受け継がれる鉄の芯
「――それで、兄上。そろそろ、ご自身の未来について何か思うところはないのですか?」
王宮の広大な書庫の一角。
静寂が満ちる部屋に、十三歳になった第二王子ルーカスの、どこかからかうような声が響いた。
対する長男、十五歳の王太子フリードリヒは、机の上に広げた分厚い法学の書物から視線を動かすことすらしない。熱心にペンを走らせながら、淡々と応じる。
「未来、とは何のことだ。私は毎日、次の王としての義務を果たすために学んでいる。それ以外に考えるべき未来などない」
「はあ、やっぱり。僕が言っているのは婚約者の選定が始まった件についてですよ。宮廷の貴族たちは、誰が未来の王妃の座に就くかで、今や蜂の巣をつついたような騒ぎだ。当事者である兄上が、そんなに無関心でどうするんです」
ルーカスが呆れたように肩をすくめると、フリードリヒはようやくペンを置き、小さく溜息をついて弟を見た。
「無関心なわけではない。だが、誰が選ばれようと私のやるべきことは変わらない、と言っているんだ。何事もなければ、私は次の王になる。となれば、婚姻とは国益の計算式だ。私が誰か一人の令嬢に個人的な懸想をして選ぶなど、それこそ愚行だろう」
フリードリヒは、どこか大人のような口調で、椅子の背もたれに身を預けた。
「それならば、最初から誰かを選ぶのではなく、しかるべき手続きで選ばれた相手と、のちに信頼なり絆なりを育んでいく方がよほど効率が良い。……何より、母上が選んでくださる相手なら、国にとって間違いのない女性だ。安心以外の何物でもない」
「……兄上の理想のお相手って、つまるところ、母上なんでしょう?」
にやりと意地の悪い笑みを浮かべたルーカスに、フリードリヒは弾かれたように背筋を伸ばした。
「お母様っ!? ――ゲホン、いや、母上をそのような目で見たことなどない!」
一瞬だけ、年相応の少年のように「お母様」と言いかけて慌てて言い直す兄を見て、ルーカスは声を殺して笑った。
フリードリヒは耳まで赤くしながら、不器用な言い訳を重ねる。
「……王妃として、母上以上の人間など想像もつかないからな。理想の王妃という意味ではその通りかもしれないが、理想の結婚相手とは違う。ただ、母上の背中を見て育った私だからこそ、完璧な王妃の隣に立つ覚悟はできている、と言いたいだけだ」
「はいはい、分かりましたよ」
ルーカスは机に肘をつき、窓の外の青空を見上げた。
「でも、母上のような人が二人になったら、未来の王宮は息が詰まりそうだ。僕は兄上と違って自由でありたいな。身分なんて関係なく、僕が一目で、心から好きになれるような……そんな人を、いつか妻に迎えたいよ」
「相変わらず、お前は夢見がちだな、ルーカス」
フリードリヒは苦笑しながら、再びペンを執った。
◇
「――以上が、私が次の王妃として貴女を選んだ理由です。エレオノーラ・ヴァルデン伯爵令嬢」
豪奢な王妃の執務室。
机を挟んで佇むクリスティアーネ王妃の声音は、相変わらず感情の読めない、氷のような平坦さだった。
対するエレオノーラは、地味な色合いのドレスに身を包み、緊張のあまり小さな肩を震わせている。その大人しい、自己主張のなさそうな佇まいは、宮廷の貴族たちが「冷酷な王妃が、自分の思い通りに動かせる操り人形として、あえて格下の伯爵家から選んだのだ」と噂するのも無理のない姿だった。
「明日から、私の施す王妃教育が始まります。……言っておきますが、私の教育は苛烈と言って良いものになるでしょう。ついてこられない、あるいは王妃の重圧から逃げ出したいと思うなら、今すぐこの部屋から去りなさい。国益のために、無能を育てる時間はありません」
「……は、はい。不肖の身ながら、精一杯、努めさせていただきます」
「よろしい。ですが、覚えておきなさい。貴女が一度でも、もう無理ですと、そう私に言えば私はいつでも貴女を逃がして差し上げます」
「……はい」
エレオノーラは消え入りそうな声で頭を垂れた。
クリスティアーネは何も言わず、ただガラス玉のような瞳で彼女を見送る。世間はこれを「悪姑による恐怖政治の始まり」と噂したが、クリスティアーネだけは、令嬢が頭を下げた瞬間にドレスの裾を強く握りしめた、その指先の「決して折れぬ力強さ」を見逃していなかった。
それから数か月。王妃の洗礼は、宮廷中が同情するほど苛烈を極めた。
ある夜、夜間学習を終えたエレオノーラは、王宮の裏庭にある静かな庭園で、一人ぽつんとベンチに座っていた。その目からは、堪えきれなかった涙がポロポロと零れ落ちている。
「……ヴァルデン伯爵令嬢?」
そこへ通りかかったのが、夜の散歩をしていた王太子フリードリヒだった。彼は彼女の涙を見て、胸を痛めたように眉を下げ、そっと歩み寄った。
「やはり、母上の教育は厳しすぎるのだろう。あの方は完璧な王妃だが、他人にもそれを当然のように求めてしまうところがある。……もし本当に辛いのであれば、私が父上と母上に掛け合い、この婚姻を白紙に戻しても構わないのだぞ。君がそこまで傷つく必要は――」
「……いいえ」
エレオノーラは、小さく、けれど明確な声で王太子の言葉を拒絶した。
彼女はハンカチで乱暴に涙を拭うと、ドレスをぎゅっと握りしめ、まだ涙の残る潤んだ瞳でフリードリヒをキッと見据えた。その眼差しには、普段の大人しさからは想像もつかないほどの、頑固な芯が宿っていた。
「白紙になど、いたしません。王妃殿下の仰ることは、冷徹ですが正論です。私が未熟だからこそ、殿下はあえて厳しい言葉を投げかけてくださるのです。私は……絶対に逃げません。完璧な王妃になって、必ずフリードリヒ殿下の隣に立ってみせます」
その瞬間、フリードリヒの胸に、言葉にできない激しい衝撃が走った。
印象は大人しい少女だった。気弱にすら感じられた。有能ではあると感じたが、それでも王妃には向いていないのでは、と考えたこともあったのだ。
その彼女が今、自分を真っ直ぐに見据えて、決して譲らない頑固さで宣言している。
その凛とした、どこか頑なな姿が――いつも父の隣で国を背負う、大好きな母の面影に、ほんの一瞬だけ重なって見えたのだ。
「……そうか。君は、強いな」
フリードリヒは耳をほんのり赤くしながら、愛おしそうに目を細めた。
「ああ、分かった。私も、君に相応しい王になれるよう、もっと努力しよう。二人で、良い国を作ろう、ノーラ」
「――っ、はい、フリードリヒ殿下!」
初めて愛称で呼ばれたエレオノーラが、顔を真っ赤にしながらも、嬉しそうに満面の笑みを咲かせる。
冷酷な王妃と、その操り人形。世間がそう蔑む二人の女性の絆が、そして未来の王と王妃の確かな信頼が、誰にも見えない水面下で、確実に育まれていく夜だった。
エレオノーラが王太子妃候補に選ばれて半年。
宮廷に、突如として激震が走った。
隣国との国境地帯で大規模な大水害が発生し、数千人の領民が家を失ったのだ。王宮の会議室では、レギナルド王の御前で、緊急の救済政策を巡る激しい議論が交わされていた。
「――ですから、ヴァルデン伯爵令嬢。現時点での我が国の財政状況、および来期の軍事費のバランスを鑑みれば、救済の対象は『即座に生産性を回復できる中規模以上の農地を持つ平民』に限定すべきです。家財を持たぬ層への一律の配給は、国庫をただ無駄に消耗させる非効率な悪手でしかありません」
並み居る大臣たちの前で、クリスティアーネ王妃はいつも通りの淡々とした氷の声で言い放った。彼女の出す数字と計算式は、一切の私情を挟まない、恐ろしいほどの正論だった。
世間の貴族たちは、王妃の操り人形でしかないエレオノーラが、いつものように「はい」と人形のように頷くのを待っていた。
しかし、エレオノーラはドレスの裾を強く握りしめ、青ざめながらも、真っ直ぐにクリスティアーネを見据えて口を開いた。
「……いいえ、王妃殿下。私は、その案には反対いたします」
室内の空気が、凍りついたように静まり返る。
大臣たちが「王妃様に口答えするなど、あの小娘は破滅だ」と息を呑む中、エレオノーラは震える声を強靭な意志で支え、言葉を紡いだ。
「確かに数字の上では、貧困層を救うのは非効率かもしれません。ですが、家を失った彼らをそのまま放置すれば、冬には大量の餓死者を生むか、あるいは盗賊団と化して国境の治安を内側から破壊する極めて危険な要素となります。今、一律の配給を迅速に行い、彼らの暴動を防ぐことこそが、中長期的な国益に繋がると確信いたします」
それは、普段の大人しさからは想像もつかない、決して譲らない頑固な「鉄の芯」だった。
レギナルド王の隣に座っていたフリードリヒが思わず母に視線を向ける。いつも澄ましている母が、一瞬だけ目を見開いたように見えた。
その表情は怒りではなく、まるで手強いライバルを見つけたかのような、あるいは愛しい子供の成長を喜ぶかのような、ほんの微かな人間らしさが溢れているようにフリードリヒには感じられる。
クリスティアーネのガラス玉のような瞳が、わずかに細められた。
「言葉だけなら誰でも言えます、ヴァルデン伯爵令嬢。では、その一律の配給を行うための莫大な財源はどこから捻出するのですか? 目の前の者を救いたい。立派です。しかし感情論では人は救えても国は救えません。それとも、ヴァルデン伯爵領で徴発を行い家族と民を飢えさせてそれを為しますか」
「それは――」
言葉に詰まるエレオノーラ。そこへ、それまでじっと二人の議論を聞いていた王太子フリードリヒが、弾かれたように立ち上がった。
彼の脳裏には、数か月前に庭園で「絶対に逃げない」と言い切った、あの頑固な少女の姿が焼き付いていたのだ。
「父上、母上。私に、二人の意見を繋ぐ折衷案を提示させてください」
フリードリヒは自らの手元にある資料を広げ、声を響かせた。
「ヴァルデン伯爵令嬢の言う通り、貧困層の暴動リスクは無視できません。ならば、母上の仰る軍事費の一部を国境地帯の防壁補修の雇用費として今すぐ回すのです。貧困層の平民たちにただ食糧を与えるのではなく、公共事業の労働者として雇い、その給金として食糧と住居を配給する。これならば、国庫の無駄遣いにはならず、治安維持と平民の救済、両方を同時に達成できるのではないでしょうか」
フリードリヒの言葉に、大臣たちがざわざわとどよめき始めた。
クリスティアーネはフリードリヒとエレオノーラの二人を交互に見つめ、それから、ふっと隣の夫へと視線を向けた。
玉座に座るレギナルド王は、頼もしく成長した息子と、その背中を押したエレオノーラの姿に、誇らしげに目を細めて笑った。
「……よし、今回は王太子の案を採用する。王妃もそれでよいな?」
クリスティアーネが王の問いに頷く。
「では、急ぎ手配をかけよ!」
「はっ!」
会議が閉会した。
エレオノーラが単なる王妃の言いなりではなく、国政を動かすほどの意志を持った女性であると、周囲の目が完全に見直した決定的な瞬間だった。
昼間の激烈な国策対立から、数時間が経過した夜。
王宮の最上階にある月見のテラスには、最高級の茶葉の芳醇な香りと、焼き立ての甘い菓子の匂いが漂っていた。
昼間の会議で精神を極限まで消耗させた王妃クリスティアーネ、王太子フリードリヒ、そしてエレオノーラの三人は、なぜかそこに並んで座らされていた。
この悪だくみの主謀者は、上着を崩して穏やかに笑うレギナルド王である。
「おいおい、そんなに怖い顔で私を睨まないでほしいな、クリスティアーネ。昼間は我が国の未来を担う女性二人が、文字通り火花を散らしたのだ。夜くらいはこうして、甘いものでもお腹に入れないと、脳が干からびてしまうぞ」
「レギナルド様、夜更かしは感心しません。それに、ヴァルデン伯爵令嬢にはまだ明日の課題が――」
「たまには厳しい王妃の仮面を脱いで、甘いものでも食べて私の顔を見てくれ、最愛の妻よ。君が昼間、あの頑固なノーラ嬢に負けじと美しい正論を戦わせていた姿、私は惚れ直してしまったのだから」
大真面目な顔で全力の愛をぶつけるレギナルド王に、クリスティアーネはほんの一瞬だけガラス玉の瞳を揺らし、それから「……相変わらず、大局の見えない呆れたお方です」と、小さくお茶を口に含んで顔を背けた。
そのわずかに赤くなった耳を、レギナルドは愛おしそうに見つめている。
世間では「愛のない、割り切った冷淡な夫婦」と噂される二人の、これが本物の姿だった。
エレオノーラはその様子を目の当たりにし、胸が温かくなるのを覚えながら、隣のフリードリヒと視線を交わして微笑んだ。
(私も……いつかフリードリヒ殿下と、このような深い信頼で結ばれた夫婦になりたい)
エレオノーラの胸の奥にある「鉄の芯」に、また一つ、明確な憧れという光が灯る。
そんな少女の様子を見て、レギナルド王は満足そうに頷くと、懐から一枚の丁寧に作られた栞を取り出した。
「そういえば、今日、辺境の医療団から定期報告の荷物が届いてな。その中に、面白いものが紛れ込んでいたのだ」
それは、辺境の珍しい薬草を乾燥させ、丁寧に編み込まれた美しい緑色の栞だった。微かに、頭をすっきりとさせる清涼感のある香りが漂っている。
レギナルド王とクリスティアーネは、それが誰からのものかを察していた。
かつて王宮を揺るがす過ちを犯し、今は辺境で実直な騎士と結ばれ、誰よりも誠実に命を救い続けている女性――アガサからの、「私たちは今、本当に幸せに暮らしています」という、名前のない便りだった。
「クリスティアーネ。これは、君から彼女に渡してやってくれ」
「ええ」
クリスティアーネはレギナルドから栞を受け取ると、それを驚いた顔で見つめるエレオノーラの前へとそっと差し出した。
「ヴァルデン令嬢。これは辺境の、ある誠実な医療団の女性から届いたものです。集中力を高め、心を落ち着かせる特別な香りがします。昼間の貴女の反論は、非効率ではありましたが、国の未来を憂う素晴らしい芯がありました。……これからの王妃教育の、心の支えにしなさい」
「王妃殿下……! ありがとうございます。大切に、大切にいたします……っ」
エレオノーラは両手でその栞を受け取り、宝物のように胸に抱きしめた。
アガサが紡いだ誠実さの証が、クリスティアーネの手を経て、次の時代を担うエレオノーラへと受け継がれた瞬間だった。
夜風が薔薇の香りを運び、テラスを優しく包み込んでいく。
後世の歴史書には、ただ表面的な事実だけを掬い上げて、こう記されることになる。
『国境の大水害の際、冷酷苛烈なクリスティアーネ王妃は平民の切り捨てを画策した。しかし、若きフリードリヒ王太子がそれを真っ向から阻止し、救済法案を通したのである』……と。
けれど、真実は違った。
決して冷酷な切り捨てなどではなかった。国を背負う者たちが交わした、本気の対話。誰の目にも触れない暗闇のなかで、未来の王と王妃の絆はより深く、より強固に結ばれていく。
それは確かに、受け継がれるべき温かな系譜の、その一幕であった。




