表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
沈むマンション〜沈みゆく高層マンションで、最後にドアを押さえたのは誰だったのか〜  作者: 妙原奇天


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

2/15

第2話 優先順位(3F→5F)

 湿った鉄の匂いと、人の体温の匂いが混ざっていた。鼻の奥で重なったまま離れず、息を吐いても入れ替わらない。三階の踊り場から見下ろすと、さっきまで自分たちがいたフロアの奥に、灰色の波が出たり入ったりしていた。階段の隙間から上がってくる冷たい気配が、もう確実にこちらを狙っている。

 灯が声を張った。

「三、二、一、持ち上げ。段鼻。踵合わせ。せーの」

 言葉が短い杭になって、ばらばらの焦りをひとつのリズムにまとめていく。車椅子の後部を熊谷が押し、前を海斗が持ち上げる。紗耶は父の膝に毛布を詰め直し、骨ばった膝が角にぶつからないように両手で包んだ。父の喉の奥で小さな空気の擦れる音がする。呼吸が、器用な人ほど壊れやすいガラスのように思えた。

 陸が手摺りに自分の膝毛布を巻きつけた。細い体で器用に結び目を作り、確認のように一度だけ滑らせる。

「見て、滑り台。重い物をずり上げるとき、ここを通せば摩擦が減る」

 子どもの工夫は、口答えより先に動きを変える。大人たちの頑なさを、少し笑いに変える。

「賢いね」

 灯が短く言い、陸がうれしそうに肩をすくめた。

 砂原が海斗の横に来て、低い声で囁く。

「合理的には、重い者を置くのが正しい」

 海斗は即答できない。喉が固くなり、言葉を外に押し出す筋肉が言い訳を探す。階段の影に視線を落とすと、薄い泥水が一段ぶんだけ光っていた。

「正しいと思う。でも俺は、その正しさを言う勇気がない」

「勇気がないことは、悪い選択の免罪符にはならない」

 砂原は肩を竦め、表情らしい表情も見せないまま、また前を向いた。たぶん自分を嫌っているわけではない。ただ、彼にとって世界は常に計算可能で、計算通りに動かないものがあると、不機嫌な計算問題に見えるのだろう。

 踊り場の壁には、昨日のチラシが貼られたままだった。週末のヨガ教室の案内。季節限定の花の写真。全部が水に染みて、色がほどけていた。灯が救急箱からテープを取り出し、紗耶の手首に細く巻く。

「呼吸、合わせて。吸う、止める、吐く。いまは吐く時間」

「ごめんなさい」

「謝らない。息を数える」

 謝る癖は、役に立たないときほどよく顔を出す。灯はそれを、短い単語で戻す。

 階段の段鼻が濡れて、スニーカーのゴムが鳴いた。熊谷が足元を照らし、鴫原が後ろから笛を鳴らす。

「止まれ。右に寄れ。壁に手」

 声は老いているのに、命令は若い。命令が若いということは、まだ希望を捨てていないということだと、海斗は思った。

 四階へ向かう途中、結衣が共用コンセントにモバイルバッテリを挿した。充電の稲妻のアイコンが点いた瞬間、パチ、と乾いた音がして、非常灯がふっと消えた。闇が全員の喉を掴む。ひとりの息が跳ね上がり、別の誰かの指先が手摺りから滑った。

「ごめん、私」

 結衣の声が小さく潰れる。彼女は配信の癖で、何かが起きるとすぐに自分の名前を出す。灯がヘッドライトを額にかぶせ、狭い光の輪が踊り場を切り取った。

「大丈夫。次は挿さない。それでいい」

 鴫原が「規約では共用電源の私用は禁止だ」と言いかけて、言葉を飲み込む。規約はここで息をしてくれない。目の前の呼吸だけが現実だ。

 五階に着くと、空気が少し軽く感じられた。軽くなったのではない。下から追い上げてくる圧が一瞬だけ遠のいたのだ。廊下の突き当たりに理事長室がある。ガラス張りの広い部屋。電子錠のランプは消え、停電で物理ロックに切り替わっていた。鍵は中にある。

「中に鍵があるって、何その」

 結衣が笑いかけて、笑えずに終わる。

「あるあるだ」

 熊谷が言った。宅配で、似たような現場をいくつも見てきたのだろう。彼は蝶番を見て、海斗の肩を軽く叩く。

「ピンを抜けばいける。六角持ってる?」

「工具箱に」

 鴫原が小さな工具箱を渡す。海斗と熊谷が床にひざをつき、六角レンチをピンの頭に当て、ハンマーの代わりに懐中電灯の柄で叩き上げる。金属が鈍く鳴り、そのたびに下から水音が重ねられていく。時間が階段を登ってくる音だと、誰もがわかっていた。

 紗耶が父の耳元に顔を寄せる。

「お父さん、すぐ終わるからね」

 父の目はどこか別の場所を見ていて、瞳に映るのは過去か未来か、はっきりしない。陸が毛布の結び目を確かめ、結衣が彼の頭を撫でるふりをして手を引っ込める。

「触ると怒るから」

「怒らないよ」

「怒らないけど、いまはやめとく」

 ピンが一本、二本、と抜けた。扉の重みが片側に傾き、熊谷が声を出す。

「せーの」

 海斗が支え、軋み音のあとで、扉が外れた。室内は広く、窓際のデスクの引き出しがわずかに空いている。鴫原がそこへ向かい、引き出しを開けた。鍵束があった。重い金属の匂い。指に食い込む重さが、全員の胸の奥を撫でた。音は鳴らないのに、たしかに楽器みたいな余韻があった。

「あった」

 灯が小さく息を吐く。その音で、張り詰めていた糸が一瞬だけゆるむ。

 砂原が白紙を取り出した。デスクの下敷きの上で手際よく角を揃える。

「名簿を作る」

「名簿」

「誰から上へ行くかの順番だ」

 さらさらとペンが走る。砂原は迷いがない。

「一、妊婦と胎児。二、子ども。三、介護者。四、体力のある者。五、その他」

 灯は眉を寄せる。

「人の順番を数字で決めるの」

「決めないと、もっとひどい順番が勝手に生まれる」

 その言葉は冷たいけれど、たしかに現実味があった。誰も完全には否定できない。否定すれば、誰が責任を引き受けるのかという問いに戻されるからだ。

 紗耶が視線を落としたまま言う。

「父は最後でいい。最後で」

 顔を上げると、もう涙があった。言った瞬間に崩れる。海斗はその言葉の重さと、その軽さの両方を感じた。最後でいいと言う軽さ。最後にされる重さ。どちらも真実で、どちらも嘘だった。

 陸が助け舟を出す。

「最初は赤ちゃん。まだいないけど」

 彼は名簿の一行目を指で叩く。場の空気が少し動く。誰も笑わないけれど、誰も泣かない。美桜がゆっくりと腹に手を当てた。

「もういるよ」

 空調が止まっているのに、花の香りがした気がした。誰かが口に出さずに思った言葉が、部屋の空気のかたちを変える。

 砂原は頷き、名簿の一行目に、まだ姿を見せていない命のためのスペースを作った。名前を書けないから、線だけが引かれる。線の白さが、黒いインクよりもはっきりと見えた。

 鴫原が鍵束を持ち上げ、屋上ドアの形に合いそうな鍵を選ぶ。金属の角が手の中で鳴る。

「屋上は最後だ。とりあえず五階から六階に上げる。名簿の順番で」

「順番を読み上げます」

 砂原が用紙を掲げる。灯が被せる。

「待って。読み上げる前に確認。手当てが必要な人は」

「父は大丈夫」

 紗耶が言う。大丈夫の意味は広い。生きている、という意味と、我慢できる、という意味と、諦めた、という意味が重なって、ひとつの言葉になる。灯はその重なりを分けるように、静脈の色を見て、爪の色を見て、頷いた。

「動かす。三、二、一、持ち上げ」

 そこで、誰かの靴が水を踏んだ音がした。階段の方角から、はっきりと。海斗の背中に寒い筋が走る。エントランスのガラスが割れたのは、もうずっと前だ。三階は追いつかれた。音は曖昧な脅しではなく、ここへ来るための準備運動を終えた誰かの足音に近い。

 列が動き出す。名簿の順番どおりに、という合意は辛うじて守られた。けれど守られたのは、今この瞬間だけだ。次の踊り場で、誰かが言い換えるかもしれない。砂原が先行して段差を数える。陸が毛布の滑り台をずらす。美桜が手すりに捕まり、灯が背中に手を添える。

「吸って、止めて、吐いて。はい」

 短い命令が、美桜の肩の高さを小さく調整する。彼女の瞳が一度だけ遠くを見た。胎児の重さはまだ軽い。けれどこのマンションでは、軽いものほど順番が前に来る。それは優遇というより、脆さの順番だと、海斗は思った。

 四階と五階の間の踊り場で、小さな事故が起きた。滑り台の毛布の結び目がほどけ、車椅子の前輪が段の角に噛んで止まる。紗耶が体を張って押さえ、父の膝が空を切った。灯が即座に前へ回り込み、熊谷が持ち上げ直す。

「三、二、一、戻す。いける」

 鴫原が笛を鳴らして合図を揃える。人は、完璧な連携ができない。その穴を埋めるのは、声だ。声の粒が、足元の小さな崩れを拾い、形を戻す。

 結衣が肩で息をしながら、小さく言った。

「さっきの配信、見てる人、まだいると思う?」

「圏外なら誰もいない」

 砂原が淡々と返す。

「でも、誰かは見る。たぶん」

「たぶんは、救助計画にはならない」

「でも、こころにはなる」

 砂原は返事をしなかった。彼の沈黙は、否定でも肯定でもない。数式の中に感情の記号が出てきたとき、一度ノートを閉じるときの沈黙だ。

 五階の廊下の突き当たりに、別の住民たちが集まっていた。見知らぬ顔。濡れたジャージ。抱えた段ボール。みんな同じ形で、不安を抱えたまま形だけ前を向いている。

「鍵は」

 誰かが訊く。鴫原が頷く。

「見つかった。屋上も、たぶん開く」

 たぶん、という言葉が一度空中で止まり、少ししてから全員の胸に落ちる。希望は軽くない。落ちるときの音も、軽くはない。

 砂原が名簿を読み上げた。数字の音は冷たい。けれど、それがなければ、もっと冷たい何かが始まる。

「一、妊婦と胎児。美桜さん。同行一名まで」

「私が」

 灯が迷いなく手を挙げる。

「二、子ども。陸。同行一名まで」

「俺が」

 海斗が言う。陸が小さく頷く。

「三、介護者。野々村さんとお父様」

「後でいい」

 紗耶は言うが、砂原は首を横に振る。

「三だ。順番は変えない」

 声が硬い。硬い声に救われることがある。紗耶は黙って、父の手を握る。

「四、体力のある者。熊谷くん。鴫原さん」

「俺は最後で」

「四だ」

 また硬い声。頑固な鉄の棒が、列の背骨になる。

 名簿の読み上げが終わるころ、階段の下で水が段を叩く音がした。叩く、というより、整える音。水は家具でも敵でもなく、習慣のように同じ動作を繰り返す。その繰り返しが、こちらを削ってくる。

 移動の準備を始める。灯は美桜の腰に布を回し、引き手を作る。海斗は陸の手首に輪ゴムを二重に巻き、迷子防止の簡易の目印にする。熊谷は保冷箱の中身を半分にし、片方を置いていく決断をする。

「戻れたら取りに来る」

 戻れたら、という言葉は、祈りの文法に似ている。

 五階から六階への階段の前で、結衣が立ち止まった。

「私、上じゃなくて、ここに残っていい?」

 全員が彼女を見た。言い訳に聞こえたかもしれないが、声は落ち着いていた。

「配信、再開できるかもしれないから。だれか来るかもしれない。上に行った人が、戻ってこられるように」

 灯が目を細める。砂原が名簿を見直し、数字の隣に小さな丸をつける。

「残る役は必要だ。だが一人では危険だ」

「私が一緒に残る」

 紗耶が言う。砂原が即座に首を横に振る。

「あなたは三。順番を崩すな」

「でも」

「順番は、崩すために作るのではなく、崩さないために作る」

 言葉は冷たいが、そこに嘘はない。紗耶は唇を噛み、結衣の手を握った。

「必ず戻る。必ず」

「うん」

 海斗が陸の肩に手を置く。

「行こう」

「怖い?」

「怖いのは、怖いって言う前」

「言ってるよ、もう」

「じゃあ、同点」

 陸が少し笑った。同点。勝ち負けではなく、並ぶこと。並ぶことは、自分の重さを誰かと分けることでもある。

 上へ一段、また一段。灯が「三、二、一」を刻む。熊谷が後ろで「押す、休む、押す」を刻む。鴫原が笛で小さな合図を刻む。砂原は名簿を腕に抱え、数字の順番を刻む。四つのリズムがずれながらも、まとまっていく。まとまるというより、許し合う。音のはじと終わりが重ならなくても、前へ進むことそのものが一つの音楽だと、階段は教えてくる。

 踊り場に差しかかったとき、下から誰かが叫んだ。

「だれか、いますか」

 知らない声。助けを求めているというより、存在を確かめる声。海斗は灯と目を合わせ、次の段を上げる手をいったん止めた。

「返事を」

 熊谷が言う。灯が頷く。

「います。上に行く。あなたも階段を」

 返事は遅れた。遅れたぶんだけ、水の音が近づいた。

「足が。すみません。足が」

 灯は一歩戻りかけたが、砂原が腕をつかんだ。

「順番を崩すな。戻れば二つの列が詰まる」

「命が」

「命は、列に二つある」

 灯は砂原の手を振りほどき、海斗を見た。海斗の中で、理屈と直感がぶつかって、同じ痛みになった。陸が言う。

「俺、行ってもいい」

「だめ」

 灯が即答する。海斗は階段の縁を踏みしめ、名簿の紙の白さを一度見た。その白さが今だけ空白に見えた。書けない名前のための白。戻るという選択のための白。彼は深く息を吸い、吐いた。

「灯、俺が行く。すぐ戻る。陸は灯と」

「危ない」

「危険は、いまここにもある」

 言葉にしないと、足が動かなかった。砂原は何も言わない。言わないというのは、反対しなかったということでも、賛成したということでもない。彼は名簿の端を少し強く握り、数字に皺をつけた。

 海斗は懐中電灯の角度を変え、声の方へ降りた。二段、三段。水が足首に触れ、鉄の匂いが濃くなる。四段目で、男が見えた。年齢は三十代くらい。片方の足首が紫に腫れ、手すりに体を預けている。顔色は悪いが、目ははっきりしている。

「上へ行けますか」

「すみません。捻挫で」

「腕は」

「腕は動く」

「じゃあ、肩を貸す」

 海斗は彼の腰に腕を回し、手すり側に彼の手を戻す。動かせるものから動かす。灯の声が頭の中で繰り返される。三、二、一。持ち上げ。段鼻。踵合わせ。二人で息を合わせると、人は三人ぶんくらいの体になる。

 踊り場に戻ると、灯がすぐに膝をつき、男の足を見た。

「固定する。布、ください」

 結衣が自分の上着を差し出す。灯は素早く巻き、動かせる角度だけ残した。

「あなたの順番は四。いまはこの列に入る」

 砂原が短く言う。男は頷いた。状況を理解している人の頷き方だった。

「ありがとう」

「礼はあとで」

 灯が立ち上がり、美桜の背中に手を添える。

「いける。三、二、一」

 列がまた動き出す。海斗は汗の塩気を舌で感じ、喉に残る鉄の匂いを水で流したいと思った。保冷箱はもう半分しか残っていない。冷たいペットボトルの外側の水滴が、指に小さな安心を置いていく。安心は少量でも効く。効きすぎないのが、いまは助かる。

 五階に戻り切る直前、背後で大きな音がした。下の階の非常扉が、内側から水に押されて開いたのだ。空気が吸い込まれ、階段の中の匂いが一瞬で変わる。濁流が角を曲がるように階段を上がってくる。誰かが叫び、誰かが祈った。灯は叫ばない。祈らない。

「早足。走らない。つまずかない」

 短い命令。命令は走れより難しい。難しいけど、守れた人から生き残る。残酷だが、わかりやすい。

 五階の廊下に飛び込むと、扉を閉めた。重い金属の音。閉めても、それは時間稼ぎにしかならない。だが時間稼ぎは、人間の得意分野だ。稼いだ分を、次の判断に変えればいい。

 理事長室にもう一度戻り、鍵束のスペアを袋に分ける。砂原は名簿を二枚に書き分け、一枚を灯に渡した。

「列が分かれても、原則は同じにする」

「原則」

「原則があると、迷う時間が短くなる」

 灯は頷き、名簿の一行目に軽く指を置いた。そこには線だけがあった。まだ名前のない命のための線。

 美桜はその線を見て、小さく息を吸った。

「もう一つ、お願いしていい」

「何」

「私の名前の隣に、空欄を。ふたりぶんの空欄を」

 灯が目を上げる。美桜は笑った。強がりではない。弱さを認めた人の笑い方だった。

「生まれなかったときの空欄も、書いておいて。そうすれば、私は、どっちでも前に進める」

 砂原がペンを止め、黙って二つ目の空欄を引いた。線は、名前よりも痛かった。

 誰かが窓の外を指差した。遠くに、小さな点滅がいくつか見える。ヘリか、ドローンか、わからない。助けという言葉は、遠くから見えるときほど眩しい。眩しいものは、目を焼く。灯は視線を窓から外し、列の先頭に戻った。

「いまは、五から六へ。そこから七。息を合わせる」

 降りてきたばかりの男が、名札を胸ポケットに挟んだ。雨で滲んだ文字が読める。

「西田って言います。下の階に、妻が」

「あなたの順番は四。妻は」

「妊娠してる」

 言葉が終わる前に、砂原が名簿の一行目を叩いた。

「一に入る」

 西田は目を閉じ、短く頷いた。その頷きの中に、さっきまでの後悔と、これからの希望が半分ずつ入っている。

 海斗は、名簿の紙が風で揺れるのを見た。風はまだ、ここまで来る。水よりも軽い知らせが、廊下の角を曲がってくる。

 そのとき、床がわずかに傾いた。錯覚ではない。建物はほんの少しだけ、負荷の方向を探す。探して、耐える。耐えながら、どこかで古い釘が一本だけ、寿命を迎える。音はしないが、誰かの顔色が変わる。

「急ぐ」

 鴫原が短く言う。彼の声は、たぶんこの建物より長生きする。

 列がまた動き出す。名簿の順番は守られ、守られなかった。守られたのは、人の尊厳を守るための順番。守られなかったのは、誰かの自己犠牲を止めるための順番。順番は二重で、重なるたびに少しずつねじれ、そのねじれが、前へ進むためのストッパーではなく、バネになっていく。

 六階の手前で、結衣がもう一度振り向いた。彼女は残ると決めたのに、目は列の最後尾を追ってしまう。

「本当に、戻るから」

 紗耶が言う。

「約束」

「約束」

 約束は、紙より薄い。薄いけれど、破れやすいから、丁寧に扱う。丁寧に扱えば、意外と持つ。そういう紙が、世の中にはある。

 灯が最後にもう一度、短い声を出した。

「三、二、一、持ち上げ」

 それは命令であり、祈りでもあり、合図でもあった。階段に残っていた暗い匂いが、少しだけ薄くなる。薄くなったのは匂いではなく、恐怖の輪郭なのかもしれない。輪郭が薄くなると、中身はまだそこにあるのに、動かせるものに変わる。

 扉の向こうに、六階の廊下が伸びている。乾いた床が少しだけ残っている。そこへ、名簿の一行目が踏み出した。線で書かれた名前のない命が、まだ誰のものでもない未来のために、先に足音を置いた。

 背後で、水が一段分、上がる音がした。叩く、整える、満ちる。振り返らない。振り返ったら、振り返ることが仕事になる。前を向いたら、前を向くことが仕事になる。仕事は、怖さより先に手を伸ばすためにある。

 海斗は、握ったままの六角レンチの角を、指の腹で確かめた。金属の冷たさは、まだ現実の側にある。現実の側にあるものは、道具にできる。道具にできるものがあるかぎり、人は順番を自分で作れる。

 名簿は、風でまた揺れた。揺れながら、紙の隅に小さな水滴がひとつ落ちて、滲んだ。滲んだ線は、新しい線になった。線は名前を呼ばない。けれど、名前が線に追いつく日は、たぶん来る。来なかったとしても、線はそのまま、ここに残る。

 六階へ。息を合わせる。段鼻。踵合わせ。持ち上げ。置く。持ち上げ。置く。短い単語が、この場の唯一の歌詞になって、みんなで同じ歌を歌う。それは下手でもいい。声が裏返ってもいい。歌っているあいだは、誰も沈まない。

 背後の水音は、たしかに近づいていた。けれど、同じだけ、前の床も近づいていた。どちらが先に追いつくかは、まだ決まっていない。その不確かさこそが、今の希望のかたちだった。

 海斗は一度だけ振り返った。結衣が五階の影に立ち、片手を高く挙げていた。光が当たらなくてもわかる挙手。さよならではなく、またあとで、の手。紗耶がそれに、同じ高さで手を上げて応えた。

 灯が振り向き、短く頷く。頷きは約束ではないが、約束を渡す前の、両手のかたちになる。

 六階の空気は、五階よりも少しだけ乾いていた。乾いた空気は優しい。優しいものに触れると、人は悲しくなる。悲しくなっても、前へ進む。悲しみは、進む力に変換できる。湊かなえの小説で読んだことがあるわけではないが、海斗はなぜかそう思った。

 名簿の上で、まだ名前のない線が、震えずに真っ直ぐ伸びていた。伸びた線の先に、屋上の扉がある。扉の向こうに、空があるかどうかは、まだわからない。けれど、鍵はここにある。鍵があるという事実は、冷たい金属の重さとして、だれの手にも分け合える。

 砂原が最後尾で、数字をもう一度確認する。

「一。二。三。四。五」

 その読み上げは、乾いた点呼ではなかった。数字が、ひとりずつの背中に手を置くやり方で、少しだけ押した。押しすぎないように。押しすぎたら、誰かがこぼれる。こぼれた人の名前を、数字は拾わない。だからこそ、いまはやわらかく。

 鴫原が鍵束を握り直し、肩で息をした。息はまだ、鉄と人肌の匂いが混ざっている。混ざったまま、上へ運ばれる。混ざり方は悪くない。悪くない混ざり方で、五階から六階へ。六階から七階へ。

 背後の水音は、ひと呼吸ぶんだけ遅れてきた。遅れているうちに、踏み出す。遅れているうちに、順番を呼ぶ。遅れているうちに、線に名前を書く準備をする。

 名簿の一行目には、まだ線しかない。けれど誰も、その線を空白と呼ばなかった。呼ばなかったから、線は空白のふりをやめて、在るものとしてそこにいた。

 列の先頭で、灯がまた短く言う。

「三、二、一」

 その数え方は、ここにいる全員の、今日の祈りの言い方だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ