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第四章「狂乱」 

鳩が一万羽を超えたのは、最初の一羽が発見されてから三ヶ月後だった。  その日、金相場は一日で七パーセント下落した。  ニューヨーク証券取引所が取引を一時停止した。ロンドン市場が続いた。東京市場が続いた。  財務大臣が緊急会見を開いた。「現時点では市場の安定に向けて」と言いかけて、記者に「鳩をどうするんですか」と遮られた。財務大臣は三秒固まった。その三秒がニュースになった。

 渋谷は燃えていた。  暴徒は二派に分かれていた。「宇宙人歓迎」と「宇宙人排除」。二派は互いに投げ合い、機動隊は両方から攻撃されていた。  宇宙人は渋谷にいなかった。採取を終えて、三時間前に飛び去っていた。  誰も気づいていなかった。

 佐伯は毎朝ベンチでノートパソコンを開いていた。計算し続けていた。  ある朝、諸星が隣に座るなり言った。 「最近、眠れてますか」  佐伯は画面から目を離さずに言った。「三時間くらいは」 「飯は」 「食べてます」 「本当に?」  佐伯は手を止めた。諸星を見た。 「なんですか急に」 「いや」諸星は缶コーヒーを飲んだ。「心配しただけです」  佐伯はしばらく諸星を見ていた。 「あなたに心配されるとは思いませんでした」 「なんで」 「なんか、心配するタイプに見えなくて」  諸星は少し考えた。 「そうですかね」 「そうですよ」佐伯は言った。「あなた、全然焦ってない。最初から。なんで焦らないんですか」  諸星は金色の鳩を見た。  空が、少し金色に見えた。  諸星は口を開いた。 「終わるから」と諸星は言った。 「え?」 「終わりますよ、これ。ちゃんと」 「いつ」  諸星は缶コーヒーを見た。空になっていた。 「さあ」  立ち上がって、ゴミ箱に投げた。きれいに入った。 「また明日」  歩いていった。  佐伯はノートパソコンの画面を見た。計算式が並んでいた。全部消した。  しばらく空を見た。  金色の光が、地面に降り注いでいた。

 軍が動き始めたのはアメリカが最初だった。  横田基地に輸送機が三機、いつもと違うルートで着陸した。在日米軍の兵士が石神井公園の周辺を「散歩」しているのが目撃された。私服だったが、靴だけ軍用だった。  それをSNSに投稿した人間がいた。いいね、九十万。  中国は音もなく動いていた。北京の天壇公園のフェンスの中で何が行われているか、誰も知らなかった。ただ、中に入った研究者が外に出てくる時、全員が同じ表情をしていた。  驚いているのか、怯えているのか、感動しているのか。判別がつかない顔だった。  解剖チームの獣医師が日記に書いたのと、同じ顔だった。

 国連安全保障理事会が緊急会合を開いた。  ロシアが「生物兵器の可能性を」と言い始めた。アメリカが遮った。中国が割り込んだ。三カ国が同時に喋った。議長がマイクを叩いた。  会議室の窓の外を、一羽の金色の鳩が横切った。  誰も気づかなかった。

 石神井公園は、不思議と静かだった。  宇宙人が公園の外縁部で草を採取していた。大きいのが二体、小さいのが一体。  諸星はいつものベンチにいた。缶コーヒーを飲んでいた。  おばさんが隣で手を合わせていた。佐伯がベンチの端に座っていた。手ぶらだった。  三人とも、しばらく黙っていた。  佐伯が小声で言った。「怖くないんですか」  おばさんが目を閉じたまま言った。「神様が怖いわけないでしょう」  佐伯は諸星を見た。  諸星は宇宙人を見ていた。  小さい方の一体が、草を採りながら、ほんの一瞬だけ、諸星の方を向いた。  向いただけだった。すぐに草に戻った。  諸星は缶コーヒーを飲んだ。  佐伯は気づいていた。聞こうとして、やめた。  三人はまた黙った。  渋谷の方角から、かすかに怒声が聞こえた。  宇宙人は草を採り続けた。


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