完璧な人形の目にも涙
二人の婚姻から数年。
王太子妃となったクリスティアーネの腹には、新たな命が宿っていた。
日に日に大きくなっていくそのお腹は、レイルザード王国にとって待望の世継ぎの誕生への期待が高まる慶事だった。
しかし、夫であり間もなく父になるレギナルドの胸中は穏やかではなかった。
レイルザード王宮の片隅、夜の静寂に包まれた王太子の私室。
レギナルドは、窓の外に広がる漆黒の闇を見つめていた。
その手は、かつて白く滑らかだった頃の面影はなく、辺境の泥にまみれた月日を物語るように逞しく、そして今は、不安を押し殺すように固く握りしめられている。
(もし、あの時のように、私がまた大切なものを失うことになったら――)
脳裏をよぎるのは、かつて自分の無自覚な傲慢さで追い詰め、その人生を歪めてしまった男爵令嬢アガサの震える瞳だ。あの日、自分は正義を振りかざしながら、実際には最愛を自称する女性に地位という刃を突き立てていた。
その痛切な後悔があるからこそ、間近に迫ったクリスティアーネの出産という、人知の及ばぬ領域が恐ろしくてならなかった。
控えめなノックの音とともに、王宮で最も経験豊富な老助産婦が入室してくる。
彼女は経過は順調であると、いつものように穏やかな、レギナルドからは事務的に見える微笑みを浮かべてみせた。
その安心させるための言葉さえ、今のレギナルドには空虚な響きにしか聞こえない。
「出産とは常に死と隣り合わせだと聞く。万が一……万が一のことがあった時はどうする」
問いかけるレギナルドの瞳には、縋るような、それでいて狂気的な気迫が宿っていた。
助産婦が「それは――」と、世継ぎを優先させるべきという王家の常識を口にしようとしたその時、レギナルドの声が部屋を震わせた。
「これは王太子命令だ」
その一言は、若き日の彼がアガサを威圧した時の暴走とは全く違っていた。己の立場の重さを知り、自らの言葉がどれほど残酷な力を持つかを理解した上での、決死の覚悟だった。
「世継ぎなど、どうでもいい。万が一、どちらか片方しか救えぬ局面になったならば、必ず、妻を……クリスティアーネを救え」
助産婦が驚きに目を見開く中、未来の国王となるべき男は、信じられない行動に出た。
彼は椅子から立ち上がると、一歩踏み出し、一人の平民である助産婦に向かって、深く、深く頭を下げたのだ。
「頼む……。私は、彼女を二度と孤独の中に置き去りにはしたくない。歴史に名を残す世継ぎなどいらない。ただ、彼女に生きていてほしいんだ」
その顔は、威厳に満ちた王太子のそれではなく、今にも泣き出しそうな、一人の不器用な男の顔だった。
かつての彼は、自分の身分を相手を動かすための凶器として使っていた。だが今、彼はその身分を、そして己の誇りさえも、妻の命を繋ぎ止めるための盾として差し出している。
この男は知っているのだ。クリスティアーネが完璧な人形という冷たい鎧を纏い、どれほど深い孤独の中で国を背負っているのかを。
そして、自分が傷つけてしまった彼女の孤独を救えるのは、己の魂を削るような誠実さだけなのだと。
必死に頭を下げるレギナルドの背中を、老助産婦はただ、圧倒されるような思いで見つめていた。
公式の歴史には、決して記されない光景。
王太子が平民に頭を下げるという、本来ならば王家の権威を失墜させかねないその行動こそが、レギナルドがクリスティアーネへ捧げた、最も純粋で、最も重い愛の証明であった
◇
翌日。その老助産婦は、今度は王太子妃クリスティアーネの私室に呼び出されていた。
クリスティアーネは大きなお腹をいたわるように手を当てながら、相変わらず感情の読めない、ガラス玉のような瞳で助産婦を見つめていた。
「昨夜、レギナルド殿下が貴女を呼び出したと聞きました」
その声音は、どこまでも淡々としていた。
「あの御方が貴女に何を命じたか、私には想像がつきます。……殿下には、大局を忘れて感情的になり、目の前の者をまず救おうとするところがある。実においたわしいほどに、不器用なお方です」
冷徹に夫の未熟さをなじるような言葉。しかし、その声には以前のような鋭い拒絶はなかった。自分を国を揺るがす確執の相手ではなく生涯をかけて守るべき妻として、あまりにも愚直に愛し続けてくれる夫。
クリスティアーネは、その温かさに、胸の奥の氷がほんの少しずつ溶かされているのを自覚していた。
だからこそ、未来の王妃として、完璧な義務を果たさねばならない。
「貴女に問います。我が国の世継ぎを無事に迎えるため、その命を懸ける覚悟はありますか?」
「王族の、とりわけ未来の王妃殿下のご出産に立ち会うのです。私たちはいつだって、命を懸けてその場に臨んでおりますよ」
老助産婦の柔らかな笑みに、クリスティアーネは小さく頷いた。迅速で冷徹な声音のまま、決定的な言葉を告げる。
「ならば、万が一の際は、王太子命令に逆らいなさい。後に貴女が王命違反の咎を受けることになろうとも、それでも命令に反しなさい。……万が一の時は、私の腹を裂いてでも、子を救いなさい」
それは、完璧な人形としての、苛烈なまでの義務の証明であり、己の死を前提とした身勝手な懇願だった。
しかし、助産婦は驚くことも、怯えることもなかった。ただ、我が子を見るような、深く優しい目で未来の母を見つめた。
「……今からお母様になる方が、そのような悲しいことを考えてはいけませんよ、王太子妃殿下」
「な……」
「貴女様が今考えるべきなのは、ただ一つ。無事にこの子を産み落とし、抱き上げること。それだけを考えねばなりません。私たちはそのために、命を懸けるのですから」
完璧な正論で突き返され、クリスティアーネは初めて言葉を失った。
国のため、義務のためと張り詰めていた彼女の鎧が、その温かい言葉によって、脆くもひび割れていく。
初めて体験する出産の不安に、その精神は過敏に張り詰め、自身でも気づかぬうちにひどく平静を欠いていた。しかし、助産婦の優しい手のぬくもりによって、心の奥底にあった強張りがゆっくりと解きほぐされていくのを感じていた。
「……無事に、産む……」
「左様にございます、ただそれだけを」
クリスティアーネは小さく息を吐き、静かに目を閉じて、手のひらを腹に当てる。……そして小さく頷いた。
人形としての冷徹な覚悟ではなく、一人の「母」としての震えるような決意が、彼女の胸に初めて宿った瞬間だった。
◇
産室の重い扉が、大きな音を立てて開け放たれた。
それは王族としての礼儀を著しく欠いた暴挙であったが、誰もそれを咎める者はいなかった。飛び込んできた王太子レギナルドの顔は、幽鬼のように真っ白だったからだ。
「クリスティアーネ……っ!」
寝台の側へと一息に駆け寄ったレギナルドは、息も絶え絶えの妻の姿を目に映した瞬間、全身の力が抜けたようにへなへなとその場に崩れ落ちた。
床に膝をつき、クリスティアーネの青白い手を、壊れ物を扱うかのように両手で包み込んで震えている。
「ああ、神よ……無事だった。君が、無事でいてくれた……っ」
大粒の涙をぼろぼろとこぼし、ただそれだけを繰り返す夫。そこへ、傍らにいた老助産婦が、柔らかく包んだ布を手にしてふっと目を細めた。
「レギナルド殿下、まずは何より、おめでとうございます。どこにも問題のない、とても健康で元気な男のお子様ですよ」
「え……あ……」
その言葉を聞いて、レギナルドは弾かれたように顔を上げ、ようやく助産婦の腕の中にいる小さな塊へと視線を向けた。
我が子の産声すら耳に入らないほど、彼は妻の安否だけで頭が一杯だったのだ。
「……子供、私たちの……」
呆然と呟く夫を見つめ、クリスティアーネは額の汗もそのままに、この時ばかりは、氷の仮面を綺麗に溶かして柔らかく微笑んだ。
「さあ、殿下。お父様になられたのです。その手で、お子様を抱いて差し上げてください」
「クリスティアーネ……」
レギナルドは震える腕を差し出し、壊れ物を扱うようにそっと赤ん坊を受け取った。その腕に伝わる、小さくて、けれど驚くほどに温かく力強い命の鼓動。
彼がこれまで味わったことのない、胸が震えるほどの愛おしさが、一気に彼の胸を支配していく。
「ありがとう……クリスティアーネ。本当に、ありがとう。君が生きていてくれて、この子が生まれてきてくれて、私は……私は、本当に嬉しい……っ」
飾らない、本心の叫びだった。
「よくやった」でも「でかした」でもない。ただ一人の男として、最愛の妻へ向けられた純粋な感謝と喜びの言葉。
その言葉は、完璧な義務をまっとうしようと張り詰めていたクリスティアーネの胸の奥を、優しく、けれど決定的に撃ち抜いた。
義務ではなく、冷徹な計算でもなく。ただ、この人と、この子のことが、たまらなく愛しい。そんな人間らしい感情の波が、彼女の内に初めて激しく沸き上がってくる。
「……殿下。この子に、名を……つけてあげてください」
クリスティアーネは、愛おしげに夫と我が子を見つめながら、掠れた声で願った。
「ああ、ああもちろんだ! だが、私の独断では決められない。私たちの、大切な子供だ。……二人で、世界で一番良い名を考えよう。いいね、クリスティアーネ」
レギナルドが赤ん坊を抱いたまま、もう片方の手で、しっかりと妻の手を握りしめる。
クリスティアーネは、その手の力強い温もりに涙を滲ませながら、もう一度、深く深く頷くのだった。
産室を包んでいた喧騒が去り、しんとした静寂が戻ってきた。
レギナルドが生まれたばかりの我が子を連れて別室へと移動し、残されたのは、寝台で息を整えるクリスティアーネと、その乱れた髪を優しく手拭いで拭う老助産婦の二人だけだった。
「お疲れ様でございました、クリスティアーネ殿下。……本当によく、頑張られましたね」
「……ええ。貴女も、無事に出産を導いてくれて感謝します」
クリスティアーネは深く息を吐き、いつもの平坦な声音を意識して戻そうとした。
だが、酷い疲労と、先ほどまで夫が自分の手を握っていた熱の余韻のせいで、声はまだ小さく震えている。
老助産婦は、彼女の不器用な虚勢を愛おしむようにふっと目を細めると、手拭いをバケツに浸しながら、ぽつりと語り始めた。
「そういえば殿下。あの日……出産を前に、レギナルド殿下が私を呼び出された際、本当はどのようなお姿だったか、お聞きになりますか?」
クリスティアーネは、わずかに眉を動かした。
「……我が子ではなく、私を救えと命じたのでしょう? あの御方の考えそうなことです。大局を見失い、目の前の情に流される……本当においたわしいほど、王族としては不向きな御方です」
自分を卑下するように、あるいは夫をなじるように、彼女は冷徹な言葉を並べた。しかし、助産婦は首を横に振った。
「いいえ、殿下。あれは、ただの王太子としての命令、ではございませんでしたよ」
助産婦は手を止め、慈愛に満ちた目で未来の王妃を見つめた。
「殿下は仰いました。『世継ぎなどどうでもいい。必ずクリスティアーネを救え。私は、彼女を二度と孤独の中に置き去りにはしない』……と。そう仰って、次代の国王となるべきあのお方が、泣きそうな顔で、必死に私に頭を下げておいででした」
クリスティアーネの思考が、一瞬で凍りついた。
子ではなく妻を救えという命令は予測していた。それは、あの御方が凡庸な男だからだと、そう思っていたからだ。
けれど、違った。
(あの御方は……国が乱れる危険をすべて背負ってでも、私を……)
レギナルドは、彼女のこれまでの半生――「完璧な人形」として王宮の誰からも孤立し、一人で義務を背負って生きると決めたあの日からの、彼女の孤独に気づいていたのだ。
そして、自分が傷つけてしまった彼女の孤独を、生涯をかけて、自らの誇りを捨ててでも救い出そうと決意していたのである。
これまでどんなに罵倒されても、どんな激痛に耐えても、眉一つ動かさず涙など流したことがなかったクリスティアーネ。
しかし次の瞬間、冷たい大理石のようだった彼女の目から、ぽろぽろと、大粒の涙が溢れ出した。
「……おかしなことです。目から水が零れて、止まりません。酷い疲労のせい、でしょうか……」
感情の表し方を知らない彼女は、震える声で必死に人形のような言い訳を探そうとした。そんな彼女の肩を、老助産婦は我が子をあやすように優しく抱きしめた。
「いいえ、王太子妃殿下。それは嬉し涙というのですよ。……本当に、深く深く、愛されておいでですね」
助産婦の腕の温もりの中で、クリスティアーネはただ、声を殺して泣き続けた。
身にまとっていた鉄の鎧は、レギナルドが捧げた泥臭くも真実な愛の告白によって、音を立てて粉々に砕け散っていた。
静かな、本当に静かな夜の出来事だった。
記録は伝える。
十五代国王レギナルドの王妃クリスティアーネは王太子妃時代、出産にあたり平民の助産婦を呼び出して出産時万が一の事態に陥った場合は、子を捨てて自分を救うように命令した、と。




