気弱な王の、最も勇敢な決断
王妃クリスティアーネの崩御から、数年の歳月が流れた。
レイルザード王国を治めるレギナルド王もまた、病床に伏していた。
かつての引き締まった体躯は影を潜め、日に日に衰弱していくその姿は、最愛の妻を失ったあの日から、自らの生命の気力すらも静かに手放してしまったかのようだった。
けれど、死を前にしたレギナルドの心は、驚くほどに穏やかだった。
次代を担う息子夫婦は立派に育ち、国を背負う国王夫妻として何一つの不足もない。自分の役目はすべて終わったのだと、彼は確信していた。
いよいよ崩御の時が迫ったある日、レギナルドは最期の力を振り絞り、一人ずつ子供たちを居室へと呼び、遺言を伝えることにした。
まず最初に部屋に入ってきたのは、次の王妃となるエレオノーラだった。
「エレオノーラ。……どうか、無理をせぬようにな」
「陛下……っ」
「お前がどれほど強固な鉄の芯を持っているか、私はよく知っている。だが、クリスティアーネのように、一人で全てを背負って人形のように生きる必要は無いのだ。辛い時は、たまには我が息子を……フリードリヒを頼ってやっておくれ。二人で支え合うのが、本当の夫婦なのだからな」
「はい……はい、陛下……っ! 必ず、必ず殿下をお支えいたします……っ!」
エレオノーラは涙をボロボロと流しながら、自分を一人の娘として優しく労ってくれた偉大な義父の言葉に、何度も何度も頷いたのだった。
次に部屋へ呼ばれたのは、次男のルーカスだった。
枕元に立った次男にちらりと視線を向けて、言った。
「お前を王にしてやる」
その言葉に、ルーカスはぎょっとして目を見開いた。
「そうお前の耳元で囁く者が現れるやもしれぬ。だが、お前がその言葉にほんの僅かでも耳を貸した瞬間が、お前の母が命を削って愛したこの国が、内側から乱れる時だ。私はそれを断じて望まぬ。お前はどうする」
「……ご安心ください、父上。私は生涯、何があろうとも兄上を立派に支えてご覧に入れます。王冠など私には重すぎます。父上の言葉、胸に深く刻みました」
「お前は若い頃の私に似たところがある。自分の行動が自分でも思わぬ結果になってしまうことがあるのだ。私は他者を傷つけ、人生を狂わせるまで、それに気づけなかった。しかも、気づいた後もそんな自分を変えられずにいる。……お前は、私のようにはなるな」
「……はい、父上。必ず」
自由を愛しながらも、兄への絶対の忠誠を誓う次男の言葉に、レギナルドは深く満足して頷いた。
そして最後に部屋に入って来たのは次期国王となる王太子フリードリヒだ。
「フリードリヒ。お前は、私などよりよほど有能で、立派な王になれる。……だが、王という絶対の権力に就いたとき、自分が正しいと思った時こそ、他人の意見を聞く耳だけは決して閉ざすな。お前を諫める言葉にこそ、真実が隠れていることもあるのだ。それさえ忘れねば、あとはお前の思うように国を治めるがいい」
「……はい、父上。その御言葉、生涯の誓いといたします」
レギナルドは涙を流す頼もしい息子の手を握り、静かに微笑んだ。そして、真剣な眼差しを向けて言葉を続ける。
「だがフリードリヒ。最後に、私の身勝手な願いを、そして妻の願いを叶えさせてくれ。……これを行えば、お前は宮廷の貴族たちから激しい非難を浴びるかもしれない。歴史に汚名を遺すかもしれない。それでも、これだけは決して違えぬよう申し付ける」
レギナルドは一呼吸置き、厳かに告げた。
「私が死んだ後は、私の身体を『白亜の聖王廟』に入れてはならない。クリスティアーネが眠る、あの薔薇の丘墓地へ、彼女の隣へと埋葬せよ」
「っ……! 父上、それは……! 世間は母上があなたを締め出したと、悪妻呪詛の遺言を遺したのだと噂します!」
「構わない。クリスティアーネから私への最初で唯一の、そして最期の願いなのだ。私も眠るのなら彼女の隣が良い。他人の噂など気にもしない人だったことは、お前も良く知っていよう……頼んだぞ、フリードリヒ」
すべてを察したフリードリヒは、嗚咽を漏らしながら、父の最後の命令をその魂に刻み込んだ
◇
レギナルド王が静かに息を引き取った数日後、新王フリードリヒが直面したのは、大混乱と言っても過言ではない貴族たちの猛反発だった。
「フリードリヒ陛下! 先王陛下を、王の墓に入れないなどという前代未聞の不名誉、断じて許されることではありません!」
議事堂を埋め尽くす伯爵以上の重鎮たちは、口々に亡きクリスティアーネ王妃を罵った。
「あの悪妻が、死に際に夫への恨みを晴らそうと遺した、呪いのような遺言ではありませんか」
「陛下、今こそあのような侮辱的な言葉は無効であると宣言し、十五代王を白亜の聖王廟へとお運びください!」
罵詈雑言。侮辱。そして王家の権威という名の、無機質な正論の数々。
壇上のフリードリヒは、母クリスティアーネを彷彿とさせるような、感情を一切見せない平坦な眼差しで彼らを見下ろしていた。その手元にあるのは、かつてエレオノーラが母から受け継いだあの「緑色の栞」だ。
彼は知っていた。父が望んでいたのは、冷たい大理石の壁に囲まれた権威ではなく、陽だまりの中で最愛の女性の隣で眠ることだったことを。
「……黙りなさい!」
騒がしい議事堂を瞬時に静まり返らせたのは、フリードリヒの即位と同時に王妃となったエレオノーラの声であった。
目に激しい怒りの炎を揺らせ、重臣たちを睨みつける。
「私は、あの御方の最期をこの目で見届けました。激痛に身を焼きながらも、国の秩序を、法を、そして次代への願いを語り続けた、あまりにも気高く孤独な戦いを。……その御方が遺された言葉を呪いなどと呼ぶ不敬を、この私が許すとでもお思いですか」
そこにいるのは大人しい令嬢などではなく、王妃の風格を身にまとった見事な女性の姿であった。
その姿に重臣たちは気圧される。
フリードリヒ王が続けて言った。
「前王妃の遺言は、絶対である。また、父王もそれに従うよう遺された。これを覆すことは、王家が自らの法を破ることと同義だ」
「しかし、陛下! それでは陛下まで、母君の言いなりであったと、気弱な王であると、後世に嘲笑われますぞ!」
重鎮の一人が叫んだその言葉に、フリードリヒはふっと、わずかに口角を上げた。それは、かつて父レギナルドが見せたような、どこか不器用で、けれど深い愛情を孕んだ微笑みだった。
「構わない。……世間が私をどう記そうと、私の決定は変わらぬ。父を、薔薇の丘へ埋葬せよ。私の名は、母の遺言を守り抜いた気弱な王として残ればいい」
嘲笑なら、いくらでも受けよう。
歴史に刻まれる汚名など、父と母が寄り添って眠る穏やかな時間、その一秒の価値にも満たない。
傍らで強く頷くエレオノーラの瞳に、誇らしげな光が宿る。
現代の歴史書に「偉大な政治改革の陰に、母に逆らえぬ気弱な一面があった」と記されることになる王の、これが孤独で勇敢な戦いの結末であった。
議事堂の隅、兄の背中をじっと見つめていたルーカスは、震える拳をそっと隠すように握りしめた。
(……あんまりだ。何も知らないくせに、勝手なことばかり言いやがって)
怒号を浴びせ続ける貴族たちを、ルーカスは射貫くような視線で睨みつけた。
かつて「母上のような人が二人になったら息が詰まる」などと軽口を叩いていた、幼い自分を殴り飛ばしたい衝動に駆られる。
兄は、今、この瞬間も戦っているのだ。
王家の権威を盾に迫る重臣たちを相手に、あえて無能や気弱の烙印をその身に刻みつけながら。
ただ一途に、父と母が最期に交わした、あの「隣で眠りたい」という不器用で切実な愛の約束を守るために。
(父上……仰った通りですね。僕には、この冠はあまりにも重すぎます)
自分の誇りを捨ててまで、死者の静かな眠りを守る。そんな孤独で、泥を被るような決断が、自分にできただろうか。
世間は、兄が母の呪縛から逃げられなかったと、嘲笑を持って語り継ぐだろう。
けれど、この場にいる誰よりも誇り高く、勇気ある王の真実の姿を、自分だけは生涯忘れない。
(……良いですよ、兄上。あなたが『気弱な王』として泥を被るというのなら、僕は一生、その泥を拭うための盾になりましょう。それが、母上の愛したこの国を守るということであり、僕が父上と交わした唯一の誓いなのだから)
ルーカスは深く息を吐き、感情を殺して前を向いた。
その目には、自由を愛した少年の面影はなく、ただ一人の偉大な王を支える「鉄の忠臣」としての覚悟が宿っていた。
◇
――カラン、と乾いた音を立てて、老墓守が持っていた刈り込み鋏が芝生の上に置かれた。
まばゆい光が消え去り、薔薇の香る柔らかな風が、再び学生の頬を優しく撫でる。
物語の時間はゆっくりと、百数十年後の現代――『薔薇の丘墓地』へと戻ってきていた。
歴史を専攻する学生は、手元に構えたノートを握りしめたまま、完全に言葉を失っていた。あまりにも切なく、けれど胸を締め付けるほどに温かい真実の歴史に、その目にはうっすらと涙が浮かんでいる。
「……じゃあ、十六代フリードリヒ王は」
学生は、震える声でぽつりと言った。
「母の恐ろしい遺言に逆らえなかった、有能だが気弱なところもある王、なんかじゃなくて……。父と母の、最期の約束を守るために、あえて自分が世間から非難される道を選んだんですね。二人を、引き離さないために……」
学生の手元のノートには、先ほどまで「気弱な王」と無機質に記されていた文字がある。
彼女はその文字をペンで力強く塗りつぶすと、その上に、踊るような筆跡でこう書き加えた。――『最も勇敢な、愛の守護者』。
「そうさ。これ以上ない、最高の親孝行だったと、わしの爺さんは言っておったよ」
老墓守はフッと目を細め、西日に照らされた二つの墓石を見つめた。
そこには、権威を象徴する彫刻も、功績を讃える長々とした碑文もない。
ただ、寄り添うように並んだ二つの名前が、陽だまりの中で温かそうに佇んでいるだけだ。
「歴史の教科書というやつは、いつだって表面的な事実と数字しか記録せん。あの王妃様がどれほど命を懸けて国を、そして夫を愛したかも。あの王様がどれほど一途に、妻の孤独を救おうとしたかも。そんなものは公式の歴史には残らんのさ」
墓守は再び鋏を拾い上げると、やれやれと腰を伸ばした。
「さあ、お喋りはここまでじゃ。学生さん、これで自由課題のレポートは書けそうかい?」
「……はい! 教科書より、ずっと、ずっと素敵な歴史が書けそうです」
駆け出していく学生の背中を、薔薇の香る風が追い越していく。彼女が書くレポートは、きっと数十年後の誰かに、またこの真実を繋いでいくはずだ。
その姿が見えなくなった頃、老墓守は静かに二つの墓石の間に腰を下ろした。
「――今日も、お二人の物語を正しく遺せましたよ、レギナルド様、クリスティアーネ様」
墓守の指先が、墓石に刻まれた名前を愛おしそうになぞる。 遠くに見える白亜の聖王廟が、夕闇の中で冷たくそびえ立っている。
現代の記録には、こう記されている。『十五代国王のレギナルドは、若い頃の浮気を根に持った恐ろしい王妃の遺言により、王の墓に入れてもらえなかった凡庸な王』……と。
しかし、緑豊かな薔薇の丘墓地には、冷たい大理石の王の墓よりもずっと温かそうに、誰よりも深く愛し合い、寄り添って並ぶ二つの墓石が、今日も柔らかな陽光に包まれているのだった。
これにて、王の墓に入れなかった王様、レギナルドとクリスティアーネのお話は完結です。
ツンデレを書いてみたいな、と思いました。
ツンの期間が長ければ長いほどデレたときのカタルシスが増すんじゃないかと考えました。
このお話が出来ました。
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