王の墓に入れなかった王様
レイルザード王国最高学府の、ある自由課題。
歴史を専攻する真面目な女学生のノートには、現代の教科書に記された「公式の歴史」が綺麗な文字で整理されていた。
『テーマ:我が国の民主化の歴史について』
十六代国王フリードリヒ:父の死後王位を継ぐと、偉大な政治改革を行い、貴族会議を開設した。
開設当初、伯爵以上の爵位を持つ者しか参加できなかったその議会が、六十年の歳月を経て男爵以上が参加可能になり、それからさらに十年後には参考人として初めて平民が議会の場に立った。
それが、我が国の民主化の礎である。
十六代国王フリードリヒの父、十五代国王のレギナルドにはひとつ面白いエピソードがある。
若い頃の浮気が原因で歴代国王が眠る王の墓、白亜の聖王廟に入れてもらえなかった、というのだ。
遺体が確認されている歴代の王の中で、白亜の聖王廟にその身を横たえていないのは、後にも先にもレギナルド一人である。彼を除いて廟の外に眠るの者としては、海難事故で行方不明となり、遺髪のみが収められた七代国王エドワードが、特殊な例外として数えられるに過ぎない。
レギナルドの妻、クリスティアーネ王妃は苛烈な性格で、若い頃の浮気の恨みを決して忘れず、死に臨んでわざわざ遺言で「王の埋葬を聖王廟にすることを禁じる」と遺したのだという。夫を王とは認めない、というこれ以上ない侮辱的な遺言だった。
レギナルド王はクリスティアーネ王妃よりも長命であったが、フリードリヒによってクリスティアーネ王妃の遺言は実行された。
そのため、フリードリヒは偉大な実績を残した王ではあるが、母には頭の上がらない、気弱なところもあったと伝わる。
現在でも世間では、浮気をする男に対して、「女は一生その恨みを忘れないぞ。死んだ後まで縛られたレギナルド王の二の舞になりたいか」そんな風に教訓として語られている。
「……よし。これでだいたいの通説は頭に入ったな」
風がノートのページを軽く揺らす。
学生は顔を上げ、風に乱れた髪を耳にかけながら、眼前に広がる緑豊かな景色に視線を向けた。
ここは『薔薇の丘墓地』。歴代の王が眠る白亜の聖王廟のような圧倒的な権威や冷たさはなく、色とりどりの花と柔らかな陽光に包まれた、静かで温かい王族の墓地だ。
レイルザード王国では、王の墓と王族の墓は完全に分けられていて、薔薇の丘墓地はもとはクリスティアーネ王妃の生家であるローゼンベルク侯爵家が代々管理していた土地であり、その家名――『薔薇の丘』を意味する名がそのまま墓地の由来になっている。
学生はその敷地の一角、寄り添うようにぴったりと並んで佇む、不自然なほど手入れの行き届いた二つの墓石を見つめていた。
国を揺るがす確執があったとされる二人にしては、その距離はあまりにも近すぎる。
墓標にはそれぞれ、レギナルドとクリスティアーネの名が刻まれている。
歴史には事実の羅列だけでは、どうしても納得できない空白があるように彼女には思えるのだ。
「歴史書で読みましたけど、やっぱり奇妙ですよね」
学生が呟くと、近くで芝を刈っていた、腰の曲がった老墓守が手を止めてフッと目を細めた。
「ほう、何が奇妙かね、学生さん」
「この二人の関係ですよ。クリスティアーネ王妃は、浮気をした夫を呪って聖王廟から締め出したって有名じゃないですか。なのに、死後はこうして薔薇の丘で仲良く隣同士に隔離されているなんて、なんだか皮肉というか、憐れというか……」
老墓守は刈り込み鋏を置くと、やれやれと首を振って静かに笑った。
「はっはっは。そう、世間一般的にはそう言われておるのう」
「違うんですか?」
「ここは陽当たりが良くて、とても温かい場所じゃろ。寂しくて冷たい白亜の廟なんかより、王は最初からここが良かったのさ」
「え……?」
学生が目を丸くすると、老墓守は愛おしそうに二つの墓石を見つめた。
「わしのひい爺さんがまだ若くて、この墓地で見習いをしておった頃の話じゃ。レギナルド王が崩御された際、新たに即位された息子のフリードリヒ王に呼び出されて、この二つの墓を誰にも荒らされぬよう守れと、直々に命令されたのじゃ。それから我が家は代々この場所を守り続けておる」
「王様から直接ですか……!? でも確かに、十六代国王のフリードリヒ王は母であるクリスティアーネ王妃様を崇拝していたという話ですし、その遺言に逆らえなかったのでしょうか」
学生の言葉を聞き、少しだけ表情を曇らせた墓守はゆっくりと首を横に振る。
「世間じゃあ冷酷な人形だの、恐ろしい悪妻だの言われとるが、二人は誰よりも深く愛し合っておられた。いや、正確には愛し合うようになった、と言うべきかの。お前さん、教科書には絶対に載っとらん、二人の歴史の裏側を知りたくはないかい?」
「愛し合っていた? レギナルド王とクリスティアーネ王妃がですか?」
「そうじゃ。学生さん、先入観を一度忘れて、考えてみるがいい。死んだ後もこうして並んで眠っている夫婦が、本当に愛し合っていなかった、と思うかね?」
学生はゴクリと息を呑み、慌てて手元のノートを構え直した。
老墓守は優しく微笑み、遠い空を見上げるようにしてぽつりぽつりと語り出す。
「……そうさな。全ての始まりは、今から百年以上も前のこと。あの御二人がまだ、若く愚かで、そして信じられないほど不器用だった頃の話じゃ――。きっかけは、一人の男爵令嬢が滑り落ちた、王宮の長い階段からだったのさ」
老墓守の掠れた声が、薔薇の香る風に溶けていく。
まばゆい光が学生の視界を包み込み、物語の時間はゆっくりと、百年以上前に栄華を極めた華やかな王都へと巻き戻されていった。
◇
王宮は、目も眩むほどに華やかだった。
若き日の王太子レギナルドは、決して悪人ではなかったが、王族としての重圧からほんの少しだけ逃げ出したかった。
そんな彼の前に現れたのが、男爵令嬢のアガサだった。彼女は王都の洗練された貴族令嬢たちとは違い、どこか素朴で、レギナルドを「一人の男」として慕ってくれた。
二人が育んだのは、お互いにほのかな恋心を抱く程度の、清らかで他愛のない恋人ごっこ……ですらない、それ未満の「恋ごっこ」だった。
義務と規律に縛られた王宮の中で、それだけがレギナルドにとって唯一の息抜きだったのかもしれない。
しかし、そんな甘い時間は唐突に終わりを告げる。
「アガサ・ラングレー男爵令嬢」
王宮の長い回廊で声をかけてきたのは、レギナルドの婚約者であり、未来の王妃となることが決まっている侯爵令嬢クリスティアーネだった。
彼女は、非の打ち所がないほど美しいが、その瞳には一切の感情が灯っていない。王宮の誰もが彼女を「完璧な人形」と呼び、恐れていた。
「クリスティアーネ……様」
「貴女とレギナルド殿下の不適切な距離感について、王家の体面を汚す行為であると警告します。身の程を弁えなさい」
感情の起伏が全くない、氷のような声音だった。そこには嫉妬も、怒りも、憐れみすらもない。ただ淡々と不条理を排除しようとする、完璧な人形の言葉だった。
アガサは恐怖で背筋が凍りつき、ただ頭を垂れることしかできなかった。
クリスティアーネが去った後、アガサは酷く落ち込んでいた。
(ああ、私はなんて馬鹿なことをしてしまったんだろう。殿下は雲の上の人。この恋心は胸に仕舞って、綺麗な思い出にしよう……)
そんなことをぼんやりと考えながら、王宮の長い大階段を小さくため息をついて下りていた、その時だった。
うっかり、ドレスの裾を踏んだ。
「あっ――」
足を踏み外したアガサは、勢いよく尻餅をつき、長い階段を滑り落ちていった。
「きゃあああっ!?」
派手な音を立てて階段の一番下まで転がり落ちたアガサは、あまりの痛みに涙を浮かべてうずくまった。破れたドレスの間から、擦りむいた肌が痛々しく露出している。
幸い、骨は折れていないようだったが、全身がひどく痛む。
「アガサッ!? 一体どうしたんだ!」
運悪く、すぐ近くの回廊に居合わせたのがレギナルドだった。彼は血相を変えて階段を駆け下り、泣いているアガサの肩を掴んだ。
「大丈夫か!? 酷い怪我だ、誰にやられた!? 一体何があったんだ、言ってみろ!」
レギナルドの剣幕は凄まじかった。純粋な心配と、愛する——と思い込んでいた女性が傷つけられた怒りで、我を忘れてアガサを激しい口調で問い詰める。
激痛と、未来の国王から向けられた凄まじい圧迫感。アガサの脳内は一瞬でパニックに陥った。
「あ、あの……私は、その……」
「誰だ! 誰が君をこんな目に遭わせた!」
レギナルドの手がアガサの肩に強く食い込む。恐怖と混乱が限界を迎えたアガサの口から、引き金となる言葉が零れ落ちた。
「ク、クリスティアーネ様、に……」
アガサの本心としては、「クリスティアーネ様に注意されたことを考えていて、うっかり足を滑らせた」と、そう言いたかった。
しかし、その名前を聞いた瞬間、レギナルドの目が怒りでカッと見開かれた。
「……クリスティアーネが、君を突き落としたというのか!?」
「あ、いいえ、それは――」
「あの冷酷な女め! いつも澄ました顔をしていながら、嫉妬に狂って、私の大切な人を階段から突き落とすなど、未来の王妃として断じて許される行為ではない!」
レギナルドは完全に誤解し、怒り狂ってアガサを抱き起こした。
アガサはあまりの事態の大きさに、喉の奥が引き攣り声を失ってしまった。
(ち、違う、そうじゃないんです! でも、今更『嘘でした、自分の不注意です』なんて言ったら、王太子殿下を騙した大罪で、私どころか家族全員が罰を受けてしまう……!)
パニックで完全にすくみ上がってしまったアガサは、ガタガタと震えながらレギナルドの胸の中でコクコクと頷くことしかできなかった。
こうして、悪意のない小さなすれ違いは、王宮を揺るがす「王太子妃による殺人未遂事件」へと最悪の形で発展してしまったのである。
「クリスティアーネ! 言い訳はさせないぞ。君がアガサを大階段から突き落としたという証言がある。未来の王妃ともあろう者が、嫉妬に狂って殺人未遂など、言語道断だ!」
王宮の一室。怒り狂う王太子レギナルドの怒号が響き渡る。その傍らでは、全身に包帯を巻いたアガサが、怯えたようにガタガタと震えていた。
しかし、糾弾された侯爵令嬢クリスティアーネは、眉一つ動かさなかった。その美しい瞳はどこまでも平坦で、まるで無機質なガラス玉のようだ。
「レギナルド殿下、感情論で動くのはおやめください。私が彼女を押したというのなら、すぐに国王陛下へ申し立てを行い、近衛騎士団による公式な憲兵調査を依頼いたしましょう」
クリスティアーネの声音には、怒りも悔しさもなかった。ただ、提出された書類の不備を指摘するかのような淡々とした冷たさだった。
「身分に差こそございますが、確かに私がラングレー男爵令嬢を害したとなればそれは罪になりましょう。しかし、人の記憶は曖昧なものです。見ていないものを見たように感じたり、全く別のものを見たのに自分が見たいものを見たと勘違いすることもございます」
レギナルドのように激高するでもなく、淡々と。
しかし鋭い言葉が刃となって放たれていく。
「事実を詳らかにするためにも正式な調査と取り調べが必要となりましょう。ラングレー男爵夫妻とそのご家族にも出頭いただき、お話を伺う必要がございますが、よろしいですね? その前に一度お伺いいたします。ラングレー男爵令嬢。貴女が階段から転げ落ちた理由は、間違いなく、私が突き落としたからだ、と主張なさるのですね?」
その言葉を聞いた瞬間、アガサの顔からサッと血の気が引いた。
クリスティアーネの目は、アガサの嘘をすべて見抜いていた。実際、クリスティアーネはアガサを突き落としてなどいないのだから当然だ。
彼女は怒っているのではない。ただ、「より詳しく調べれば真実は一瞬で明らかになる。その時、嘘を吐いた代償として、ラングレー男爵家は一人残らず罰を受けることになるが良いか」と、静かに突きつけているのだ。
(もはや、これまでだ……)
しかし一方でここしかない、とも思った。
事実を言い出せないまま、最悪の濁流に流されてここまで来てしまった。
だが、これ以上進めば本当に底なしの沼に沈む。クリスティアーネは冷徹な仮面の裏で、自分に引き返す最後の機会を差し出してくれたのだ。
そう思った。
これ以上嘘を重ねれば、大好きな両親も、まだ幼い妹も、自分のせいで破滅する。
恐怖と罪悪感が限界を迎えたアガサは、ついにレギナルドの袖を掴んで、堰を切ったように泣き崩れた。
「……申し訳ございません! 申し訳ございません、レギナルド殿下……っ!」
「ア、アガサ? 一体どうしたんだ、私が守ってやるから――」
「違うのです! クリスティアーネ様は、私を突き落としてなどいません……! 私が、殿下との不適切な距離感を注意されて落ち込んでいて……ドレスの裾を踏んで、勝手に転げ落ちただけなのです……!」
「な……に……?」
レギナルドは信じられないものを見る目で、アガサを見つめた。
「転げ落ちたことで混乱して、つい『クリスティアーネ様が注意しに来た』と言おうとして……! 嘘を吐くつもりはなかったのです、でも、言葉が出てこなかったのです……ごめんなさい、ごめんなさい……!」
部屋に、アガサの痛々しい泣き声だけが響く。
レギナルドが完全に硬直したその時、部屋の扉が重々しく開いた。
現れたのは、レイルザード王国の現国王だった。その後ろには、クリスティアーネが事前に手配していた、事態の記録を執る文官の姿もある。
国王の眼光は、我が子に対して恐ろしいほどに冷ややかだった。
国王はクリスティアーネから軽く事情を聞き取ると、すぐに決断をくだす。
「アガサ・ラングレー。虚偽による侯爵令嬢への侮辱の罪は重い。一歩間違えれば侯爵令嬢が罰を受けることになったかもしれないのだぞ。だが、事態が取り返しのつかない段階へ至る前に自らの発言の過ちを訂正した点を鑑み、ラングレー家への連座は免除する。代わりにお前には、辺境医療団での三年間の無償奉仕を命じる。異議はあるか」
「……ございません。寛大なお裁き、感謝いたします……っ」
アガサが涙を流して頭を下げる中、国王の痛烈な視線が、ガタガタと震えるレギナルドへと向けられた。
「そしてレギナルド。事実の確認もせず、甘ったれた感情だけで婚約者を激しく罵倒したお前の浅はかさは、王族としての資格を疑うに値する愚行だ。……本日をもって王太子の資格を一時停止し、即刻、二年間の地方政務を命じる。辺境の地で、己の小ささと愚かさを骨の髄まで思い知ってこい」
レギナルドは、何も言い返せなかった。完璧な人形のような婚約者と、威厳ある父王の前で、ただ己の未熟さを恥じることしかできなかった。
◇
王都の華やぎから遠く離れた、風の吹き荒ぶ辺境の村。
夜、微かなランプの光の下で、レギナルドは泥に汚れた自らの手を見つめていた。かつては滑らかで白かったその手には、今では政務と復興作業による無数の傷と、落ちない泥が染み付いている。
彼はあの日、大階段の下で泣いていたアガサの姿を、幾度となく思い出していた。
あのときの彼は、自分を「悪の手から恋人を守ろうとする騎士」のように思っていた。
だが、この剥き出しの現実が転がる辺境で、民と同じ目線に立って初めて、彼は己の振る舞いに潜んでいた狂気的な傲慢さを悟ることになる。
(……私は、彼女を救おうとしていたのではない。私の正義感という名の怪物に、彼女を無理やり当てはめようとしていただけだったのだ)
あの日、彼は血相を変えてアガサに駆け寄り、アガサの肩を強く掴んだ。その指先には、愛する女性を心配する情熱などではなく、「未来の国王」という絶対的な権力が放つ、抗いようのない威圧感だけが宿っていた。
アガサの震える瞳に映っていたのは、頼もしい相手の姿などではなかったはずだ。それは、答えを誤れば自分だけでなく家族の運命さえも一瞬で握り潰しかねない、恐ろしい権力の化身だった。
「誰にやられた! 言ってみろ!」
その詰問は、純粋な問いかけではなく、すでに犯人を求めている結論ありきの咆哮だった。
アガサが「クリスティアーネ様に……」と口にしたその瞬間、彼は彼女の言葉を遮り、突き落とされたという最悪のシナリオを身勝手に完成させてしまったのだ。
(もしあの時、私が王太子という立場を脱ぎ捨て、ただの男として、彼女の怪我を優しく心配できていれば……)
そうすれば、アガサは落ち着いて「自分で裾を踏んで転んだだけです」と、真実を言えたはずだった。
彼女を極限まで追い詰め、嘘の片棒を担がせてしまった真犯人は、誰あろうレギナルド自身だった。
自分の正しさを疑わぬ浅はかな正義感が、一人の女性の人生を歪め、婚約者を無実の罪で貶めた。その重すぎる自覚が、彼の胸を鋭く抉る。
それ以来、レギナルドは変わった。
彼は、自分の言葉が他者にどのような重圧を与えるかを、絶えず自問するようになった。領民の不満、悲鳴、微かなため息。それらの一つひとつに真摯に耳を傾け「自分の正しさをまず疑う」という、泥臭くも尊い努力を重ねていったのだ。
二年の月日が経つ頃には、かつての甘い貴公子の面影は消え失せていた。
日焼けした肌、逞しく引き締まった体躯。
そして何より、「人の言葉を深く聞き入れようとする、静かで深い眼差し」。
彼は、アガサという犠牲を払って初めて、言葉の重さを知る一人の男へと生まれ変わっていた。
一方、王都での騒動から数か月。アガサ・ラングレーは、泥と埃にまみれた辺境の医療団キャンプにいた。
かつての華やかなドレスは、何度も洗濯を繰り返して色あせた質素な仕事着に替わり、そのエプロンには常に血や泥の汚れが染み付いている。
ある日の夕暮れ時、辺境の厳しい寒さの中で、アガサは負傷した兵士たちのために薬草を煎じる準備をしていた。
かつての彼女なら、慣れない作業に涙をこぼしていたかもしれない。
しかし、自分の浅はかさが招いた過ちを深く悔いた彼女は、「ここで誰かの役に立つこと」を心の支えに、ひたむきに働いていた。
思い出すのは、やはりあの日のことだった。
混乱と恐怖で事実を口に出来なかった自分と違って、クリスティアーネはレギナルドに詰問されても一切の動揺を見せなかった。
なんと強く、誇り高い人なのだろう。自分にはとても真似できる気がしなかった。
そこへ、一人の実直そうな騎士が、怪我をした同僚を肩に担いで飛び込んできた。
「おい、医者はいるか! 偵察中に熊に襲われた!」
「こちらへ! すぐに傷を洗います!」
アガサは迷うことなく駆け寄り、重い水瓶を運んでテキパキと指示を出す。
彼女の無駄のない動きと、患者を安心させるような温かい微笑み。その様子を、同僚を預けた騎士はじっと見つめている。
手当が終わった後、その騎士は不思議そうにアガサに声をかけた。
「失礼だが……あんた、王都から来た令嬢だろう? なぜこんな、不衛生で過酷な場所にわざわざ志願してきたんだ。ここは罪人が送られてくるような場所だぞ」
アガサは一瞬だけ手を止め、自嘲気味に笑って答える。
「その通りですよ。私は王宮でとんでもない嘘を吐いて、その罰としてここにいるんです。私は、守ってくれる人に甘えてばかりの、とても愚かな女だったから」
彼女は自分の過去を隠そうとはせず、むしろその罪を認めることが、今の彼女を強く支えているかのように笑う。
「でも、ここでは嘘は通用しません。傷は痛むし、お腹は空く。だからこそ、私が差し出す一杯のスープや、巻いた包帯が、誰かの助けになるのが……今は、何よりも嬉しいんです」
そう言って、汗を拭いながら見せたアガサの笑顔は、王宮で見せていた「恋ごっこ」の時の儚げなものとは全く違っていて、辺境の厳しい風土の中で鍛えられた、本物の輝きを放っている。
騎士は感心したように目を細め、腰に下げていた薬草の束を彼女に差し出した。
「……これは、この辺りでも特に香りの良い薬草だ。あんたが毎日一生懸命働いているのを見て、何か役に立ちたいと思ってな。そうだ、これで栞でも作ったらどうだ? 王都の暮らしが恋しくなったときに、この場所のことも思い出せるように」
「まあ、本当に良い香り……。ありがとうございます、騎士様」
そこには王宮を覆うような陰湿な噂話はなく、ただ彼女の健気さを愛おしむ温かい空気だけがあった。
王都での浅はかな恋ごっこは終わり、彼女は今、この厳しい辺境の地で、誰からも愛される本物の輝きを手に入れつつあった。
◇
二年間の地方政務を終え、王都へ帰還したレギナルドの姿に、かつての甘さは微塵もなかった。
日焼けした肌、引き締まった体躯、そして何より、人の言葉を深く聞き入れようとする静かな眼差し。二年前とはまったくの別人として生まれ変わっていた。
しかし、王宮の謁見の間で彼を待ち受けていたのは、過酷な試しだった。
玉座に座る父王の傍らには、要領がよく、兄の不祥事の間に支持を広げていた弟のユリウスが立っている。そしてその前には、この国の未来の王妃として意見を求められた、侯爵令嬢クリスティアーネが佇んでいた。
「ローゼンベルク侯爵令嬢、クリスティアーネ」
父王の厳かな声が響く。
「最終的な決定は追って下すが、未来の王妃たるお前の意見を聞きたい。見違えるほどの成長を見せた長子レギナルドと、それに負けぬ優秀さを持つ第二王子ユリウス。王冠を戴くに値するのは、次代の王に相応しいのはどちらだと思うか」
レギナルドは静かに覚悟を決めていた。
あの一件で彼女を無実の罪で激しく罵倒し、深く傷つけたのだ。彼女に憎まれていても当然であり、ここで弟のユリウスを推薦され、自分が廃されたとしても文句は言えない。
むしろそれが、自分の犯した罪の当然の報いだ、と。
しかし、クリスティアーネのガラス玉のような瞳は、レギナルドを見ても一切の感情を宿さなかった。彼女は一瞬の躊躇もなく、淡々と氷のような声音で口を開いた。
「レギナルド殿下を推薦いたします」
「……なに?」
思わず姿勢を崩し衝撃に目を見開いたのは、レギナルドの方だった。
「レギナルド殿下は辺境の厳しい政務を完遂され、民の暮らしを深く学ばれました。……また、我がレイルザード王国の慣例を軽んじ、長子を廃して次子を立てれば、将来必ずや国が乱れる種となりましょう。それらを鑑み、現時点での最良の選択はレギナルド殿下の王太子復帰、および即位であると確信いたします」
それは、一切の私情を挟まない、恐ろしいほどの建前であり正論だった。
彼女はレギナルドを許したから選んだのではない。ただ、個人の「憎しみ」すら国益の前では無価値だと切り捨て、この国が最も乱れない選択肢を、ただの計算式のように弾き出したのだ。
その底知れない気高さと、国を背負う者としての圧倒的な孤独を悟った瞬間、レギナルドの胸に、激しい感情が突き上げた。
(ああ、私は……この人に一生をかけて償わなければならない)
彼女は自分を許してなどいないし、もちろん愛してなどいない。これは完璧な義務の婚姻だ。
それでも、この冷徹で、誰よりも孤高で、あまりにも美しい人形のような彼女を、命に代えても支え、愛し抜こう――。
たとえその愛が、彼女に届くことが一生なかったとしても。
レギナルドは己の魂に、生涯の誓いを刻み込んだ。
こうして、愛ではなく完璧な義務として二人の結婚生活が始まった。
クリスティアーネの高潔な決断は、国の舵取りを担うものとして相応しいと、宮廷中で素晴らしく称賛された。
「クリスティアーネ妃は、夫を愛してなどいない」
それはやがて、誰もが疑わない公然の事実として語られるようになっていく。
しかし、周囲から割り切った冷淡な夫婦と噂されながらも、レギナルドの胸には、決して消えない一途な贖罪の愛が灯り続けるのだった。




