預けたもの
その少しあとに、一行。
布を一枚、預けたままにしています。
俺は、机の上のハンカチを見た。
洗っても取れなかった血の跡が、
端のほうに、地図みたいな形で残っている。
真ん中には、結び目のしわがある。
依頼人が「預けた」と書いてきたら、俺はこう読む。
返してほしいんじゃない。
会う理由を、残しておきたいんだ。
アラタメには、ただの忘れ物の話にしか見えないだろう。
俺はハンカチをていねいにたたみ直して、
机の引き出しの、いちばん奥にしまった。
父の本の隣だった。
父の本は、十年以上前に出た、最後のまともな一冊だ。
そのあと父の原稿がどうなったかは、
父自身が、笑い話のように何度も話してくれた。
笑い話にするほか、なかったのだろう。
血の跡のあるハンカチと、届かなくなった男の本。
並べてみると、あまり縁起のいい取り合わせではなかった。
返す日まで、ここに置いておく。
最後の一文に戻った。
高い窓から流れ星が見えたので、お願いをしました。
電気に関係のあることです。
電気に関係のあること。
最初は、意味がわからなかった。
流れ星のお願いで、電気に関係があること。
停電が早く直りますように、だろうか。
それなら、わざわざ書く必要はない。
あの夜のことを、頭から順に、思い出した。
暗闇。
仕切りの消えた体育館。
動いていないカメラ。
電気が戻ったら、全部が元に戻る。
光の壁が立って、
俺は東に、あの人は西に戻される。
あの夜、電気に関係のあることなんて、
一つしかなかった。
電気が、戻らないこと。
もう少しだけ、戻らないこと。
顔が熱いと気づいたのは、
読み解いてから、だいぶたってからだった。
部屋には俺しかいない。
それでも、誰かに背後から画面をのぞかれている気がして、
手首を閉じた。
閉じたところで、文面が消えるわけでもないのに。
閉じてから、また開いて、
最後の一文を読み直した。
やっぱり、そうとしか読めなかった。
部屋の鏡に、自分の顔が映っていた。
耳まで赤かった。
流れ星に、そんなことを頼んでいた人が、
あの暗闇の、すぐ隣にいた。
俺は、そのとき、
衛星のかけらだから叶わない、と言われて、
どうですかね、とだけ答えた。
叶っていたら、どうなっていたんだろう。
考えかけて、やめた。
考えると、顔がもっと熱くなりそうだった。
※
翌日から、返事の文面を組み立てにかかった。
組み立てる前に、ごく初歩的な問題に突き当たった。
置き場所がない。
事故の記録は、一人一回きりだ。
もう締め切りは過ぎていて、追記の欄もない。
小学校の同級生なら、手紙が送れる。
キンさんが九条さくらに送ったみたいに。
でも、あの人は白萩の人で、
俺の同級生のはずがない。
同級生じゃない女子に送れる手紙なんて、
この街には、どこにもなかった。
返事を書きたいのに、
書いた言葉を置ける場所が、ひとつもなかった。
代筆屋のくせに、自分の手紙だけ、
宛先がない。
宛先がない、というのは、半分は言い訳だった。
宛先があったとしても、俺は自分の名前で、
自分の言葉の手紙を、一通も書いたことがない。
書きはじめたら、父みたいに、
曲げて、曲げて、最後には何も伝わらない文章を
書いてしまう気がした。
※
高一の終業式の日は、よく晴れていた。
体育館で校長の長い話を聞いて、
教室で通知表を受け取って、
それで一年が終わった。
春休みが始まっても、俺たちは寮から出られない。
帰省できるのは、盆と正月だけだ。
春休みは、寮で寝て、食べて、また寝るだけの二週間になる。
「戸川、春休み、何すんの」
教室を出るとき、テツが聞いてきた。
「寝る」
「俺も寝る。あと、手紙」
「誰に」
「十八で来るパートナー」
「まだ書いてなかったのか」
「お前が書いてくれないからだろ。焼きそばパン、前払いしたぞ」
そういえば、そうだった。
前払いの報酬は、とっくに腹の中だ。
「……春休み中に書く」
「絶対だぞ、戸川先生」
テツは笑いながら、ユウと一緒に廊下を走っていった。
寮に戻る途中で、手首が震えた。
〈高校二年生への進級にあたり、お知らせします〉
〈四月一日から、交流掲示板が利用できるようになります〉
〈男女交友は、社会勉強の一環です〉
〈掲示板では、ハンドルネームを使用できます〉
〈相互に承認した利用者どうしは、個別のやりとりが可能になります〉
足が止まった。
高二になると何か来る、という話は、
先輩から聞いたことがあった。
代筆の客が増えるだけだと思って、聞き流していた。
頭から、読み直した。
交流掲示板。
男女交友。
ハンドルネーム。
相互に承認した利用者どうしは、個別のやりとりが可能。
まわりで、同じ通知を見た連中が、
廊下のあちこちで騒ぎはじめていた。
「掲示板って、女子もいんの?」
「いるだろ、交流なんだから」
「やべえ、何書けばいいんだよ」
「戸川先生に頼めばいいだろ」
戸川先生、という声が、廊下のどこかから何回か聞こえた。
そのうちの一つは、
「自己紹介、十人まとめて頼んだら安くなる?」だった。
掲示板には、俺の書いた「はじめまして」が、
俺の知らない名前で、何十個も並ぶことになるのかもしれない。
悪い気分ではなかった。
いい気分でもなかった。
春休みは、寝てばかりもいられなさそうだった。
その夜、手首の上に、掲示板の登録画面が出た。
使えるのは四月からだけれど、
登録だけは先にできるらしかった。
ハンドルネームの欄が、白く光っていた。
俺は、迷わずに打ちこんだ。
〈佐藤〉
自分の名前を書く欄に、借りものの名前を入れる。
代筆屋の最初の自己紹介としては、
これ以上ないくらい、らしかった。
同じことを考えた佐藤が、全国に何万人いるかは、
考えないことにした。




