるようにして浅く吸った。
「前かがみで。肘を膝に。肩の力を抜く。抜ける分だけでいい」
灯の言葉は、怖がらせない高さにある。青年が指で脈を数える。数えるふりでもいい。数えるという行動に、呼吸が合わせてくる。
「出るよ」
鴫原がドアの前で言ったとき、熊谷の胸ぐらを誰かが掴んだ。ジャージの男だった。さっきの透明容器の男ではない。目の下に濃い隈。怒りの色は、疲れと区別がつきにくい。
「部外者が勝手をするな」
熊谷は肩を落とし、相手の手を外さないまま、静かに頷く。
「はい。部外者です。でも階段は、みんなの道です」
言い返していない。言い返していないのに、噛み砕く余地のない反論になっていた。男の指から力が抜ける。熊谷は胸を整え、保冷箱の位置を直す。
「水は一人一本まで。犬はさっきの分で最後。合意した」
灯が頷き、男は視線を逸らした。
海斗は鍵を入れた透明容器を高く掲げた。ラウンジの全員から見えるように。容器の中で、二本の鍵がわずかに触れ合って、乾いた音を出す。
「これは俺が持つ。けど、ずっと見える位置に持つ。危ないと思ったら、奪っていい。俺を疑っていい。俺が転んだら、助けるより先に、これを取って」
呼吸が止まるほどの沈黙が、一拍だけあった。それから、何人かが頷いた。責任の可視化は、わずかに不信を薄める。薄まった不信は、まだ濁っている。濁っているまま、動ける程度には透明になった。
下から、冷たい圧が上がってくる。水位が次の段鼻に触れた。ラウンジの窓ガラスの外で、泡が弾ける音がした。泡は見えない合図だ。急げという合図。
「移動する。優先は変えない」
砂原が名簿を掲げる。灯が補足する。
「走らない。つまずかない。転んだら、列を止める声を誰かが出す。私じゃなくていい。誰でもいい」
列が形成される。美桜が腹を押さえ、陸がその隣。紗耶は父の車椅子の後ろ。西田は足の固定を確認して位置につく。犬を抱いた少女は、スリングの紐を肩にかけ直した。犬の鈴が小さく鳴る。
ラウンジの扉を開けると、廊下の匂いが変わっていた。水の匂いが濃い。鉄とゴムと、湿った石膏。嗅いだことのある災害の匂いに、まだ名前はない。名前のない匂いは、恐怖の手前で増殖する。
階段に差しかかる直前、砂原がふと海斗の腕を掴んだ。
「鍵は、武器にもなる」
海斗は一瞬、意味を掴み損ねた。
「扉を開けることだけが、鍵の仕事ではない。閉めることも鍵の仕事だ。閉める判断を、誰かがする。開けるのと同じように、閉める責任がある」
言葉は、冷たい理屈の刃だった。けれど、その刃は自分にも向いている。砂原は自分の指も切る覚悟のある人間だ。そういう目をしていた。
「わかった」
海斗は透明容器を胸に当てた。鍵の角が胸骨に触れ、骨の奥に金属の冷たさが伝わる。開ける未来と、閉める未来。その両方の責任に体温は要る。冷たさだけでは持てない。
階段を降りてきた誰かの影が、踊り場に滲んだ。先ほど助けた西田の妻ではなかった。別の住民。肩から血を流し、片目を閉じている。背中に子どもを負っていた。子どもの顔は見えないが、背中の小さな手が、親の服をつまむように握っていた。
「手当てをここで」
灯が言う。ラウンジへ戻して処置をする案も浮かぶが、水の上昇がそれを許さない。
「ここで固定。止血。三分で動く」
灯の手は早い。タオル、テープ、圧迫。三分は短いが、三分でやれることを三分でやる。やれることだけをやる。
「順番、変えないの」
紗耶が小さく問う。砂原は名簿を見直し、数字に指を滑らせた。
「変えない。ただし、同順位の中で入れ替える」
数字の狭間に、柔らかい余白が作られた。余白がない計画は、崩れるとき一瞬だ。余白がある計画は、崩れるときにも少し時間を残す。時間は命に換えられる唯一の通貨だと、砂原はよく知っている。
昇り始める。足裏に吸いつくゴム底の音。手摺りを滑る水滴。誰かの短い咳。犬の鈴。名簿の紙の擦れる気配。すべてが列の中で位置を持ち、それぞれが他を確かめる。
五階から六階へ上がる途中で、背後の扉が重く鳴った。水圧が押す。押される音は、外から叩かれる音に似ている。扉は人格を持たない。押されれば、開く。鍵がそこに必要になる。開けるためではなく、開かないために。
「海斗」
灯が呼ぶ。声は平らだが、しっかりしている。海斗は一段分、足を早めた。透明容器の中で鍵がぶつかり、音がひとつ消えた。消えた音がどこへ行くのか、考えない。考えると、歩幅が揃わなくなる。
踊り場で、ジャージの男がまた前に出た。さっき熊谷の胸ぐらを掴んだ男だ。彼は自分の手を見下ろし、迷いの筋が額に刻まれている。
「さっきは悪かった」
声は低く、謝罪は短かった。
「俺、下に、弟がいる。鍵があれば、下へ行ける」
「下はもう」
鴫原の言葉は途中で止まる。止めた。止めなければ、絶望の形に口が合ってしまうから。
「鍵を借りたい」
男が手を差し出した。海斗は透明容器を持ち上げ、男の目線に合わせて見せる。奪える距離。奪う意思があるかどうか、手の形でわかる距離。
「今は上へ。戻れたら、あなたが先に鍵を持って下へ。みんなの前で、順番を変える」
男の手が宙で止まる。止まった指の間に、水の匂いが入り込む。彼は拳を握り、こめかみを一度叩いた。
「わかった」
わかったのは、いまこの瞬間だけかもしれない。それでも、わかったと言った。その言葉を、列が受け取る。受け取るから、列は崩れない。
上がり切った六階の廊下は、乾いてはいなかったが、まだ歩けた。非常灯はところどころで生きていて、淡い緑が床に落ちる。ラウンジからここまでの道のりが、一本の濡れた線になって伸びていた。
「このフロアの分電板、どこ」
灯が鴫原に訊く。鴫原は壁のプレートを叩き、扉を開けた。ブレーカーはほとんど落ちている。灯は自分のヘッドライトを点け直し、中のメモを読む。そこに昨日の日付があった。記録は、恐怖が始まる前に書かれていた。恐怖が始まってからの文字は震える。震えていても役に立つが、震える前の文字の方が、人を深く安心させる。
「六階ラウンジ、酸素は問題なし。窓の開閉、禁止。換気は階段側の空気の流入で」
灯が短く共有する。共有する声は、指示の声と違う。柔らかい。柔らかいが、頭に残る。
「鍵の管理、改めて確認」
砂原が名簿の裏に新しい欄を作る。鍵番号、所持者、時刻、目的、戻し先。細かい。細かさは面倒だが、面倒なほど、裏切りを減らす。
「海斗。透明容器の蓋は、ここに封印のテープを一本。破ればわかる」
鴫原が赤いテープを渡す。海斗は蓋の合わせ目に貼った。貼った瞬間、容器が自分のものではなく、みんなのものになった。
そのとき、床が小さく震えた。誰かが走ったせいではない。建物が自分の重みを測り直す仕草だ。壁のどこかで、古い釘が一本だけ音を立て、誰にも聞こえないまま寿命を迎えた。こういう音は、後で思い出したときにだけ聞こえる。
窓の外に、遠い点滅が見えた。救助の灯か、広告の残骸か。判断はつかない。判断がつかないものは、希望の箱に入れるか、雑音の箱に入れるか、各自の自由だ。自由は、時々人を助ける。
「行動を分ける」
砂原が言った。
「一、上へ運ぶ班。二、六階ラウンジ維持班。三、下階確認班」
紗耶が顔を上げる。彼女の視線は、父の顔と、階段の口のあいだで迷う。
「下階の確認は、戻れない可能性が高い」
砂原は冷たく言う。言わなければならない冷たさだ。
「志願者のみ。鍵は貸し出さない。扉は開けない。声をかけるだけ」
開けない確認。閉める判断。鍵の在処は、人の意志の在処と重なっていく。
「私、維持班に残る」
結衣が手を挙げた。彼女は自分の言葉を一度だけ飲み込み、飲み込んだあとに出した。
「数字じゃなくて、人数を数える。ここにいる人の」
灯が頷く。頷きは許可ではなく、同意の形だった。
「俺は、上へ」
熊谷が言う。保冷箱の重さは変わらない。中身は減っているのに、責任は減らないからだ。
「俺も」
海斗が続けた。透明容器が胸の前で揺れる。揺れは小さい。小さいが、誰の目にも見える。
六階の角に、犬の鈴がもう一度、短く鳴った。少女がスリングを抱き直し、微笑んだ。泣いてはいない。泣かないことに意味はない。泣いてもいい。いまは、泣きながら進む練習をしているだけだ。
下から、また圧が上がった。階段の踊り場に、波が一段ぶん、増えた。増えたことだけが事実だ。事実は、誰が見ても同じ。解釈はバラバラでも、段鼻の濡れはひとつ。ひとつの濡れに、ひとつの判断を重ねる。
「行こう」
灯が言う。短く、まっすぐ。
列が動く。名簿の順番は守られ、必要な範囲で入れ替えられる。柔らかさは、強さの形のひとつだ。強さは、音がしない。音がしない強さを、階段だけが知っている。
海斗は透明容器を、胸の前から頭の高さへ持ち上げた。視線が一斉に上がる。見られる責任は、重い。重いものを持ち上げると、腕は震える。震えを止めるのは筋力ではなく、意味だ。見えているという意味。奪えるという意味。誰でも触れられるという意味。
鍵は二本ある。物理の位置はここだ。けれど、鍵の在処は、目の高さの数だけある。握っている指の数だけある。開ける判断の数だけある。閉めるときに自分を嫌いにならないための数だけ、在処は必要だ。
下で水がまた、段を叩いた。合図は終わった。次は催促だ。催促は親切の顔をして来ない。冷たい顔をして来る。冷たい顔に、冷たい鍵で応える。
六階の奥へ。名簿の一行目は線のままだ。線は名前を待つ。待っている間、線は道になる。道になった線を、列が踏む。踏んでも、線は消えない。消えないものを、いま、手で持っている。
鍵の在処は、ここにある。誰かの手に、みんなの目の中に、そして、次に正しいと信じた行為の直前に。今この瞬間、鍵は「開けるかどうか」を決める人ではなく、「見せ続ける」と宣言した人のもとにある。
海斗は腕を下ろさない。灯は歩を乱さない。砂原は数字を裏切らない。鴫原は老いを理由にしない。熊谷は沉黙を仕事にする。結衣は画面の向こうにいない誰かのために、ここにいる人の数を数える。
扉の前に着いた。次の鍵穴を、赤いテープの下で感じる。開けることは、閉めることの練習だ。閉めることは、開けることの覚悟だ。
海斗は透明容器の蓋を、みんなの前でゆっくりと剥がした。テープが裂ける音が小さく響き、廊下の湿気に溶けた。鍵が光り、誰かが息を止めた。止めた息はすぐに吐かれ、列は前へ動き始める。
水は、一段上がる。
鍵は、ひとつ回る。
人は、まだ前を向ける。




