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第九百十七号

寮の談話室には、壁一面の大きな画面がある。


夕飯のあとは、だいたい誰かが、

そこでニュースをつけっぱなしにしていて、

誰も見ていないのに、誰も消さない。


その日、画面の中でアナウンサーが言った。


「人口最適化庁は今日、

男女別居住区の見直しについて話し合う、

有識者会議の初会合を開きました」


談話室にいた全員が、なんとなく画面のほうを向いた。


「男女別居住区は、二〇六〇年ごろから段階的に導入された、日本独自の制度です。

導入から約二十年、廃止や緩和を求める声もあり……」


画面が切り替わって、どこかの共住区の街頭インタビューになった。

スーツの男の人が、

「まあ、子どもたちの気持ちも聞いてあげてほしいですね」と言った。


「聞かれてねえよ」


テツが、ソファに寝転がったまま言った。


「俺ら一回も聞かれたことねえよ」


「聞かれたら何て言うんだよ」とユウ。


「大歓迎です、って言う」


テツは即答した。

ソファの上で、なぜか拳を突き上げていた。


「廃止されたら、女子と同じ教室だぞ」


ユウが、急に真面目な顔になった。


「無理無理。緊張で死ぬ。

俺、四年間、女子と目を合わせたことないんだぞ。

いきなり隣の席に座られたら、心臓止まる」


「お前、避難所で女子のほう、ずっと見てたじゃん」


「見てただけだ。目は合わせてない」


「それ、見てたって言うんだよ」


二人がソファの上で取っ組み合いを始めた。

クッションが一つ、床に落ちた。


キンさんは、談話室の隅の床に、背筋を伸ばして座って、

画面を見ていた。

手には、湯呑みがあった。

いつからそこにあったのかは、誰も知らない。


「キンさんは、どう思う?」


俺が聞くと、キンさんは、茶をひと口すすって、

テロップが一本流れ終わるのを待ってから言った。


「廃止されても、されなくても、飯は出る」


「それ、入寮初日から何も変わってねえな」とテツが言って、

ユウと一緒に笑った。


通りがかった高二の先輩が、

「聞かれても、どうせ変わんねえよ」と言って、

画面の前を横切り、チャンネルを替えた。

音楽番組になった。


テツが「今、見てたんすけど」と言いかけて、口をつぐんだ。

先輩の学年には、この春から、

誕生日の順に、十八の通知が来はじめる。


キンさんが立ち上がって、リモコンを取り、ニュースに戻した。

先輩は舌打ちを一つして、談話室を出ていった。


シッポだけが、話に入ってこなかった。


窓際の椅子に座って、膝を抱えて、

画面の中の共住区の街を、じっと見ていた。

笑いもしなかったし、目を逸らしもしなかった。



俺は、画面を見ながら、別のことを考えていた。


廃止されたら、と、ユウは言った。


廃止されたら、あの人に名前を聞いても、

もう一度会いに行っても、

誰にも、とがめられないのかもしれない。


右手の甲を、左手の親指でなぞった。


抜糸はとっくに済んでいて、

斜めの細い線が、白く残っているだけだった。

さわると、そこだけつるつるしていた。


ニュースは、もう天気予報に変わっていた。


※


記録が公開されてから、五日がたっていた。


俺は、まだ一件も、自分から探していなかった。


探す勇気がなかった、と書けば格好もつくが、

実際は、結果を知るのを先延ばしにしていただけだ。

開けていない手紙は、まだ何も断っていない。

代筆屋の経験則でいえば、

人が返事を開けずにおくのは、たいていそういう理由による。


あの人が、何も書いていなかったら。

書いていても、ただの事故の報告だったら。

俺の記録を、読んでいなかったら。


三千八百六十二件のどこにも、あの人がいなかったら。


それを確かめるのが、こわかった。


その夜、寮の部屋で、

机の上のハンカチを見ながら、ようやく手首を開いた。


〈衛星回収事故 避難者の記録〉

〈公開件数:三千八百六十二件〉


検索の欄に、指を置いた。


代筆のときと同じだ。


依頼人なら、何を書くか。

相手に伝わって、アラタメには伝わらない言葉は何か。


あの人は、トイレも、反対側も書かないだろう。

それは俺が書くと決めたことで、あの人が書くことじゃない。


あの人が書くとしたら、

あの人の側から見た、あの夜のことだ。


人が書きそうな言葉を探すのは、得意だった。

四年間、パン一個と引きかえに、

他人の胸の内ばかり書いてきたのだから。

自分の胸の内を、探したことがないだけで。


最初に打ったのは、これだった。


〈布〉


〈該当:六百三件〉


開いてみると、ほとんどが毛布の話だった。


毛布が薄かった。

毛布が足りなかった。

毛布がちくちくした。

毛布の配り方が不公平だった。

毛布を二枚重ねたら少しましだった。


六百件ぶんの、毛布の話だった。


あの夜の避難所は、とにかく、毛布が薄かったらしい。


人生でいちばん真剣な検索の答えが、

寝具への不満の集積だった。

俺は机に突っ伏して、肩だけで笑った。


〈方丈記〉


〈該当:〇件〉


当たり前だった。

俺だって、書かなかった。


指を止めて、目を閉じた。


暗闇の中で、最初に聞いた声を思い出した。


ゆく河の流れは絶えずして。

何度も同じ一文を言い直していた、あの小さな声。


あれは、読んでいたんじゃない。

唱えていたんだ。


読む人は、紙の上の言葉を追う。

唱える人は、言葉を、自分の内側に向けて並べる。

意味が通じるかどうかは、たぶん、どうでもよかった。

暗いところで、自分の声がちゃんと出ることを、

あの人は、確かめていたのだろう。


〈唱え〉


〈該当:二件〉


一件めは、避難所でずっとお経を唱えていた高齢の女性がいて、

まわりも少し落ち着いた、という話だった。


二件めを開いた。


〈第九百十七号〉


  暗いのが怖くて、

  子どものころに毎朝読まされていた古い文章を、

  小さな声で唱えていました。


そこで、手が止まった。


毎朝。


あの夜、あの人は言った。

うちはおばあさま。毎朝、朝ごはんの前に。


続きを読んだ。


体育倉庫の扉。

転びそうになったこと。

手をけがした人。

高い窓の、流れ星。


知っている夜が、知らない側から書いてあった。


鈴木さんだ、と思った。


それ以外の誰にも、これは書けない。


あの夜は、その先まで言えました、とあった。


あの人は、最初の一文から先を、毎回忘れると言っていた。

それなのに、電気が戻った瞬間、

よどみに浮かぶうたかたは、かつ消え、と言った。


あれは、あの人にとっても、初めてだったのだ。


俺に向かって言ったから、言えたのかどうかは、わからない。

わからないけれど、

そう読んでもいいのかもしれない。

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