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毎朝、誰に読まされたの

社会の授業のAI講師は、男の声をしている。


低くて、落ち着いていて、

語尾がかすかにかすれる声だ。


教室の前の壁に、教科書の図が大きく浮かんでいて、

声はそのどこからともなく聞こえてくる。

姿はない。

声だけだ。


「二〇五〇年、国際的な合意にもとづき、

人口動態総合調整演算基盤、通称ハカリの運用が始まりました」


前の席のサクが、首だけこっちに回した。


「ねえアヤ。声はいいのに、なんで毎回内容が重いの」


「社会だから」


「声の無駄づかいだと思う」


サクは本気で不満そうな顔をして、また前を向いた。


白萩で聞ける男の声は、講師と、放送と、警報くらいだ。

だから女子校では、AI講師の声が、ちょっとした人気者になる。

一年生のなかには、声だけで本気で好きになってしまう子が毎年いて、

上級生はそれを「声恋」と呼んで、ひそかに見守っている。


「ハカリの目的は、地球の環境に見合った人口へ、ゆるやかに近づくことです。

現在の世界人口は、七十九億六千万人。目標は、四十億人です」


斜め前の席で、マルがあくびを噛み殺した。

窓際の殿は、頬杖をついたまま寝ていた。


一番後ろの席で、シッポだけが、顔も上げずにノートをとっていた。


この声が読み上げている仕組みの、ずっと奥のほうで、

父が働いている。


家の食卓では、ハカリは「よくできた仕組み」と呼ばれる。

父がそう言うと、おばあさまは、お箸の先を少し止める。

ここでは、ハカリは社会の授業で、ばあやは笑いの種だ。


父の会社の名前を、寮で口にしたことは一度もない。

言ったら、サクはたぶん「え、ばあやの親戚?」って言う。

それはそれで、ちょっと聞いてみたい気もする。



昼休み、わたしは机の上で手首を開いた。


聞き取り票の自由記述欄が、白く光る。

届いた夜から、ずっとこの白さだ。

見ていると、目の奥が、しんとする。


「アヤ、まだ書いてないの?」


マルが、購買の袋の中身を机に並べながら聞いた。

プリンは、今日も四つある。


「書いてはいる。送れないだけ」


「ばあや?」


「ばあや」


わたしは、手首の上の下書きを、みんなのほうに向けた。


  佐藤くんへ


送信前チェックに触れると、手首が短く震えた。


<記載不可>

<理由:公的記録への個人宛記載>

<対象:佐藤くんへ>


「……佐藤くん?」


三人の声が、きれいにそろった。


しまった。


「誰」とサク。


「佐藤くんって誰」とマル。


「沢渡の人?」と殿。


殿は、いつ起きたのかわからない顔で、もう身を乗り出していた。


「……例えばの話」


「例えばの話で、宛名に男の名前は書かない」


サクは、こういうときだけ頭の回転が速い。


わたしは返事のかわりに、下書きの一行目を消した。

消して、代わりに書いた。


  もう一度、会いたいです。


チェックに触れる前から、結果はわかっていた。


<送信不可>

<理由:不適切な表現>

<判定:再会の要求>

<対象:もう一度、会いたいです>


殿が、急に背筋を伸ばした。

しわがれた声で、手の甲の赤い文字を読み上げる。


「お嬢さま。再会のご要求は、はしたのうございます」


マルが、口に入れたばかりのひと口を吹きかけて、口を押さえた。

サクは机に突っ伏して、肩を震わせていた。


「笑いごとじゃないんだけど」


「笑いごとだよ。アヤが、ばあやに再会を止められてる」


「止められてない。保留されてるだけ」


「同じだよ」


サクは顔を上げて、急に真面目な顔になった。


「でもさ、あんまり弾かれないほうがいいよ。

ばあやに弾かれすぎると、減点されるって噂あるじゃん」


「減点されると、どうなるの」とマル。


「十八になったとき、ばあやに結婚、認めてもらえないかもよ」


殿が、ばあやの声で付け足した。


「お嬢さまには、まだお早うございます」


「十回で一段階、だっけ」とマル。


「二十回って聞いた」と殿。


「わたし、もう百回くらい弾かれてるけど」


サクがそう言うと、また三人で笑った。


「……ほんとに見つからなかったら、どうすんの」


殿が言った。

物まねの声じゃなかった。


笑いが、一拍おくれて止まった。


「殿は大丈夫でしょ。モテるし」とサク。


「女子にね」


殿はそう言って、頬杖をつき直した。

それで、その話はおしまいになった。


減点の噂は、誰に聞いても少しずつ数字が違う。

十回で一段階。二十回で一段階。門限破り三回で一段階。

保健室に行きすぎると、体が弱いと思われて減点。

十八歳になると、ハカリが、相手を選ぶ。

点数が低いと、相手が見つからないこともあるらしい。

誰も確かめたことはない。

確かめようがない。

十八歳になるまで、自分の点数は誰にも見えないのだから。


わたしは、手首の上の白い欄を見た。


宛名も書けない。

会いたいとも書けない。

じゃあ、何なら書けるんだろう。


「ねえアヤ」とマルが言った。


マルは、スプーンをくわえたまま、こっちを見ていた。


「書けないことを書こうとするから、弾かれるんじゃない?」


「どういうこと」


「あったことだけ書けばいいじゃん。

その佐藤くんが誰か知らないけどさ。

あったことは、ばあやも止めようがないでしょ」


「……マル、たまにすごいこと言うね」


「たまにって何」


※


方丈記の続きを、わたしはちゃんと知らなかった。


毎朝おばあさまの前で読まされていたのに、

覚えているのは、最初の一文と、

あの夜に口から出た、二文目の途中までだ。


手首で調べてみた。


〈方丈記:鎌倉時代の随筆。鴨長明の作〉


それだけだった。

本文は出てこなかった。


放課後、図書室に行った。


図書室の奥には、古い本の修理をする机がある。

白髪の司書さんが、いつもそこで、背の割れた本に糊を塗っている。

殿に「殿」というあだ名がついたのも、この人の一言からだった。


「すみません。方丈記って、ありますか」


司書さんは、糊のついた刷毛を止めて、

眼鏡の上からわたしを見た。


刷毛の先から、糊がひとしずく、机に落ちた。

司書さんは、それを拭きもしなかった。


それから立ち上がって、棚の一番下から、

紙の色が茶色く変わった小さな文庫本を一冊抜いてきた。


「どこまで覚えてるの」


「最初の一文と……よどみに浮かぶうたかたは、かつ消え、までです」


「その先は」


「いつも、そこで止まります」


司書さんは文庫本を開かないまま、

目を閉じて、言った。


「よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、

久しくとどまりたるためしなし。

世の中にある人と栖と、またかくのごとし」


すらすらと、

毎朝の挨拶みたいに。


わたしは、少しのあいだ、息をするのを忘れていた。


この人も、読まされた人だ。


司書さんは文庫本をわたしの手に乗せた。


「端末で調べても、出てこないでしょう」


「……はい」


「だから、紙で読むの」


それから、修理の机に戻りかけて、

背中を向けたまま、ひとつだけ聞いた。


「毎朝、誰に読まされたの」


おばあさま、と言いかけて、口の中で言い直した。


「祖母です」


寮で「おばあさま」と言うと、サクが三日はまねをする。

家で「祖母」と言ったら、たぶん誰かが眉を上げる。

同じ人なのに、どっちの言い方も、

半分だけ、わたしのものじゃない気がした。


「そう」


司書さんはそれきり、また刷毛に糊をつけはじめた。


振り返ったとき、その横顔の口元が、ゆるんでいたような気がした。



寮に戻る廊下で、シッポとすれ違った。


シッポは写真部だ。

首から古いカメラを提げていて、

窓の外の夕焼けに、何度もレンズを向けていた。


「アヤ」


めずらしく、シッポのほうから声をかけてきた。


「沢渡に、知り合い、いる?」


わたしは足を止めた。


いる、と言いかけて、やめた。


知り合い、なのかどうか、わからなかった。

名前も顔も知らない。

知っているのは、声と、大きな手と、

ソースの匂いと、「佐藤」という嘘の名前だけだ。


向こうも、わたしのことを何も知らない。

桐生の名前も、父の仕事も、

あのハンカチの家紋が何なのかも。


知らないまま、暗いのがこわいだけの子の隣に、

二時間、声だけでいてくれた。


そういう人を何と呼べばいいのか、

わたしは知らなかった。


「……いない」


「そっか」


「シッポは?」


シッポは答えなかった。

窓の外に一度だけシャッターを切って、

「なんでもない」と言って、廊下の向こうに歩いていった。


窓の外には、川があった。

その川のずっと上流に、沢渡がある。

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