第2話 優先順位(3F→5F)
湿った鉄の匂いと、人の体温の匂いが混ざっていた。鼻の奥で重なったまま離れず、息を吐いても入れ替わらない。三階の踊り場から見下ろすと、さっきまで自分たちがいたフロアの奥に、灰色の波が出たり入ったりしていた。階段の隙間から上がってくる冷たい気配が、もう確実にこちらを狙っている。
灯が声を張った。
「三、二、一、持ち上げ。段鼻。踵合わせ。せーの」
言葉が短い杭になって、ばらばらの焦りをひとつのリズムにまとめていく。車椅子の後部を熊谷が押し、前を海斗が持ち上げる。紗耶は父の膝に毛布を詰め直し、骨ばった膝が角にぶつからないように両手で包んだ。父の喉の奥で小さな空気の擦れる音がする。呼吸が、器用な人ほど壊れやすいガラスのように思えた。
陸が手摺りに自分の膝毛布を巻きつけた。細い体で器用に結び目を作り、確認のように一度だけ滑らせる。
「見て、滑り台。重い物をずり上げるとき、ここを通せば摩擦が減る」
子どもの工夫は、口答えより先に動きを変える。大人たちの頑なさを、少し笑いに変える。
「賢いね」
灯が短く言い、陸がうれしそうに肩をすくめた。
砂原が海斗の横に来て、低い声で囁く。
「合理的には、重い者を置くのが正しい」
海斗は即答できない。喉が固くなり、言葉を外に押し出す筋肉が言い訳を探す。階段の影に視線を落とすと、薄い泥水が一段ぶんだけ光っていた。
「正しいと思う。でも俺は、その正しさを言う勇気がない」
「勇気がないことは、悪い選択の免罪符にはならない」
砂原は肩を竦め、表情らしい表情も見せないまま、また前を向いた。たぶん自分を嫌っているわけではない。ただ、彼にとって世界は常に計算可能で、計算通りに動かないものがあると、不機嫌な計算問題に見えるのだろう。
踊り場の壁には、昨日のチラシが貼られたままだった。週末のヨガ教室の案内。季節限定の花の写真。全部が水に染みて、色がほどけていた。灯が救急箱からテープを取り出し、紗耶の手首に細く巻く。
「呼吸、合わせて。吸う、止める、吐く。いまは吐く時間」
「ごめんなさい」
「謝らない。息を数える」
謝る癖は、役に立たないときほどよく顔を出す。灯はそれを、短い単語で戻す。
階段の段鼻が濡れて、スニーカーのゴムが鳴いた。熊谷が足元を照らし、鴫原が後ろから笛を鳴らす。
「止まれ。右に寄れ。壁に手」
声は老いているのに、命令は若い。命令が若いということは、まだ希望を捨てていないということだと、海斗は思った。
四階へ向かう途中、結衣が共用コンセントにモバイルバッテリを挿した。充電の稲妻のアイコンが点いた瞬間、パチ、と乾いた音がして、非常灯がふっと消えた。闇が全員の喉を掴む。ひとりの息が跳ね上がり、別の誰かの指先が手摺りから滑った。
「ごめん、私」
結衣の声が小さく潰れる。彼女は配信の癖で、何かが起きるとすぐに自分の名前を出す。灯がヘッドライトを額にかぶせ、狭い光の輪が踊り場を切り取った。
「大丈夫。次は挿さない。それでいい」
鴫原が「規約では共用電源の私用は禁止だ」と言いかけて、言葉を飲み込む。規約はここで息をしてくれない。目の前の呼吸だけが現実だ。
五階に着くと、空気が少し軽く感じられた。軽くなったのではない。下から追い上げてくる圧が一瞬だけ遠のいたのだ。廊下の突き当たりに理事長室がある。ガラス張りの広い部屋。電子錠のランプは消え、停電で物理ロックに切り替わっていた。鍵は中にある。
「中に鍵があるって、何その」
結衣が笑いかけて、笑えずに終わる。
「あるあるだ」
熊谷が言った。宅配で、似たような現場をいくつも見てきたのだろう。彼は蝶番を見て、海斗の肩を軽く叩く。
「ピンを抜けばいける。六角持ってる?」
「工具箱に」
鴫原が小さな工具箱を渡す。海斗と熊谷が床にひざをつき、六角レンチをピンの頭に当て、ハンマーの代わりに懐中電灯の柄で叩き上げる。金属が鈍く鳴り、そのたびに下から水音が重ねられていく。時間が階段を登ってくる音だと、誰もがわかっていた。
紗耶が父の耳元に顔を寄せる。
「お父さん、すぐ終わるからね」
父の目はどこか別の場所を見ていて、瞳に映るのは過去か未来か、はっきりしない。陸が毛布の結び目を確かめ、結衣が彼の頭を撫でるふりをして手を引っ込める。
「触ると怒るから」
「怒らないよ」
「怒らないけど、いまはやめとく」
ピンが一本、二本、と抜けた。扉の重みが片側に傾き、熊谷が声を出す。
「せーの」
海斗が支え、軋み音のあとで、扉が外れた。室内は広く、窓際のデスクの引き出しがわずかに空いている。鴫原がそこへ向かい、引き出しを開けた。鍵束があった。重い金属の匂い。指に食い込む重さが、全員の胸の奥を撫でた。音は鳴らないのに、たしかに楽器みたいな余韻があった。
「あった」
灯が小さく息を吐く。その音で、張り詰めていた糸が一瞬だけゆるむ。
砂原が白紙を取り出した。デスクの下敷きの上で手際よく角を揃える。
「名簿を作る」
「名簿」
「誰から上へ行くかの順番だ」
さらさらとペンが走る。砂原は迷いがない。
「一、妊婦と胎児。二、子ども。三、介護者。四、体力のある者。五、その他」
灯は眉を寄せる。
「人の順番を数字で決めるの」
「決めないと、もっとひどい順番が勝手に生まれる」
その言葉は冷たいけれど、たしかに現実味があった。誰も完全には否定できない。否定すれば、誰が責任を引き受けるのかという問いに戻されるからだ。
紗耶が視線を落としたまま言う。
「父は最後でいい。最後で」
顔を上げると、もう涙があった。言った瞬間に崩れる。海斗はその言葉の重さと、その軽さの両方を感じた。最後でいいと言う軽さ。最後にされる重さ。どちらも真実で、どちらも嘘だった。
陸が助け舟を出す。
「最初は赤ちゃん。まだいないけど」
彼は名簿の一行目を指で叩く。場の空気が少し動く。誰も笑わないけれど、誰も泣かない。美桜がゆっくりと腹に手を当てた。
「もういるよ」
空調が止まっているのに、花の香りがした気がした。誰かが口に出さずに思った言葉が、部屋の空気のかたちを変える。
砂原は頷き、名簿の一行目に、まだ姿を見せていない命のためのスペースを作った。名前を書けないから、線だけが引かれる。線の白さが、黒いインクよりもはっきりと見えた。
鴫原が鍵束を持ち上げ、屋上ドアの形に合いそうな鍵を選ぶ。金属の角が手の中で鳴る。
「屋上は最後だ。とりあえず五階から六階に上げる。名簿の順番で」
「順番を読み上げます」
砂原が用紙を掲げる。灯が被せる。
「待って。読み上げる前に確認。手当てが必要な人は」
「父は大丈夫」
紗耶が言う。大丈夫の意味は広い。生きている、という意味と、我慢できる、という意味と、諦めた、という意味が重なって、ひとつの言葉になる。灯はその重なりを分けるように、静脈の色を見て、爪の色を見て、頷いた。
「動かす。三、二、一、持ち上げ」
そこで、誰かの靴が水を踏んだ音がした。階段の方角から、はっきりと。海斗の背中に寒い筋が走る。エントランスのガラスが割れたのは、もうずっと前だ。三階は追いつかれた。音は曖昧な脅しではなく、ここへ来るための準備運動を終えた誰かの足音に近い。
列が動き出す。名簿の順番どおりに、という合意は辛うじて守られた。けれど守られたのは、今この瞬間だけだ。次の踊り場で、誰かが言い換えるかもしれない。砂原が先行して段差を数える。陸が毛布の滑り台をずらす。美桜が手すりに捕まり、灯が背中に手を添える。
「吸って、止めて、吐いて。はい」
短い命令が、美桜の肩の高さを小さく調整する。彼女の瞳が一度だけ遠くを見た。胎児の重さはまだ軽い。けれどこのマンションでは、軽いものほど順番が前に来る。それは優遇というより、脆さの順番だと、海斗は思った。
四階と五階の間の踊り場で、小さな事故が起きた。滑り台の毛布の結び目がほどけ、車椅子の前輪が段の角に噛んで止まる。紗耶が体を張って押さえ、父の膝が空を切った。灯が即座に前へ回り込み、熊谷が持ち上げ直す。
「三、二、一、戻す。いける」
鴫原が笛を鳴らして合図を揃える。人は、完璧な連携ができない。その穴を埋めるのは、声だ。声の粒が、足元の小さな崩れを拾い、形を戻す。
結衣が肩で息をしながら、小さく言った。
「さっきの配信、見てる人、まだいると思う?」
「圏外なら誰もいない」
砂原が淡々と返す。
「でも、誰かは見る。たぶん」
「たぶんは、救助計画にはならない」
「でも、こころにはなる」
砂原は返事をしなかった。彼の沈黙は、否定でも肯定でもない。数式の中に感情の記号が出てきたとき、一度ノートを閉じるときの沈黙だ。
五階の廊下の突き当たりに、別の住民たちが集まっていた。見知らぬ顔。濡れたジャージ。抱えた段ボール。みんな同じ形で、不安を抱えたまま形だけ前を向いている。
「鍵は」
誰かが訊く。鴫原が頷く。
「見つかった。屋上も、たぶん開く」
たぶん、という言葉が一度空中で止まり、少ししてから全員の胸に落ちる。希望は軽くない。落ちるときの音も、軽くはない。
砂原が名簿を読み上げた。数字の音は冷たい。けれど、それがなければ、もっと冷たい何かが始まる。
「一、妊婦と胎児。美桜さん。同行一名まで」
「私が」
灯が迷いなく手を挙げる。
「二、子ども。陸。同行一名まで」
「俺が」
海斗が言う。陸が小さく頷く。
「三、介護者。野々村さんとお父様」
「後でいい」
紗耶は言うが、砂原は首を横に振る。
「三だ。順番は変えない」
声が硬い。硬い声に救われることがある。紗耶は黙って、父の手を握る。
「四、体力のある者。熊谷くん。鴫原さん」
「俺は最後で」
「四だ」
また硬い声。頑固な鉄の棒が、列の背骨になる。
名簿の読み上げが終わるころ、階段の下で水が段を叩く音がした。叩く、というより、整える音。水は家具でも敵でもなく、習慣のように同じ動作を繰り返す。その繰り返しが、こちらを削ってくる。
移動の準備を始める。灯は美桜の腰に布を回し、引き手を作る。海斗は陸の手首に輪ゴムを二重に巻き、迷子防止の簡易の目印にする。熊谷は保冷箱の中身を半分にし、片方を置いていく決断をする。
「戻れたら取りに来る」
戻れたら、という言葉は、祈りの文法に似ている。
五階から六階への階段の前で、結衣が立ち止まった。
「私、上じゃなくて、ここに残っていい?」
全員が彼女を見た。言い訳に聞こえたかもしれないが、声は落ち着いていた。
「配信、再開できるかもしれないから。だれか来るかもしれない。上に行った人が、戻ってこられるように」
灯が目を細める。砂原が名簿を見直し、数字の隣に小さな丸をつける。
「残る役は必要だ。だが一人では危険だ」
「私が一緒に残る」
紗耶が言う。砂原が即座に首を横に振る。
「あなたは三。順番を崩すな」
「でも」
「順番は、崩すために作るのではなく、崩さないために作る」
言葉は冷たいが、そこに嘘はない。紗耶は唇を噛み、結衣の手を握った。
「必ず戻る。必ず」
「うん」
海斗が陸の肩に手を置く。
「行こう」
「怖い?」
「怖いのは、怖いって言う前」
「言ってるよ、もう」
「じゃあ、同点」
陸が少し笑った。同点。勝ち負けではなく、並ぶこと。並ぶことは、自分の重さを誰かと分けることでもある。
上へ一段、また一段。灯が「三、二、一」を刻む。熊谷が後ろで「押す、休む、押す」を刻む。鴫原が笛で小さな合図を刻む。砂原は名簿を腕に抱え、数字の順番を刻む。四つのリズムがずれながらも、まとまっていく。まとまるというより、許し合う。音のはじと終わりが重ならなくても、前へ進むことそのものが一つの音楽だと、階段は教えてくる。
踊り場に差しかかったとき、下から誰かが叫んだ。
「だれか、いますか」
知らない声。助けを求めているというより、存在を確かめる声。海斗は灯と目を合わせ、次の段を上げる手をいったん止めた。
「返事を」
熊谷が言う。灯が頷く。
「います。上に行く。あなたも階段を」
返事は遅れた。遅れたぶんだけ、水の音が近づいた。
「足が。すみません。足が」
灯は一歩戻りかけたが、砂原が腕をつかんだ。
「順番を崩すな。戻れば二つの列が詰まる」
「命が」
「命は、列に二つある」
灯は砂原の手を振りほどき、海斗を見た。海斗の中で、理屈と直感がぶつかって、同じ痛みになった。陸が言う。
「俺、行ってもいい」
「だめ」
灯が即答する。海斗は階段の縁を踏みしめ、名簿の紙の白さを一度見た。その白さが今だけ空白に見えた。書けない名前のための白。戻るという選択のための白。彼は深く息を吸い、吐いた。
「灯、俺が行く。すぐ戻る。陸は灯と」
「危ない」
「危険は、いまここにもある」
言葉にしないと、足が動かなかった。砂原は何も言わない。言わないというのは、反対しなかったということでも、賛成したということでもない。彼は名簿の端を少し強く握り、数字に皺をつけた。
海斗は懐中電灯の角度を変え、声の方へ降りた。二段、三段。水が足首に触れ、鉄の匂いが濃くなる。四段目で、男が見えた。年齢は三十代くらい。片方の足首が紫に腫れ、手すりに体を預けている。顔色は悪いが、目ははっきりしている。
「上へ行けますか」
「すみません。捻挫で」
「腕は」
「腕は動く」
「じゃあ、肩を貸す」
海斗は彼の腰に腕を回し、手すり側に彼の手を戻す。動かせるものから動かす。灯の声が頭の中で繰り返される。三、二、一。持ち上げ。段鼻。踵合わせ。二人で息を合わせると、人は三人ぶんくらいの体になる。
踊り場に戻ると、灯がすぐに膝をつき、男の足を見た。
「固定する。布、ください」
結衣が自分の上着を差し出す。灯は素早く巻き、動かせる角度だけ残した。
「あなたの順番は四。いまはこの列に入る」
砂原が短く言う。男は頷いた。状況を理解している人の頷き方だった。
「ありがとう」
「礼はあとで」
灯が立ち上がり、美桜の背中に手を添える。
「いける。三、二、一」
列がまた動き出す。海斗は汗の塩気を舌で感じ、喉に残る鉄の匂いを水で流したいと思った。保冷箱はもう半分しか残っていない。冷たいペットボトルの外側の水滴が、指に小さな安心を置いていく。安心は少量でも効く。効きすぎないのが、いまは助かる。
五階に戻り切る直前、背後で大きな音がした。下の階の非常扉が、内側から水に押されて開いたのだ。空気が吸い込まれ、階段の中の匂いが一瞬で変わる。濁流が角を曲がるように階段を上がってくる。誰かが叫び、誰かが祈った。灯は叫ばない。祈らない。
「早足。走らない。つまずかない」
短い命令。命令は走れより難しい。難しいけど、守れた人から生き残る。残酷だが、わかりやすい。
五階の廊下に飛び込むと、扉を閉めた。重い金属の音。閉めても、それは時間稼ぎにしかならない。だが時間稼ぎは、人間の得意分野だ。稼いだ分を、次の判断に変えればいい。
理事長室にもう一度戻り、鍵束のスペアを袋に分ける。砂原は名簿を二枚に書き分け、一枚を灯に渡した。
「列が分かれても、原則は同じにする」
「原則」
「原則があると、迷う時間が短くなる」
灯は頷き、名簿の一行目に軽く指を置いた。そこには線だけがあった。まだ名前のない命のための線。
美桜はその線を見て、小さく息を吸った。
「もう一つ、お願いしていい」
「何」
「私の名前の隣に、空欄を。ふたりぶんの空欄を」
灯が目を上げる。美桜は笑った。強がりではない。弱さを認めた人の笑い方だった。
「生まれなかったときの空欄も、書いておいて。そうすれば、私は、どっちでも前に進める」
砂原がペンを止め、黙って二つ目の空欄を引いた。線は、名前よりも痛かった。
誰かが窓の外を指差した。遠くに、小さな点滅がいくつか見える。ヘリか、ドローンか、わからない。助けという言葉は、遠くから見えるときほど眩しい。眩しいものは、目を焼く。灯は視線を窓から外し、列の先頭に戻った。
「いまは、五から六へ。そこから七。息を合わせる」
降りてきたばかりの男が、名札を胸ポケットに挟んだ。雨で滲んだ文字が読める。
「西田って言います。下の階に、妻が」
「あなたの順番は四。妻は」
「妊娠してる」
言葉が終わる前に、砂原が名簿の一行目を叩いた。
「一に入る」
西田は目を閉じ、短く頷いた。その頷きの中に、さっきまでの後悔と、これからの希望が半分ずつ入っている。
海斗は、名簿の紙が風で揺れるのを見た。風はまだ、ここまで来る。水よりも軽い知らせが、廊下の角を曲がってくる。
そのとき、床がわずかに傾いた。錯覚ではない。建物はほんの少しだけ、負荷の方向を探す。探して、耐える。耐えながら、どこかで古い釘が一本だけ、寿命を迎える。音はしないが、誰かの顔色が変わる。
「急ぐ」
鴫原が短く言う。彼の声は、たぶんこの建物より長生きする。
列がまた動き出す。名簿の順番は守られ、守られなかった。守られたのは、人の尊厳を守るための順番。守られなかったのは、誰かの自己犠牲を止めるための順番。順番は二重で、重なるたびに少しずつねじれ、そのねじれが、前へ進むためのストッパーではなく、バネになっていく。
六階の手前で、結衣がもう一度振り向いた。彼女は残ると決めたのに、目は列の最後尾を追ってしまう。
「本当に、戻るから」
紗耶が言う。
「約束」
「約束」
約束は、紙より薄い。薄いけれど、破れやすいから、丁寧に扱う。丁寧に扱えば、意外と持つ。そういう紙が、世の中にはある。
灯が最後にもう一度、短い声を出した。
「三、二、一、持ち上げ」
それは命令であり、祈りでもあり、合図でもあった。階段に残っていた暗い匂いが、少しだけ薄くなる。薄くなったのは匂いではなく、恐怖の輪郭なのかもしれない。輪郭が薄くなると、中身はまだそこにあるのに、動かせるものに変わる。
扉の向こうに、六階の廊下が伸びている。乾いた床が少しだけ残っている。そこへ、名簿の一行目が踏み出した。線で書かれた名前のない命が、まだ誰のものでもない未来のために、先に足音を置いた。
背後で、水が一段分、上がる音がした。叩く、整える、満ちる。振り返らない。振り返ったら、振り返ることが仕事になる。前を向いたら、前を向くことが仕事になる。仕事は、怖さより先に手を伸ばすためにある。
海斗は、握ったままの六角レンチの角を、指の腹で確かめた。金属の冷たさは、まだ現実の側にある。現実の側にあるものは、道具にできる。道具にできるものがあるかぎり、人は順番を自分で作れる。
名簿は、風でまた揺れた。揺れながら、紙の隅に小さな水滴がひとつ落ちて、滲んだ。滲んだ線は、新しい線になった。線は名前を呼ばない。けれど、名前が線に追いつく日は、たぶん来る。来なかったとしても、線はそのまま、ここに残る。
六階へ。息を合わせる。段鼻。踵合わせ。持ち上げ。置く。持ち上げ。置く。短い単語が、この場の唯一の歌詞になって、みんなで同じ歌を歌う。それは下手でもいい。声が裏返ってもいい。歌っているあいだは、誰も沈まない。
背後の水音は、たしかに近づいていた。けれど、同じだけ、前の床も近づいていた。どちらが先に追いつくかは、まだ決まっていない。その不確かさこそが、今の希望のかたちだった。
海斗は一度だけ振り返った。結衣が五階の影に立ち、片手を高く挙げていた。光が当たらなくてもわかる挙手。さよならではなく、またあとで、の手。紗耶がそれに、同じ高さで手を上げて応えた。
灯が振り向き、短く頷く。頷きは約束ではないが、約束を渡す前の、両手のかたちになる。
六階の空気は、五階よりも少しだけ乾いていた。乾いた空気は優しい。優しいものに触れると、人は悲しくなる。悲しくなっても、前へ進む。悲しみは、進む力に変換できる。湊かなえの小説で読んだことがあるわけではないが、海斗はなぜかそう思った。
名簿の上で、まだ名前のない線が、震えずに真っ直ぐ伸びていた。伸びた線の先に、屋上の扉がある。扉の向こうに、空があるかどうかは、まだわからない。けれど、鍵はここにある。鍵があるという事実は、冷たい金属の重さとして、だれの手にも分け合える。
砂原が最後尾で、数字をもう一度確認する。
「一。二。三。四。五」
その読み上げは、乾いた点呼ではなかった。数字が、ひとりずつの背中に手を置くやり方で、少しだけ押した。押しすぎないように。押しすぎたら、誰かがこぼれる。こぼれた人の名前を、数字は拾わない。だからこそ、いまはやわらかく。
鴫原が鍵束を握り直し、肩で息をした。息はまだ、鉄と人肌の匂いが混ざっている。混ざったまま、上へ運ばれる。混ざり方は悪くない。悪くない混ざり方で、五階から六階へ。六階から七階へ。
背後の水音は、ひと呼吸ぶんだけ遅れてきた。遅れているうちに、踏み出す。遅れているうちに、順番を呼ぶ。遅れているうちに、線に名前を書く準備をする。
名簿の一行目には、まだ線しかない。けれど誰も、その線を空白と呼ばなかった。呼ばなかったから、線は空白のふりをやめて、在るものとしてそこにいた。
列の先頭で、灯がまた短く言う。
「三、二、一」
その数え方は、ここにいる全員の、今日の祈りの言い方だった。




