第三章「増殖」
一ヶ月が経つ頃には、鳩は三百羽を超えていた。 東京だけではなかった。 大阪の靭公園に四十羽。名古屋の鶴舞公園に二十七羽。福岡の大濠公園に十九羽。そして那覇の公園に三羽。地図で見ると日本列島に沿って、じわじわと広がっていくのがわかった。 金相場は微妙に動いていた。投機筋の一部が動き始めたらしく、専門家が「心理的な影響は否定できないが、実需への影響は現時点では限定的」とコメントした。そのコメント自体がニュースになった。 内閣官房は「引き続き注視する」と言った。三回目だった。
この頃になると、宗教界が本格的に動き始めていた。 既存の宗教団体は概ね慎重だった。大手の仏教系団体は「生命の神秘として敬意を持って見守る」という声明を出した。神社本庁は「鳩は古来より神の使いとされており、金色という神聖な色との組み合わせは極めて瑞祥である」と発表した。バチカンは「神の御業の多様性について改めて黙想する機会」とコメントした。 問題は新興勢力だった。 最初に動いたのは「黄金鳩教」で、代表者は四十代の元保険外交員だった。教義はシンプルだった。「黄金の鳩は神の使いであり、その姿を毎日拝む者には無限の繁栄が約束される」。入会費三万円。会員数、二週間で四万人。 次に「黄金鳩を守る会」が発足した。こちらは捕獲や商業利用への反対を掲げ、会員数は一週間で十万人を超えた。政治家が何人か顔を出した。 その次に「黄金鳩こそ宇宙からのメッセージである会」が発足した。代表者のSNSのプロフィールには「元NASA関係者」と書いてあったが、誰も確認していなかった。 三団体は互いに相手を批判し合い、街頭で言い争い、SNSで罵倒し合った。 鳩は関係なく、公園を歩き回っていた。
科学界も混乱していた。 東京大学の研究チームが「体表面の金属組成の分析」を発表した。結論は「純度九十八・七パーセントの金と同等の組成が確認された」だった。 その発表を受けて、世界中の研究機関が「捕獲して解剖したい」と日本政府に申請した。申請件数、三日で二百十七件。 政府は「検討中」と言った。 民間の研究者が独自に入手した羽根一枚の分析結果をSNSに投稿した。「これは金ではない。金に似た未知の物質だ」。いいね、四十万。 別の研究者が「いや金だ」と反論した。いいね、三十八万。 論争は続いた。 鳩は羽根が抜けても特に気にしていなかった。
石神井公園のベンチで、諸星は缶コーヒーを飲んでいた。 隣ではおばさんが手を合わせていた。最近は折りたたみの座布団を持参するようになっていた。本格的だった。 公園の外では黄金鳩教の信者が経を唱えていた。黄金鳩を守る会のメンバーがプラカードを持って立っていた。報道陣のカメラが両方を撮っていた。 諸星はぼんやりそれを眺めていた。 その時だった。 胸のあたりで、音がした。 ピピッ。 周囲の人間が一斉に振り向いた。報道陣のカメラが諸星に向いた。黄金鳩教の信者が唱えるのをやめた。守る会のメンバーがプラカードを下ろした。 諸星は胸ポケットに手を入れた。 取り出したのは、小さな携帯ゲーム機だった。 古い型のたまごっちだった。画面の中で、小さな生き物が点滅していた。 諸星は眉をひそめた。画面を見た。また見た。 「……腹減ったのか」 ボタンを押した。餌をやった。満足したらしく、点滅が止まった。 ポケットに戻した。 缶コーヒーを飲んだ。
沈黙があった。 カメラマンが小声で隣の記者に言った。「今、たまごっちでしたよね」 「でしたね」記者は言った。 「なんで」 「さあ」 おばさんは目を閉じたまま、また手を合わせ始めた。 諸星は金色の鳩を眺めていた。 三百羽が、公園の空を、ゆっくり旋回していた。
政府が「限定的な学術調査」を承認したのは、鳩が三百羽を超えてから十日後だった。 場所は都内の国立感染症研究所に隣接する施設。関係者以外への情報開示は「調査完了後に適切な形で」とされた。つまり当面は非公開だった。 調査チームは六人。鳥類学者が二人、金属工学の専門家が一人、獣医師が二人、そして記録担当が一人。全員が秘密保持契約にサインしていた。 対象となった個体は、弱って動けなくなっているところを保護された一羽だった。体重は通常の鳩の約四倍。そのわりに飛べていたのが不思議だったが、それも含めて調査対象だった。
調査室に入る前、チームの全員が似たようなことを考えていた。 獣医師の一人、三十二歳の女性研究者は後に日記にこう書いている。 「正直、怖かった。メスを入れた瞬間に何か起きるんじゃないかと思った。爆発するとか、ガスが出るとか、あるいは中から何か別のものが出てくるとか。馬鹿げた想像だとわかっていたけど、止まらなかった。手が震えていた」 記録担当の男は防護マスクを二重にしていた。規定では一枚でよかった。 鳥類学者の一人は前夜に遺書を書いていた。家族には言っていなかった。
調査は午前十時に始まった。 最初の三十分は外部観察だった。体表面の金属組成の採取。羽根の構造分析。骨格のX線撮影。 X線の結果を見た金属工学の専門家が、静かな声で言った。 「骨まで、金です」 室内が静かになった。 「骨格全体が金属質の構造に置き換わっています。ただし」彼は画像を拡大した。「関節部分に柔軟性がある。純粋な金属ではない。金に近い、しかし金ではない何かです」 「飛べた理由は」獣医師が聞いた。 「わかりません」
解剖が始まったのは午前十一時だった。 チーム全員が息を止めた。 メスが体表に触れた瞬間、金粉が舞った。 ふわっと、静かに。まるで花粉のように。 室内の照明を受けて、金粉がきらきらと漂った。誰かが「綺麗だ」と小声で言った。誰が言ったのか、全員が覚えていなかった。 獣医師がメスを進めた。体腔が開いた。全員が覗き込んだ。 そして全員が、しばらく黙った。
内臓も、金だった。 ただし、動いていた。 心臓に相当する器官が、規則正しく収縮していた。金色の膜が呼吸するように動いていた。消化器官に相当する構造が、ゆっくりと蠕動していた。 全部、金だった。 全部、生きていた。 獣医師の女性研究者は後の日記にこう書いている。 「怖いとか気持ち悪いとか、そういう感覚が全くなかった。むしろ、綺麗だった。本当に綺麗だった。光を受けて内臓が輝いていて、それが規則正しく動いていて、なんというか、羨ましかった。こんなことを書くと頭がおかしいと思われるかもしれないけど、あの瞬間、私は鳩が羨ましかった。全部が金で出来ていて、それでも生きていて、しかも何も困っていない。あれが羨ましくない人間が、この世界にいるだろうか」 記録担当の男は記録を忘れていた。 ただ見ていた。
調査報告書は「機密」に指定された。 しかし翌日にはSNSに全文が流出していた。 反応は二つに割れた。「やっぱり神様だ」と「やっぱり宇宙人だ」だった。 科学的な反応は三日後に出てきた。世界中の研究者が「それは不可能だ」と言った。全員が正しかった。それでも事実だった。 金相場が、初めて本格的に動いた。一週間で四パーセント下落した。 経済アナリストが「心理的な影響による一時的な調整」と言った。別のアナリストが「これは始まりに過ぎない」と言った。どちらも正しかった。
石神井公園のベンチで、諸星は解剖報告書の流出をスマートフォンで読んでいた。 おばさんが目を開けて言った。「内臓まで金だったそうですね」 「そうらしいですね」 「やっぱり神様ですよ」おばさんは確信を持って言った。「神様の体が腐るわけがない」 諸星はスマートフォンをポケットに入れた。しばらく金色の鳩を眺めた。それから言った。 「いや、単純に便利なんじゃないですかね」 「え?」 「腐らない体。メンテナンスフリーで、錆びない。旅に出るなら悪くない」 おばさんは少し考えた。 「……神様も大変なんですね」 「そうですね」と諸星は言った。 缶コーヒーを飲んだ。 空を、三百羽が旋回していた。
六週間後、鳩は世界にいた。 ロンドンのハイドパークに四十一羽。ニューヨークのセントラルパークに六十三羽。パリのリュクサンブール公園に二十八羽。北京の天壇公園に百十七羽。モスクワのゴーリキー公園に三十三羽。 そしてリオデジャネイロのコルコバードの丘に、一羽。 キリスト像の右肩に、金色の鳩がとまっていた。 その写真が世界中に拡散した。 バチカンが声明を出した。「神の御意志について、私どもは謙虚に受け止め」 誰も最後まで読まなかった。
金相場は六週間で十一パーセント下落していた。 ウォール街のトレーダーたちは最初の二週間、「心理的な影響」と言い続けた。三週間目に「注視が必要」と言い始めた。四週間目に静かになった。五週間目に何人かが密かにポジションを変えた。六週間目に表立って「これは本物の危機だ」と言い始めた。 遅かった。 ゴールドマン・サックスのアナリストが内部レポートにこう書いた。 「現時点での鳩の総数は世界で約四千羽。金相場への実需的影響は限定的だが、心理的影響は計算不能だ。問題は鳩の数ではなく、増殖が止まらないという事実そのものだ。市場は不確実性を最も嫌う」 このレポートも三日後にSNSに流出した。 誰がやっているのか、もはや誰も調査しなくなっていた。
世界の反応は、国によって微妙に違った。 アメリカは「資源確保」の観点から動いた。議会で「黄金鳩国家管理法案」が提出された。可決されるかどうかより、提出されたこと自体がニュースになった。 中国は動きを見せなかった。ただし天壇公園の周囲に突然フェンスが設置され、立入禁止になった。衛星写真には白いテントがいくつか写っていた。 ロシアは「黄金の鳩は西側の生物兵器である可能性を排除できない」と発表した。世界中が三秒沈黙した後、無視した。 インドでは鳩が降臨した公園が聖地となり、巡礼者が殺到した。政府は観光資源として活用する方針を固めた。 ブラジルではコルコバードの鳩を「神の使い」として保護する法律が三日で制定された。世界最速の立法だった。 日本政府は「引き続き注視する」と言った。十一回目だった。
この頃、石神井公園の近くに一人の男が引っ越してきた。 名前を佐伯といった。四十七歳。元々は大手証券会社のファンドマネージャーだったが、三週間前に突然退職していた。 佐伯は公園の近くにマンションを借り、毎朝公園のベンチに座り、ノートパソコンを開いて何かを計算し続けていた。 ある朝、諸星の隣のベンチに座った。しばらく二人とも黙っていた。 佐伯がノートパソコンの画面を見ながら言った。「鳩の増殖率から計算すると、このペースだと八ヶ月後に金相場が機能しなくなります」 「そうですか」と諸星は言った。 「あなたはどう思いますか」 諸星は金色の鳩を見た。 「金が無価値になったら、何が困るんですか」 佐伯は手を止めた。 「え?」 「金が飾りになるだけで、食べ物は食べられるし、水は飲めるし、空は飛べる」 佐伯はしばらく諸星を見た。 「空は飛べない。人間は」 「そうですね」諸星は言った。「そうでした」 缶コーヒーを飲んだ。 佐伯はノートパソコンに何かを打ち込んだ。止めた。また見た。 「あなた、何者ですか」 諸星は少し間を置いた。 佐伯は息を呑んだ。 またあの目になった。遠くなる目。公園の向こう、空の向こう、もっと遠くを見ているような。 三秒あった。 諸星は胸ポケットに手を入れた。 たまごっちを取り出した。画面を確認した。 「すいません、ちょっとうんこしそうで」 ボタンを押した。処理した。ポケットに戻した。 「諸星です」と言った。「よろしく」 佐伯はノートパソコンを閉じた。 しばらく空を見た。 四千羽が、世界の空を飛んでいた。




