宛名
事故から十日たっても、二階はまだ、どこか浮ついていた。
避難所で男子を見た話は、三日で言い尽くされた。
そのあとに残ったのは、手紙の話だった。
サクの「桜は、まだです」は、
本人が口止めしたその晩のうちに、二階じゅうに広まった。
口止めした相手が、六人いたからだ。
「九条さま、続報は」
「ない。まだ届いてない」
廊下ですれ違うたびに聞かれて、
サクは毎回そう答えて、毎回ちょっと得意そうだった。
昼休み、殿の机から、今日も封筒が三通出てきた。
水色と、うす桃色と、白。
どれも、中学生の子の丸い字だ。
白萩では、下級生が上級生に手紙を書くとき、
いまでも紙を使う。
ばあやを通さないぶん、遠慮がない。
殿がそれを鞄にしまう前に、サクの手がのびた。
「はい、本日の一通目」
サクは水色の封筒を高く上げて、
放送部の声で読み上げた。
「殿さまへ——」
そこで、封筒が消えた。
殿が、取り返していた。
つかむ、というより、はたくような速さだった。
封筒の角が、サクの指の上で、ぴっと鳴った。
「……人のだから」
殿の声は、大きくなかった。
大きくなかったぶん、まわりの机まで、よく届いた。
サクは、空になった手を、そのまま下ろせずにいた。
「……ごめん。冗談のつもりで」
「わかってる」
わかってる、で、話は終わらなかった。
誰も、続きを言わなかったからだ。
マルは、開けかけた購買の袋の口を、そっと戻した。
一番後ろの席で、シッポがノートから顔を上げて、また下げた。
予鈴が鳴るまでの四分が、やけに長かった。
午後の古文で、サクは一度も後ろを向かなかった。
サクが後ろを向かない授業を、
わたしは、この四年で一度も見たことがない。
夜、洗濯物を取りにいくと、洗濯室に殿がいた。
乾燥機の前の床に座って、膝の上に便箋をのせていた。
乾燥機の回る音で、わたしが入ってきたのに、
殿は、ひと呼吸おくれて気づいた。
「……見ないで、って言うほどのものじゃないけど」
殿はそう言って、便箋を隠さなかった。
床に、昼の三通が並んでいた。
その横に、殿の字の便箋が、二枚。
封筒の宛名は、
〈殿さまへ〉
〈王子さまへ〉
〈織田先輩 いえ殿さまへ〉
便箋のほうは、どれも、
最後の行に、小さく〈織田〉とだけ書いてあった。
「全部、返事書いてるの」
「短いのをね。一行とか、二行とか」
「殿さまへ、って来てるのに、織田で返すの」
殿は、ペンのお尻で、こめかみを掻いた。
「宛名は、向こうが決めるでしょ。
でも、差出人は、こっちが決めていいでしょ」
乾燥機の中で、誰かのジャージが、どすん、と落ちた。
わたしは、自分の洗濯物を、かごに移した。
移しながら、寮のアヤと、家のわたしのことを考えた。
どっちで呼ばれても、返事をするのはわたしだ。
でも、どっちの名前も、
わたしが自分で名乗ったものではなかった。
言わなかった。
言えば、殿の話ではなく、わたしの話になる。
「サクのこと、怒ってる?」
「怒ってない」
殿は、三枚目の便箋に、〈織田〉と書いた。
「……ちょっと、疲れてるだけ」
それきり、殿はペン先を見ていた。
わたしは、乾燥機のふたを閉めて、先に出た。
手首の中には、まだ白いままの聞き取り票がある。
匿名化されます、と書いてあった。
宛名もなく、差出人もない手紙を、
わたしはまだ、一行も書けずにいた。
※
次の朝、殿の机の中に、封筒が一通増えていた。
寮の購買で売っている、いちばん安い白い封筒だった。
宛名は〈織田さんへ〉。
字が、ものすごく大きかった。
殿は、それを、みんなの見ている前で開けた。
便箋には、〈ごめん〉と一行。
その下に、似顔絵が一つ。
髪の短い、背の高い、ちょっと怒った顔の女の子。
頭の上に、なぜか王冠がのっていた。
いちばん下に、〈九条〉。
殿は、似顔絵を、ずいぶん長く見ていた。
「……王冠は、いらなくない?」
「それは、つい」
前の席から、サクが答えた。
こっちを向かないまま、耳だけ赤かった。
殿は、便箋をたたんで、
下級生の封筒とは別の、ブレザーの内ポケットにしまった。
それで、元どおりになった、と思った。
ならなかった。
その日、殿は、一日じゅう、殿だった。
「殿、おはようございます」と廊下の一年生。
「おはよう」
「殿、さっきのノート見せて」とマル。
「はい」
「殿、体育館の鍵、今日は殿が当番だって」
「わかった」
殿は、殿と呼ばれるたびに、ふつうに返事をした。
いつもなら一拍目に返ってくる、あの一言が、
一度も、出てこなかった。
最初に落ち着かなくなったのは、サクだった。
「……ねえ、殿」
「なに」
「……なんでもない」
三時間目のあとも、
昼休みも、掃除の時間も、
サクは殿に話しかけては、なんでもない、を繰り返した。
放課後の廊下で、サクが小声で言った。
「アヤ。殿が、言わない」
「言わないね」
「なんで。謝ったのに」
「謝ったからじゃない?」
サクは、わかったような、わからないような顔で、
自分の上履きのつま先を見た。
「……言われないの、思ったより、こわい」
※
その次の朝、二階の洗面所は、いつもどおり戦争だった。
コンセントの前で、サクが、
ドライヤーを二本抱えて振り返った。
一本を、殿のほうに突き出した。
「殿、これ先に使っていいよ」
殿は、寝ぐせの頭のまま、ドライヤーを受け取った。
「殿って言うな」
サクが、吹き出した。
吹き出して、それから、なぜか鼻をすすった。
「なんで泣いてんの」
「泣いてない。ミントが目に入った」
「どうやって」
殿は、それ以上聞かずに、ドライヤーのスイッチを入れた。
温風の音で、サクの返事は聞こえなかった。
わたしは、鏡越しに、二人の後ろ頭を見ていた。
殿の宛名は、きっと、明日からも殿さまのままだ。
差出人だけが、ずっと、織田のままだ。




