桜はまだです
白萩に戻ったのは、次の日の昼だった。
バスの中で、サクがわたしの肩をつついた。
「アヤ、夜中、どこ行ってたの。電気ついたとき、いなかったじゃん」
「点呼でアヤの番が来て、わたし、とっさに
『トイレです』って言ったんだからね。寮監さんの前で」
サクの声は、半分笑っていて、半分本気だった。
「……トイレ」
「え、ほんとにトイレ? じゃあわたし、嘘ついてないじゃん。
……でも、トイレ、反対側でしょ」
「……迷った」
「アヤが? あそこ、アヤの母校なんでしょ? 自分の母校で迷う人、初めて見た」
「暗かったの」
「暗くても、六年通ったら足が覚えてるでしょ。言い訳が雑」
サクは、こういうときだけ容赦がない。
マルが横から、牛乳の紙パックにストローを刺しながら言った。
「ねえ、流れ星見た? 衛星のかけら。わたしずっと寝てて見逃した」
「見た」
「お願いした?」
「した」
三人が、こっちを向いた。
シッポも、窓の外から目を離して、こっちを見た。
「なにお願いしたの」
「言ったら叶わないでしょ」
「衛星のかけらなんだから、どうせ叶わないじゃん」
「……ばあやに止められるやつ」
バスのタイヤの音だけが、急に大きくなった。
「え、それって」
マルが、牛乳のストローをくわえたまま固まった。
サクは通路側の席から身を乗り出して、殿の肩をばしばし叩いた。
「殿、聞いた?」
「聞こえてる。叩かないで」
「アヤが、ばあやに止められるようなお願い」
「待って、詳しく」
殿まで、こっちに体ごと向き直っていた。
「詳しくは言わない」
「ヒントは」
わたしは少し考えた。
「……電気に関係あること」
三人は顔を見合わせて、全員が首をかしげた。
電気に関係があって、ばあやに止められるお願い。
誰にもわからなかったと思う。
わたしにも、まだうまく説明できなかった。
シッポだけが、何かを考えるような目で、もう一度窓の外を見た。
※
それから三日、サクは毎晩、手首の便箋とにらめっこしていた。
金城くんへの返事だった。
「ねえアヤ。なんて返せばいいと思う?」
「桜の話で返せばいいんじゃない。向こうが桜の話しかしてないんだから」
「桜の話かあ」
サクは天井を見上げて、その夜は何も書かなかった。
次の夜も、便箋を開いては閉じた。
三日目の夜、サクはようやく、
手首の上の画面に指を動かして、短く何かを書いた。
「これでいい?」
金城くんへ
桜は、まだです。
「……三日かけて、それだけ?」
「それだけ」
「ほかに何か書かないの。元気ですとか」
「いらない」
サクは、ちょっと照れたみたいに笑った。
「だって、わたしの名前、さくらだし」
わたしは、手首の上の一行を、もう一度読んだ。
桜は、まだです。
白萩の桜はまだ咲いていない、という意味に読める。
さくらは、まだ、誰のものでもない、という意味にも読める。
まだ、ということは、これから咲くかもしれない、
という意味にも。
ばあやは、もちろん素通しだった。
「……九条さま、意外とやるね」
「九条さまって言うな」
サクは送信して、布団に倒れこんで、
枕に顔をうずめて足をばたばたさせた。
※
事故から一週間たった日の夕方、
わたしの手首にも通知が来た。
〈衛星回収事故に関する聞き取りのお願い〉
〈避難所でのできごとについて、自由に記述してください〉
〈記述は匿名化され、事故記録として公開されます〉
公開されます、という一文を、わたしは何度も読んだ。
佐藤くんにも、きっと同じものが届いている。
何か書くことがあったら、とわたしは言った。
もしあの人が何か書くなら、それはきっと、この記録のどこかだ。
事故の規模からすると、公開される記録は、
たぶん何千件にもなる。
全部読むつもりだった。
方丈記の最初の一文から先を、
四年間一度も覚えられなかったわたしが、だ。




