悪妻が遺したもの
エレオノーラが王太子の婚約者になってから、さらに十数年の歳月が流れた。
その間にフリードリヒ王太子とエレオノーラの婚姻も無事成立し、レイルザード王国は平穏な時を刻んでいたが、その安定を揺るがす出来事が起こった。
王宮を襲ったのは、あまりにも突然の悲報だった。王妃クリスティアーネが、不治とされる重病に倒れたのである。
「国中の医師と薬師を、一人残らず王都へ集めろ! 遠方の隣国へも使いを出せ! 金ならいくらでも積む、何としても妻を救うのだ!」
王宮の執務室で、レギナルド王は正気を失わんばかりに狼狽し、怒号を響かせていた。かつてアガサの事件で己の無力を知り、長男の出産で妻を失う恐怖に怯えた彼にとって、この事態は最悪のトラウマの再来だった。
病床のクリスティアーネは、「国費の無駄です。平民から医師を奪うのはおやめなさい」と、いつもの冷徹な正論で夫を諌めた。
しかし、レギナルドは彼女の手を固く握りしめ、「君を失うくらいなら、私は歴史に泥を塗る暴君と罵られても構わない!」と、激しい情の叫びをぶつけて譲らなかった。
結局、大局を忘れて感情的になり目の前の者を救おうとする、というレギナルドの気質は生涯変わることはなかったのだ。
このなりふり構わぬ王の暴走こそが、外向きには『死を恐れた傲慢なクリスティアーネ王妃が、自身のわがままのために国中の医師を独占し、民の医療を麻痺させた』という、最悪の歴史の通説として記録される直接の原因となっていく。
◇
王の強制招集により、王宮の受付には国中から集められた高名な医師たちが列をなしていた。
その緊迫した空気の中、辺境医師団から推薦されてやってきた一人の若き女医が、受付の役人の前で堂々と口を開いた。
「私の名はエルザと申します。辺境医師団の推薦により参りました。……ですが、手続きの前に、一つお伝えせねばならないことがございます」
エルザは、かつてこの王宮を騒がせた男爵令嬢アガサの娘だった。母の素朴な美しさと、辺境の過酷な地で培った誠実で芯のある気質を受け継いだ彼女は、怯える風もなく、真っ直ぐに役人を見据えた。
「私の母アガサ・ラングレーは、かつてこの王宮で大きな罪を犯し、王都を追放された身です。私は罪人の子ですが、このまま王妃殿下の治療のために王城へと立ち入ってもよろしいですか。上に問い合わせをお願いいたします。母の罪を隠したまま、王妃殿下の御体に触れるわけにはまいりません」
その毅然とした告白に、受付は騒然となった。長い年月の中でアガサ・ラングレーの名は忘れ去られていた。三年の辺境医療への奉仕を命じられたことも、三年が過ぎた後も結局王都には戻らず医療団の護衛だった騎士と結婚したことも誰も知らなかったのだ。
だから、受付ではただ事実として罪人の子が医師としてやってきたと受け取られた。
報告は即座に上に上がり、やがてレギナルド王の耳へと届いた。
「……アガサの、娘だと?」
レギナルドはエルザを至急、自室へと呼び出した。
部屋に入ってきたエルザの凛とした立ち姿、そして何より、自らの不利益を顧みずに真実を告げるその誠実な眼差しを見た瞬間、レギナルドの胸に、かつて辺境で泥にまみれて成長していったあの日々の記憶が鮮烈に蘇った。
レギナルドは二年間の地方政務の後王都に戻って王太子に復帰し、現在は国王となっている。
アガサは、あの地で誰からも愛され、最終的には護衛の騎士と結婚して辺境で実直に生きているとは聞いていた。
エルザという名の娘の堂々とした態度が、彼女の生き様を表しているようにレギナルドには感じられた。
「エルザと言ったな。……お前の母の罪に対する罰は、三年の奉仕だった。とっくの昔に償われている。お前が罪を背負う必要など、どこにもない。むしろ、よくぞ来てくれた。母の誇りを受け継いだお前だからこそ、私は信頼して妻を委ねたい」
「……感謝いたします、レギナルド陛下」
「……お前の実直さはよく分かった。だが、王妃の命は国の命運そのものだ。エルザ、私と共に病床へ来てくれるか。まずは妻を診てやって欲しい」
重苦しい空気が満ちる王妃の寝室。
病床で顔色の悪いクリスティアーネの傍らには、次代の王妃として付き添うエレオノーラがいた。
レギナルドに伴われて部屋に入ってきたエルザは、病床の王妃の前に進み出ると、静かに跪いた。
「王妃殿下、初めまして。辺境医師団より参りました、エルザと申します。……先ほど、陛下にはお伝えいたしましたが、私はかつて貴女様を傷つけようとした大罪人、アガサ・ラングレーの娘にございます。この手が不潔だと思われるならば、すぐにこの場から退出いたします。いかがでしょうか」
クリスティアーネのガラス玉のような瞳が、ゆっくりとエルザを見つめた。
王妃は何も言わず、エルザに近づくよう手招きする。エルザがその枕元に歩み寄り、衣服のポケットから診察のために取り出したのは、辺境の特定の薬草から抽出した、独特の清涼感を放つ消毒用の塗布薬だった。
その香りが部屋に広がった瞬間、クリスティアーネの瞳が、かすかに、けれど確かに見開かれた。
かつて夜茶会で夫から贈られ、今や隣に立つエレオノーラがボロボロになるまで教本に挟んで大切にしてきた、あの緑色の栞。それと全く同じ、頭をすっきりとさせる清々しい香りが、エルザの手から漂っていたのだ。
「……その薬草の調合は、辺境の限られた医療団が良く使用しているものです。そして、その香りを私はよく知っています」
クリスティアーネは、ひどく衰弱した声のまま、けれど誰よりも気高く告げた。
「お前の母の罪は、はるか昔に償われています。私はその香りに、そしてお前の母が紡いだ辺境からの報告に、これまで何度も救われてきました。……罪人の娘などここにはいません。いるのは、我が国で最も誠実な医師だけです。レギナルド、私の身体は彼女に任せましょう」
「クリスティアーネがそう言うのなら……」
妻の絶対的な言葉を聞き、レギナルド王は深く息を吐いて完全に表情を和らげた。
クリスティアーネは会ったばかりのエルザを心から信頼した訳ではない。しかし、誰かを選ばねば騒動が収まらぬことを理解していた。理由は何でも良かった。そして、選ぶに値する理由を持つ医師が現れたのだ。
すると、クリスティアーネの読み通り、その後の夫の決断は迅速だった。
「これ以上の国庫の浪費と、民の医療の停滞は防がねばならん。……エルザ一人をここに残し、すでに王宮に集まった他の医師たちは元の領地へ丁重に送り返せ! また、諸外国や他領からこちらへ向かい、集まりつつあった他の医師団はすべて今すぐ招集解除の手配をせよ!」
王の命令により、国中を巻き込んだ医師の強制招集は、エルザと王妃の対面からわずか数時間で唐突に幕を閉じた。
しかし、この事情を知らない世間の貴族や平民たちは、このあまりにも身勝手に見える一連の動きに、さらなる不満を募らせることになる。
『王妃のわがままで国中の医師を無理やり集めて民を困窮させた挙句、今度は気分が変わったからと全員をすぐに追い返した。なんと恐ろしく、傲慢な悪妻なのだろう』……と。
実際のところ、それはレギナルドの愛ゆえの暴走であった。
クリスティアーネは最初からレギナルドを止め、諫めていた。
ただ、その事実が広く知られることは、なかった。
他の医師たちがすべて去り、静まり返った寝室で、エルザによる詳細な診察が始まった。
意識のしっかりしているクリスティアーネの体を丁寧に調べ終えたエルザは、その顔に深い陰りを落とした。それは辺境の地で、彼女が何度か目にしてきた絶望の病だった。
「……王妃殿下。貴女様の病は、胃の腑へと繋がる管に原因がございます。この病は、やがて一切の食事を受け付けなくなり、そして……凄まじい激痛を伴います。辺境でこれに罹った頑健な騎士たちが、誇りも何もかも忘れて、子供のように痛い痛いと泣き叫ぶほどの苦痛です。……殿下、本当は今も、酷く痛むのではないですか?」
その問いに、傍らにいたレギナルド王とエレオノーラはハッと息を呑んだ。
クリスティアーネは病に倒れてから今日に至るまで、夫や息子、そしてエレオノーラにすら、ただの一度も痛いなどと言ったことはなかったからだ。
いつだって澄ました顔で、平然と横たわっていた。
クリスティアーネはしばらく沈黙していたが、エルザの「私は医者です。正直に言ってくださらなければ治療が出来ません」という真っ直ぐな眼差しに、ようやく、小さく吐き出すように白状した。
「……尋常ではないほどに、痛みます。胸の奥を、熱く焼けた鉄の棒で常に抉られているかのような」
それは、彼女が生涯で初めて口にした、自らの弱音だった。
エルザは即座に、辺境で培った薬草の調合や、痛みを和らげるあらゆる施術を数日間にわたって試みた。しかし、病魔の進行は残酷だった。明確な効果は見られず、クリスティアーネはついに食物が喉を通らなくなり、わずかな水分を口にするのが精一杯な状態へと追い詰められていった。
それからさらに数日。
食事を摂れず、急速に衰弱していくクリスティアーネは、ついにその苦痛を隠せなくなってきた。
隠さなくなったのではない。どんなに強靭な意志で鉄の仮面を被ろうとしても、肉体が限界を迎え、激痛の波が襲うたびに全身が小刻みに震え、寝台のシーツを血が滲むほど強く握りしめてしまうのだ。
そんな妻の姿を、レギナルド王は見ていられなかった。彼はクリスティアーネの震える手を自分の胸に抱きしめ、涙をボロボロと流しながら、エルザに縋るように問いかけた。
「エルザ……頼む、妻の苦痛を、この痛みを和らげることは出来ないのか。あんなに強い彼女が、こんな風に耐えているのを、私は見ていられない……っ!」
エルザは痛ましげに目を伏せ、しかし確かな声で答えた。
「――できます、陛下。激痛を遮断する、辺境特有の強い麻薬に類する薬がございます」
「本当か!? ならばすぐに――」
「お待ち、なさい」
レギナルドの言葉を遮ったのは、息も絶え絶えな、けれど刃のように鋭いクリスティアーネの声だった。
王妃は寝台の上で浅い呼吸を繰り返しながら、ガラス玉のような瞳で真っ直ぐにエルザを見つめた。
「エルザ。お前がその優れた薬を、今まで私に薦めなかった理由を……正確な効能を言いなさい」
エルザは苦渋をにじませ視線を落とし、しかし嘘を吐くことなく、静かに頷いて答えた。
「……その薬は、確かに痛みを和らげます。ですが、痛みを感じさせなくするために、感覚を麻痺させ、意識を混濁させるのです。起きていても、半分眠っているような状態になります」
「それでは、まともに考え、言葉を喋ることもできなくなりますね」
「…………はい。夢と現実の境界が曖昧になり、誰の言葉も届かなくなります。それが、苦痛を取り除く代償です」
それを聞いたクリスティアーネは、ふっと満足そうに、皮肉げな笑みを浮かべた。
「ならば、その薬は不要です。……どうやら、私の死は避けられないようですね。それならば、王妃として最後の仕事をしなければなりません。眠っていては、それが出来ませんから」
「クリスティアーネ……! 何を言っているんだ、もう仕事などいい、君の身体が――」
「レギナルド」
取り乱す夫の言葉を、クリスティアーネは冷徹な眼差し一つで制した。
「私は生涯、この国の王妃として生きてきました。最期の瞬間に、ただの壊れた人形のように眠って死ぬことなど、断じて許されません。……ノーラ。エレオノーラ、前へ来なさい」
部屋の隅で、涙を堪えて立ち尽くしていたエレオノーラが、弾かれたように病床の側へと駆け寄った。
「はい、王妃殿下……!」
「私の意識が保つのも、おそらくここ数日が限界でしょう。今から、教え残した全てのこと、そして次代の王妃として貴女が背負うべきすべての知識を、その頭に叩き込みます。……一度しか言いません。今回は、逃げることは許しませんよ」
クリスティアーネの全身が、再び凄絶な激痛の波によってガタガタと震え出す。
エレオノーラは、その言葉の厳しさの奥にある、クリスティアーネの「最後の母としての愛と祈り」を痛いほどに理解していた。
「――っ、はい! はい、王妃殿下! 私は逃げません、すべて、すべて受け継ぎます……っ!」
エレオノーラは溢れる涙を拭いもせず、持ち前の「鉄の芯」を全力で奮い立たせ、クリスティアーネの言葉を必死にノートに書き留め、その魂に刻み込んでいく。
歴史書には、ただ表面的な事実だけがこう記録される。『クリスティアーネ王妃は死の間際、激しい我が儘で医師の薬を拒絶し、さらに見舞いに訪れた若きエレオノーラ妃を激しい口調で夜通し糾弾し続けた。その苛烈な性格は、死の直前まで衰えることがなかったのである』……と。
けれど、それは国のために命を懸けて戦う、二人の王妃の、最も誇り高く温かい「魂の引き継ぎ」の儀式だったのだ。
翌日も、クリスティアーネ王妃の寝室にはエレオノーラだけが呼び戻され、過酷な引き継ぎが続けられていた。
固く閉ざされた扉のすぐ外。何かあれば即座に対応できるよう、エルザは静かに壁に背を預けて待機していた。時折、部屋の奥からクリスティアーネの苦痛に満ちた微かな喘ぎと、それをねじ伏せるような鋭い声が漏れ聞こえてくる。
そこへ、足元をふらつかせ、すっかり憔悴しきった姿のレギナルド王が歩いてきた。
「……」
レギナルドは、エルザの隣で無言のまま立ち尽くした。数日寝ていないその顔は、王としての威厳を失い、ただ最愛の妻を奪われようとしている一人の無力な男のそれだった。
重苦しい沈黙を破ったのは、エルザの、ぽつりとした静かな声だった。
「……私はこれまで、辺境で王妃殿下と同じ病の者を、何人か診てまいりました。誰もがその激しすぎる痛みに耐えかねて、意識を眠らせる薬を所望しました。そうして意識を朦朧とさせながら、それでも最期は、家族にありがとうと言って……穏やかに亡くなっていきました」
エルザは、固く閉ざされた扉を見つめたまま、言葉を続ける。
「私は、これほどこの恐ろしい病に果敢に立ち向かって、最期の瞬間まで戦おうとした方を、他に知りません。……母から、王妃殿下は誰よりも誇り高く、強いお方だと聞いておりましたが、想像していたよりも、はるかに、はるかに誇り高く、お強い方でした」
エルザはレギナルドの方を向き、深く頭を垂れた。
「陛下の信頼に応え、その御身を快癒させることが叶わず……本当に、申し訳ございません」
レギナルドは乾いた唇を震わせ、掠れた声で、一番恐れていた問いを口にした。
「……妻は、クリスティアーネは、死ぬのか」
エルザは、答えない。ただ痛ましげに目を伏せる。
「あと、あとどれくらいなのだ。彼女はいつまで、あの地獄のような痛みに耐えられるのだ」
エルザは静かに、首を横に振った。
「わかりません。今、あの激痛の中で意識を保ち、喋り続けておられること自体が、私には不思議でならないのです。……王妃殿下のその強靭な意志は、私の医師としての経験を、完全に超えておられます」
その言葉を聞いたレギナルドは、扉に額を押し当て、声を殺して肩を震わせた。
部屋の中から、また一つ、クリスティアーネの短く鋭い声が響く。彼女は今も、自分の命の蝋燭を削りながら、国のために戦い続けている。
(ああ、私は……ただ君を救いたかっただけなのに。君のその孤独な戦いを、支えてやりたかっただけなのに――)
レギナルドは、ただ祈るように、激しく胸を締め付ける悲しみに耐え続けるしかなかった。
――扉が、静かに開いた。
すべての引き継ぎを終え、大粒の涙を流しながら部屋を去っていくエレオノーラの背中と入れ替わるように、レギナルド王は、ようやく最愛の妻の寝室への入室を許された。
「クリスティアーネ……っ」
寝台の側へと這い寄るように駆け寄ったレギナルドの目に飛び込んできたのは、すべての力を使い果たし、死を待つばかりとなった妻の姿だった。
かつてあれほど凛として美しかった肉体は痩せ細り、もう自力で言葉を発することすら、ほとんど出来なくなっている状態だった。
レギナルドは彼女の冷たくなりかけた手を両手で包み込み、大粒の涙をぼろぼろと溢れさせながら、縋るように、とりとめもなく様々なことを語りかけた。
「すまなかった……あのとき、若い頃の私は、本当に愚かだった。君を無実の罪で激しく罵倒し、深く傷つけて……本当に、すまなかった。……長男のフリードリヒが産まれた時、私は君を失うのが怖くて、狂ったように取り乱してしまったな。次男のルーカスの時は、私も少しは落ち着いて、君を支えられただろうか。覚えているかい、クリスティアーネ……」
しかし、クリスティアーネは視線を虚空に向けたまま、ピクリとも動かない。その言葉が、彼女の耳に聞こえているのかすら、もう誰にも分からなかった。
「もう、私に出来ることは何もないのか? 君の力に、私はなれないのか……っ! 愛している、愛しているんだ、クリスティアーネ。君がいない世界で、私はこれから、一体どうしたらいいんだ……っ!」
王としての威厳もすべてかなぐり捨てて、子供のように泣きじゃくり、弱音を吐き続ける夫。
――その時だった。
完全に途絶えたと思われていたクリスティアーネの意識が、夫のその情けないほどの愛の叫びに引っ張られるようにして、ほんのわずかだけ、奇跡のように覚醒した。
「……王が、そのような、姿を、見せては……皆が、不安に、なります」
「っ! クリスティアーネ……っ!」
ガラス玉のようだった彼女の瞳が、かすかにレギナルドを捉え、いつもの冷徹な声音を懸命に模すように、けれど世界の何よりも優しい微かな掠れ声で言葉を紡ぐ。
「しっかり、してください……レギナルド」
「ああ……ああ、分かった! 分かったから……っ!」
レギナルドは彼女の、まるで枯れ枝のようになってしまった手を自分の頬に押し当て、何度も、何度も激しく頷いた。
そんな夫を、クリスティアーネは愛おしそうに見つめる。
言うべきことではなかった。言うつもりでもなかった。
しかし、生涯を完璧な王妃として生きた彼女が、最期の瞬間に、張り詰めていたすべての糸が切れたまさにそのとき、一人の妻としての本当の願いを、本音を漏らした。
「……死んだ、後は……あなたの、傍で、眠りたい」
それは、夫への生涯で最初で最後の、甘やかなわがままだった。
「わた、し、も……」
クリスティアーネの言葉は、もう音にはならなかった。
レギナルドはただ、溢れる涙の中で、彼女の手を限界まで強く握りしめ、魂の底から応じるように口元を動かした。
その後、クリスティアーネの瞳から光が失われ、ふたたび言葉を発することはなかった。
数時間後、付き添っていたエルザによって王妃クリスティアーネの崩御が静かに確認されるまで、彼女はただ、夫の温かい手の温もりの中で、穏やかに眠り続けた。
完璧な王妃の、これが一人の女としての終幕だった。




