初段じゃまだだ
「桜は、まだです」
テツが、キンさんの手首の上の一行を、声に出して読んだ。
読んだあと、六畳に妙な間があいた。
寮の二階の、俺の部屋だった。
六畳に男が五人。
キンさんがベッドの上で、なぜか膝をそろえて座っていて、
ユウとテツが床に転がっていて、
シッポが窓際で膝を抱えていて、
俺は自分の部屋なのに机の椅子しか空いていなかった。
夕飯のあと、キンさんが「戸川先生、緊急会議」と言って、
全員を連れてきたのだ。
「……まだって何だよ、まだって」
キンさんが、昼休みからもう二十回くらい言っていることを、
また言った。
「まだってことは、脈ありだろ」とユウが言った。
「いや、まだってことは、永遠にまだだろ」とテツが言った。
「永遠にまだって何だよ」
ユウが床から上半身だけ起こした。
テツは寝転がったまま、天井に向かってしゃべった。
「お前が数学のテストのたびに『まだ本気出してない』って言うのと同じだよ。お前、一回も本気出したことないだろ」
「出してるわ。出してあの点なんだよ」
「余計だめじゃねえか」
ユウがテツの脇腹を蹴って、テツが蹴り返した。
六畳の床が、二人ぶん揺れた。
キンさんが、ベッドの上から俺を見た。
「戸川先生」
「なに」
「どっちなんだよ」
キンさんが、こっちに身を乗り出した。
ベッドが、ぎし、と鳴った。
「俺、読むほうは専門外」
「代筆屋だろ」
「書くほうはな」
床の二人が「出た、専門外」「逃げた」と、
声をそろえてはやした。
キンさんは、太い首をゆっくり回して、天井を見た。
この男は、柔道の試合で負けそうなときも、こういう顔をする。
慌てないのではなく、慌て方を知らない顔だ。
キンさんは、金城という。
金城だからキン、そこに「さん」がついてキンさんになった。
「さん」がついた理由は、ユウとテツがいつも勝手に説明する。
「入寮初日の夜な」とユウが言った。「十二歳だぞ。全員、親と離れたばっかりで、夜になったらみんな泣いてんの。廊下のあっちこっちで、ぐすぐす言ってて」
「テツなんか、布団かぶって『お母さん』って三回言ってた」
「言ってねえ」
テツが床から跳ね起きた。
顔が赤かった。
「言ってた。俺、隣の部屋で数えてたもん」
「数えんなよ」
ユウはテツを無視して、キンさんを指さした。
「でな、そん中で、こいつだけ。ベッドの上に正座して、湯呑みで緑茶すすってたの。それで、『まあ、なるようになる』って言った」
「十二歳で」と俺は言った。
「十二歳で。羊羹まで食ってた」
テツが、ユウの口をふさぐのをあきらめて、自分で話をしめた。
「その日から、キンさん」
キンさんは、重々しく一度頷いた。
否定しないところが、キンさんらしかった。
今も、ベッドの上で正座している。
さすがに緑茶はないけれど、
手には購買で買った牛乳のパックを持っていた。
「とにかく」とテツが言った。「まず、『まだ』の意味を確定させようぜ」
「どうやって」とユウが聞いた。
「辞書」
テツは、なぜか得意げだった。
テツが自分の手首を振って、〈まだ〉と打ちこんだ。
手の甲の上に、説明がずらっと並んだ。
〈まだ:その時点になっても、ある事態が実現していないさま〉
〈まだ:今もなお、ある状態が続いているさま〉
〈まだ:ほかと比べて、いくらかましなさま。例:こっちのほうがまだいい〉
「三つめじゃね?」とユウが言った。
「三つめだったらどうなるんだよ」
「『お前よりは、桜のほうがまだまし』」
「ひでえ」
キンさんの太い首が、ひと回り縮んだように見えた。
テツが、珍しく気をつかった声で聞いた。
「九条さん、そういう子だった?」
キンさんは少し考えて、首を横に振った。
「声がでかかった」
「それは関係ねえだろ」
一時間たった。
牛乳のパックは空になって、テツは床で寝かけていて、
ユウは、辞書の四つめの意味について熱く語っていた。
〈まだ:十分な程度に達していないさま。例:まだ子どもだ〉
結論は、こうなった。
「つまり」とユウが言った。「まだ、っていうのは、お前はまだ足りないってことだ」
「足りない」
キンさんが、ゆっくり繰り返した。
「お前は初段だろ。初段じゃまだだ。二段を取れ、と」
「……なるほど」
「なるほどじゃないだろ」と言うつもりで、口を閉じた。
キンさんの目が、本気だったからだ。
キンさんは、その場で手首を振って、返事を書きはじめた。
さくらへ
二段を取ります。
取ったら、会いに行きます。
送信前チェック。
手首が短く震えて、赤い文字が浮かんだ。
<送信不可>
<理由:不適切な表現>
<判定:接触の要求>
<対象:会いに行きます>
「会いに行くのも、だめか」
キンさんが、赤い文字を見つめて言った。
床で寝かけていたテツが、目を閉じたまま言った。
「キンさん、あんまアラタメに弾かれんなよ。
弾かれすぎると、十八でハズレ引くらしいぞ」
「ハズレって何だよ」
キンさんの太い首が、ぎし、とテツのほうを向いた。
「知らねえ。相手が来ないとか、
とんでもねえのが来るとか、そういうやつ」
「誰に聞いたんだよ」
「先輩。先輩も先輩に聞いたって」
キンさんは、いつもの「なるようになる」を言わなかった。
「……面白がって言うことじゃねえだろ、それ」
声が、いつもより一段低かった。
テツは寝転がったまま、天井に向かって「悪い」と言った。
六畳が、一瞬だけ六畳より広くなった。
十八歳になると、AIがパートナーを選ぶ。
弾かれた回数がそれに響く、という噂は、この寮では誰でも知っている。
本当かどうかは、誰も知らない。
「高二で二段は無理だろ」とユウが言った。
「無理じゃねえ」
「無理だよ。次の昇段審査、六月だろ」
「六月まで、まだってことか」
キンさんが天井を見上げた。
床のテツが、寝言みたいに言った。
「桜と同じじゃん」
テツ以外の全員が、テツを見た。
「……テツ、お前いま、ちょっといいこと言った?」
「言ってない。眠い」
テツはそのまま床で寝た。
キンさんは、手首の上の便箋を、もう一度見た。
それから、一行目だけ残して、閉じた。
「二段を取ってから、書く」
それから、空の牛乳パックを、きれいに四角く畳んだ。
その間、シッポの声は、一度も聞こえなかった。
窓際で膝を抱えたまま、ずっと窓の外を見ていた。
窓の向こうは南で、川があって、川のずっと下流に、白萩がある。
夜は、白萩の明かりが、小さく、ぼんやりにじんで見える。
キンさんたちが、
寝ているテツを引きずって部屋を出ていったあとで、
シッポがぽつりと言った。
「……さくらって、名前だよな」
「え?」
「さっきの。返事くれたやつ。さくらって名前で、桜は、まだですって書いてきたんだろ」
俺は、すぐには返事ができなかった。
そうか。
差出人の名前と、手紙の中身が、同じだったのだ。
「……それ、さっき言えよ」
「言ったよ。誰も聞いてなかった」
シッポは膝を抱えたまま、鼻で小さく笑った。
シッポは、七尾という。
七尾だから、尻尾が七本で、シッポ。
言い出したのは誰だったか、もう覚えていない。
無口で、たまにしゃべると、だいたい当たっている。
シッポは立ち上がって、ドアのところで振り返った。
「戸川」
「ん」
「白萩に、知り合いとか、いる?」
いる、と言いかけた。
言いかけて、やめた。
知り合い、なのかどうか、わからなかった。
名前も顔も知らない。
知っているのは、声と、冷たい手と、ハンカチと、
「鈴木」という嘘の名前だけだった。
向こうも、俺のことは声しか知らない。
代筆屋だということも、
本の出ない作家の息子だということも。
それが、思っていたより気楽だった。
「……いない」
「そっか」
シッポは、それ以上何も聞かずに、自分の部屋へ戻っていった。
なんで聞いたのか、聞き返すのを忘れた。




