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消灯のあと

寮の消灯は、十時半だ。


天井の明かりが落ちると、部屋の中で光っているのは、

窓の外の常夜灯と、わたしの左の手首だけになる。


第二千四百十八号を見つけてから、

わたしは毎晩、布団の中で、同じ数行を読んでいる。


読み返しても、新しいことは何も書いていない。

数行しかないのだから、当たり前だ。

それでも、読み終わると、また頭から読みたくなる。

泡が、なかなか消えませんでした、のところで、

毎回、息が浅くなる。


一晩目と二晩目は、サクは何も言わなかった。


三晩目に、窓ぎわのベッドから声がした。


「アヤ、まぶしい」


「ごめん」


わたしは、手首を布団の中に入れた。

布団の中で開くと、光が内側にこもって、

自分の顔だけが、青く照らされる。

それで、四晩目も、読んだ。


十一時を少し過ぎたころだった。


「……いいよね」


サクの声は、天井に向いていた。


「一件で泣けるやつがあって」


布団のこすれる音がして、

サクが、窓のほうへ寝返りを打ったのがわかった。


わたしは、手首の光を消した。

消しても、目の裏に、数行の形が残っていた。


何か言うべきだった。

何を言えばいいのかも、わかっていた。

ごめん、か、サクのも来るよ、か。

でも、どちらも、口に出したとたんに、

ばあやを通したみたいな、きれいな言葉になる気がした。


だから、何も言わなかった。

サクも、それきり黙っていた。


サクの手首には、

二月の「桜は、まだです」から、一通も届いていない。

寝る前に、サクが手首を一回だけ開くのを、

わたしは知っていた。

知っていて、毎晩、自分の手首を光らせていた。


※


次の朝、洗面所の順番で、サクとわたしは目を合わせなかった。


コンセントは六つで、二階の住人は二十三人で、

いつもならその計算の合わなさで、誰とでも肘がぶつかる。

その朝は、ぶつからなかった。

サクが、わたしと反対の端のコンセントを選んだからだ。


殿が、すぐに気づいた。


殿は、ドライヤーを持ったまま背筋を伸ばして、

しわがれた声を出した。


「お嬢さまがた。今朝は、ずいぶんおしとやかでございますね」


誰も、笑わなかった。


殿は、何事もなかったようにスイッチを入れて、

自分の前髪に、いつもより長く風を当てた。


マルは、何も言わなかった。

歯ブラシをくわえたまま、わたしとサクを順番に見て、

口をゆすいで、先に出ていった。


マルは、直せないものを、直そうとしない。

それがありがたいのか、冷たいのか、

わたしには、まだ決められない。



昼休みは、いつもどおり机をくっつけた。

くっつけないほうが、かえって目立つからだ。


サクは、よくしゃべった。

放送室のマイクが一本こわれた話と、

寮監の先生のカーディガンが新しくなった話。

わたしにも、ちゃんと話を振った。

ちゃんとしすぎていて、どこにも、引っかかりがなかった。


閉じた寮では、気まずい相手とも、同じ部屋に帰るしかない。


教室を出て、廊下を歩いて、階段をのぼって、

同じドアを開けて、同じ部屋に入る。

歯を磨いて、それぞれのベッドにもぐって、

壁ぎわと窓ぎわで、背中を向けあって横になる。



その夜、わたしは、手首を開かなかった。


消灯のあと、壁のほうを向いて、目を閉じた。

数行は、開かなくても、もう全部覚えていた。


カーテンのすきまから、常夜灯の光が細く入って、

天井の端に、一本の線を引いていた。


あの夜の体育館ほどではない。

でも、向かいのベッドの顔は、見えなかった。


「……金城さ」


サクの声がした。

寝ていると思っていた。


「二段取るまで書かない、とか、決めてそう」


わたしは、目を開けた。


「小学校のときから、そういうやつだったんだよ。

逆上がりができるまで、鉄棒のとこから帰らないの。

先生に言われても、帰らないの」


「……できたの、逆上がり」


「できた。冬休み明けに。

できた日、クラス全員に言って回ってた。首、太いくせに」


首は関係ない、と言いかけて、笑ってしまった。

暗いから、笑ったのが聞こえたかどうかは、わからなかった。


「……サク」


「なに」


「待つの、得意?」


サクは、すぐには答えなかった。

布団のこすれる音が、一回だけした。


「苦手。めちゃくちゃ苦手」


声が、半分、枕に埋もれていた。


今度は、ちゃんと笑い声が出た。

暗闇の向こうで、サクも小さく笑った。

二人ぶんの声が、天井の線のあたりで、

ぶつかって、消えた。


「アヤのさ」


笑いがおさまってから、サクが言った。


「佐藤くんの話。

いつか、ちゃんと聞かせて。

例えばの話じゃないほうの」


わたしは、答えられなかった。


話したら、たぶん、全部話してしまう。

全部話したら、あの数行は、

わたしとあの人だけのものではなくなる。

そう思ってしまう自分が、少し、いやだった。


「……いつか」


それだけ言った。


約束、とは言わなかった。

サクも、それ以上は聞かなかった。


「おやすみ」


「おやすみ」


サクの寝息は、すぐに聞こえてきた。

待つのは苦手なのに、寝つきだけはいい。


わたしは、天井の線を見ていた。

それから、手首を布団の中に入れたまま、一度だけ開いた。

光が漏れないように、指で画面を半分おおって、

泡のところまで読んで、閉じた。


窓ぎわから、寝言みたいな声がした。


「……まぶしい」


返事をするには、小さすぎる声だった。


わたしは、手首を閉じた。

閉じたまま、朝まで、開かなかった。

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