結び目
五晩目に、俺は書くのをやめて、読むほうに回った。
聞き取り票の画面の隅に、
〈事故の公式記録を見る〉というボタンがある。
押すと、AIがまとめた、あの夜の記録が出てくる。
〈二十三時十二分 衛星かささぎ、降下中に分解〉
〈二十三時十二分 沢渡回収場付近の送電設備に落下〉
〈二十三時四十四分 沢渡地区・白萩地区に避難指示〉
〈一時八分 避難者、共住区・朝霧第二小学校に到着〉
分刻みだった。
誰がどのバスに乗ったのか、
何時何分にどの入り口から体育館に入ったのか、
全部記録されている。
俺の名前も、その中にあった。
スクロールしていくと、そこで、記録が途切れた。
〈二時四十一分〜四時三十七分 広域停電〉
〈映像記録:なし〉
〈音声記録:なし〉
〈位置情報:あり〉
〈四時三十七分 送電再開〉
なし、なし。
分刻みの記録の中で、そこだけ、二時間ぶんの穴があいている。
俺は、その穴を、何度も見た。
AIが知らないことがある、というのは、
この街では、ほとんど事件に近い。
AIは、あの夜のほとんどすべてを知っている。
衛星が何時何分に割れたのかも、
燃料が何リットル残っていたのかも、
俺が何時何分にバスを降りたのかも。
でも、あの二時間に、あの暗闇の中で、
誰が誰と何を話したのかは、知らない。
トイレが反対側だったことも。
方丈記の続きのことも。
ジャージの話も。
星も、流れ星も、扉の角も、ハンカチの結び目も。
全部、記録の外にある。
だったら、と思った。
気持ちを書く必要は、ないのかもしれない。
呼びかける必要も、名前を書く必要もない。
ただ、あったことを、そのまま書けばいい。
アラタメには、ただの事故の報告にしか見えない。
でも、あの暗闇にいたもう一人にだけは、それが何のことか、わかる。
事故の記録は、事故にあった人なら誰でも読める。
沢渡の人間も、白萩の人間も、同じものを。
この街にいて、同い年の女子が書いた文章を読める場所なんて、
ほかにない。
たぶん向こうも同じだ。
※
六晩目から、俺は事実だけを書いた。
事実だけ、というのは、思っていたよりずっと厄介だった。
嘘を書かず、気持ちも書かず、それでいて一文ごとに、
裏地を一枚ずつ縫いつけなければならない。
表は、アラタメが読む。
裏は、あの人だけがめくる。
代筆とは、逆だった。
代筆は、依頼人の気持ちを、他人の言葉で包む仕事だ。
今度は、自分の気持ちを、自分の言葉で、包んだまま、
ほどけるように置いておかなければならない。
考えてみれば、差出人が俺で、
宛先がひとりしかいない文章を、
俺はこれまで、一行も書いたことがなかった。
最初の一通が匿名の事故記録になるとは、思わなかった。
ハンカチを、何度も見た。
洗っても取れなかった血の跡が、端のほうに、
地図みたいな形で残っている。
布の真ん中には、うっすらと、しわが残っていた。
あの夜、あの人がきつく結んだ、結び目のあとだった。
手洗いしても、干しても、そのしわだけは、
どうしても伸びなかった。
最初の一文は、すぐに決まった。
トイレのことだ。
あの人にとって、あれは、俺が誰なのかを示す、
たった一つの手がかりになる。
暗闇の中で、俺が最初に言った、いちばん間抜けな言葉。
あれを書けば、【避難者A】でも【避難者B】でもなく、
あのときの「佐藤くん」だとわかる。
問題は、最後の一文だった。
かつ結びて。
あのとき、言えなかった続き。
消した下書きは、手首の履歴に四十いくつ残った。
十二晩目に、ようやく書けた。
提出の前の夜、もう一度だけ、最初から読んだ。
停電のあいだに、トイレへ行こうとして、
反対側に行ってしまいました。
高い窓から、星がたくさん見えました。
ときどき、衛星のかけらが流れていきました。
破裂音のあと、体育倉庫の扉で右手を切りました。
近くにいた人が、布で手当てをしてくれました。
暗くて、顔は見えませんでした。
借りた布は、寮で手洗いしました。
泡が、なかなか消えませんでした。
結び目のあとは、洗っても取れませんでした。
送信前チェック。
手首は、震えなかった。
<送信可能>
公開時の表示も、確かめた。
どこにも【避難者】は出てこなかった。
誰の名前も書いていないのだから、当たり前だった。
泡が、なかなか消えませんでした。
かつ消え、とあの人は言った。
消えていない、と、俺は書いた。
結び目のあとは、洗っても取れませんでした。
かつ結びて、と、俺は書けなかった。
だから、結び目のほうを書いた。
伝わるかどうかは、書いた側には決められない。
伝わらなければ、ただの洗濯の報告だ。
アラタメも、そう判断したらしい。
送信、に触れた。
〈提出を受け付けました〉
〈匿名化処理ののち、事故記録として公開されます〉
手首の光が消えると、部屋が急に暗くなった。
窓の外の、川のずっと下流に目をやった。
このあいだシッポが見ていたのと、同じ方角だった。
※
記録が公開されたのは、それから十日後だった。
〈衛星回収事故 避難者の記録〉
〈公開件数:三千八百六十二件〉
俺の記録には、〈第二千四百十八号〉という番号がついていた。
前後の記録を、いくつか読んだ。
第二千四百十七号は、
避難所の毛布が薄かったことへの苦情だった。
第二千四百十九号は、
バスの中で飼い猫の写真を何度も見ていた、
という高齢の男性の話だった。
どれも、ただの記録だった。
俺のも、たぶん、そう見える。
三千八百六十二分の一。
あの人が、この中から、たった数行を見つけてくれる確率を、
俺は計算しようとして、やめた。




