母校の扉に復讐された
聞き取り票の提出期限は、二週間後だった。
その夜から、俺は毎晩、机の上にハンカチを広げて、
手首の上の白い欄とにらみあった。
右手には、まだ包帯が巻いてある。
三針縫った傷は、ペンを持つと少し引きつった。
もっとも、文字は手首の上に浮かべて指で書くので、
ペンを持つことはほとんどない。
それでも、何かを書こうとすると、右手が勝手にペンを探した。
父の癖がうつっているのだと思う。
最初は、簡単だと思っていた。
代筆なら、毎週やっている。
言いたいことを言わないで言う。
それだけのことだ。
俺は書いた。
避難所で、隣にいた鈴木さんという人に、
手当てをしてもらいました。
アラタメは、あっさり通した。
緑の文字が一行。
<送信可能>
ほら見ろ。
それから、念のため、〈公開時の表示を確認する〉に触れた。
避難所で、隣にいた【避難者B】に、手当てをしてもらいました。
手の甲の上の一行から、目が離せなかった。
【避難者B】。
匿名化、と票の注意書きに書いてあったのは、
こういうことだった。
名前は、公開されるときに全部、記号に置き換えられる。
本名でも、仮名でも、関係なかった。
アラタメには、鈴木が本名か仮名かなんて、わからないのだから。
あの暗闇で、二人で考えた、日本で二番目に多い名前は、
公開される記録の中では【避難者B】になる。
二晩目。
名前が使えないなら、呼びかけるしかない。
もしこれを読んでいたら、あのときはありがとうございました。
<記載不可>
<理由:公的記録への個人宛記載>
<対象:もしこれを読んでいたら>
三晩目。
だったら、気持ちだけでも。
あの夜のことを、ずっと考えています。
<送信不可>
<理由:不適切な表現>
<判定:特定の個人への感情の表明>
<対象:ずっと考えています>
四晩目は、何も書けなかった。
白い欄の前で固まっていると、父の書斎を思い出した。
原稿の上に頬杖をついたまま、
朝まで一行も増えない背中を、俺は何度も見ている。
あれは書くことがないのではなく、
書いていいことがないのだと、今ならわかる。
わかりたくは、なかった。
※
右手の包帯は、クラスでは格好のネタだった。
「戸川、それ、どうしたんだよ」
「避難所で、体育倉庫の扉で切った」
「扉?」
「母校の」
「母校の扉に復讐されたのかよ」とユウが言って、まわりの何人かが笑った。
テツが、俺の包帯を指でつつきながら続けた。
「卒業するとき、何かしたんじゃねえの」
「何もしてない」
「扉にパンチしたとか」
「するわけないだろ」
「寝ぼけて女子のほうに行こうとして、扉に止められたとか」
一瞬、返事が遅れた。
遅れたぶん、テツがにやにやした。
「え、図星?」
「違う。トイレに行こうとしたんだよ」
テツは、刑事ドラマの取り調べみたいに、俺の机に両手をついた。
「トイレ、どこにあんの」
「……舞台の脇」
「扉、どこにあんの」
「……反対側」
言い終わる前に、自分の失点に気づいた。
テツが、待ってましたという顔をした。
「お前いま、自分で反対側って言ったじゃねえか。トイレ行くのに、なんで反対側の扉で手切ってんだよ」
教室じゅうが笑った。
俺も、笑っておいた。
本当のことを、本当らしくない順番で並べると、
人はかえって信じない。
嘘をつくより、よほど安全な隠し方だった。
笑いが引いたころ、後ろの席から、ぼそっと声がした。
「代筆屋も、自分のことは、うまく書けねえんだな」
先月、一通頼んできて、返事が来なかったやつだった。
言い返す言葉なら、いくらでも組み立てられた。
組み立てられることが、かえって情けなかった。
俺は包帯の端を押さえて、聞こえなかったことにした。
昼休みには、保健室に抜糸の相談に行った。
ツバ先生、と、みんなはこっそり呼んでいる。
擦り傷にはだいたい「唾つけとけ」と言うからだ。
先生は包帯をほどいて、傷を、品定めするみたいに眺めてから言った。
「抜糸は、まだだな」
「まだですか」
「まだだ」
まだ、という言葉を、今週はもう百回くらい聞いている気がした。
教室に戻ると、テツが待ちかまえていた。
「戸川先生。俺にも一通、書いて」
「宛先は」
「未定」
テツは胸を張った。
胸を張って言うことではなかった。
「未定の相手に、何を書くんだよ」
「十八になったら来るだろ、パートナー。AIが選んだやつ。そいつに、今から書いとくの。十八の誕生日に、どーんと渡す」
「渡せないだろ。会ったこともないのに」
俺が言うと、テツは、
わかってないなという顔で人差し指を振った。
「だから今から書いとくんだって。先に好感度を上げとくんだよ」
「アラタメが通すわけない」
「そこを通すのが、戸川先生の腕だろ」
テツは本気なのか冗談なのかわからない顔で、
焼きそばパンを一個、俺の机に置いた。
前払いらしかった。
十八になったら、と、俺は机の上のパンを見ながら考えた。
十八になったら、AIが、性格と成績と、
たぶん俺の知らない何百もの数字から、誰かを選ぶ。
その誰かがどんな人なのかは、AIしか知らない。
知らない誰かに、今から手紙を書いておく。
テツの言っていることはめちゃくちゃなのに、
どういうわけか、他人事に聞こえなかった。
前払いのパンは、その日のうちに食べた。
手紙は、まだ一行も書いていない。




