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反対側

締め切りの前の夜、わたしは紙の方丈記を枕元に置いて、

また、白い欄に向かった。


あったことだけを書く。


マルの言うとおりだった。

宛名も、会いたいも、書かなくていい。

あの夜にあったことを、あったとおりに書けばいい。


あの人が読めば、わかるように。


書いては消して、

消しては書いて、

最後に残ったのは、これだけだった。


  暗いのが怖くて、

  子どものころに毎朝読まされていた古い文章を、

  小さな声で唱えていました。

  いつも最初の一文でつかえるのに、

  あの夜は、その先まで言えました。

  体育倉庫の扉の前で転びそうになったとき、

  近くにいた人が助けてくれました。

  その人は、手をけがしました。

  布を一枚、預けたままにしています。

  高い窓から流れ星が見えたので、お願いをしました。

  電気に関係のあることです。


送信前チェック。


手首は、震えなかった。


<送信可能>


布を一枚、預けたままにしています。


なくした、とは書かなかった。

あげた、とも書かなかった。


預けたものは、いつか返してもらうものだ。


送信に触れた。


〈提出を受け付けました〉

〈匿名化処理ののち、事故記録として公開されます〉


※


記録が公開された日、わたしは一番から読みはじめた。


〈衛星回収事故 避難者の記録〉

〈公開件数:三千八百六十二件〉


第一号は、バスの中で酔った人の話だった。

第二号は、避難所の毛布が薄かったという苦情だった。

第三号も、毛布の苦情だった。


一晩で、三百件読んだ。

朝起きたら、目が真っ赤だった。


「アヤ、その目、どうしたの」


洗面所で、サクがドライヤーを片手に固まった。


「事故の記録、読んでた」


「全部?」


「三百件」


「何のために」


「……勉強」


サクは、ドライヤーを止めて、まじまじとわたしを見た。


「アヤ。それ、事故マニアだよ」


「違う」


横から、マルが歯ブラシをくわえたまま言った。


「検索すればいいじゃん」


わたしは、マルを見た。


マルは、何を当たり前のことを、という顔で、

歯ブラシを動かしていた。


「探してるものがあるなら、検索すればいいじゃん。

三千八百件、全部読むつもり?」


「……全部読むつもりだった」


「アヤって、頭いいのに、たまにすごくばかだよね」


マルは、鋭いだけじゃなく、容赦もなかった。



その夜、わたしは布団の中で、手首を開いた。


何で探せばいいのか、天井を見ながら考えた。


佐藤、では出てこない。

名前は全部、記号に置き換えられている。


方丈記、とは書かないだろう。

わたしも書かなかった。


ハンカチ、と打ってみた。


〈該当:一件〉


開くと、ハンカチを避難所に忘れてきた、という小学生の話だった。


指が止まった。

打ち直した。


〈トイレ〉


〈該当:二百十四件〉


避難所のトイレが少なかった、女子のほうだけ行列ができた、

紙がなかった、暗くて怖かった。

二百十四件ぶんの、トイレの話だった。


わたしは布団の中で、声を殺して笑った。


それから、もう一度だけ、打ち直した。


あの夜、トイレを探して迷いこんできたあの人に、

わたしが最初に教えた言葉。


〈反対側〉


〈該当:三件〉


一件めは、バスの座席の反対側に荷物を置き忘れた、という話だった。

二件めは、毛布を配る列が、反対側にもできていた、という話だった。


三件めを開いた。


〈第二千四百十八号〉


  停電のあいだに、トイレへ行こうとして、

  反対側に行ってしまいました。


わたしは、そこで手首を閉じた。

閉じてから、閉じた自分にびっくりした。


心臓が、耳の中で鳴っている。

どきどき、じゃない。

どん、どん、と、あの夜の破裂音みたいに。


また、開いた。


続きは、ほんの数行しかなかった。

星と、扉と、布のこと。


数行しかないのに、

読み終わるまでに、ずいぶん時間がかかった。


扉で切ったのは、右手だった。

あの人の手が、わたしの頭と扉のあいだにあった。


借りた布は、寮で手洗いした、とあった。

絹を、石けんでごしごし洗ったのだろうか。

男の子は、きっとそうする。

おばあさまが聞いたら、卒倒する。

想像したら、喉の奥がくすぐったくなった。


佐藤くんだ、と思った。


あの暗闇の中にいた人にしか、

この数行は書けない。


泡が、なかなか消えませんでした。


わたしは、あの夜、言った。

よどみに浮かぶうたかたは、かつ消え。


消えなかった、と、この人は書いている。


結び目のあとは、洗っても取れませんでした。


かつ結びて。


あのとき返ってこなかった続きが、

三千八百六十二件の記録のいちばん奥で、

ちゃんと、返ってきていた。


聞こえなかったのでも、

知らなかったのでも、

知っていて言わなかったのでもなかった。


言えなかっただけだった。



布団から出て、廊下に出た。


寮のトイレは、廊下の反対側にある。


夜中の廊下は暗くて、

床がつめたくて、足の裏がきゅっと縮んだ。

お嬢さまは、夜中に裸足で廊下を走ったりしない。

わたしは走った。

寮監の部屋の前だけ、つま先で。


個室に入って、鍵をかけて、

そこで、ちょっと泣いた。


泣きながら、ちょっと笑った。


トイレで泣いているのがおかしかったのか、

反対側まで来たのがおかしかったのか、

自分でもよくわからなかった。


紙の方丈記を思い出した。

かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。


トイレの小さな窓の外で、川の音がしていた。



頭から、読み直した。


読みながら、ひとつ、ふしぎなことに気がついた。


この文章の、言いたいことを一言も書かないで、

全部わかるように書く、この感じを、

わたしはどこかで読んだことがある気がした。


どこで読んだのかは、思い出せなかった。


※


次の朝、まぶたが腫れていた。


教室に入ると、サクと殿が、同時にわたしの顔を見た。


「泣いた?」とサク。


「泣いたね」と殿。


「泣いてない」


「じゃあ何。その顔」


「……寝不足」


「三百件の次は、何件読んだの」


「一件」


二人は顔を見合わせた。


殿は「一件で泣ける記録って何」と言いかけて、

サクに脇腹をつつかれて、口を閉じた。


サクは、殿をつついた手を引っこめて、

それから、わたしのほうを見なかった。


佐藤くんのことを、わたしはまだ、誰にもちゃんと話していない。

サクがそれに気づいていないはずは、なかった。


マルだけは、表情を変えなかった。

購買の袋から牛乳プリンを一つ出して、

わたしの机の上に置いた。


「今日のいちばん困ってる人?」


わたしが聞くと、マルは首を横に振った。


「今日のいちばん、うれしそうな人」


わたしは、机の上のそれを見た。


三十円の、どこにでもあるプリンだった。


「……ありがとう」


「どういたしまして」


マルは自分の席に戻って、

自分のぶんの三つめのプリンのふたを開けた。



プリンを食べながら、わたしは手首の上の記録の一覧を、

上から順に、指でなぞるようにスクロールした。


わたしの記録は、第九百十七号だった。


わたしの記録には、トイレも、反対側も、書いていない。


古い文章。

扉。

布。

流れ星。


あの人は、何で検索するだろう。

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